第10話 今秋のモノローグ

文字数 6,418文字

※――――――――――――――――――――――

 ホームルームの終わりを告げるチャイムが響いた。掃除当番でもないあたしは、それを徒競走のスタート合図みたいにして席を立つ。帰り支度を整えておいた鞄を机の脇から引っ掴み、勢い良く教室を飛び出そうとした。

「ねぇ、いんちょー。悪いんだけど今日もさ……」

「ごめん、予定あるから!」

 話しかけてきたのはクラスメイト。これまでならばまともに掃除をしない彼女らに代わって当番だってしてやったが、今のあたしには教室の具合なんてどうでも良くなるくらいのっぴきならない事情がある。

 ナマケモノの群れを颯爽と躱し、教室を出て早歩きする。階段だけは手すりを持って降りたら、下駄箱に続く吹き抜けの廊下を駆けた。

「あ、茉莉菜ぁー。もう帰りー?」

 突然呼ばれた名前に足を止める。聞き覚えがあるこの声は、二年で文理が分かれるまで同じクラスだった女子生徒だ。友人と呼ぶには遠いかもしれないが、話せば気の置けない仲のようにさっぱりとした関係である。

「うん、そうだよ」

「最近帰るのめっちゃ早いよねー。髪型も変わってるし、もしかして男?」

「そ、そんなんじゃないわよ」

 高校に入ってからというもの、髪の毛は殆ど伸ばしっぱなしだった。中学生の頃の自分とは少しでも距離を取りたくて、引っ込み思案な頃の容姿をずっと意識してきた。しかしこの夏休み、ある少女が目覚めたことで――そしてそれに触発された幼馴染みによって――あたしは今一度過去と向き合うと決めた。このショートカットは、記憶を求める少女への協力の意志とその覚悟なのだ。

 ――まぁ、そんなことを同級生に説明しても詮無きことで。

「単なる気分転換よ。受験も近いし、さっぱりしといた方が楽でしょ?」

 適当な嘘で誤魔化す。他人に話すような事情ではないし、何より自分で責任を負わなければいけないことだ。

「かぁー、相変わらずねぇ。だから頭でっかちとか言われるのよ」

「あ、頭でっかちなんて呼ばれてないでしょ! 勝手に変な印象つけないでよ!」

 どうかなー、とにやにや笑う同級生に、あたしはげんなり顔を向けるしかできない。夕方の涼しい風が吹き抜け廊下を訪れて、生徒たちの足音を連れて来た。冷えそうな手首を庇って爪先を下駄箱に向ける。

「じゃあもう行くから。またね!」

「はいよー。カレシによろしくー」

「だから居ないって!」

 あたしはしかと宣言すると、早足で学校を抜け出した。切る風に夏の重苦しさはそろそろ無くなり、心地よく鼻をすり抜ける。ローファーで忙しく石畳を叩いて駐輪場へ。簡素なトタン屋根の下に置いた自転車のロックを解除して、スカートの裾を敷くようにして跨った。

 放課後は寄り道をせず帰れ、というのはよく言われる話である。言いつけが絶対とは思ってはいないが、あたしは昔から真っ直ぐ帰路に着くことが多かった。弟の海渡が小学校を卒業するまでは彼をあまり家で一人にしてあげたくなかったし、勉強の覚えが良い方ではないから、宿題をするのにも時間が欲しかった。

 しかし二学期が始まってから、あたしには三日と空けず訪れている場所がある。高校からの帰り道の方向こそ変わらないものの、家を通り過ぎて中学校の大きな坂の向こう側へ。自転車を引き摺って歩く坂道は辛いけれど、これから過ごす一時間のためならどうということもない。

「ふぅー……」

 夕方、閑静な住宅街。その一軒家の前で立ち止まり、火照る体を鎮めるように息をする。額に貼り付く汗で髪がみっともなく見えてしまわないようにハンカチで拭った。乾いた部分に吹く風が冷たく感じたら、人差し指でインターホンを鳴らす。あたしの家のと似た音が響き渡り、数秒間を空けて声がした。

『はーい』

「こんばんは。岩本です」

『ちょっと待っててね。すぐに鍵を開けるわ』

 落ち着いた雰囲気が通話越しにも伝わってくる。人を魅了する中学の後藤先生とはまた違ったタイプの、『そこに居る』という包容感のあるトーン。それが親友のかつての様子にそっくりで、きっと彼女もそんなところを無意識に真似ていたのだろう。

 太陽が夕暮れに傾いていた。帰る頃には街灯の明かりしかないだろうから、夕飯までには帰らないと家族に心配される。ここに立ち寄ることは事前に知らせているが、そろそろ秋がやってくるので一人歩きは控えろ、とのお達しなのだ。

 居れて一時間がせいぜいだろう。それでもあたしはこの場所を訪れることを決して躊躇わない。ドアノブがゆっくりと押し開かれて、その先にはあたしより小柄で髪の短い少女の姿があった。彼女に昔の記憶は無いけれど、親友と呼べる存在。

「こんばんは、すずちゃん」

「……こんばんは、まりちゃん」

 まだ少し他人行儀に、親友は出迎えてくれた。装いはラフなパーカーに膝を隠すスカート。気温が冷めた今の時間には丁度良さそうだった。すずちゃんは薄ら月が浮かんだ空を一瞥して、それからあたしと視線を重ねる。

「今日もお話、聞かせてね」

 まるであたしの瞳の中に未知の銀河を見ているみたいだった。彼女が知り得たはずの過去の鱗片は、誰かの中に少しずつ眠っている。大昔の光を浴びたくて仕方ない――彼女にあるのはそんな欲求の塊だ。あたしはその欲求に応えるべく、努めて笑顔を向けて頷いた。

「もちろん。今日は、文学部のみんなで人生ゲームをした時の話でもしよっか」

「……面白そう」

 反応は好感触そうだったので、今日の話題はそれに決めた。あの頃の思い出はきっかけさえあればあたしの中で溢れてくる。今も辛いことは多いけれど、彼女が求めるのならば瘡蓋を破くのだって怖くない。

「入って。お母さんが、お菓子を作ってくれてる」

「わぁ、楽しみ! 昔、一回だけいただいたことあるのよ」

「そうなの?」

「うん。あれは確か一緒に買い物に行った時にね……」

 一度話し出したら止まらなくなってしまう。あたしとすずちゃんの会話では、あたしの方が話し手に回るのが定型だった。彼女の口数が減ってしまったこともあり、今でもその様式はあまり変わっておらず、興味津々の彼女の瞳に向かって言の葉を送るのだ。


 最上家にお邪魔し、すずちゃんの部屋へと通される。手のひら大のうさぎのぬいぐるみや、ちょっとヘンテコな顔をしたカモノハシの人形と目が合った。この辺りの多くは中学時代に彼女が好きだと語っていた絵本のキャラクターたちだ。当時は学校に持ってくることも無かったので、まさか三年越しに実物を見るとは思ってもみなかった。

 すずちゃんのお母さんがテーブルの上にマドレーヌと紅茶を置いてくれて、あたしたちは柔らかいラグマットに腰を降ろす。二人だけの空間になり、こうして談笑の準備を整えたら色々なことを話し出すのだ。過去のこと、最近のこと。漫才師みたいに面白い言い回しはできなくても、お互いが自然と笑みをこぼせるように。

「でね、一晴が人生ゲームやるためだけに鞄の中身全部家に置いて来たのよ」

「……教科書も、鉛筆も?」

「そう。だから一日ぜーんぶ健吾に借りてたんだって。ホント、バカよねぇ」

 今日の話題は文学部のある日のエピソード。まだ最上家には数えられるくらいしか通っていないから、すぐに思い出せる話で時間は過ぎる。滞在するのが一時間くらいだから、まだまだ思い出話は尽きそうにない。いずれお話が乏しくなってしまうくらい彼女と微笑みを交わせたら、それはどれだけ幸せなことだろう。

「それであたしは止めとこうって言ったんだけど、意外とみんな乗り気で。こうなったらやるしかないだろー、って」

「一晴くんが?」

「そうそう。押し切られちゃって、みんなでやったんだよね。でも結局先生に見つかっちゃってさ……」

「まりちゃんは」

 珍しくすずちゃんが話を区切るようにあたしを呼んだ。首を傾げて返すと、彼女は困ったみたいな表情でこちらを見つめている。言葉を待つためにジャスミンの香りがするティーカップを手に取ろうとすると、すずちゃんは言った。

「一晴くんのこと、どう思ってるの?」

「ふぇあっ!?

 まさかの質問に、指をかけかけていたティーカップがかちゃりと跳ねる。幸い中の紅茶は揺れただけで済んだが、波打つのはジャスミンティーだけじゃない。あからさまにうるさくなった心音が震わせる喉で声を出した。

「ど、どうしてそんなこと聞くの?」

 あたしの中で真っ先に浮かんだのは、三年前の夏に本音を語り合ったあの図書室裏の光景。その時に伝え合ったのは、互いに一晴が好きだということ。すずちゃんの大切な想いを知り、初めて親友になれた場所。

 ――もしかして、記憶が。

 その考えに至った瞬間、自分の体温がどっと下がるのがわかった。全身から血液が抜けたように、視界の色が雲がかる。

 記憶が戻ったのなら、すずちゃんはあたしをどうするだろう? 怒りを向けるのか、許すのか、それとも幼い感情の全てを捨て去れと告げるのか。いつの間にか止まった呼吸が、あたしの首を締め付ける。あたしはまた、彼女を失って――

「まりちゃんって、一晴くんのことをいつも悪く言うのに、よく見てる。お話にもよく出てくる。だから、好きなのか嫌いなのか、よくわかんない」

 鈴の音が聞こえた。夏本番を過ぎて、住宅街でも聞こえなくなったはずの風鈴の音。それが自分の内側だけで鳴り響いたことが、現実への帰還の合図だと気づくのに数秒を要した。

「……あ、あぁ。そういう、ことね」

「……? どうしたの? 何だか顔色、悪いけど……」

「う、ううん! そんなことないわよ、元気元気!」

 あたしは力こぶを作るようなジェスチャーをして慌てて取り繕った。一体何を悩んでいるのか。すずちゃんが記憶を取り戻すことは彼女自身の悲願であり、あたしもそれを望んでこうして会いに来ているのではないか。

 すずちゃんは依然として懐疑的な瞳を向けている。自覚の無い無邪気さが痛く、辛い。記憶は無くても、彼女の聡い部分は消えていないのだ。だから時折、心の中を見透かされているんじゃないかとヒヤヒヤする。見えている風景に置いていかれる感覚が怖くて堪らない。

 ――すずちゃんもそうだったの?

 胸を穿つこの痛みを、かつての彼女も抱え続けていた。それはあたしが与えた傷で、もしその傷まで綺麗さっぱり消え去るのなら、記憶なんて。

 ――嫌だ。バカなことを考えるな、あたし。

 思考は無理矢理そこで殺した。彼女の願いを叶えることが岩本茉莉菜に下された使命だ。全てを受け入れる覚悟なら、もうとっくに作ったはずだろうに。

 あたしは今度こそジャスミンティーを口に含んで、カラカラになった喉の潤滑油にした。鼻に紅茶のフレーバーが通り抜けていくらか気分が落ち着く。そうして数秒前の彼女の質問に答えた。

「一晴のことは、好きでも嫌いでもあるの」

「好きで、嫌い?」

「うん」

 わからない、という顔をするすずちゃんを見て、あたしは少し安堵していた。その様子が、未だ記憶が眠っているという証拠になっていたから。

「昔のあいつは好き。でも、今のあいつはウジウジしてて嫌い」

「だから、昔の話によく出てくる?」

「そういうわけじゃないけど……」

 無意識に一晴の話をしていたことを改めて指摘されると無性に恥ずかしい。別に今も彼を好きだなんて言わない。しかし、少し前に垣間見えた憧れの鱗片が妙に脳裏をちらつく。こうしてもう一度すずちゃんと話すことが叶ったのは、間違いなく一晴の後押しの結果だからだ。

「昔の話をしようとしたら、文学部での話になっちゃうだけよ。健吾や後藤先生とだって色々あったのよ。次に来た時はそういうのも教えてあげる」

「わかった。楽しみにしてる」

「ん」

 あたしは口元を尖らせながらすずちゃんの返事に納得した。練り込まれたバターが香るマドレーヌで文字通り口直ししたら、机の上にある目覚まし時計を見た。短針が六の数字を踏む直前だということに気づく。

「あ、もうこんな時間じゃない」

 そろそろ帰らなければ、家に帰るまでにある邪魔な坂道のせいで夕食に間に合わない。今日は母の帰りが遅くないから食卓の準備をあたしがする必要は無いが、だからといって母の作ってくれた料理を冷ますのは申し訳ないのだ。家事の手伝いをするようになってからはそれを実感し続ける日々である。

「もう、帰る?」

「うん、ごめんね。本当はもうちょっと居たいんだけど、あんまり遅くまでお邪魔するのは悪いから」

 すずちゃんはそれを聞くと「わかった」と言ってスカートを伸ばしながら立ち上がった。あたしも鞄を手に取り、借りていた座布団を元あったであろう場所へと返す。

 彼女の私室を出て二人して玄関へと向かう。さっきまでは無かった塩味を感じるクリームの匂いがして、今日はシチューなのかな、などと考える。食べられない味の香りはお腹への刺激が強いものだ。

「お邪魔しましたー」

 玄関のドアを開ける前に礼儀として報告。台所で料理を作っているであろうすずちゃんのお母さんに聞こえるか心配したが、すぐに「はーい」という返事が戻って来た。あたしはドアノブを握ると、首だけ後ろに向ける。

「じゃあね、すずちゃん」

「うん……また、来てね」

 すずちゃんはちょっとだけ不安そうに見える顔で言った。その真意が昔話を聞く機会を失いたくないのか、あたし自身を求めてくれているのかは定かではない。何せ彼女の中のあたしは、つい最近目の前に現れた元同級生でしかないのだ。

 だけど、もしそうだったとしても。

「当たり前よ。また、今度ね」

 すずちゃんに求められる間は、どれだけだって傍に居よう。だって――ずっと一緒に居られる保証なんて、どこにも無いのだから。

 あたしは見送ってくれたすずちゃんに手を振ると、家の前に置いていた自転車に跨った。飛ばして帰れば三十分後には帰ることができよう。そうしたらご飯やらお風呂やらを済ませて、その後はひたすら勉強だ。

 まだまだ続くハードスケジュールに頭がクラクラするが、後悔はしていない。ハンドルを握る前の両手で頬をぱち、と叩いて、今度こそ帰路を辿ろうとした。

「おや、岩本さんかな?」

 薄暗い中で男性の声があたしを呼んだ。あまり聞き慣れていない音に少し警戒したが、家から漏れ出る光が彼にも当たったと同時にそれを解いた。

「あ……すずちゃんのお父さん。こんばんは」

「こんばんは」

 彼は星もよく見えない夜の中でもわかる柔和な笑みを浮かべていた。以前病院で会った時も思ったが、誰かと話す時のすずちゃんと雰囲気がよく似ている。きっとあの聞き上手はこの人譲りなのだろう。

「今日も、娘のために来てくれていたのかい?」

「はい。お邪魔させて頂きました」

 仕事帰りで疲れているだろうに、あたしの両親なんて二人とも帰ってくる時にはいつも仏頂面だ。さすがは優しい最上家の大黒柱である、なんて変な思考をしていると、彼が言った一言に少しの違和感を覚えた。

「そうか――うん、いつもありがとうね」

 何かを飲み込んだみたいな、そんな感覚。暗がりの中で、一瞬だけ清涼な空気以外が喉を通り抜けていた風に思った。しかしそれはほんの逡巡のごとくどこかへ過ぎ去って、彼の表情はまた柔らかな笑顔に戻った。

「これからも、娘をよろしく頼むよ」

 病院で聞いた台詞。あの時は返事できなかったが、今度はしっかりと頷いた。

「もちろんです」

 それを聞いたすずちゃんのお父さんは、満足した顔で「気をつけて帰るんだよ」と気遣ってくれた。返事をすると、あたしに背を向けて家族の元へと行く。

「さっ、て。急ぎますか」

 暗闇の冷たさが、そろそろ季節の変わり目を告げる頃。鼻孔を抜ける香ばしい匂いは、早く動けとあたしを急かす。今年は夏に取り残されてしまわないように、ペダルを力強く漕ぎ出した。


 その晩だった。世界史の並べ替え問題に苦戦している途中に、一晴から『京都旅行計画』なるメッセージがあったのは。
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