第9話 最上鈴涼が望むもの
文字数 5,218文字
※
ピーンポーンという間延びしたインターホンの音が休日の家に響く。日頃ならば何の勧誘か予想しながら内線を繋げるが、今日に関してはそんな些細なコーナーを立ち上げる必要もない。俺は迷わず通話ボタンを押しかけ、その先に映る男が調子良くカメラ目線でにやけ面なのを見た。手をひらひらさせているおまけ付きで、呼び出したことを少しだけ後悔する。
「はい」
『あ、どーもー。呼ばれて出てきて野沢健吾でーす』
「……お前、俺以外が対応してたらとか思わんのか」
『物事の分別は弁えてるつもりだよ』
「あー、もういい。鍵開けるからさっさと入れ」
画面越しの健吾がテンション高く「はーい」と返事したので、俺は内線を切り玄関へ向かった。ボロいサンダルを引っ掛けて、鍵を回しドアノブを押す。
まだ浴びていなかった日の光と、それをネックレスでギラギラ反射させる男が入り込む。夏本番は過ぎ去りつつあり、健吾の格好も以前より丈が伸びている。しかしながら嫌に毒々しい七分丈のシャツなど、日中の住宅街で着るのはいかがなものか。
「お邪魔します。あ、これお菓子とジュースね」
健吾は言いながらスーパーのレジ袋を寄越してきた。スナック菓子と結露した二リットルペットボトルのオレンジジュースが入っていて、わざわざここにくるまでに買って来てくれたのだとわかる。
「急に礼儀正しくしなくても良い。今日は俺しか居ないから」
「そうなのかい。ご両親は?」
「父さんは休日出勤、母さんはパート」
今日は三田高文化祭からちょうど一週間後の土曜日だ。両親は共働きであり、こうして俺だけが休みということも少なくない。
「コップ持って行くから、俺の部屋で待っててくれ。場所は覚えてるか?」
「もちろん。これでも記憶力には自信があるんだ」
健吾は言うなり一直線に階段を上って行く。昔だって数えるほどしか来たことがないはずだが、本人の言う通り心配は無さそうなので、キッチンにある食器棚から適当なコップを二つ取り出してから向かった。片手に持ったレジ袋を見ればチョコレート菓子の類も入っていて、バラエティーに富んだラインナップはよく気配りできるものだと感心させられる。
部屋に辿り着くと、健吾は立ったままでキョロキョロ辺りを見回していた。興味ありげに自室を見られるのも気分が良くないので、コップを持った手で背中を小突く。
「邪魔だ。はよ座れ」
「これはシツレイ」
冷えたフローリングは、この時期ならばまだ気持ちの良いものだ。もう二か月もしたら電気ストーブの一つでも置かなければいけないが、もう少しは開放感ある現状で心安らげたい。持って来たコップの両方にオレンジジュースを並々注いで健吾に手渡した。
「部屋、昔と殆ど変わってないね。本棚の大きさと中身は随分違うみたいだけど」
ベッドと勉強机と本棚さえあれば基本的な学生生活はできるから、彼の言葉通り自室について大きな模様替えをしたことはない。中学生の頃の思い出だけでそれを断定してのけた健吾の記憶力はどうやら自惚れではないらしかった。
「変える理由もないからな」
「この感じじゃ女っ気も無さそうだ」
「やかましい」
相変わらず口を開いたら余計なことを言うようになったものだ。自分はどうなのだと聞きたくもなるが、年齢相応に垢抜けた健吾はきっと俺より先を歩んでいることだろう。それに聞いたところで、俗な話に方向性が進むのは望んでいない。ぴしゃりと会話を打ち切ると、健吾が買って来たスナック菓子を開いた。
「珍しいこともあるもんだね。一晴からお誘いがくるなんてさ」
爛々とした目を向けられると、ポテトチップスを齧って言い淀むしかない。なぜなら健吾を呼び出した理由が実に馬鹿馬鹿しいアイデアだからだ。それを自覚しながら提案しようというのだから救えないにも程がある。だけどこんなことは、彼くらいしか相談役が居ないのも事実だった。
「その、今日お前を呼んだのは他でもない」
「なんで改まった前置きなんかするのさ」
「う……いいから黙って聞け。鈴涼の記憶を取り戻すための作戦会議だ」
これまで俺たちが行ってきた作戦は、鈴涼を桃川中学に連れて行くこと。茉莉菜と引き合せること。そして三田高校の文化祭で演劇を見せることだ。三つ目は殆ど健吾の独断だったにしても、結果的には文学部が再集結したことで、鈴涼に何かしらの反応を引き起こすことができていた。
そうして至った希望的観測が存在する。それは彼女の記憶の回復には、俺たち文学部の存在と過去の思い出が必要だということだ。もちろん医学的根拠は毛ほどもなく、一介の高校生の浅はかな考えでしかない。しかし少しでも光明が見えたなら、それを手放す理由も無いだろう。
健吾は少しこちらを凝視した後、もう一度コップを傾けてから真剣な眼差しで言ってきた。
「わかってはいたけど、岩本さんに知らせない辺り、よっぽど無茶苦茶な提案をしようとしていないかい?」
一瞬の間と、彼の力んだ眼光がいたく刺さる。健吾は聡明であるからこそ、俺の言うことの公算がどれくらいか見込みを立てるつもりだろう。
「無茶……だと思う。その上で、俺のアイデアがどのくらい現実味を帯びているか、考えて欲しい」
健吾ならば俺の馬鹿げた発想の中に可能性があるか見極められる。逆もまた然り。彼が無いと言えば、それはまっさらなゼロパーセントだ。
真っ直ぐに捉えてくる視線には威圧感すら与えられた。それでも決して逸らすことをしないのが、俺にできるせめてもの懇願だ。正面からぶつかる勇気が日向一晴の長所らしいから。
「わかったよ。とりあえず聞かせてくれるかい?」
彼の言質を取ったのを合図に、本棚に置いておいた卒業アルバムを取り出した。表紙を捲り、その数ページ後――イベントの写真が並んだ見開きを健吾に向ける。
「また、懐かしい物を引っ張り出してきたね」
「本題はこのページにある写真だ。俺たちが写ってる、修学旅行のやつ」
指さした先には、京都嵐山の壮大な紅葉をバックに笑顔を向ける俺たちの写真。四人で自由時間を回った時に、生徒の様子見を兼ねて観光をしていた先生が撮ってくれたものだ。
「あったねぇ。確か二年の時はみんな同じクラスだったから、一緒の班を組んだんだっけ」
「感慨深いのはわかるが、別に思い出に浸りに呼んだわけじゃないぞ」
「わかってるよ……それと、大方予想もついた」
健吾の顔はやや引き攣っているようにさえ見える。恐らくは俺が思いついた作戦に行き着いてしまったのだろう。そして、これからそれを実行できるかと問う俺の正気を疑っているのである。数秒彼の答えを待っていると、健吾は「自分でどうぞ」と促してきた。深呼吸みたいに肺の中身を入れ替えて意を決する。
「――もう一度、この写真を撮りに行きたい」
思い出が集約されている桃川中学校。しかしその中での出来事には限りがある上、俺たちは揃って休みの日に遊びに出歩くことは殆どしなかった。これはひとえに、全員が読書を趣味にしていたということもあるだろう。他に文学部が一緒に居た場所、それは学校行事で訪れた場所ということになる。
「つまり、京都旅行ってことだね」
「そうだ」
たった二泊三日。されどあの三日の中で多くを一緒に過ごした文学部での時間は、俺の中に克明に残っている。非日常体験だからこそ、思い出のフレームを縁取ってより煌びやかに。
「確かにオレも覚えてるよ。何とかの小説の舞台だー、とか騒いだり、名所のはずの清水寺を大雨で逃す羽目になったりさ。学校での準備も楽しかったよね。どこに行くにはどの電車でー、とか相談したりして」
彼の中でも、やはりあの体験は骨の髄まで染み渡っているらしい。いつものにやけ顔が綻んで、首は前に傾き、睫毛が遠くを見る瞳を覆う。懐古した表情はどこか暗いもので、昔の彼の面影と重なった。健吾はふるふると頭を振ると、すぐに真剣な顔に戻って俺に尋ねてくる。
「一晴。キミは何を言っているか、わかっているかい?」
また突き刺すような視線を浴び、彼を直視できなくなった。愚かしいことなど百も承知なのだ。だからこそ相談できるのは健吾だけだった。
「……わかってる、つもりだ」
「本当かい? 予定を合わせるだけならまだしも、旅行にはそれなりの労力が要る。お金も必要だし、高校生のオレたちには親のお許しも要る。現地の情報だって先生がしおりを用意してくれるわけじゃない。向こうに行けたとしても、何もかも自分たちでやらなくちゃいけないんだ。それに……」
健吾はそこで一息置いて、すうっと聞こえるくらいの呼吸でこれまでに無いくらい真面目な顔を作って言った。
「最上さんが、本当にそれを望むと思うかい?」
捲し立てるがごとく言った彼の台詞は、そんな一言で締め括られた。全て、今この瞬間だけで彼が思い浮かんだ懸念点だろう。ある程度は考えていたが、俺は目の前のアイデアに気を取られて、一番大切なことを忘れてしまっていた。
「鈴涼が、望むかどうか……」
鈴涼は記憶を取り戻したがっている。それは今の俺を動かす唯一の原動力だ。その前提を知っているからこそ、彼女は俺たちの計画に喜んで賛同してくれるものだと思っていた。しかしそんなのは思い上がりでしかない。彼女自身がまだ見知らぬ土地を訪れる余裕を持たなければ、この計画は決行できたとしても意味が無いのだ。
「それは、聞いてみるまでわからない」
「……」
正直に言うしかなかった。俺はエスパーでも何でもないから、人の気持ちなんて読み取れない。小細工も苦手だから、これっぽっちもわからないで「鈍い」と言われたこともある。
「でも」
――それでも、起きたことを忘れないくらいはできるんだ。
鈴涼が目覚めて望んだこと。俺に願いを託しながら、実現のためにその歩みをゆっくりと続けている。その中で見た姿を思い出せば、前を向いて宣言できることもあるのだ。
「あいつは過去をもっと知りたがってる。それは今までの反応からもわかる。だから、きっと行きたいって言うと思う」
憶測とそしられても、それだけは俺の中で変わらないものだ。鈴涼の心は人一倍強い。自分の知らない自分と対峙することを恐れない。それよりも、向けられる優しさの根源を手に入れることが彼女の望みなのだから。
「労力とその価値が見合うかはわからない。でも挑戦しないで居るよりはずっと良い……もう、立ち止まるのは嫌なんだ」
停滞がもたらすものの答えは知ってしまった。気がついたら、鈴涼と初めて再会したあの日に、壊れることを願った自らの腕を抱いていた。
「少しでも早く、鈴涼の時間を動かしてやりたい。あいつが迷いなく、色んな人の優しさを受け入れられるように」
「……」
「そのために、お前にも協力して欲しい。俺だけじゃ足りない分を、お前が補ってくれ」
茉莉菜を鈴涼に引き合せることができた時のように、俺一人では思いも寄らないことを彼はできる。情けない限りだが、そんな羞恥は真夏の茹だるコンクリートの上に捨てて来た。
体はいつの間にか熱を帯びていた。息切れみたいに心臓が忙しくて、目が渇く。見据えた先の健吾は瞑想よろしく次の言葉を探しているようだった。
「ど、どうだろうか?」
しばらく経つと、俺は改めて自分の言動が小っ恥ずかしくなってきた。いたたまれなくなって問うと、健吾はゆっくり目を開けて述べ出した。
「――まず、最上さんの家族を説得しなきゃならないだろうね。男たちとだけ、なんて勘違いがないように、岩本さんにも協力してもらわなきゃ駄目だ」
視線は俺の顔じゃなく、想像できる幾ばくか先の未来に向いていた。吸い込まれそうなくらいの真っ黒な瞳には、かつて隣で本を読んでいた彼の姿を彷彿とさせる。この集中力は傍目には恐ろしく、そして限りなく頼りになる。彼は一拍も置くことなく、頭に流れる言葉のメロディーをそのまま吐き出した。
「後は信頼できる大人も必要だ。最上さんの親が一緒にくるのは当然として、オレたちの保護者役、といつかお目付け役も見つけておく方が懸命だろう。旅費諸々は後回しにするとしても、最上さんの体調も考えなくちゃならない。慣れない遠出だから、安い宿は不安だ。障害は多い。良識のある大人なら絶対認めない。正直死ぬほど難しい。難しい問題だけど――」
奏でられたのは不協和音。しかしそれを楽曲へと纏め上げられるのが、野沢健吾という男の真価なのである。
「解けない問題じゃない。やってみる価値は、あるよ」
一頻り言い終わった後に、彼はそう付け加えた。その言葉は俺にとてつもない希望を与えてくれる。
「そのためには、まず岩本さんが必要になるね」
「あぁ。また、一歩目はあいつからか……」
脳裏に浮かんだ栗色髪の少女。この話を持ち掛けたら、彼女は一体何と言うだろうか。俺はその返答を想像して、心苦しくも呟いた。
「なぁ、健吾。もし茉莉菜が駄目なら、その時は……」
ピーンポーンという間延びしたインターホンの音が休日の家に響く。日頃ならば何の勧誘か予想しながら内線を繋げるが、今日に関してはそんな些細なコーナーを立ち上げる必要もない。俺は迷わず通話ボタンを押しかけ、その先に映る男が調子良くカメラ目線でにやけ面なのを見た。手をひらひらさせているおまけ付きで、呼び出したことを少しだけ後悔する。
「はい」
『あ、どーもー。呼ばれて出てきて野沢健吾でーす』
「……お前、俺以外が対応してたらとか思わんのか」
『物事の分別は弁えてるつもりだよ』
「あー、もういい。鍵開けるからさっさと入れ」
画面越しの健吾がテンション高く「はーい」と返事したので、俺は内線を切り玄関へ向かった。ボロいサンダルを引っ掛けて、鍵を回しドアノブを押す。
まだ浴びていなかった日の光と、それをネックレスでギラギラ反射させる男が入り込む。夏本番は過ぎ去りつつあり、健吾の格好も以前より丈が伸びている。しかしながら嫌に毒々しい七分丈のシャツなど、日中の住宅街で着るのはいかがなものか。
「お邪魔します。あ、これお菓子とジュースね」
健吾は言いながらスーパーのレジ袋を寄越してきた。スナック菓子と結露した二リットルペットボトルのオレンジジュースが入っていて、わざわざここにくるまでに買って来てくれたのだとわかる。
「急に礼儀正しくしなくても良い。今日は俺しか居ないから」
「そうなのかい。ご両親は?」
「父さんは休日出勤、母さんはパート」
今日は三田高文化祭からちょうど一週間後の土曜日だ。両親は共働きであり、こうして俺だけが休みということも少なくない。
「コップ持って行くから、俺の部屋で待っててくれ。場所は覚えてるか?」
「もちろん。これでも記憶力には自信があるんだ」
健吾は言うなり一直線に階段を上って行く。昔だって数えるほどしか来たことがないはずだが、本人の言う通り心配は無さそうなので、キッチンにある食器棚から適当なコップを二つ取り出してから向かった。片手に持ったレジ袋を見ればチョコレート菓子の類も入っていて、バラエティーに富んだラインナップはよく気配りできるものだと感心させられる。
部屋に辿り着くと、健吾は立ったままでキョロキョロ辺りを見回していた。興味ありげに自室を見られるのも気分が良くないので、コップを持った手で背中を小突く。
「邪魔だ。はよ座れ」
「これはシツレイ」
冷えたフローリングは、この時期ならばまだ気持ちの良いものだ。もう二か月もしたら電気ストーブの一つでも置かなければいけないが、もう少しは開放感ある現状で心安らげたい。持って来たコップの両方にオレンジジュースを並々注いで健吾に手渡した。
「部屋、昔と殆ど変わってないね。本棚の大きさと中身は随分違うみたいだけど」
ベッドと勉強机と本棚さえあれば基本的な学生生活はできるから、彼の言葉通り自室について大きな模様替えをしたことはない。中学生の頃の思い出だけでそれを断定してのけた健吾の記憶力はどうやら自惚れではないらしかった。
「変える理由もないからな」
「この感じじゃ女っ気も無さそうだ」
「やかましい」
相変わらず口を開いたら余計なことを言うようになったものだ。自分はどうなのだと聞きたくもなるが、年齢相応に垢抜けた健吾はきっと俺より先を歩んでいることだろう。それに聞いたところで、俗な話に方向性が進むのは望んでいない。ぴしゃりと会話を打ち切ると、健吾が買って来たスナック菓子を開いた。
「珍しいこともあるもんだね。一晴からお誘いがくるなんてさ」
爛々とした目を向けられると、ポテトチップスを齧って言い淀むしかない。なぜなら健吾を呼び出した理由が実に馬鹿馬鹿しいアイデアだからだ。それを自覚しながら提案しようというのだから救えないにも程がある。だけどこんなことは、彼くらいしか相談役が居ないのも事実だった。
「その、今日お前を呼んだのは他でもない」
「なんで改まった前置きなんかするのさ」
「う……いいから黙って聞け。鈴涼の記憶を取り戻すための作戦会議だ」
これまで俺たちが行ってきた作戦は、鈴涼を桃川中学に連れて行くこと。茉莉菜と引き合せること。そして三田高校の文化祭で演劇を見せることだ。三つ目は殆ど健吾の独断だったにしても、結果的には文学部が再集結したことで、鈴涼に何かしらの反応を引き起こすことができていた。
そうして至った希望的観測が存在する。それは彼女の記憶の回復には、俺たち文学部の存在と過去の思い出が必要だということだ。もちろん医学的根拠は毛ほどもなく、一介の高校生の浅はかな考えでしかない。しかし少しでも光明が見えたなら、それを手放す理由も無いだろう。
健吾は少しこちらを凝視した後、もう一度コップを傾けてから真剣な眼差しで言ってきた。
「わかってはいたけど、岩本さんに知らせない辺り、よっぽど無茶苦茶な提案をしようとしていないかい?」
一瞬の間と、彼の力んだ眼光がいたく刺さる。健吾は聡明であるからこそ、俺の言うことの公算がどれくらいか見込みを立てるつもりだろう。
「無茶……だと思う。その上で、俺のアイデアがどのくらい現実味を帯びているか、考えて欲しい」
健吾ならば俺の馬鹿げた発想の中に可能性があるか見極められる。逆もまた然り。彼が無いと言えば、それはまっさらなゼロパーセントだ。
真っ直ぐに捉えてくる視線には威圧感すら与えられた。それでも決して逸らすことをしないのが、俺にできるせめてもの懇願だ。正面からぶつかる勇気が日向一晴の長所らしいから。
「わかったよ。とりあえず聞かせてくれるかい?」
彼の言質を取ったのを合図に、本棚に置いておいた卒業アルバムを取り出した。表紙を捲り、その数ページ後――イベントの写真が並んだ見開きを健吾に向ける。
「また、懐かしい物を引っ張り出してきたね」
「本題はこのページにある写真だ。俺たちが写ってる、修学旅行のやつ」
指さした先には、京都嵐山の壮大な紅葉をバックに笑顔を向ける俺たちの写真。四人で自由時間を回った時に、生徒の様子見を兼ねて観光をしていた先生が撮ってくれたものだ。
「あったねぇ。確か二年の時はみんな同じクラスだったから、一緒の班を組んだんだっけ」
「感慨深いのはわかるが、別に思い出に浸りに呼んだわけじゃないぞ」
「わかってるよ……それと、大方予想もついた」
健吾の顔はやや引き攣っているようにさえ見える。恐らくは俺が思いついた作戦に行き着いてしまったのだろう。そして、これからそれを実行できるかと問う俺の正気を疑っているのである。数秒彼の答えを待っていると、健吾は「自分でどうぞ」と促してきた。深呼吸みたいに肺の中身を入れ替えて意を決する。
「――もう一度、この写真を撮りに行きたい」
思い出が集約されている桃川中学校。しかしその中での出来事には限りがある上、俺たちは揃って休みの日に遊びに出歩くことは殆どしなかった。これはひとえに、全員が読書を趣味にしていたということもあるだろう。他に文学部が一緒に居た場所、それは学校行事で訪れた場所ということになる。
「つまり、京都旅行ってことだね」
「そうだ」
たった二泊三日。されどあの三日の中で多くを一緒に過ごした文学部での時間は、俺の中に克明に残っている。非日常体験だからこそ、思い出のフレームを縁取ってより煌びやかに。
「確かにオレも覚えてるよ。何とかの小説の舞台だー、とか騒いだり、名所のはずの清水寺を大雨で逃す羽目になったりさ。学校での準備も楽しかったよね。どこに行くにはどの電車でー、とか相談したりして」
彼の中でも、やはりあの体験は骨の髄まで染み渡っているらしい。いつものにやけ顔が綻んで、首は前に傾き、睫毛が遠くを見る瞳を覆う。懐古した表情はどこか暗いもので、昔の彼の面影と重なった。健吾はふるふると頭を振ると、すぐに真剣な顔に戻って俺に尋ねてくる。
「一晴。キミは何を言っているか、わかっているかい?」
また突き刺すような視線を浴び、彼を直視できなくなった。愚かしいことなど百も承知なのだ。だからこそ相談できるのは健吾だけだった。
「……わかってる、つもりだ」
「本当かい? 予定を合わせるだけならまだしも、旅行にはそれなりの労力が要る。お金も必要だし、高校生のオレたちには親のお許しも要る。現地の情報だって先生がしおりを用意してくれるわけじゃない。向こうに行けたとしても、何もかも自分たちでやらなくちゃいけないんだ。それに……」
健吾はそこで一息置いて、すうっと聞こえるくらいの呼吸でこれまでに無いくらい真面目な顔を作って言った。
「最上さんが、本当にそれを望むと思うかい?」
捲し立てるがごとく言った彼の台詞は、そんな一言で締め括られた。全て、今この瞬間だけで彼が思い浮かんだ懸念点だろう。ある程度は考えていたが、俺は目の前のアイデアに気を取られて、一番大切なことを忘れてしまっていた。
「鈴涼が、望むかどうか……」
鈴涼は記憶を取り戻したがっている。それは今の俺を動かす唯一の原動力だ。その前提を知っているからこそ、彼女は俺たちの計画に喜んで賛同してくれるものだと思っていた。しかしそんなのは思い上がりでしかない。彼女自身がまだ見知らぬ土地を訪れる余裕を持たなければ、この計画は決行できたとしても意味が無いのだ。
「それは、聞いてみるまでわからない」
「……」
正直に言うしかなかった。俺はエスパーでも何でもないから、人の気持ちなんて読み取れない。小細工も苦手だから、これっぽっちもわからないで「鈍い」と言われたこともある。
「でも」
――それでも、起きたことを忘れないくらいはできるんだ。
鈴涼が目覚めて望んだこと。俺に願いを託しながら、実現のためにその歩みをゆっくりと続けている。その中で見た姿を思い出せば、前を向いて宣言できることもあるのだ。
「あいつは過去をもっと知りたがってる。それは今までの反応からもわかる。だから、きっと行きたいって言うと思う」
憶測とそしられても、それだけは俺の中で変わらないものだ。鈴涼の心は人一倍強い。自分の知らない自分と対峙することを恐れない。それよりも、向けられる優しさの根源を手に入れることが彼女の望みなのだから。
「労力とその価値が見合うかはわからない。でも挑戦しないで居るよりはずっと良い……もう、立ち止まるのは嫌なんだ」
停滞がもたらすものの答えは知ってしまった。気がついたら、鈴涼と初めて再会したあの日に、壊れることを願った自らの腕を抱いていた。
「少しでも早く、鈴涼の時間を動かしてやりたい。あいつが迷いなく、色んな人の優しさを受け入れられるように」
「……」
「そのために、お前にも協力して欲しい。俺だけじゃ足りない分を、お前が補ってくれ」
茉莉菜を鈴涼に引き合せることができた時のように、俺一人では思いも寄らないことを彼はできる。情けない限りだが、そんな羞恥は真夏の茹だるコンクリートの上に捨てて来た。
体はいつの間にか熱を帯びていた。息切れみたいに心臓が忙しくて、目が渇く。見据えた先の健吾は瞑想よろしく次の言葉を探しているようだった。
「ど、どうだろうか?」
しばらく経つと、俺は改めて自分の言動が小っ恥ずかしくなってきた。いたたまれなくなって問うと、健吾はゆっくり目を開けて述べ出した。
「――まず、最上さんの家族を説得しなきゃならないだろうね。男たちとだけ、なんて勘違いがないように、岩本さんにも協力してもらわなきゃ駄目だ」
視線は俺の顔じゃなく、想像できる幾ばくか先の未来に向いていた。吸い込まれそうなくらいの真っ黒な瞳には、かつて隣で本を読んでいた彼の姿を彷彿とさせる。この集中力は傍目には恐ろしく、そして限りなく頼りになる。彼は一拍も置くことなく、頭に流れる言葉のメロディーをそのまま吐き出した。
「後は信頼できる大人も必要だ。最上さんの親が一緒にくるのは当然として、オレたちの保護者役、といつかお目付け役も見つけておく方が懸命だろう。旅費諸々は後回しにするとしても、最上さんの体調も考えなくちゃならない。慣れない遠出だから、安い宿は不安だ。障害は多い。良識のある大人なら絶対認めない。正直死ぬほど難しい。難しい問題だけど――」
奏でられたのは不協和音。しかしそれを楽曲へと纏め上げられるのが、野沢健吾という男の真価なのである。
「解けない問題じゃない。やってみる価値は、あるよ」
一頻り言い終わった後に、彼はそう付け加えた。その言葉は俺にとてつもない希望を与えてくれる。
「そのためには、まず岩本さんが必要になるね」
「あぁ。また、一歩目はあいつからか……」
脳裏に浮かんだ栗色髪の少女。この話を持ち掛けたら、彼女は一体何と言うだろうか。俺はその返答を想像して、心苦しくも呟いた。
「なぁ、健吾。もし茉莉菜が駄目なら、その時は……」