第5話 最初の贖罪

文字数 4,960文字

 家を出たら、いつも向かう駅とは逆方面へ。みっちりと家屋が敷き詰められた路地をくねくねと折れて行くと、昔はボロボロだったカーブミラーがいつの間にやら真新しい輝きを取り戻していることに気がついた。そして最後は大きな坂道で、真夏の熱にじりじりと体力を奪われながら半分ほど上がると、久方ぶりに懐かしき中学校を視界に捉える。

 ――三年前、辛うじて卒業式には出席したものの、それ以来意識的に避けてきた場所だ。しかしここが今日の目的地、もとい合流地点である。坂を乗り越え、手を膝に当てて息を切らしていると、人影が日光と俺の頭の間に割り込んだ。

「だらしないなぁ。登校だけでギブアップかい?」

 一昨日とは違う色のアロハシャツに短パン、派手派手しいアクセサリー類が頭の金髪と相まって、俗に言う『チャラ男』な出で立ち。白い歯を見せながら快活そうに笑う小柄な少年は、何を隠そう中学時代のオタク友達、野沢健吾である。

「し、仕方ないだろ。もう若くないんだ」

「十七歳ですっかり老体とは、先が思いやられるねぇ。一晴」

 俺は不快そうな表情だけを健吾に向ける。俺の誕生日がまだだということを覚えているマメさに感心しつつも、先に着いていたから健吾だけ休む時間があっただけでは、という推測が先に立っていけない。

「それより、よく応じてくれたね。昨日今日で何かあったのかい?」

 乱暴に汗を拭っていると、健吾がそんなことを聞いてきた。俺は彼が自宅を訪れた際、不相応な態度で彼を突き放した――否、逃げたと言うべきだろう。募った苛立ちと醜い感情を彼の前で晒した。しかしその後、再び鈴涼と会い、彼女の願いを聞いた俺はようやく錆びた鉛の足に油をさそうと決めたのだ。一日も経っていない中でこうまで心持ちが変わるやつがいたら、俺もきっと同じ質問をしていただろう。

「気が変わった。それだけだ」

「そっか」

 健吾は短く言うだけで、それ以上の追及をすることもなかった。会話が止まって間が生まれ、なんだか居心地の悪くなってしまった俺は、昨日のことを鮮明に思い出した。あさっての方向を向きながら健吾に言う。

「その……昨日は、悪かっ、たな」

 人に正面から謝ることは、こんなに難しいことだっただろうか。昔はもっと素直に、ただ仲良くしていたいという一心で真剣に向き合えたはずなのに。

 果たして、俺の言葉を聞いた健吾はぷっと吹き出して、やがて大口を開けて笑い始めた。

「なんだよ! こっちは真面目だってのに」

「ははは、いやぁごめんごめん。なんか、一晴は変わったね。丸くなった感じがさ」

「そんなことねーよ。第一、変わったのはお前の方だろ。そんな格好しやがって」

 なおも笑い続ける健吾に、俺は二度と謝らないことを心に誓った。ふと、そういえばこいつはこんなに笑うやつだったかな、という疑問が浮かぶ。ただ不本意ながら、この容姿ではこのくらい笑ってるほうが自然に見える。

「お前、ホント変わったよな……」

 しみじみ言うと健吾は笑いに飽きたのか、すぅっと昔みたいな表情に戻った。

「――変わってないさ。何も」

「それのどこが変わってないんだよ。良い子ちゃんぶるのはやめろ」

「あはは」

 再び笑い出した彼は、本当に昔とは似つかない。ただ、こんな気の置けない会話をしたのはいつ振りだろうかと思えば、変わってないものもあるのだと思った。


 学校を出て、俺たちが登校した坂とは別の坂を下る。俺たちの母校である桃川中学校は高台にあり、朝の生徒にとても優しくない立地だ。『桃川』という名称は、川を行き桃の林を見つけた『桃源郷』の話が元ネタらしく、確かに生徒以外が寄り付くことのない秘境の地である。もっともこんな話は、長年図書館教諭として学校に勤めている先生くらいしか知らず、多くの人は『桃太郎』にルーツがあると思っているらしいが。

 そんな思い出の母校に一旦別れを告げ、男二人は再び炎天下を歩き出す。

「それで今日は、茉莉菜に会いに行くんだよな」

「うん。これは最上さんと会った時から決めていたんだ。一晴を誘ったら、岩本さんも呼ぼうってね」

 岩本茉莉菜。かつての文学部で部長を務めていた少女。勝気で、お堅い生真面目さを持っており、曲がったことが嫌いな性格。おかげで校則をしょっちゅう破る俺は彼女に手を焼かせていたと思う。

 そんな懐かしさを感じながら健吾に尋ねた。

「なんで俺を待ってたんだ?」

「そりゃ、オレより一晴の方が岩本さんと仲が良かったからさ」

 彼は当たり前のように言ったが、俺は彼女が健吾を好きだった事実を知ってしまっている。「あいつはお前が好きだったんだけどなー」という言葉は封印し、俺は茉莉菜との日々を思い出していた。

 茉莉菜とは幼馴染みで、文学部の中では一番付き合いが長い。くりっとした目つきは一見小動物のような愛らしさだが、その実、間違ったことには猛獣もかくやという勢いで噛みつく正義感の塊だった。俺が少しばかりオイタをすれば、あの栗色のショートカットが飛んで来てすぐに喧嘩が勃発する――そんなことも過去の日常だった。

 しかし雨降って地固まるとはよく言ったもので、衝突と和解を繰り返せば、俺たちは昔よりも近い距離になっていった。

 俺はそんな茉莉菜を好きになっていた。あの感情さえ無ければ、鈴涼から逃げることもなかったのだろうと考えることも少なくない。青春の、苦い思い出だ。

「お前もわかってると思うが、俺も中学以来あいつとは連絡も取ってないぞ」

「いやでもさぁ、オレ一人が行くよりよっぽどマシだよ」

「それは間違いない」

ㅤここまで姿も性格も変わってしまった健吾に、果たして茉莉菜は気づくだろうか。これでも一応片想いの相手だったのだから可能性が無いとは言い切れないのだが。

ㅤそして平静を装ってはいるが、俺だって彼女に積極的に会いたいわけではない。しかし、健吾から『文学部全員で動いたほうが昔っぽい』という提案をされてしまえば、鈴涼に約束した手前、後には引けなかった。

 俺はこれから訪れるであろう気まずさを考えないようにするために、健吾との会話を続ける。

「お前、いつからそんな格好してるんだ?」

「言わなかったっけ?ㅤ高校に入ってすぐだよ。三田高はイケイケな人多いからね。舐められないように必死さ」

「三田高って……言っちゃ悪いが、ここらじゃ最底辺の私立だろ。お前、中学の頃は成績良かったはずなのに」

「あれからどうにも勉強に身が入らなくてね。何にもしなかったらこのザマさ」

ㅤまぁ結果的には性に合ってたところもあるんだけど、と笑う彼はどこか自嘲しているようにも見えた。確か健吾の両親はどちらも学校教師だったはずなので、そのせいなのかもしれない。

「家での肩身が狭くてグレたのか?」

「あっはは。まぁそれもあるかもね」

ㅤはぐらかすような態度はあまり踏み込んで欲しくないということか。坂道を下り終えた頃には、この三年の身の上話は終わっていた。俺たちが来た反対側よりも少しばかり高級感のある住宅やマンションが増え始め、タイルの敷き詰められた歩道を行く。車とすれ違うことは数えるほどしかなかった。

「なぁ健吾」

「ん?ㅤなんだい?」

「いや……もし茉莉菜と会えたとして、この現状をどう説明するんだ?」

「どうって、ありのままを伝えるしかないじゃないか」

ㅤ俺はこの誘いを受けた時からずっと考えていた。茉莉菜も鈴涼の一件以来、元文学部と連絡を取っていない。健吾が鈴涼の母親から聞いた話によると、最上家も同様で彼女には鈴涼の意識の回復も伝わっていないという。

「もうあいつは……文学部の頃なんか忘れて、楽しくやってるかもしれないだろ。それなら、掘り返すのも、あんまり良く無いんじゃないか。第一、あの件にお前と茉莉菜は関係ないんだから」

「彼女への気遣いのつもりかい?」

 健吾は俺の問いかけに問いかけで返した。その瞳はどこか俺を試しているようでもあり、歯切れの悪い俺への叱咤だったのかもしれなかった。俺が答えられないでいると、健吾は腰に手を当てながら言う。

「そうかもね。オレは自分から動いたからともかくとして、岩本さんまで最上さんを助ける義理は無いだろう。でもね」

 健吾は横を歩く俺に顔を向けて、柔らかな視線で言う。

「熱は伝播するものだよ。昔の誰かさんみたく、熱ければね」

「……誰のことを言ってるんだ」

「さぁね」

 回りくどい言い方だ、と思った。それはき多分、野沢健吾にとっての昔の日向一晴で、日向一晴にとっての今の野沢健吾なのだろう。しかしいくら実体験を持っても、他者に通じる道理などありはしない。俺の中にはその疑問だけが、ゆらゆらと茹だる熱と一緒にこびりついて離れなかった。

※――――――――――――――――――――――


 思い返せば、浮かんでくるのはやはり悔恨なのだ。何もできなかった幼い自分と、どこか喜びを得てしまった自分。その報いだと言わんばかりに、全てが私の元から離れ去ってしまった。

「ねぇいんちょー。あたしこの後予定あるからさ、課題の提出やってくんない?」

 派手目なクラスメイトの女子が私に向かって実にふざけたことを言う。その当番のさぼりは何度目だ。常習犯が。それに私はクラス委員長であって、断じてどこかの病院の院長ではない。態度と一緒に滑舌も治してこい。

「うん、良いよ。どうせこの後、木村先生に呼ばれてるし」

「っしゃー! マジありいんちょー。後ろのロッカーの上にあるやつだからヨロね」

 ヨロじゃねぇんだよ脳空。どうせ合コンだか援交だかの将来一ミリも役に立たない娯楽に貴重な時間を浪費するんだろ。

「わかったわ。確か数学の森先生よね」

「うん。ほいじゃねー」

 ひらひらと手を振りながら小走りで去って行くクソビッチ。クラスの端に残っていた連中に混ざると、滑舌の悪い声でケラケラ笑い出す。

「っしゃいこー」

「アンタ、また委員長パシったワケ?」

「っは、さいってー! ウケるわー!」

 その低俗な会話は聞こえてんだよ。最低の何が面白いんだ股ユルども。アメリカのコメディーにもなってねぇんだよ。人様に迷惑かけておいて平気な顔してんじゃねぇぞ社会不適合者が。

 私は日誌を書く手を震わせながら、空欄に『今日も普段通り問題なく、クラス全員が仲良く過ごせていました』と記入する。どこがだ。今日も美化委員の男子が悪質な嫌がらせを受けていました、だろ。私の目は節穴か。腐ってんのか。

 綺麗事を並べ連ねた嘘偽りの日誌を書き終えた頃には、教室は私一人になっていた。後ろのロッカーを見ると、クラスメイト達によってぐちゃぐちゃに置かれた数学の課題が見えた。こみ上げる呪詛を飲み込んで、私は私の手が加わることなどないノートを出席番号順にまとめていく。

 報いなのだ。昔なら、きっと私はこんな状況に甘えるなんて選択肢は無くて、誰かに似た無鉄砲さで不条理にカチコミしていただろう。でも、そうやって重ねてきた日々が、私から大切な友人を奪っていった。だからこそ、今でもまだ生を味わっている私は、どんな現状でも受け入れなければいけない。

「すずちゃん……」

 虚しさが募って、涙という実体に変わる。三年前、私は最も大切な時期に動くことを渋った愚図だった。それが文学部の仲間であり、親友だと思っていた最上鈴涼を残酷な運命へと導いたのだ。高校に入ってからかけ直した眼鏡にぽたぽたと雫が落ちる。しかし、弱音を吐くことだけは絶対にしない。それは間違いなく、あの子がしたくてもできないことの一つだから。

 誰かを馬鹿にしたところで彼女は変わらない。私は課題の山から『岩本茉莉菜』と書かれた自分のノートを引っ張り出すと、全ての鬱憤で自分を殴りつけるみたいに放り投げた。途中で開いたそれはすぐに失速し、中途半端なページを開いたまま地面に転がった。その無様な姿がまるで今の自分みたいで、また酷く涙腺が震える。

「すずちゃん……」

 私にできることは、この苦汁を飲み続けることだけだ。そう信じて生きることくらいしか、昔の馬鹿な私に対しての罰など思いつかない。目覚めることもできないすずちゃんの代わりに、せめて私があの子が味わうはずだった苦しみくらい抱えていかなければ。そう思ったら少しは楽になる自分が汚く見えてきて、また呪詛がこみ上げるのだ。
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