第19話 宿での一幕
文字数 6,259文字
一日目の観光日が終わり、昨日から泊まっている部屋の広縁で寛いでいた。浴衣を生まれて初めて着てみたが存外と胸元の風通しが良くて気持ちが良い。温泉の温度が高いのはこの至福のためにあるのかと勝手な憶測が浮かんでいた。揺り籠のようなラタンチェアは学校で使っているみたいな硬さがなく、日中歩き回った体に優しさを与えてくれる。
古き良き日本家屋の縁側に座っている気分だ。秋の夜風に吹かれるのは肌寒さがあるものの、のぼせかかった風呂上がりだと思考を押し留める余計な物を蒸気に乗せて飛ばしてしまうようだった。
「ホント、良い旅館だな……」
全室和室であるこの温泉宿は、いわゆる高級旅館に相当する。元々は経済的に負担にならない安めのホテルを取ろうとしたのだが、後藤先生の大人の経済力が俺たちの気遣いの全てを蹂躙した。全員全室分の外泊費を一手に引き受け、俺たちが出しているのはせいぜい移動費と食費くらい。
資金については当初、健吾が謎の自信と共に「ドンとオレを頼ってくれよ!」なんて息巻いていたが、もちろんそんな必要も無くなった。別段あいつだって金持ちの家ではなかったはずなので、服装が度々変わるところを見てもアルバイトでもしているのだと思う。
「そう言えば健吾のやつ、どこに行ったんだ」
一人で心地の良い空間に居たら、畳の香りをアロマにして寝てしまいそうだ。せめて話し相手でも居ればと思ったが、唯一同室の健吾は風呂から戻ったら姿を消していた。
「……探しに行くか」
断じて寂しい訳では無い。心の中で誰にするでもない言い訳を唱えて部屋を出た。廊下は静かなものだった。旅館だけあってだだっ広く、花瓶や水墨画がちらほら見える。格式高い宿では細々したインテリアでも高級に見えるから不思議だ。
しばらくあてどなく彷徨ってみたが目立つ金髪は見つからない。それどころか夜も深くなっているせいで他の人間とすら出会わなかった。こうして誰の気配もしなければ、暗がりから何か出てくるんじゃないかなんて要らぬ想像を働かせてしまう。
「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」
「幽霊が出るの?」
きぃ、と木材の揺れる音が後ろから鳴った。声の正体はすぐわかったのに跳ねる体は抑えられない。顔を合わせるなり不可思議な表情を作った浴衣の色白少女に向かって、俺は誤魔化すように言った。
「訂正だ。幽霊の、正体見たり、鈴涼さん」
「わたし、幽霊?」
いやいやまさかと首を振った。黒髪がいつもより目元を隠していて日本伝統の幽霊像と重なったが、ちゃんと生えた足には客用のスリッパを履いている。頬が少し赤いのは、彼女も風呂を出たばかりだからだ。とは言え風邪を引かないための配慮からか髪はしっかりと乾いており、もしかすると蒸気よりもドライヤーの影響が強いのかもしれない。
浴衣にある鎖状に重なった四角の柄は何か呼び方があった気がするが忘れてしまった。確か人との良縁を結ぶような意味があったと思う。四角というのがまた憎く、否応にも文学部の関係を想起させられた。感傷に浸りそうな気持ちを取っ払ってキョトンとした顔の大和なでしこに片手をひらりと挙げる。
「よ。鈴涼」
「よ」
諸々欠落した挨拶を済ませると吹き抜け廊下で横並びになる。茉莉菜にこんなやり取りを見られたら「すずちゃんに変なこと教えるんじゃないわよ!」とでも怒鳴られるのだろう。目覚める以前の鈴涼はいつでも丁寧に挨拶をする性分だったから、レアなやり取りが少し面白く感じてしまう。
少女の横顔は宿の庭にある頭の赤い木を見つめていた。うまく紅葉の時期に当たることができたのは僥倖だった。
「楽しめてるか? 京都旅行」
「うん。見るのも、お話も、楽しいよ」
「そっか」
住む場所からも遠くなかなかお目にかかれない景色に、後藤先生や健吾の見識があって、この旅はガイド付きのツアーみたいだ。茉莉菜との他愛ない会話は彼女の感情や思ったことを言葉に変えていて、きっと記憶に残るに違いない。
「来て良かった」
鈴涼は小さく、噛み締めるみたいに呟いた。その何気ない一言が心を打ち上げるくらい嬉しくて、自分の口角に力が入るのがわかる。つい最近まで使わなくて凝り固まっていた部分が妙に動いて変な感じがした。しかしそんな気持ち悪い感覚も、今は素直に受け入れられるのだ。
ニヤつく頬をぐにぐにと解す。俺の奇行に対して鈴涼が首を曲げているから、場を取り持つように頭に浮かんだことを尋ねた。
「その……何かピンとくるようなことはあったか? 部室の時みたいに、なんとなくでも」
元々この旅行は鈴涼にとって印象的な記憶を刺激するためのものだ。部室で感じたと言っていた『懐かしい感じ』という既視感だけでもあってくれればと思ったのだが、彼女はゆっくりと左右に首を振るだけだった。
「……ううん。あんまり」
やはりと言うべきか当然と言うべきか、京都に来てから鈴涼が思い出に対して目立った反応を見せたことはない。大本命の嵐山に訪れるのは明日なので未だに希望は捨てていないが、迷惑をかけた分、戻ってから彼女の父親には良い報告を送りたい。鈴涼もおそらくは同じ気持ちだろう。
「ま、楽しめるのが一番だ。こうやってみんなで集まって出掛けられるなんて、思ってもみなかった」
中学三年生の夏から今年の夏まで、俺たちは誰一人として顔も合わさなかった。親との話題に上がることも避けていたし、逃げることが正しいことなのだと思い込んでいた。だけど色々なきっかけの連鎖が今を生み出している。
「全部、鈴涼が起きてくれたからなんだ。お前が目覚めてなかったら、きっと俺たちは今でも……」
「――一晴くん」
鈴涼は突然俺の名前を呼んだ。目を合わせようとしたら、彼女は珍しくわかりやすいくらいに視線を外した。
鈴涼は何かを言い淀んでいる。目覚めてからの鈴涼は思ったことそのままを口に出す機会が増えた。だからその様子が不自然で、俺に懐疑をもたらす。もう一度聞けば答えてくれるだろうかと口を開きかけて、遠くから足音と聞き慣れた声がした。
「すずちゃーん……あ、一晴も一緒だったのね」
親友を呼んだ茉莉菜は眼鏡をかけていた。日頃から入浴する時にはコンタクトを外しているのだろうが、彼女の眼鏡をかけた顔は、どうしても子どもの頃を思い出してしまう。そのせいで、身長も高くなった茉莉菜のラフな一面が未だに見慣れなかった。
見慣れなさで言えば、今の彼女もまた浴衣姿である。昨日はすぐに寝てしまったので見かけなかったが、鈴涼と違ってうっすらと濡れたままの首筋に、栗色の髪は普段とは異なる艶やかな光沢を纏っているようだった。幼馴染みの初めて見る姿に動揺した自分が居た。広げた片腕を振ってみるもぎこちなくなってしまう。
「よ、よお茉莉菜」
「なにロボットみたいな手の振り方してるのよ……あれ、健吾は?」
「なんか風呂は一人で入りたいんだってさ。昨日もそんな感じだった」
彼女たちのように俺と健吾も一緒に温泉に入っていると思ったのだろう。しかしながら「先に入っておいてよ」と言われれば、翌日も控えた体を休めない理由もない。再会してからの健吾はよく誰かとつるみたがるくせして、ふと気がつけば一人でどこかをフラフラしている。自由気ままな野良猫みたいだ。
「何よそれ。個人の自由だから何でも良いけど……」
茉莉菜はそこで言葉を止め、不自然な状況におのれの推測を付け足した。しかしながら次に繰り出されたのは随分と突飛な着地点で。
「まさか、タトゥーでも入ってるんじゃないでしょうね?」
「さすがに高校生だぞ。いくらなんでも……」
克明に浮かび上がるド金髪のジャラジャラ野郎。日本の高校生はピアスやネックレス等々が禁止されている場合が多い。それをああして平然と破る人間が、どうしてタトゥーを入れていないと断言できようか。
「あり得るか」
「あり得るわね」
あの変貌っぷりを目の当たりにしてしまうと可能性を否定し切れない。鈴涼は「タトゥーは駄目なの?」と茉莉菜に尋ねていて、あんなのはワルの象徴よ、ととんでもない偏見を教えていた。間違った世間教育が終わった後で、茉莉菜は俺と鈴涼を交互に見遣る。
「そういえば二人は何の話をしてたの?」
「旅行を楽しめてるかって話だ。それと、何か思い出すものはあったのかなって」
すると、言っている最中に茉莉菜の手が競技かるたみたいな速度で俺の肩を捉えた。はたかれた衝撃に「いっ」と口を歪ませる。しかし彼女は俺の苦悶なんてお構い無しで喝を飛ばしてきた。
「あんたは! 昔から! デリカシーとか! 配慮とかに欠けるのよ! このバッ……」
言葉の区切りごとに飛んできていたミサイルが突如止んだ。
「何でもないわよ! バカ!」
なんとなく昔によく言われていたあだ名を思い出したが、詰まったように止められた言葉の先に確証は抱けなかった。
それよりも茉莉菜が言いたかったのは、俺の質問のことだろう。確かに純粋に旅行を楽しんで欲しいと思っているのに、記憶のことを気にさせてしまっては鈴涼に重圧を感じさせてしまう。昼に後藤先生に言われたことも思い出しながら、せめてもと鈴涼に謝罪する。
「わ、悪かった。ごめんな、鈴涼。別に焦らせる気なんて無かったんだ」
「大丈夫。わかってるから」
鈴涼はあっさりと言ってくれた。ただし少女の横から向けられてくる威圧的な目は「二度とすずちゃんに気を遣わせるんじゃないわよ」といった具合のメッセージを含んでいる。幼馴染みの最後通告に風呂上がりの体を震わせていると、無言の俺たちを見ていた鈴涼が小首を傾げた。
「二人は、仲が良いの? 悪いの?」
「よ、良くないわよ! 何かの手違いで腐れ縁が残ってるだけだから」
再会した時と比べればかなりマシになったと思うが、こうきっぱりと言われると悲しいのは間違いない。茉莉菜の発言は浮かれかけていた自分への戒めにすることにして、俺は気になっていたことを問いかけた。
「そういえば鈴涼。お前、何か喋りかけてなかったか?」
「……」
鈴涼は黙ったままで、じっと俺の顔を見た。まるでその様子が俯かないために毅然としているみたいで、静寂に相応しい言葉が出なくなる。
「ううん、大丈夫。なんでもない」
「……? そうか」
結局、彼女は何も言わずじまいだった。表情から読み取るなんてエスパーみたいなことはできなかったけれど、隣に居る茉莉菜がふつふつと憤りを募らせているのだけは伝わった。
「あんた、他にもすずちゃんに変なこと言ったんじゃないでしょうね……?」
「言ってねぇよ! 言ってねぇからその手を下ろせ!」
浴衣からすらりと伸びる腕は綺麗なのにとても物騒だ。俺は後退りながら来た道に戻る。
「ほら、それより明日も早いんだ。俺はそろそろ部屋に戻るぞ」
「ふん、そういう台詞は後ろめたい犯人の台詞なのよ。すずちゃんには後できっちり事情聴取しておくわ」
「お前、マジで俺のこと信用してねぇな……」
ふん、と鼻を鳴らす音がした。こんな落胆も何度目だろう。少なくとも彼女の眼鏡姿よりは慣れ始めた光景に溜め息をこぼすしかなかった。そうしてみんな揃って縁側から動き出そうとした時、茂みががさがさと揺れる。誰かが「何だ?」という間もなく、植木の狭間から謎の金色が浮かび上がった。
「お三方、待ったぁ!」
「きゃああああ!」
「うおっ。どこから出て来たんだお前!」
ゲームなら、モンスターが草むらから飛び出してきた! みたいなアナウンスが表示されているところだっただろう。頭には空想上のたぬきよろしく茂みの葉っぱを頭に乗せた健吾が居た。既知の男とのエンカウントとわかるや否や、飛び退いていた栗色髪がずかずかと前に出る。
「ちょっと! すずちゃんが驚いてるでしょ! 心臓に悪いことしないでよ!」
その言葉はごもっともなのだが、叫び声を上げながら三歩以上も後退したのは茉莉菜だけだ。付け加えれば、確かに鈴涼は小さな体をびくっと揺らしたけれど、瞳が茉莉菜の方を向いて見開かれていたのは見逃さなかった。
しかしそれを言ってしまうと次のミサイルの投下先も俺になってしまうので、ここは健吾に犠牲になってもらおうと黙っておくことにする。│身代わり《デコイ》はレザージャケットに付いた葉っぱを払いながら「いやぁ」なんて呑気な声を出した。
「人ひとりくらいなら通れる抜け道があってさ。この時間に後藤先生に外出許可を求めたら、きっと駄目って言われちゃうだろ?」
「そりゃそうだ」
「だからこっそりせっこら行って来たって訳さ。修学旅行と言えば、先生の監視を逃れながらのスニークミッションは欠かせないでしょ」
「あんたの修学旅行の常識はどこで塗り替えられたのかしらね」
じり、と睨まれたのは何故か俺だ。確かに中学生の頃ならばそんなこともやった気がするが、三年間も会っていなかったのに責任を押し付けられるのは不本意である。
「この先はなかなか素晴らしいよ。T字路の右側は、急斜面の先に神社があるくらいなんだけど、左側に行けば日本情緒溢れる飲み屋街さ」
「しっかり探検してるな。絶対バレるぞ、そんなもん」
「まぁまぁ。口止め料も兼ねて、こんなものを買って来たんだよ」
持っていたビニール袋の結び目が解かれた瞬間、醤油を焼いたような、それでいて甘みを感じる香ばしさが漂った。夕食からしばらく経った胃袋が本能的に食べ物だと察知する。健吾が取り出したのはプラスチックパックに入った四本のねぎまだった。じいっと眺める俺たちに向かって、宿抜け男が得意げな様子で言う。
「実は昨日から目を付けてたんだ。居酒屋のおっちゃんに頼んだら包んでくれたよ」
「昨日からって……じゃあお前、昨日も一人でどっか行ってたのかよ」
「一晴がちゃっちゃと寝ちゃうもんだから暇だったんだよ。この道もその時に偶然見つけたのさ」
この宿に着いた日――つまり初日のことであるが、俺は慣れない早起きをしたせいで、夜の浅い時間にすっかり眠たくなってしまっていた。だから早めに布団に入ったのだが、疲れていなければ健吾は俺のことも連れ回す気だったのだ。付き合わされなくて良かったとつくづく思った。
「それより聞き捨てならないことがあったわよ。あんた、まさかお酒なんか飲んだりしてないでしょうね?」
刺青疑惑のある健吾だからか未成年飲酒の容疑までかけられる。日頃の行いという言葉の意味を噛み締めつつも、さしもの彼もぶんぶんと大袈裟な身振りを付けて言った。
「さすがにないない! おっちゃんにも最初は未成年ってことで警戒されたけど、事情を言ったら快くおみやだけ用意してくれたよ」
「はあ。ほーんと、信用無くなったわね、あんた」
「酷いなぁ」
表面では頷いて茉莉菜に理解を示しながらも、心の中では「大丈夫、俺もだ」なんて呟いた。健吾は苦笑いを隠さないまま、買って来た串をずいとこちらに寄せてくる。
「そんなことよりホラ! 早くしないと冷めちゃうから、みんなで食べようじゃないか」
彼の誤魔化しと焼き鳥の香りに押し切られた俺たちは、一人一本ずつを手に取って縁側に腰掛ける。並んだ距離はいつもより近く感じられて、見上げた先に浮かんだ月は随分と丸く、大きかった。
「……おいしい。不本意ながら」
「まぁ、こういうのも悪くないな」
「でしょ?」
「……うん」
健吾は口止めと言ったが、これは秘密というよりも思い出だ。そして翌朝、焼き鳥のゴミを見つけた後藤先生によって健吾がお叱りを受けたのは言うまでもない。
古き良き日本家屋の縁側に座っている気分だ。秋の夜風に吹かれるのは肌寒さがあるものの、のぼせかかった風呂上がりだと思考を押し留める余計な物を蒸気に乗せて飛ばしてしまうようだった。
「ホント、良い旅館だな……」
全室和室であるこの温泉宿は、いわゆる高級旅館に相当する。元々は経済的に負担にならない安めのホテルを取ろうとしたのだが、後藤先生の大人の経済力が俺たちの気遣いの全てを蹂躙した。全員全室分の外泊費を一手に引き受け、俺たちが出しているのはせいぜい移動費と食費くらい。
資金については当初、健吾が謎の自信と共に「ドンとオレを頼ってくれよ!」なんて息巻いていたが、もちろんそんな必要も無くなった。別段あいつだって金持ちの家ではなかったはずなので、服装が度々変わるところを見てもアルバイトでもしているのだと思う。
「そう言えば健吾のやつ、どこに行ったんだ」
一人で心地の良い空間に居たら、畳の香りをアロマにして寝てしまいそうだ。せめて話し相手でも居ればと思ったが、唯一同室の健吾は風呂から戻ったら姿を消していた。
「……探しに行くか」
断じて寂しい訳では無い。心の中で誰にするでもない言い訳を唱えて部屋を出た。廊下は静かなものだった。旅館だけあってだだっ広く、花瓶や水墨画がちらほら見える。格式高い宿では細々したインテリアでも高級に見えるから不思議だ。
しばらくあてどなく彷徨ってみたが目立つ金髪は見つからない。それどころか夜も深くなっているせいで他の人間とすら出会わなかった。こうして誰の気配もしなければ、暗がりから何か出てくるんじゃないかなんて要らぬ想像を働かせてしまう。
「幽霊の、正体見たり、枯れ尾花」
「幽霊が出るの?」
きぃ、と木材の揺れる音が後ろから鳴った。声の正体はすぐわかったのに跳ねる体は抑えられない。顔を合わせるなり不可思議な表情を作った浴衣の色白少女に向かって、俺は誤魔化すように言った。
「訂正だ。幽霊の、正体見たり、鈴涼さん」
「わたし、幽霊?」
いやいやまさかと首を振った。黒髪がいつもより目元を隠していて日本伝統の幽霊像と重なったが、ちゃんと生えた足には客用のスリッパを履いている。頬が少し赤いのは、彼女も風呂を出たばかりだからだ。とは言え風邪を引かないための配慮からか髪はしっかりと乾いており、もしかすると蒸気よりもドライヤーの影響が強いのかもしれない。
浴衣にある鎖状に重なった四角の柄は何か呼び方があった気がするが忘れてしまった。確か人との良縁を結ぶような意味があったと思う。四角というのがまた憎く、否応にも文学部の関係を想起させられた。感傷に浸りそうな気持ちを取っ払ってキョトンとした顔の大和なでしこに片手をひらりと挙げる。
「よ。鈴涼」
「よ」
諸々欠落した挨拶を済ませると吹き抜け廊下で横並びになる。茉莉菜にこんなやり取りを見られたら「すずちゃんに変なこと教えるんじゃないわよ!」とでも怒鳴られるのだろう。目覚める以前の鈴涼はいつでも丁寧に挨拶をする性分だったから、レアなやり取りが少し面白く感じてしまう。
少女の横顔は宿の庭にある頭の赤い木を見つめていた。うまく紅葉の時期に当たることができたのは僥倖だった。
「楽しめてるか? 京都旅行」
「うん。見るのも、お話も、楽しいよ」
「そっか」
住む場所からも遠くなかなかお目にかかれない景色に、後藤先生や健吾の見識があって、この旅はガイド付きのツアーみたいだ。茉莉菜との他愛ない会話は彼女の感情や思ったことを言葉に変えていて、きっと記憶に残るに違いない。
「来て良かった」
鈴涼は小さく、噛み締めるみたいに呟いた。その何気ない一言が心を打ち上げるくらい嬉しくて、自分の口角に力が入るのがわかる。つい最近まで使わなくて凝り固まっていた部分が妙に動いて変な感じがした。しかしそんな気持ち悪い感覚も、今は素直に受け入れられるのだ。
ニヤつく頬をぐにぐにと解す。俺の奇行に対して鈴涼が首を曲げているから、場を取り持つように頭に浮かんだことを尋ねた。
「その……何かピンとくるようなことはあったか? 部室の時みたいに、なんとなくでも」
元々この旅行は鈴涼にとって印象的な記憶を刺激するためのものだ。部室で感じたと言っていた『懐かしい感じ』という既視感だけでもあってくれればと思ったのだが、彼女はゆっくりと左右に首を振るだけだった。
「……ううん。あんまり」
やはりと言うべきか当然と言うべきか、京都に来てから鈴涼が思い出に対して目立った反応を見せたことはない。大本命の嵐山に訪れるのは明日なので未だに希望は捨てていないが、迷惑をかけた分、戻ってから彼女の父親には良い報告を送りたい。鈴涼もおそらくは同じ気持ちだろう。
「ま、楽しめるのが一番だ。こうやってみんなで集まって出掛けられるなんて、思ってもみなかった」
中学三年生の夏から今年の夏まで、俺たちは誰一人として顔も合わさなかった。親との話題に上がることも避けていたし、逃げることが正しいことなのだと思い込んでいた。だけど色々なきっかけの連鎖が今を生み出している。
「全部、鈴涼が起きてくれたからなんだ。お前が目覚めてなかったら、きっと俺たちは今でも……」
「――一晴くん」
鈴涼は突然俺の名前を呼んだ。目を合わせようとしたら、彼女は珍しくわかりやすいくらいに視線を外した。
鈴涼は何かを言い淀んでいる。目覚めてからの鈴涼は思ったことそのままを口に出す機会が増えた。だからその様子が不自然で、俺に懐疑をもたらす。もう一度聞けば答えてくれるだろうかと口を開きかけて、遠くから足音と聞き慣れた声がした。
「すずちゃーん……あ、一晴も一緒だったのね」
親友を呼んだ茉莉菜は眼鏡をかけていた。日頃から入浴する時にはコンタクトを外しているのだろうが、彼女の眼鏡をかけた顔は、どうしても子どもの頃を思い出してしまう。そのせいで、身長も高くなった茉莉菜のラフな一面が未だに見慣れなかった。
見慣れなさで言えば、今の彼女もまた浴衣姿である。昨日はすぐに寝てしまったので見かけなかったが、鈴涼と違ってうっすらと濡れたままの首筋に、栗色の髪は普段とは異なる艶やかな光沢を纏っているようだった。幼馴染みの初めて見る姿に動揺した自分が居た。広げた片腕を振ってみるもぎこちなくなってしまう。
「よ、よお茉莉菜」
「なにロボットみたいな手の振り方してるのよ……あれ、健吾は?」
「なんか風呂は一人で入りたいんだってさ。昨日もそんな感じだった」
彼女たちのように俺と健吾も一緒に温泉に入っていると思ったのだろう。しかしながら「先に入っておいてよ」と言われれば、翌日も控えた体を休めない理由もない。再会してからの健吾はよく誰かとつるみたがるくせして、ふと気がつけば一人でどこかをフラフラしている。自由気ままな野良猫みたいだ。
「何よそれ。個人の自由だから何でも良いけど……」
茉莉菜はそこで言葉を止め、不自然な状況におのれの推測を付け足した。しかしながら次に繰り出されたのは随分と突飛な着地点で。
「まさか、タトゥーでも入ってるんじゃないでしょうね?」
「さすがに高校生だぞ。いくらなんでも……」
克明に浮かび上がるド金髪のジャラジャラ野郎。日本の高校生はピアスやネックレス等々が禁止されている場合が多い。それをああして平然と破る人間が、どうしてタトゥーを入れていないと断言できようか。
「あり得るか」
「あり得るわね」
あの変貌っぷりを目の当たりにしてしまうと可能性を否定し切れない。鈴涼は「タトゥーは駄目なの?」と茉莉菜に尋ねていて、あんなのはワルの象徴よ、ととんでもない偏見を教えていた。間違った世間教育が終わった後で、茉莉菜は俺と鈴涼を交互に見遣る。
「そういえば二人は何の話をしてたの?」
「旅行を楽しめてるかって話だ。それと、何か思い出すものはあったのかなって」
すると、言っている最中に茉莉菜の手が競技かるたみたいな速度で俺の肩を捉えた。はたかれた衝撃に「いっ」と口を歪ませる。しかし彼女は俺の苦悶なんてお構い無しで喝を飛ばしてきた。
「あんたは! 昔から! デリカシーとか! 配慮とかに欠けるのよ! このバッ……」
言葉の区切りごとに飛んできていたミサイルが突如止んだ。
「何でもないわよ! バカ!」
なんとなく昔によく言われていたあだ名を思い出したが、詰まったように止められた言葉の先に確証は抱けなかった。
それよりも茉莉菜が言いたかったのは、俺の質問のことだろう。確かに純粋に旅行を楽しんで欲しいと思っているのに、記憶のことを気にさせてしまっては鈴涼に重圧を感じさせてしまう。昼に後藤先生に言われたことも思い出しながら、せめてもと鈴涼に謝罪する。
「わ、悪かった。ごめんな、鈴涼。別に焦らせる気なんて無かったんだ」
「大丈夫。わかってるから」
鈴涼はあっさりと言ってくれた。ただし少女の横から向けられてくる威圧的な目は「二度とすずちゃんに気を遣わせるんじゃないわよ」といった具合のメッセージを含んでいる。幼馴染みの最後通告に風呂上がりの体を震わせていると、無言の俺たちを見ていた鈴涼が小首を傾げた。
「二人は、仲が良いの? 悪いの?」
「よ、良くないわよ! 何かの手違いで腐れ縁が残ってるだけだから」
再会した時と比べればかなりマシになったと思うが、こうきっぱりと言われると悲しいのは間違いない。茉莉菜の発言は浮かれかけていた自分への戒めにすることにして、俺は気になっていたことを問いかけた。
「そういえば鈴涼。お前、何か喋りかけてなかったか?」
「……」
鈴涼は黙ったままで、じっと俺の顔を見た。まるでその様子が俯かないために毅然としているみたいで、静寂に相応しい言葉が出なくなる。
「ううん、大丈夫。なんでもない」
「……? そうか」
結局、彼女は何も言わずじまいだった。表情から読み取るなんてエスパーみたいなことはできなかったけれど、隣に居る茉莉菜がふつふつと憤りを募らせているのだけは伝わった。
「あんた、他にもすずちゃんに変なこと言ったんじゃないでしょうね……?」
「言ってねぇよ! 言ってねぇからその手を下ろせ!」
浴衣からすらりと伸びる腕は綺麗なのにとても物騒だ。俺は後退りながら来た道に戻る。
「ほら、それより明日も早いんだ。俺はそろそろ部屋に戻るぞ」
「ふん、そういう台詞は後ろめたい犯人の台詞なのよ。すずちゃんには後できっちり事情聴取しておくわ」
「お前、マジで俺のこと信用してねぇな……」
ふん、と鼻を鳴らす音がした。こんな落胆も何度目だろう。少なくとも彼女の眼鏡姿よりは慣れ始めた光景に溜め息をこぼすしかなかった。そうしてみんな揃って縁側から動き出そうとした時、茂みががさがさと揺れる。誰かが「何だ?」という間もなく、植木の狭間から謎の金色が浮かび上がった。
「お三方、待ったぁ!」
「きゃああああ!」
「うおっ。どこから出て来たんだお前!」
ゲームなら、モンスターが草むらから飛び出してきた! みたいなアナウンスが表示されているところだっただろう。頭には空想上のたぬきよろしく茂みの葉っぱを頭に乗せた健吾が居た。既知の男とのエンカウントとわかるや否や、飛び退いていた栗色髪がずかずかと前に出る。
「ちょっと! すずちゃんが驚いてるでしょ! 心臓に悪いことしないでよ!」
その言葉はごもっともなのだが、叫び声を上げながら三歩以上も後退したのは茉莉菜だけだ。付け加えれば、確かに鈴涼は小さな体をびくっと揺らしたけれど、瞳が茉莉菜の方を向いて見開かれていたのは見逃さなかった。
しかしそれを言ってしまうと次のミサイルの投下先も俺になってしまうので、ここは健吾に犠牲になってもらおうと黙っておくことにする。│身代わり《デコイ》はレザージャケットに付いた葉っぱを払いながら「いやぁ」なんて呑気な声を出した。
「人ひとりくらいなら通れる抜け道があってさ。この時間に後藤先生に外出許可を求めたら、きっと駄目って言われちゃうだろ?」
「そりゃそうだ」
「だからこっそりせっこら行って来たって訳さ。修学旅行と言えば、先生の監視を逃れながらのスニークミッションは欠かせないでしょ」
「あんたの修学旅行の常識はどこで塗り替えられたのかしらね」
じり、と睨まれたのは何故か俺だ。確かに中学生の頃ならばそんなこともやった気がするが、三年間も会っていなかったのに責任を押し付けられるのは不本意である。
「この先はなかなか素晴らしいよ。T字路の右側は、急斜面の先に神社があるくらいなんだけど、左側に行けば日本情緒溢れる飲み屋街さ」
「しっかり探検してるな。絶対バレるぞ、そんなもん」
「まぁまぁ。口止め料も兼ねて、こんなものを買って来たんだよ」
持っていたビニール袋の結び目が解かれた瞬間、醤油を焼いたような、それでいて甘みを感じる香ばしさが漂った。夕食からしばらく経った胃袋が本能的に食べ物だと察知する。健吾が取り出したのはプラスチックパックに入った四本のねぎまだった。じいっと眺める俺たちに向かって、宿抜け男が得意げな様子で言う。
「実は昨日から目を付けてたんだ。居酒屋のおっちゃんに頼んだら包んでくれたよ」
「昨日からって……じゃあお前、昨日も一人でどっか行ってたのかよ」
「一晴がちゃっちゃと寝ちゃうもんだから暇だったんだよ。この道もその時に偶然見つけたのさ」
この宿に着いた日――つまり初日のことであるが、俺は慣れない早起きをしたせいで、夜の浅い時間にすっかり眠たくなってしまっていた。だから早めに布団に入ったのだが、疲れていなければ健吾は俺のことも連れ回す気だったのだ。付き合わされなくて良かったとつくづく思った。
「それより聞き捨てならないことがあったわよ。あんた、まさかお酒なんか飲んだりしてないでしょうね?」
刺青疑惑のある健吾だからか未成年飲酒の容疑までかけられる。日頃の行いという言葉の意味を噛み締めつつも、さしもの彼もぶんぶんと大袈裟な身振りを付けて言った。
「さすがにないない! おっちゃんにも最初は未成年ってことで警戒されたけど、事情を言ったら快くおみやだけ用意してくれたよ」
「はあ。ほーんと、信用無くなったわね、あんた」
「酷いなぁ」
表面では頷いて茉莉菜に理解を示しながらも、心の中では「大丈夫、俺もだ」なんて呟いた。健吾は苦笑いを隠さないまま、買って来た串をずいとこちらに寄せてくる。
「そんなことよりホラ! 早くしないと冷めちゃうから、みんなで食べようじゃないか」
彼の誤魔化しと焼き鳥の香りに押し切られた俺たちは、一人一本ずつを手に取って縁側に腰掛ける。並んだ距離はいつもより近く感じられて、見上げた先に浮かんだ月は随分と丸く、大きかった。
「……おいしい。不本意ながら」
「まぁ、こういうのも悪くないな」
「でしょ?」
「……うん」
健吾は口止めと言ったが、これは秘密というよりも思い出だ。そして翌朝、焼き鳥のゴミを見つけた後藤先生によって健吾がお叱りを受けたのは言うまでもない。