第23話 季節外れの向日葵

文字数 5,947文字

※――――――――――――――――――――――

 秋風がほんの少し強くなってきた。小さな水面に飛んで行く枯葉の色。切なさを覚えるそれが、目に入った前髪の色と似ていてちょっとだけ嫌になる。

 あたしは――岩本茉莉菜は何に意地になってしまっているのか。せっかくあいつと昔みたく話せる機会があったのだから、そのまま笑い話ができる関係に戻してしまえば良かったものを。一晴はすっかりみんなと同じように、あたしと話そうとしていた。数分間だけ訪れた昔の関係値は、浴衣マジックならぬボートマジックになってしまった。してしまった。

 後悔は間違いなくある。すずちゃんのことを思えば、あたしたちは笑い合えている方が良いに決まっているのだから。誰も居ない小道の端っこで重苦しい溜め息をこぼしたら、狙ったかのようにピアスの光沢がにじり寄る。

「おや、こんな所にお一人ですか。お嬢さん」

「なんで近代文学みたいな導入なのよ」

 明らかにその出で立ちには似合わない台詞を作って登場して来たのは健吾だった。初日から一貫して羽織っているレザージャケットは、趣きある日本文化の景観をぶっ壊す姿だ。挨拶なら、むしろ「うぃーす」とか言っていた方が自然だろう。もちろんそれはそれで嫌である。

「最上さんたちは?」

「お手洗いとか、色々。あたしは目印代わりに残ってるだけよ」

「なるほどなるほど。じゃあオレも、ここでみんなを待つとしようかな」

「半径十メートル以内に立つなって言ったじゃない」

「それ冗談じゃなかったの?」

 健吾は言いながらあたしの隣に腰掛ける。彼ならば簡単にジョークを飛ばせるのに。相手を選ぶ自分は舞い散る枯葉よりも嫌いだ。

 思えば健吾が隣に居るという状況は珍しい。彼には相談事が多く、昔から正面で顔を突き合わせることが多かったからだと思う。思い出しかけた恥ずかしい記憶を吹っ切るように、適当な質問をぶつけてみた。

「あんたこそ、一晴と一緒に居たんじゃなかったの?」

「もう少し舞台からの景色を楽しむみたいだよ。だからオレだけ先に戻って来たんだ。それに、危うく殺されるところだったしね」

 多分くだらない会話がどうのと言っていたやつだろう。話の内容には微塵も興味がないから、後半には敢えて触れないようにした。はは、とわざとらしく笑った健吾は、続いてあたしも思っていたことを言う。

「しかし一晴も変わったねぇ。昔は景色なんか一番に飽きてた癖に」

「あんたが言う? すずちゃんはすっかり、あんたを三田高七不思議の一角に数えちゃってるわよ」

「数字ぐっちゃぐちゃだけど、ホントにそのセリフ合ってる? あと七不思議って何?」

 彼が招待してくれた文化祭の日は、すずちゃんにとって凄く大切な時間になった。あの日の出来事、会話は全て鮮明に覚えているみたいで、健吾の名前が出るとしばしば「七不思議……」と呟くのだ。

「ひっくり返る呪いのことよ」

 至って親切に解説してあげたつもりだったが、健吾は「ますます訳がわからないよ」と言って追及することを諦めた。あたしに向けていた困り顔を観光客が溢れる駐車場の方に変えると、不意におかしなことを言い出す。

「ひっくり返ると言えば、岩本さんは清水寺の舞台から飛び降りたら死ぬと思う?」

「脈絡ぐっちゃぐちゃだけど、本当にその台詞合ってる?」

 意趣返しのツッコミに彼はからからと笑った。それから、脈絡はちゃんとあるんだと言いたげに付け加える。

「人って、落ちる時に頭が下になるって言うじゃないか」

「それは不慮の事故の時でしょ? 飛び降り自殺なんかだと、怖くて足が下になるらしいわよ」

「あれ、そうだったっけ?」

 意識の無い状態であれば重い方から落ちるのが道理だ。そしてあの高さで頭から落ちようものならひとたまりもないと思う。しかし清水寺の舞台はビルの四階と同じくらいなので、足から落ちれば生き残れる可能性はあるのではないか。

自分の中では五分五分で回答に迷う。正直に「条件次第」と答えようとした時、あたしよりも健吾の唇が早く動いた。

「一晴と賭けをしたんだ。清水寺の舞台から飛び降りた人間は生きるか死ぬか」

「不謹慎な賭けね」

「日本における賭け事なんて、殆ど不謹慎とか造反無道で片付けられるじゃないか」

 確かにギャンブルに対して嫌悪感を抱く人間は多いが、不謹慎なのはそっちではない。命を軽んじた会話こそ公にするのは憚られると言うものだ。幸いにして人の往来は激しくとも、みんな旅行客同士で話しているので、あたしたちの会話が聞かれようはずもないから別に良いけれど。

「まぁ、いつ結果がわかるかわかったもんじゃないんだけどね」

「何よそれ。賭けとして成立してないじゃない」

「オレとしては、もうしばらく後でも良いかな」

「勝ち目薄いの?」

「分が悪いんじゃなくて、不吉だからさ」

 さっきは自分で不謹慎とか言っていた割に、途端に殊勝な心がけだ。どういう意図で賭けたのかさっぱりわからない。的を射ることのない会話に呆れを感じて、目先に広がる紅葉の景色に意識を移した。

「やっぱり、あんたと話してると調子が狂うわ」

「じゃあ無理して取り繕わないで、一晴と話して来たら?」

 さらりと言われた台詞でさらに会話のテンポが狂う実感があった。明らかに次の言葉を生み出すまでに間を作ってしまって、できた抵抗と言えば絶妙に嫌そうな顔を作ってやることだけだった。

「その顔は一晴とオレ、どっちに対する嫌悪かな? それとも両方?」

「なんであいつの名前が出てくるのよ」

「そりゃ、岩本さんが今最も腹を割って話せるのが一晴だからさ」

「……何をどう見たらそうなるの」

 一晴への話しづらさはあたしが一番感じている。むしろあたしから会話の芽を摘んでいる自覚すらあるのだ。健吾の言うところに全く実感が湧かないでいたら、彼は当然の様子で語る。

「オレや最上さんに比べたら、って消去法でもあるけど、やっぱり一晴の努力の賜物かな。一晴ができるだけ岩本さんと話すようにしてるのは身に染みてるでしょ?」

 問題集の解説みたいに丁寧だった。思えば文化祭くらいからだろうか。一晴はつっけんどんな態度を崩さないあたしに対して、ぎこちないながらもコミュニケーションを取ろうと努力していた。そんな不自然さがとても嫌で、最初はまともに取り合ってやるものかと思っていた。

 だけど一緒に過ごす内に、段々と昔のような楽しさは蘇ってくる。その事実に苛立って、同時に嬉しくなっている自分にまた苛立った。あいつがあたしと仲良くしようとするのは、間違いなく記憶を失くした少女の存在ありきだったから。

「一晴は少しずつ、過去から抜け出そうとしてる。それは最上さんのためだけじゃなくて、岩本さんのためでもあると思うんだ」

「あたしの?」

 あたしの考えとは全く違うことを言った健吾の言葉を思わず復唱していた。一晴は記憶を失ったすずちゃんに対する負い目――もっと言えば罪の意識から動いている。彼のどんな行動も、岩本茉莉菜が理由になることなんて有り得ないはずなのだ。

「信じられない?」

「当たり前でしょ。それであいつに何のメリットがあるのよ」

「一晴が利益とか不利益とかで動く部類の人間かい? 多分、自分が燻ることで、岩本さんが止まってしまわないか心配なだけだと思うよ」

 理解と納得の間でせめぎ合う。昔ならすっと腑に落ちただろう。しかし一晴だって、今はもっと打算的な思考を身に付けている。そう思ってしまうくらいあたしとの関係は穢れているのだ。

 ――汚れたのは、あたしの方か。

 こうして昔の友人たちを信じられなくなってしまい、気を遣わせ続けている。それでも性根を変えられず一緒に居るのは、彼らにどれだけの負担をかけてしまっているのだろう。こんなあたしのことを一晴が心配する義理なんて無い。

「岩本さんをここまで連れて来たのは間違いなく一晴だし、二人は長い付き合いだしね。オレには幼馴染みってのが居ないから、イマイチわからない感覚だけど」

「……そんな夢を見れるような、綺麗な関係じゃない」

「そうかな? 少なくともオレにとっては羨ましいくらいだけどね」

 健吾の言葉が止まって、あたしの耳には風の音さえ届かなくなった。

 本当はわかっている。数か月前、あたしを家から引き摺り出した一晴は言っていた。あたしが必要だと思ったのは「文学部全員のためだ」と。全員が前に進むために、あたしをあの夏と同じ気温に連れ出したのだ。

「だけど、仕方ないじゃない……」

 一晴はすずちゃんのためにあたしと仲良くしている。そう思い込まないと、またあたしばかりが幸せに浸ってしまうではないか。呟いた途端に、まるであたしが駄々をこねる子どもみたいだった。情けなさを見せたくなくて顔を伏せようとした時、健吾がはっきりとした声で言った。

「苦難を強いられることばかりが禊になるとは思わないな。オレは」

 あたしは表情を隠そうとしていたことも忘れて彼を見る。向き直った健吾の顔は凄く真剣だった。いつかに見たことのある眼差しは、ファミレスで話した時の狩人然とした態度ではなくて、もっと前――中学生の頃、あたしの相談に乗ってくれていた時くらいの誠実さを宿していた。健吾は強い口調で「だから」と付け加えて、そしてそれよりも確かな声で一つの頼み事をしてきた。

「もしも一晴が立ち止まった時には、今度は岩本さんが一晴を助けて上げて欲しい」

 今は珍しくなってしまった表情に、捨て吐こうとした言葉が喉を通らなくなる。それを良いことに健吾はさらに言った。

「その時に、今みたいに言いたいことがいつでも言えない状況だと困っちゃうでしょ?」

 あたしがここに居られるのは、一晴が真夏の太陽の下に引っ張り出してくれたから。そんなことは誰に言われずともわかっている。今は彼の行く道に付いて回っているけれど、いつかはこんな日和見も止めなくてらならない。もし太陽が雲隠れしてしまったら、今度はあたしが探し出す番になるのが道理だ。

 だけどあたしにはわからない。沈んだ太陽を見上げる資格が、本当に岩本茉莉菜にあるのか。

「……わかってるわよ。それくらい」

 勝手ばかり言う男に嫌気が差して、あたしはとうとう我慢ならなくなる。だから、暫く抱えていた爆弾をここで放ってやることにした。

「あんたこそ、どうして一晴の真似なんてしてるのよ」

「……」

「気づかないと思った?」

 露骨に黙った健吾を見て、思惑が的中したことに満足する。しかし彼は往生際悪く、わざとらしいいつもの軽い口調で反論した。

「一晴はこんな浮かれた格好しないさ」

「だからこそよ。いくら見てくれでカモフラージュしてたって、わかる」

 いちいち突っかかったり面倒な返しをする様子は、まさに中学生時代の日向一晴像にそっくりだ。仮にも一度憧れた人と似通った特徴を見てしまったら、気づかないはずもない。

「あんたの│(タチ)の悪いところは、ちゃんと自分の打算的な部分まで混ぜこぜにしているところよ。一晴はそんな考え方しないわ。中途半端だから、見ていて余計に腹が立つのよ」

「……随分決めつけるね。オレは一つも肯定してないけど」

「そのオレっていうのも、全然似合ってないから。無理して取り繕ったって、あんたじゃ一晴にはなれない」

「全く、酷い言われようだね」

 最後の言葉は一転、けろっとした表情になっていた。観念と言うよりは「堪忍してくれよ」とでも言いたげな風で、これ以上あたしに深追いさせないために負けを認めるようだった。そういう辺りが気に食わない、と言っているのが伝わらない男ではあるまいに。健吾はやれやれと大袈裟な身振りを付けてから言う。

「オレはただ、一晴に少しでも早く熱が伝われば良いと思っただけさ。熱ければ、熱は伝わるからね」

「――なんであんたが」

 それを聞いた瞬間に、冷め切っていた全身にバーナーを当てられた気がした。があっと全身が熱くなるのは、彼から漏れ出たものがここで聞くはずのない台詞だったからだ。

「なんであんたがその言葉を知ってるの?」

「……別におかしい言葉なんて言ってないと思うけど」

 本人も無自覚な様子だ。それによってもっと疑問は深まる。あたしは彼自身も理解していない違和感について懇切丁寧に説明してやる。

「慣用句なら、鉄は熱いうちに打て、でしょ? 『熱は熱ければ伝わる』なんて言い方、普通はしない」

 初めて聞いた時もそんな風に思った。忘れることなんてできない。なぜなら、文学部を創ろうとしたすずちゃんがあたしに│(おこな)った決意表明の言葉なのだから。

「それは、すずちゃんの言葉でしょ?」

 健吾はあたしの質問に答えるまでに少しの間を置いた。あたしは知っている。慎重派の彼はこうしていつも言葉を頭の中で選ぶのだ。誰も及ぶべくもない思考の後に出てきたのは、誰でもできそうな言い訳だった。

「別段おかしい話じゃないだろ? 彼女の言い回しが三年間で移る可能性だってあるじゃないか」

「少なくとも、その言葉を私は一度しか聞いたことがない。印象的な出来事だったから間違いないわ」

 口癖と言い張るには無理がある。一晴だって聞いたことがないはずだ。

「すずちゃんがその言葉をあんたに言うタイミングがあったってことよね?」

 あの言葉を使う時はきっと彼女が本気の時だ。だから転落事故の日も、あたしが言ったその台詞を「そういうこと」なんて肯定してくれた。すずちゃんが握り締めていた信条があったから、彼女は一晴にフラれるために廊下を駆けたのだ。

「いつ聞いたの?」

 すずちゃんが全力になるほど、健吾との道は密接に交わった。しかし、中学生時代にすずちゃんと健吾だけが二人きりで居ることは少なくて、部活の待ち時間でもなければ必ずそこにはあたしか一晴が居たのだ。一体いつ、彼女は健吾にだけその言葉を漏らしたのか。

 悪いことなんて何も無い。そのはずなのに、彼がその台詞を知ることが違和感となって引っかかり続ける。自分自身でも理由はわからないのに、嫌に心臓の音が鮮明になる。

「さぁ、忘れちゃったや」

「……嘘つき」

 彼はまともに取り合おうとしなかった。誰かが本気で話したことを健吾が忘れるはずがない。明らか過ぎるハッタリは、これ以上は質問に答える気はない、という意向に他ならなかった。

「あんたもいつか、腹を割って話しなさいよ」

「岩本さんが話せるようになったらね」

 即座に返却される嫌味に舌打ちしたくなった。自分ができないことを偉そうには言えない。あたしのことをよく理解している旧友は、最後に呟くように言った。

「一晴をよく見ていたのは、岩本さんだけじゃないんだよ」

 その後、みんなが戻ってくるまで、あたしたちの間には見知らぬ人たちの会話や風の音しか流れなかった。
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