最上鈴涼の恋思慕 3

文字数 4,661文字



 応援旗に着手し始めてから二週間。土日は学校が休みで模造紙に触れていないから、都合十日分作業をした。はっきり言って、進捗は芳しくない。体育祭まで半分を切り、私には大きな焦りが生まれていた。

 相変わらず同じグループの女子生徒たちはサボり気味だ。しかし文句を言おうにも、当の私はそんな時間があるなら一人で作業をした方が早いと思ってしまっている。やる気があるのなら教えるだけで捗るけれど、やる気を出させることは筆を動かすより何倍も難しい。

 最近はあまり部室にも顔を出せていない。どうにか『図書室裏』を訪れたとしても、各々が忙しいせいで会うタイミングも被らなかった。それがみんなも頑張っていることの何よりの証拠で、私だけが甘えてなどいられないと思わされる要因だった。

「はあ……」

 ここ最近は重苦しい溜め息ばかりを吐いている。近くに誰も居ないことが幸いなのはこんな時ばかりだ。使わない色を落とそうと水差しに筆を浸けた。しかし中身は既に紫とも茶色とも取れる色に汚れており、水の入れ替え時を悟る。途端に集中の糸がぷつっと切れて、時計を見ると、暫く休憩を挟んでいなかったことに気がついた。

「もうこんな時間……」

 下校時刻もあるし、そろそろ片付けを始めなければならない。他のクラスは殆ど完成に近いところまで出来上がっていて、最近はギリギリまで作業していることは少なくなっていた。みんな体育祭の練習や文化祭に向けた準備があるから応援旗は手早く終わらせたいのだろう。私は曇る気持ちを抱え込むしかない。そうして、ぼうっとした頭のままで立ち上がったのがいけなかった。

「きゃっ」

 机の影に隠れていた新聞紙に足を滑らせる。慌てて出したもう一方の足は自重を支えた代わりに別の何かを踏み抜いた。さらにそれだけでは済まず、上半身がぐらいついて、持っていた水差しが空中でひっくり返る。ばしゃ、と聞き心地の悪いトビウオの音がした。紅葉の大地に広がる汚れた海。模造紙は色つきの水を被り、足跡を残して破れてしまった。

「――あ」

 全身の血の気が引いた。回さなくてはいけないはずの脳が動いてくれない。狭まる視界の認識ができなくなっていく。完成までもうすぐだったのに、全てが台無し。唯一頭に過ぎったのは最悪の現実だけだ。

 急いで近くにあった雑巾で拭うが、色水はすっかり紙を侵食してしまっていた。濡れた上履きも、色の着いた靴下も取り返しがつく。でもここまで一枚の模造紙だけに描いてきた応援期だけはどうにもならない。

「どう、しよう……」

 力が抜けて、汚れた床に膝を突く。今からやり直そうにも、下描きから始めていてはとても間に合わない。このままではクラス全員に迷惑をかけることになってしまう。もしそんなことになってしまったら、私は彼らからどんな糾弾を――

「鈴涼?」

 聞き慣れた声。いつも快活で、でもどこか安心を覚えるその音の正体を呼ぶ。

「日向くん……?」

 突然現れた声の主は、もう一年以上部活動を共にしてきた同級生だった。短い癖毛と体操服を汗で濡らしている。体育祭の競技練習の後なのだろう。模造紙にこぼした水の何倍も綺麗なシミがとても眩しく感じられた。

「何でここに……」

「さっき応援旗係の女子たちが体育祭の練習した後、すぐに帰っててさ。進捗が気になって」

 私が聞くと、日向くんは自らが抱いたらしい疑問で答えてくれた。私が部活に顔を出していないのにも関わらず、彼女らが帰っていたことを不審に思ったのだろう。

「何か……あんまし良い状況じゃなさそうだな」

 破れた応援旗を見て、いつもは無頓着な日向くんも苦い表情を浮かべる。状況は最悪だ。残り一週間と少し。元々余裕のないスケジュールだったのに、このままでは完成はおろか不完全なベニヤ板にしかならない。声も出せないでいると、日向くんは「なあ」と私に呼びかけた。

「これ、模造紙の替えってもらえるのか?」

「わ、わからない」

「……そっか。よし、ちょっと待ってろ」

 言うが早いか、日向くんは足早にどこかへ去ってしまった。「待って」も言えないまま心細さだけが残ったが、彼は直ぐに戻ってきた。その腕には運動好きな彼さえ持ち辛そうにする一枚の大きな紙が丸められている。

「鈴涼、もらえたぞ!」

 拭いた床に広げられたのは新しい模造紙だ。彼の魂胆を察し、私は言う。

「で、でも今から描いてたんじゃ間に合わないよ……」

「元々お前一人でやってたようなもんだろ? だったら俺が入るだけで効率爆上がりだぜ」

「それは、そうかもしれないけど……」

「あと、助っ人は俺だけじゃないからな」

 えっ、と息を漏らしていた。彼の真意を掴めずに居る中、日向くんは走って来た廊下の方を見遣る。その視線の先に駆けてくる影が二つ。一人は小柄な男子生徒。厚い眼鏡にホックまで止めている学ラン姿だ。そしてもう一人は、私が最も親しいと感じている友達だった。

「すずちゃん!」

「まりちゃん……? 野沢くんまで、どうして……!?

「一晴から、最上さんがとにかくピンチだからこいって言われて……」

 困惑顔をぶつけ合う私たちを見て、日向くんだけが笑っていた。

「さっき模造紙取りに行った時、先生が準備してる間に図書室裏までひとっ走りして来たんだよ」

 模造紙という単語を聞いて、状況を理解していなかった二人も惨劇の跡地を見つけた。野沢くんは「なるほどね」と呟き、まりちゃんは「あちゃー」と天井を見上げた。

「これを直すための人手が必要だったのね」

「四人でやれば流石にどうにかなるだろ。何せ元々の人数より多いんだ」

 糾弾なんてなく、みんなは当然のように助けようとしてくれる。これだけ時間が経っても未だに立ち直ることができないでいる私よりも、ずっと正確に現実を見て、自分たちの時間を使おうとしていた。それだけはいけないという一心でどうにか言葉を紡ぐ。

「駄目だよ、みんな忙しいのに。これは私がやらなきゃいけないものだから……」

「そんなだから早死が心配になるんだよ」

 突然日向くんがそんなことを言い出すものだから、私はとても困惑した。確かに以前も同じ心配をされていた気がする。まりちゃんは「不謹慎なのよ、バカ!」と日向くんの腕を叩くも、言い方以外を否定する様子はなかった。意味を察することができない私に向かって、優しい声で説明をくれる。

「一晴が言いたいのは、すずちゃんは抱え込み過ぎってことだと思う。一人でたくさんのことができるのは凄いことだけど、だからって最初から自分が限界になるまで頑張る必要はないわ。役割が違ったら助けちゃいけない、なんて決まりはないでしょ?」

 小さな子どもを諭すように――実際、まりちゃんは兄弟とこんな風に接しているのだろうと思わされるくらい、安心できる息遣いだった。まさかそんな心配を私がされているなんて思ってもいなかった。知らなかったのではなく、私だけには縁がないと思い込んでいた『当たり前』をぐっと飲み込んだ。

「みんな、すずちゃんの助けになりたいんだよ」

 まりちゃんは言い終わると、隣でうんうんと頷く日向くんのことを、調子づくなと言わんばかりに小突いた。その力加減がいつもより優しくて、彼女が決して日向くんを否定していないことが伝わる。

 私は昔から色々なものが見えると思っていた。だけど、それはとても傲慢なことだった。だって私にはこんなにも頼らせてくれる友達が居たのだから。

「みんな……ありがとう」

 声を震わせないことが精一杯だった。泣きそうだったけれど、この嬉しさはちゃんと仕舞って、今はみんなが差し伸べてくれた手をしっかりと掴むのだ。

 久し振りに集合することができた文学部の面々は、それぞれが素直な喜びを抱いていたように思う。とは言え最近の話をする暇もなく、私が作業を始めようと屈んだ時、顎に手を当てて何かを考えていた野沢くんが聞いてきた。

「最上さん。この模造紙は、本来ベニヤ板にくっつける形になるんだよね?」

「うん。そうだよ」

「それなら、大丈夫だった部分を切り離して、それを新しい模造紙の上から貼ってしまおう。そうすれば描き直しが少しでも抑えられるし、絵の描けない人間でも協力できると思う」

「うおー! ナイスアイデアだぜ健吾! よっ、さすが参謀!」

 日向くんの素直な賞賛に、照れながら「ぼ、僕も協力したかったからね……」 と言ってくれる。

「そうと決まりゃさっそく作業開始だーっ!」

 野沢くんの提案通り水の溢れた部分をカッターで切り離し、それを新しい模造紙の上にピタリと重ねていく。両面テープで剥がれないよう固定したら、白い穴の空いた応援旗が出来上がった。私はその部分にできるだけ記憶通りの線を引いていく。若干歪にはなってしまったけれど、本来やり直しだったはずの作業をほんの二時間程度で取り戻すことができた。

「ちょっと健吾。そこ、もうちょっと水少なめで塗らないと色が落ちちゃうわよ」

「あ、そうだね。ごめん」

「そんな気にする程でもねーだろ。見てろ健吾。大体こんな感じで良いんだよ」

「あーっ! もう、なんでテキトーにやるのよ! それじゃまたやり直さなくちゃいけなくなるでしょうが!」

 その後も三人は残って手伝ってくれた。見回りに来た先生に許可まで取って、下校時刻を一時間以上越えても作業を進める。私はみんなに指示を仰がれて、ワクワクと高鳴る胸が声のトーンを明るくしていた。

 この日の教室は一段と騒がしかった。いつも他のクラスの人の話し声は聞こえていたはずなのに、今日はとても耳が心地良くて。気づけば頬が疲れていたのだった。



 ある程度の作業が終わり、いち早く色を塗る作業から片付けへとシフトしていた日向くんの隣に立つ。水道で筆を洗いながら、私はそこで気になっていたことを聞いてみた。

「日向くん」

「ん?」

「どうして私が困ってるって気づいたの?」

 私は人を頼ることが苦手だ。できないと言っても過言ではない。色々な物が目に入るから、他の人が心配してしまいそうなことは全て先に片付けてしまう。だから誰かに助けられることは極端に少なかった。傍目にはそれが美点に見えるようだけれど、私はそうは思えない。だって人には限度があって、困難を乗り越えるために扶助し合うのだから。

 日向くんは、そんな存在しないSOSをどうやって見つけたのだろう。純粋な疑問と僅かな心の靄が、彼に瞳を向けていた。

「鈴涼の本が変わってなかったからな」

 「何のこと」と聞きかけてから、すぐに思い出した。文学部は文化祭を終えるまでの間、各々がやるべき事を頑張ろうと励まし合った。そしてお互いを邪魔しないため、紹介する本は可能な時に変えるという方針に舵を切ったのだ。今の今まですっかり見落としていた約束事が私のヘルプサインに映ったということである。

「鈴涼はいつも文学部のことを考えてくれてる。俺にだってそれくらいはわかるから」

 パレットの絵の具を落としながら、恥ずかしそうに逸らした横顔は赤く染まっていた。毎日部室へ走ってやってくる時よりもずっと濃く。その表情を見て、私の胸には優しい風に撫でられたような気持ちが吹き抜けていた。心にある初めての感情が揺れた気がしたのだ。

「……ありがとう」

「気にすんな。それに、まだ終わってないんだぜ」

 蛇口から落ちる水に戻った彼の瞳は、とても真剣だった。私はきっと応援旗の進捗のことだと思った。彼らが協力してくれるのは今日までだから――そんな風に考えたことが勘違いだったと知るのは、数時間後のことだった。
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