第1話 四人揃って

文字数 5,220文字

 八月三十一日。日本人学生を経験した多くの者たちならば、この日を迎えることがどれだけ恐ろしいか理解できよう。未だ高温が続く中、夏休みという長期休暇(てんごく)が明ける前日。月曜日がやってくることなんて比じゃないくらいの絶望感――もちろん個人差はあるが――を味わうのだから。

 俺は中学生の頃まではやり残した大量の課題に追われ、高校生からは新学期の憂鬱を味わい続ける暇な一日として、嫌々この日を送っていた。しかし今年は事情が違う。新学期が嫌なのは変わらないが、テレビを見ながらのうのうと過ごす休日ではない。

「ほら、一晴。サボってないでそっち持って」

 声変わりはとっくに終えた若い音色。元気で、それでいて呆れたような含みを持つ声に、名前を呼ばれてせっつかれる。緑か黄色か、はたまたどちらもか。何が基調なのか分からない色のアロハシャツに、相変わらず派手な金系統のネックレス。左耳にはピアスを光らせる金髪の小男は、数年前まで真面目で優等生だったはずの野沢健吾(のざわけんご)だ。彼は大量の本が詰まった段ボールを腹の辺りで抱え、えっさほいさと頻りに動かして行く。

「うぃ」

「やる気の無い返事だなぁ。もうちょっと気張るってことはできないのかい」

 事も無げに言うが、この気温の中で彼同様にテキパキ動けというのは厳しい。健吾は日頃から運動を日課にしているらしいから大丈夫なのだろうが、こちとら三年間だらごろと過ごしていた人間なのだ。エアコンもない教室の一角では黒板に愚痴の一つも仰々しく書きつけてやりたくなる。

「やる気の無い返事でも出さないとやってらんないんだよ……二回目だぞ、これ」

 今年の八月三十一日の予定はかつての部活動の再現。つまり、ついこの間のリピート企画なのだ。汗のせいでしばらく切っていない髪が額に張り付く。目の辺りにくすぐったさを覚えてぐわりと掻き上げると、手のひらが濡れてまた不快になった。

「仕方ないだろ。力仕事は男が適任なんて前時代的なことは言わないけどさぁ。少なくともこの場にいる人間の中ではオレらでしょ」

 桃川中学校図書室の開かずの間、通称『図書室裏』――なんて仰々しいことが言えるほどセキュリティは厳重ではないが、少なくとも一般生徒がまず立ち入らない場所に俺たちは居た。動き回る俺と健吾の他に、教室の中に佇む人間は四人だ。まずは部屋を開けてくれた後藤(ごとう)先生。そしてようやく車椅子から解放された鈴涼(すずり)と、その保護者として彼女の母が。ここまでは数週間前と同じ構成だが、今日はもう一人――あの日にくるはずだった岩本茉莉菜(いわもとまりな)が、今度こそ、この場所に居た。

 彼女も少し前とは様相を変えて、中学生の頃のようなコンタクトと栗色のショートカットになった。かつての快活なイメージとは遠いロングスカートの大人びた服装だが三年前の面影ははっきりと現れている。記憶と重なった姿を見ていたら一瞬視線がぶつかりかけて、俺はバレないように話題を戻した。

「確かに昔から本の運び出しとかは手伝わされてたが……まさか高校生にもなってやるとは思ってなかった」

「え? 一晴は高校の文化祭とかでこういうことしてないの?」

「やってない」

 ぴしゃりと否定する。健吾こそ、よくも当然のような顔で言うようになったものだ。中学生の頃は文化祭などの行事全般でとかく目立たない場所に居た癖に。しかし、かく言う俺も昔は学校行事には積極的に参加していた記憶があるので、無駄な言い合いを避けるために文句は飲み込んだ。

「さぁ二人とも。もう少しだから頑張ってね?」

 図書館の番人こと後藤先生はいけしゃあしゃあと応援してくる。何年経っても変わらない美貌で、三年前から見つけられた変化は四角いフレームになった眼鏡くらい。黒いスーツがミステリアスな雰囲気を助長しており、妙齢と言われて誰もが納得するだろう。実際、男子生徒の中でもかなり評判が良かった。当時は「あんな綺麗な先生が顧問とか最高だな!」とか言われたが、当事者たる俺はそうでもないと言いたい。

 その理由こそ、今日この教室で見た惨状だ。二週間前には綺麗に片付けたはず。なのに訪れてみれば新しい蔵書やダンボールで床が埋め尽くされており、俺と健吾は揃って顔を見合わせる羽目になった。そこに元教え子をこき使うあたり、後藤先生の魔性の性格がよく見える。

「あら? 日向くん、何か不服かしら?」

「いえ、滅相もございません」

 おかしい、俺は向こうに背を向けていたのに。長い睫毛を伏せがちにしながら言ってきた美人教師の一言は心理学者もかくやという感じだ。俺はぶるりと肩を震わせる。

「どうやらオレらに逃げ場は無いってよ。さ、腹を括ろうじゃないか戦友(とも)よ」

「自殺志願者になった覚えは無い。ったく」

 昔通り、俺たちは後藤先生の手のひらの上で転がされる運命にあるらしい。けれど、そんな懐かしい光景を見ても、少女たちは笑ったりしない。一人はこの場へのいたたまれなさから。そしてもう一人は――最上鈴涼(もがみすずり)は、懐かしいと思う記憶すら失ってしまったから。

 再会した時よりは一センチくらい伸びただろうが、未だに女の子らしさよりもボーイッシュという言葉が似合う短髪。かつてその黒髪をそよ風に靡かせていた頃に比べて、無口で感情の起伏が薄らいでしまった。思い出すこともできない郷愁を漆のような瞳で見つめる鈴涼は、やはり目立った反応は示さない。

「こんな調子で、本当に記憶を取り戻すことなんてできるのか……」

 階段からの転落事故、そして三年間の昏睡状態を経て目覚めた彼女の脳は、記憶喪失というあまりに出来すぎた傷を負ってしまった。健吾に説得され、再び会う決意をした俺に彼女は一つのお願いを――否、使命を与えてくれたのだ。過去の記憶を取り戻すということを。

 三年前、大切なことを伝えようとしていた彼女から逃げてさえいなければ、鈴涼や家族の時間を奪うこともなかった。だから誰が何と言おうとその責任は俺にある。誰に責められなくとも、俺だけは俺を赦すことなんてできない。

「迷うな。決めただろ。鈴涼が記憶を取り戻すまで、協力し続けるって」

 溜め息のように溢れてしまった独り言に喝を入れる。全てを元に戻し、その上で、今度こそ彼女の言葉を聞かなければいけない。それがどんな罵声でも怒りでも、最上鈴涼から出た本心ならば全て受け入れる。そのために俺は、こうして積み上げられた本を一冊一冊棚に仕舞うのだ。

「……」

 立ち上がった折に、さっきから黙っている茉莉菜と今度こそ目が合った。その目が訴えるのは若干の申し訳なさと、ろくでもない居心地の悪さだろう。彼女もまた、鈴涼に対しての罪を感じてここに居る。志は同じだが、俺と茉莉菜の(わだかま)りはまだまだ解消には程遠い。

『もしすずちゃんが記憶を取り戻して、あたしを拒絶したら、その時は……』

 つい先日の茉莉菜の言葉を思い出す。暗い顔の彼女の覚悟を聞いて、不安になったのはむしろ俺の方だった。鈴涼が茉莉菜のことを放擲するなんてことは有り得ない。だって鈴涼は心優しいやつだから。

 でもその優しさが、果たして俺に向くことがあるのか。鈴涼の中で日向一晴(ひむかいかずはる)は許しを与えるべき存在ではなく、この場から立ち去るのは俺一人になるかもしれない。そうなることをどこかで恐れている自分が居る。もう一度全てを失ってしまうことへの恐怖。そんな割り切れない感情が、同じように茉莉菜にもあるのだとわかっていた。

「ま、茉莉菜」

 そうだ。似た思いがあるのなら、俺たちはまだ折り合える余地があるはずだ。今後のためにも彼女との仲は改善したい。昔みたく「手伝えよ」くらいの何気ない会話を試みようとしたが、じぃと半分くらいしか開いていない目で睨まれては萎縮してしまう。

「……何よ」

「いや、その……なんでもない」

 初球すら投げられずキャッチボール終了。俺と茉莉菜の間には、まだまだ埋められるはずもない深刻な溝があるようだ。後ろで誰かが、ヘタレ、と呟いていた気がした。


 黙々と、そして時折挟まれる健吾のくだらない冗談をいなしながら時間は過ぎていく。重たい荷物と空気に苛まれつつも、教室に溢れる景色は一変した。

「できたぁーっ!」

 健吾の歓声が響いた頃には、教室には夕焼け色が差し込んでいた。元々訪れたのが午後からだったということもあり、ちょうど放課後の時間帯だ。光は寄り集めた四つの机の上で乱反射し、その景色はちょっとだけ眩しくさえ見えた。俺は元気な彼とは対照的に壁にもたれて一息つく。額からつぅと伝った汗を手首の辺りで拭っていると、斜め上から水色のハンカチが差し出された。

「一晴くん、これ」

 ハンカチをくれたのは鈴涼だった。彼女は言葉数こそ減ったけれど、名前の通り透き通るような声音は取り戻していた。聞く度に胸を締め付けられていた痛みも、鈴涼が発声を苦にしなくなった最近はようやく慣れ始めてきた。

「サンキューな、鈴涼」

「お礼は、まりちゃんに」

 彼女なりの努力なのか、鈴涼は俺たち同級生を呼ぶ時にかつての呼び方を使っている。今でこそ普通に呼んではいるが、最初はイントネーションがぎこちなくて健吾と茉莉菜が必死に補正していた。茉莉菜はともかく、健吾は苗字呼びなのだからそこまで拘る理由もなかったはずだが。

「……え? 茉莉菜?」

 体が疲れていたせいでどうでも良いことを考えてしまっていたが、気になることを言った気がする。俺が中腰の鈴涼を見上げると、うん、と一つ頷いていた。

「それ、まりちゃんに頼まれたの。一晴くんに渡してって」

「な、何で……」

「どうせタオルも持ってないんだろう、って言ってた」

 人の動揺を知ってか知らずか、鈴涼は膝丈のスカートを揺らして母親の所へ行ってしまった。細く骨ばんだ足だが、学校までのあの坂を歩けるくらいには回復したのだから僥倖だ。ではなく。

「あいつ、親切なのか不親切なのかどっちなんだ」

 今の俺たちは感謝の一つだって素直に交わせない仲なのだ。ある種の嫌がらせなんじゃないかと疑うが、もしかしたらこれはメッセージなのかもしれないとも考える。茉莉菜だって、鈴涼のためと思えばぎこちない仲は改善しておきたいはず。つまり彼女なりに会話のきっかけを作ろうとしてくれているのではないか。俺は希望的観測を前向きに捉えることにして、重い腰を上げて臨戦態勢を整えた。ターゲット捕捉。渇き切った口をいつもより割り増しで開いた。

「ま、茉莉菜。ありが」

「使ったらさっさと返して」

 撃沈と言うか返り討ちと言うか、一気に体が気怠くなった。俺は意気消沈したまま、小声の「はい」とともにハンカチを差し出して、元居た壁に帰還する。なぜ告白してフラれたような惨めな気持ちを味わないといけないのか。好意を抱いていた中学生の頃だってこんなことは無かったというのに。

「かーずーはーるー! さっさとこっちにおいでよ! いつまで壁と一体化してるつもりだい?」

 真反対なテンションの健吾に呼び出され、崩れていた膝をまた持ち上げた。おそらく何年もワックスなんてかけていない床は疲れた足腰でも滑らない。向かった先の机には、元文学部の面々があの頃と同じ席に座っていた。俺も思い出すまでもない自分の椅子を引く。

「……じゃ、今度こそ集合ということで」

 しみじみと健吾が言ったので、俺は自分の席から三人を見渡した。


 正面に居るのは、三年の隔壁が取れない幼馴染み。

 隣にはやたら活発になった元オタク少年。

 そして目に飛び込んだ斜光を後ろ背に、記憶を失くした少女の姿。


 騒がしい言い合いや共感を見つけた時の喜び。やかましい叱責と、それを困った様子で宥める声々が蘇る――いや、忘れたくなかっただけなのかもしれない。俺たちの培った時間は確かにここにあって、それが鈴涼にも届くと信じる。

「……」

「えっと、誰か感想とかないのかしら?」

 あまりの無言をフォローするように後藤先生が口を挟んだ。とは言え、会話の主軸を健吾に任せていたこともあって気の利いたことも言えない。彼を頼りたいものだが、健吾は健吾なりに込み上げてくるものがあるようで求められなかった。そのままたっぷり数秒の静けさが流れた頃、気まずい空気を打ち破ってくれたのは意外にも鈴涼だった。

「なんだか、懐かしい」

!? ホントか、鈴涼!」

「……気がする」

 あぁ、と方々から気の抜けた音が聞こえてきた。揃って腰を浮かせていた元文学部連中は体勢を戻す。それもそうだ。こんなにも簡単に記憶を取り戻せたら医者なんて必要ない。しかしながら、三年間の苦楽をともにした記憶が少しでも刺激されたのなら、俺たちの労働も報われたと言えよう。

「この調子で、ちょっとずつきっかけを見つけられたら良いね。すずちゃん」

「うん」

 鈴涼は心なしかいつもより元気な様子で茉莉菜に返事をしていた。こんなことでも光明が見えたのならば喜ばしい。木製の机に薄ら映った見慣れた顔は、いつだか振りに笑っていた。
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