第11話 『銀杏』

文字数 4,011文字

「最上さん、これ」

 言いながら健吾が鈴涼に手渡したのは一冊の本――ではなく、冊子と言うにも薄過ぎる出来のものだった。印刷した紙束を『修学旅行のしおり』と同じ要領で纏めただけの簡素な冊子。その表紙に描かれたイチョウの葉に、俺はぞくりと身震いした。

「健吾……お前それどこから」

「整理してる途中に見つかったんだよ。ほら、ちゃんと二種類ある」

 健吾の手にはもう一冊。先程のものと殆ど同じ薄さかつ、少しだけ絵が上達したように見える、やはり秋の葉が舞う表紙の冊子がある。

「あら、懐かしい……『銀杏(いちょう)』じゃない」

 イラスト通りのタイトルである『銀杏』は俺たちが中学生の頃に作った部誌だ。秋にあった文化祭で各々が一作品を書き、一年と二年のときに販売を行った。確か一冊百円で、大して売れてはいなかった記憶がある。何より今の俺からすれば黒歴史そのものであり、発行部数が少なく済んだことが唯一の救いと言っても良い。しかしながらここにあることは事実で、俺は苦虫を噛み潰したような表情を作った。

「そんなもん、なんで引っ張り出して来たんだ……!」

「いやぁ、これは懐かしいものを見たと思ってね。最上さんだって作品を書いてたわけだし、ちょっとくらい思い入れがあるかもしれないじゃないか」

 もっともらしいことを語る健吾だが、その口角がにやにやと笑っているのが腹立たしい。俺は健吾の爪先を蹴ってやると大袈裟に騒ぎ出したが、無視する。

「えっと、ごめんなさい。そのイチョウっていうのは、何なんですか?」

 少し遠慮がちに聞いてきたのは鈴涼の母親だった。俺は彼女が知らないことを意外に思って、逆に聞き返してしまう。

「鈴涼から、何も聞いていませんか?」

「えぇ。文学部で作品を書いていることは知っていたけど、読ませてって言ったら『絶対嫌だ』って断られちゃって」

 それを聞いて大いに納得する。思春期の子どもが親に本気の創作物を見せたくない気持ちくらいあって当然だ。特に鈴涼が書いた作品は恋愛物だったし、母親になんて読まれた日にはしばらく顔も合わせたくなくなるかもしれない。彼女は同年代に比べて大人びていた節もあったので、そういったプライバシーは人一倍気にしていたのだろう。

「そりゃ、まぁそんなもんですよね」

 口では言いつつも、当時は自信満々に母親に公開したことは黙っておく。中学生で褒められたのは、あくまで小説を書いているという行動に対する賞賛であって、その完成度ではない。ただ鈴涼の作品は、文学部の四人の中では一番完成度が高かったと断言できる。

「これは『銀杏』って言って、秋の文化祭で文学部が出してた部誌です」

「あぁなるほど……それでイチョウなのね」

 自分たちが主催したものながら、随分と安直なネーミングセンスである。当時も思っていたが、もう少し文集のタイトルに含みや洒落を持たせることができなかったものか。

「当時は結構タイトルの議論もしたはずなんですけど、最後はめちゃくちゃ単純なタイトルになっちゃったんですよね」

「でもあれって、女子組からの猛プッシュがあったんじゃなかったっけ?」

 復活した健吾が過去のことを思い出したように言ったが、俺は彼との記憶違いを指摘する。

「いや、あれはもうちょっと考えようって俺の提案が、お前ら全員に多数決で引き下げられたんだぞ」

「あれ? そうだっけ。昔のことは覚えてないなぁ」

 そういうことは往々にして、テキトーにやった側は覚えてないものだ。よく周囲に合わせていた健吾のことなので、おそらく女子二人に賛同するのが手っ取り早いと思ったのだろう。

「俺は少なくとも漢字で『銀杏』よりも、カタカナで『イチョウ』のほうが分かりやすくて良いんじゃないかって言ったんだ」

「あー、なんか言ってたなぁ、そんなこと。確かに、今考えたら昔の一晴の言う通りな気もする」

「お前は当時漢字派だったけどな」

 ジト目で彼を睨みつけてみると、ごめんよ、と軽く手刀を切られる。その態度に反省の色無し、と判断している中、健吾はおもむろにスマートフォンを取り出してカメラを起動させた。

「……なにしてるんだ、お前」

「いやぁ、この教室で本を読む最上さんはとても絵になるじゃないか。せっかくだし、記念に残しておこうと思ってね」

 そう言った健吾は、写真ではなくビデオモードで録画を始めた。俺は鈴涼が嫌がらないかとも心配したが、彼女は一心不乱に『銀杏』に目を通している。保護者である鈴涼の母も特に何も言わなかったので、俺はそのことを特に気に留めようとはしなかった。

「どうだい最上さん。何か感じることはあるかい?」

 健吾はスマートフォンをマイク代わりに、インタビュアーよろしく鈴涼を撮った。聞かれた当の本人はパラリ、パラリと一枚ずつゆっくりとめくると、全部見る前にその手を止めた。

「『りある、りばーす、まじっく』?」

「おおっと! お目が高いね最上さん。それは一晴のデビュー作。厨二病設定をこれでもかとねじ込み、魔法が支配する近未来を描いた今世紀最大の……ぐえっ」

「人の黒歴史を抉らないと気が済まないのかお前は!」

 脇腹に一発入れてまくし立てる健吾を黙らせると、俺は鈴涼の手から『銀杏』を抜き取った。これ以上昔の傷口に塩を塗られても堪らない。俺が片付けに向かおうとすると、突如として大きな声が上がった。

「まって!」

 声の主は間違いなく鈴涼である。しかし、昔でも聞いたことのないような絶叫じみた懇願は、まるで小さな子どもが親に置いてけぼりにされてしまいそうな、そんな声だった。

「鈴涼……?」

 彼女の瞳は酷く潤んで、憤りや泣きそうなものまで、複雑な感情が絡み合っている。その正体がわからないまま、俺は彼女の言葉に立ち尽くしてしまった。

「まって。もって、いかないで」

俺は言われるがまま『銀杏』を持って彼女の居る場所に戻る。彼女の心の内を読み取ることはできないが、その瞳が見つめているのは俺でも小冊子でもなく、きっと彼女の痕跡なのだろう。そして彼女が自身の足跡を見つけるためならば、俺は自分のちっぽけな恥じらいなどすぐに捨てることができた。

「……」

 再び手渡された『銀杏』を、鈴涼は食い入るように凝視する。果たして読んでいるのか、ただ眺めているだけなのかはわからないけれど、本の装丁や目次欄、あとがきに至るまでひたすらに興味を示している。俺は彼女の反応が気になり、入り口に立っていた鈴涼の母に尋ねた。

「鈴涼は目覚めてから、こういう風に強い興味を示したものってあるんですか?」

 するとショートカットの女性は少し考える素振りを見せ、やがて二度ほど首を横に振った。

「いえ……喋る頻度も少ないくらいだから」

 その言葉を聞いて、俺はそれならばと健吾が持っていた『銀杏』の第二号も鈴涼に手渡してみる。案の定、彼女はこちらにも興味を示して、一冊目と見比べるかのようにじっくりと読み進めた。

「一晴」

 健吾は小さく手招きをして俺を呼び寄せると、耳に顔を近づける。そして鈴涼に配慮したのであろう小声で問いを発した。

「思い当たる節があるのかい?」

「あぁ……鈴涼が自分の記憶を思い出したいって言ったときも反応を見せてた。少し違う感じもするけど、鈴涼が何かに執着するのは自分の過去と密接に関わりがあるからかもしれない」

「なるほどね……それか、希望だらけでものを言うなら、彼女の中では消え去りきってない思い出なのかも」

 健吾は顎に手をやって考える身振りをすると、さっきまでのお調子者の様子に戻って鈴涼に問いかける。

「やぁ最上さん。それを読んでて、気になることはないかい? この作品が面白いとか、一晴の作品が痛々しいとか、何でも良いんだけど」

 余計なことばかり言う健吾を何度でもど突きたい衝動に駆られるが、鈴涼が下を向いて思案しているのを見て直前でやめた。鈴涼はまたじっくりと『銀杏』を読んでから、健吾と俺のほうを向いて質問する。

「『わたし』のは、どれ?」

 その『わたし』に少しだけ含みを感じたのは俺だけだろうか。彼女は過去の『最上鈴涼』に向けられる感情に疑問を抱いている。今の鈴涼の中では、目覚める以前、記憶外の彼女自身は別人にしか感じられないということか。

 ――俺が感傷するな。その苦しみを払拭してやると約束したのだから。

 俺は開かれていたページから前に戻り、彼女の昔の作品を示してやる。

「その『クレッシェンドの恋思慕(こいしぼ)』が一年のとき。それで……」

 さらにもう一冊の方を手に取り、同じように彼女の作品のページを開く。

「こっちの『ソステヌート行進曲』が二年で鈴涼が書いた作品だ」

 どちらも音楽用語を冠した題名だと、当時の鈴涼が言っていた気がする。クレッシェンドが『だんだん強く』くらいはわかるが、ソステヌートの意味までは知らない。俺は楽器の演奏はおろか、高校の選択授業ですら音楽は取らなかったのだから。

「どちらも見事な恋愛小説だったわ。最上さんは将来、小説家になるのかと思っていたもの」

 そういう後藤先生の言い分は誇張ではない。『銀杏』の掲載順序はあみだくじの予定だったが、トップバッターを飾る作品だけは俺たちの投票で決まったのだ。それが両年とも鈴涼の二作品である。

「そんなに絶賛される作品を書いていたなら、読ませてくれても良かったのに」

「上手さと恥ずかしさは、決して同じ問題じゃないですから。ねぇ、日向くん?」

「先生、そこで俺に話を振るのは健吾と同レベルですよ……」

 後藤先生は悪びれる様子もなく微笑んでいる。遠回しに批判された健吾が隣で何か言っているが、俺は無視して鈴涼に聞いた。

「お前が書いた小説だ。何か、思い出すことはないか?」

「……ない」

「……そうか」

 やはり、いかに反応を示したからといってそう簡単にはいかない。わかっていたことだが、少しの希望にだって縋っていられないのは、これからの日々が長くなることを俺に実感させた。
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