第2話 風鈴

文字数 4,355文字

 その日は一段と暑かった。三十八度を迎えた猛暑で、夏休みでなければ欠席が一つ増えていたことだろう。

 両親は共働きなので、俺はリビングの机に頬杖を突きながら録り貯めたビデオや再放送のドラマを見ていた。こうしてまた一日が過ぎていく。無為で、無意味で、無価値な日常が。

 熱血的な科捜研の女性が謎に気づき始めたとき、家の鍵がかちゃかちゃと音を立てた。

「ただいま!」

 パートに出ていた母だった。しかし、時間はまだ定時である五時を回っていない。母は日頃あと一時間は遅く帰ってくるので、少々意外だった。

「おかえり。どしたの、早いじゃん」

「早く上がらせてもらったのよ! あんた、早く出掛ける支度しなさい!」

「はっ?」

 俺は突然の事態に驚いて裏声で返してしまう。ここ一年以上、外出の誘いをしてくることなんてなかったというのにどういう風の吹き回しだろうか。でも俺の中では物珍しさよりも気怠さが打ち勝って、事件が解決されていく様を見ながら聞いた。

「行かなきゃダメなの? それ」

「当たり前でしょ!」

 理由の説明すら怠るほど、母はバタバタと焦っている。一体そこまでの用事とはなんなのかと呑気に考えていると、母が次に言った言葉は、俺を動かすのに十分――否、動かなければならない理由だった。

「鈴涼ちゃん、目が覚めたんだって」

 息が、止まった。



 病院は不気味なほど静かだった。

 無病息災だけが取り柄だった俺は、病院という施設に対して未だに恐怖を感じる。そのことも相まって、普段は気にも留めない内蔵の位置が良くわかってしまう。

「さっき、一月前に目が覚めたって、鈴涼ちゃんのお母さんから電話があったの」

 母はあの一件以来、最上家と連絡を取り合っていた。時折足を運び、彼女の様子を伺っていると聞いている。静かな廊下に足音が響く中で、俺は母の言葉に疑問を感じた。

「一月前……?」

「そう。でも、まだ話しができる状態でもなかったらしくて。しばらくは身内だけで落ち着こうとしてたらしいわ」

「……で、なんで俺がこなきゃいけないんだ」

 殆ど無意識に着て来た制服を見下ろして、こんなことを言う資格が無いことはわかっていながら、胸の内に巣食う焦燥を吐き出す。そんな情けない息子の様子を見て、母はぴしゃりと言った。

「滅多なこと言うんじゃない。あんた、友達だったんでしょ」

「……ごめん」

「あんたの気持ちも汲みたいけど、今日だけはちゃんと向き合いなさい。鈴涼ちゃんのお母さんが、ぜひあんたもって言ってくれたんだから」

 母も鈴涼の両親も、鈴涼の事故に関して、俺の責任は無いと思ってくれている。その赦しと、俺のドロドロに甘えた逃走本能が、鈴涼を拒絶することに拍車をかけていた。罪が無いことがこんなに辛いなんて、思ってもいなかった。

「良い? なにがあっても逃げちゃ駄目よ。母さんと、約束」

「……うん」

 年不相応の子どもの答えに、どれだけの重さがあっただろう。夏の暑さと隔たれた空間で、シャツが少しだけ、汗ばむ。歩き慣れた母に付いて行くと、立ち止まった先には『最上鈴涼』のネームプレートがあった。

そのとき、中学時代の彼女の姿が克明に浮かんだ。部室にはいつも一番乗りで来て、本を片手に、部員に向って「こんにちは」と穏やかに微笑んでいる。

 淡い記憶の景色が、目の前に溢れるものだと思っていた。母親同士が扉越しで応答し合った後、俺は無意識に図書室裏のドアに手をかけた。

 広がる部屋には、錆びれた足の机を四つくっつけて、その端で読書に勤しむ鈴涼がいる。空いた窓。吹き抜ける風が彼女の長く美しい髪を揺らし、燐光が差す。夕日の光を纏って、幻想的な一ページを紡ぐ、まるで女神のような鈴涼が。

「あ、こんにちは。一晴くん」

 いつもの挨拶。変わらない笑顔。風鈴のように透き通る声音も、あの時と変わらない。

 ――変わらないはずなんだ。


 ベッドに佇む少女は、なにを発することもなかった。虚ろな視線は俺に向けられることもなく、ただ酷く水気の無い手の甲を見るばかり。かつての長かった黒髪は荒れ、少年と見紛うほどに短く揃えられている。

 やつれた頬、筋張る細腕。水色の入院着の下に繋がれた数本の管。現実だけが、そこにあった。

「お久しぶりです。最上さん」

「いえ。わざわざお呼び立てして申し訳ありません……久しぶり、一晴くん」

 鈴涼のお母さんは、あたかも鈴涼のような優しい笑顔で出迎えてくれた。俺はお久しぶりです、と呟くように言うと、誰にも目を合わせることもできなくなってしまった。

 逃げたい。居心地が悪いなんてものではない。かつて彼女を最も傷つけ、最も彼女を遠ざけた男だ。本来、居てはいけない場所にいる。存在を許されない場所にいる。そのことが頭を白く染め上げるようだった。

「今日は、ぜひ一晴くんに、鈴涼とお話をしてもらいたかったの」

 鈴涼の母は殆ど化粧もなく、ショートカットに眼鏡という出で立ちだ。きっと愛娘の面倒を見るために邪魔なものを切り捨ててきたのだろう。鈴涼ほどではないが、こちらも筋の目立つ首や腕が、その苦労をありありと伝えてきた。

 それだけで、俺はまたぎゅっと胃が絞られる。しかし、ここで逃げ出すことは彼女に対する侮辱でしかない。母との約束を思い出し、どうにかこの場に踏みとどまる。

「俺と、ですか」

「そう。鈴涼は、よくあなたのことを話していたから――少しでも、可能性があると思って」

「可能性……?」

 俺の困惑は独り言となって消える。そして鈴涼の横へと促され、丸椅子へと腰掛けた。

 俺の時は三年前で止まったままだ。だから彼女との再会で、また動き出す。伝わる音が例え怨念や呪詛でも、俺は受け止めて、変わらなければならない。逃げるな、向き合え――三年の間できなかった決意を、今ここで。

「鈴涼」

「……」

「俺は、お前からっ」

 なにもかもを奪ったと。想いを蔑ろにしたと。全ての感情を引き受ける義務がある。その重圧に、耐えられなくなったとしても――

「あ……な、た……」

 声が聞こえた。壊れた風鈴の音が、必死に喘ぐ。その声の中に、過去の彼女の影法師が見えた気がした。

「あ、なた……だれ……?」

 ――俺は勘違いしていた。俺の時が止まっているのなら、少女の時もまた、あの時に縛り付けられたままなのだと。


 目の前の事態が上手く飲み込めず、俺は五感の感覚が薄いまま話を聞いた。母親たちが交わす会話の中にあった一つの単語で、俺は先程の現実をようやく認識した。

「記憶喪失……」

「そうなんです。鈴涼は目を覚まして、会話もできるようになってきました。――でも、起きたとき、昔の記憶が無かったんです」

「そんな……!」

「私達は駄目でも……鈴涼と仲の良かった同級生なら、どうかなって思ったんですけど……さすがに、淡い希望を抱き過ぎたみたいです」

 淡々と説明する鈴涼の母親。しかしその瞳の潤みは感情を押し殺しているようで、いっそ不憫にすら思えた。

「ごめんなさい、一晴くん。あなたにも、辛い思いをさせてしまって」

「俺は……いえ、すみません。力になれなくて」

「良いの。また、顔を見せてあげてね」

 あの後すぐに眠ってしまった鈴涼は、やはり俺を思い出す素振りなど一つたりとも見せなかった。

 俺は俺という愚者を呪った。彼女に会って、自分自身ではどうにもできなかった変化が訪れると信じていたのだ。行く先はどうあれ、道は現れると。

 しかし結果はどうだ。鈴涼の道も、時間も、記憶をも奪った簒奪者は、のうのうと変化のない日々を過ごしている。

「ふざけんなよっ……!」

 自室に帰った後、俺はフローリングにうずくまっていた。自分の二の腕を爪が食い込むまで握り締め、このままひび割れ、陶器のように俺の全てが粉々になれば良いと思った。手はその鋭利な片に切り裂かれ、本当に、全部。

 しかし、血が滲む前に、その痛みで力が入らなくなる。結局俺は、自分自身が可愛いくて仕方がないのだ。

「死ね……誰か、殺してくれっ……!」

 溢れる涙の意味もわからない。ただ、俺にそんな権利なんてない。全てがあの不幸な少女に与えられれば良いと思いながら、俺はいつの間にか眠りについていた。



 夏休みが一週間を過ぎた。鈴涼との三年越しの再会を果たしてからというもの、俺はいつも以上に人間を離れ、機械の日常を送っていた。

 食べて、寝て、食べて、寝て、寝れなくなったら本を読み、テレビを見て、食べて、また寝る。現実逃避とはまさにこのことだ。しかし自覚症状がありながら、一切改善を望んでいないのだから救えない。

 自室にこもり、もう一眠りしようとしたとき、不意にインターホンがなった。

 誰かが気づくだろう――そう考えて、平日の日中には自分以外出払っているのだと気づく。しつこく鳴る来客音に辟易しながら、俺は数日振りに表へ出た。

「どちらさ――」

 ま、と続ける前に、俺は来客者に吹っ飛ばされた。事態の理解もできないまま、二人して玄関に転がる。危うく後頭部を床に打ち付けそうになって命の危機を感じた。離れない男を見て、そこで始めて抱きつかれていることに気づく。

「いっ……⁉」

 俺は倒されたまま、焦燥感やら嫌悪感やらで言葉を発せなくなる。少年は短い金髪で、ピアスやらネックレスやらを付けているのがわかった。俺よりも細身でやや小柄だが、非常に力がある。

 近隣住民に知らせなければ――そう判断して、ようやく大声を上げようとしたとき、少年は顔をがばりと上げて、嬉々とした表情で言った。

「久しぶり! 一晴!」

 名前を呼ばれ、俺は再び固まった。その一瞬で過去を探るが、目の前の人物に該当するような人間は見つからない。新手の強盗かなにかだと思った直後、俺の反応が芳しくなかったことを察した少年は上体をあげて少し距離を空ける――とは言っても顔が少し離れただけだったが。

「あっれ。もしかしてオレのこと、わかんない?」

「知るか! 少なくとも俺の知り合いに色好みはいない!」

「うわ、酷いなぁ」

 金髪をかきあげながら言う少年は、やっとのことで俺から離れた。アロハシャツに脛が見える半ズボンというラフな出で立ち。やれやれ、と呟いたかと思うと、少し考える素振りを見せてからポンと手を打った。

「じゃあこんなんでどう?」

「あ?」

 少年は腕を大振りに動かして星型に空を切ったかと思うと、さらに奇怪な文字列を加えるが如く複雑な動きを見せる。

「“闇を穿つ閃光、宇宙(そら)に瞬く星屑のごとく邪悪を滅せ!”」

 ――その痛々しい詠唱は。いつかに俺が書いて、たった一人だけに見せ、その恥ずかしさからお蔵入りとなった作品の見せ場。

「“スターバー……”」

「健吾ぉ⁉」

 全てを言い終わる前に思わず叫んでいた。弱気で真面目なオタク、野沢健吾しか知らない俺の黒歴史であった。
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