第4話 『なまえ』の意味

文字数 5,237文字

 駅を出ると、すぐに制服を着た女子生徒が大声で呼び掛けていた。まだまだ気温は高く、白い夏用のシャツに、緑のチェック柄のスカートを膝上まで巻き上げている。

「三田高文化祭はこちらですー!」

 髪は茶髪で、そこにクリーム色のリボンを編み込んでいた。器用なことをしているなぁ、と感心しつつ、俺たちはその生徒の指示に従って歩を進めていく。

 健吾の通う私立三田高等学校は、俺たちの住む町では少しだけ有名だ――いわゆる悪評判というやつで。試験用紙に名前を書けば入れるほどの低偏差値とか、町中の不良生徒が抗争を起こすかのごとく集まるとか、そういったありきたりな噂がとにかく多い。

 とは言えそんな評判の殆どは、実態を知らない大人が雰囲気だけで勝手に言っているに過ぎないのだ。健吾いわく、確かに試験は簡単だが、部活動に力を入れている人間が多くて真面目な生徒も多いとのこと。事実プラカードを持って立っている生徒も至って普通に見えるし、少なくとも通っている健吾が「心配いらない!」と豪語するので、危険に直面することは無いだろう。

「それでねー、うちの弟が……あ、弟は海渡って言うんだけど……」

 隣を歩く少女二人は仲良く談笑している。とは言え会話の種が茉莉菜の方から殆ど一方的に蒔かれているのが少しだけ心苦しい気分だ。鈴涼にはまだ遠慮が見えるし、逆に茉莉菜は饒舌過ぎてやや無理をしているように感じる。俺も話に加わると良いのだろうが、既に距離感のおかしい俺と茉莉菜の間に鈴涼が巻き込まれたら大迷惑だ。ここは娘を見守る父親のごとく、友人同士の会話を邪魔しないことに努めるが吉だろう。


 脇に小川の流れる公園。細道を抜けた先に軽い坂道。たっぷり十五分かけて歩いて行くと、やがて目的地である三田校舎が見えてきた。駅近くで見た案内役の女子生徒の派手さが可愛く見えるくらい、開けっぴろげの校門にはこれでもかと装飾が施されている。どデカい用紙に書かれた『百花繚乱』のスローガンは、書道部の作品か何かか。カラフルな紙の花が散りばめられ、墨汁の四字熟語を彩っていた。

 三田高校の生徒と、その活気にあやかろうと乗り込んで来た人々が思い思いに口を開き、ガヤガヤと賑わっている。俺たちは人波から少し外れた所に移動して今回の招待人を待っていた。すると校舎の方から、夏服を着崩した派手髪の男が向かってくる。

「やぁやぁ文学部のみんな! よくぞお越しいただきました!」

 わざとらしい口上が飛んできた方向を見ようとして、太陽の光が耳や胸元の貴金属に反射して顔を顰める。手を翳して見ると、パンフレットらしきものを大量に抱える健吾がやたらとニヤついた表情をしていた。アロハシャツ姿に見慣れてしまっていたせいで、シャツと黒いズボンの姿がやけに新鮮に見える。俺たちは各々朝の挨拶をすると、彼は執事のごとく腰を低く折りながら言ってきた。

「本日はごゆるりとお楽しみくださいませ」

「くださいませ、じゃないだろ。俺たちは殆ど何も聞いてないんだから、ちゃんと案内しろよな」

「そりゃあもちろん任せてよ……と言いたいところなんだけど。知り合いに午前いっぱい校門前の誘導を頼まれちゃってさ。まずは体育館に行っておいでよ」

「体育館?」

 健吾が片腕を空けて、校門を跨いで突き当たり左の建物を指差す。大きめのドーム状の箱。大量の人が出入りしているそこは、文化祭での一大ステージだろう。

「そう。この時間に呼んだ理由でもあるんだ。それまでは有志とか結構いるみたいだからさ、ぜひ楽しんで」

「呼んだ理由?」

「まぁまぁ。それは見てのお楽しみさ」

 彼はさっきよりも口角の上がった笑みを作るので、俺はなんだか嫌な予感しかしない。人間が悪巧みをするなら、まさにこんな狡猾的な表情が代表例だろう。

「わかった。じゃあとりあえず体育館に行く。それからはどうしたら良い?」

「見ている間に合流する。それから案内するから、体育館で待っててよ」

「オッケー。じゃあまた後でな」

 予定を確認して動き出そうとしたら、茉莉菜はふと気になったのか健吾に向けて質問する。

「あんた、生徒会とかもやってるの?」

 それは呆れとかではなくて、純粋な興味心だろう。かく言う俺も、こいつがこんなにも精力的に学校行事に協力しているのは意外でしかないのだ。高校に入ってから変わったとは言え、表でパンフレット配りとは随分な熱の入りようである。しかし健吾の答えはそういったボランティア精神とも少し違うようだった。

「一年生の時は半期だけ。だけど今は生徒会でも、ましてや実行委員でもないよ。頼まれたのはその昔のツテみたいなものさ」

 頼まれたとは仕事を任されたという訳ではなく、プライベート的な意味合いだったということか。ならば大方、先生か友人にでも押し付けられたのだろう。今の彼なら中学の頃と違ってなんだか知り合いも多そうだし――という偏見を飲み込んだのは、多分俺だけじゃなかった。

「そう。頑張ってね」

「ありがと」

 茉莉菜と健吾の些細なやり取りが、少し羨ましく思える。別に同じように話がしたいと思うほど子どもではないが、ここまで露骨に彼女の『人の扱い方』に差を感じるとさすがに虚しくもなるというものだ。吐きかけた重い息を噛み潰して、さっさと体育館へ駆け込んでしまおうとした。

「あ、そうだ。一晴、言い忘れてたんだけど」

 瞬間、すれ違いざまに健吾から耳打ちのように忠告される。小声だったのは、ある種俺に対する気遣いと、彼なりの叱咤のつもりだろう。

「岩本さんと仲良くなりなよ。最上さんが困ってるから」

 うぐ、と詰まった呼吸が喉を鳴らした。じわりと汗が滲む感触がしたのは、間違いなく図星だったからだ。思い返せば、健吾が俺に茉莉菜のことを誘うように指示したのは「コミュニケーションを取れ」というメッセージだったのかもしれない。

 善処する、という言葉は無言のアイコンタクトで伝えて、俺たち三人は体育館へと流れて行く。途中まで茉莉菜がなんだか怪訝そうな顔をしていたが、健吾の忠告が彼女にバレるのは悪手のように感じられて無視を貫くことにした。


 体育館の中は既にかなりの人で埋め尽くされていた。正面入口から見て一番奥のステージには天幕がかかり、加えて辺り一帯は分厚いカーテンがかかり薄暗い。それでも辛うじて見えるステージ前の観客席は超満員だ。今は丁度出し物のインターバルらしく、冷めやらぬ熱気に当てられた人々がわぁわぁと体育館内部を騒がしている。壁沿いを歩いてスペースを探すが、どこにも三人並んで落ち着けるような場所は無いようだ。

「まったく。あいつ、席くらいちゃんと取っとけよな」

 どうせ誰にも聞こえないだろうとタカを括って悪態を吐く。しかしふと後ろを向いた時、鈴涼の手を引いて付いて来ていた茉莉菜が棘のある目をしていた。こいつの耳はこんなに良かっただろうか、と聞こえない疑問を浮かべながら、俺はすぐに前を向いて場所を探し直す。ブルーシートの足下を何度か擦り鳴らす頃、めぼしい空白を目にした。

「二階の横側なら割と少なそうだぞ。通路は狭いけど、三人くらいなら何とか入れてもらえるだろ」

 見つけたのはステージを斜めから見下ろす形になる二階の通路。狭く立ち見にはなってしまうが、このまま一階に居るよりは女子陣の身長にも優しそうである。言いながら後ろを振り向くと、茉莉菜も鈴涼も納得した様子でこちらを見ていた。

「わかった。すずちゃん、行きましょ」

「うん」

 三人で固まって動き、一階の隅にあった階段をゆっくりと上る。往来が多くて降りてくる人と互いに体を捻る必要があった。その間、茉莉菜はずっと鈴涼の手を離さなかった。そこにあった強い意志を感じ取れたのは、多分俺だけだったろう。


 目的のスペースはお世辞にも上等とは言えない。しかし健吾が午前中の仕事を終えるくらいまでならば問題なさそうだった。最近まで入院していた鈴涼が気がかりだったが、息切れもなければ顔色も良い。ここを定位置に決めてから一分も待たない内に短めの放送が行われた。

『お待たせしました。次は、有志バンド“オーガスタ”です』

 緊張した声を合図に、ステージの天幕が上がってスポットライトの当てられた光景が広がる。うわぁぁ、と最前列の歓声が溢れ出し、登壇していた三人のメンバーを熱気一辺倒で迎える。それぞれがベース、ギター、ドラムと各々の楽器を携えていて、いわゆるスリーピースバンドだ。どうやら結構な人気があるようで、ベースの男子生徒がチューニングを軽く見直しただけで会場はさらに鼓膜を震わせた。

 前説は無い。ドラムが拍子を数えて始まったのは、音楽に疎い俺でもサビなら口ずさめるような有名な曲だった。会場全体で盛り上がれるというのはステージライブで大きな強みなのだろう。イントロが流れ始めた途端会場の温度が二度くらい上がった気がした。

 パワフルな歌唱と全身を響かせる楽器たち。内蔵が揺れるほどやかましい音が貫いているはずなのに、俺もいつの間にか聞き入ってしまった。釘付けの観客も多く、彼らの完成度の高さと人気性を窺わせる。まるで体育館が一隻の方舟になったように、音波の中の航海に夢中になっていた。

「『おーがすた』って、どういう意味だろう?」

 二番に入った頃、鈴涼のふとした問いかけで現実に引き戻された。質問は放送が言っていたこのバンドの名前についてのことだ。残念ながら俺は答えを持ち合わせておらず、さぁ、と微妙な返事をしようとし、その前に近くに居た茉莉菜によって阻まれた。

「オーガスタは葉が大きくて、トゲトゲな花をつける植物よ。日本だと観葉植物なんかに多いわね」

 へぇ! と素直に感心の声を上げてしまった。茉莉菜が花を好きなことは知っていたが、まるで専門の教師のように解説できるほどの知識を持っていたとは。しかしどうにも俺のそんな反応が気に食わなかったご様子で、じとりと視線を向けられる。突然再来した居心地の悪さに耐えかねて、思ったことをそのまま口にしてしまう。

「え、ええっと……俺はてっきりメンバーが全員八月生まれなのかと思ったよ」

「……なにくだらないこと言ってるのよ、バカ」

 見事なまでの一蹴だった。多分、この場でサーモグラフィーをかけたら俺だけがみるみる青くなっているだろう。鈴涼もきょとんとしているし、冗談の使いどころって難しいなぁ、としみじみ痛感するしか現実逃避する術はなかった。

 そこで思い出したのは健吾から言われた一言――茉莉菜と仲良くしろよ、と。場を凍てつかせるのは本意ではないし、現状打破もとい自分の失態を誤魔化すために、俺は蛮勇にも似たものを振り絞って彼女に会話の種を蒔く。

「そ、そういえば茉莉菜って、昔から花言葉とかよく知ってたよな。オーガスタにもそういうのあるのか?」

「……」

 言ってから一瞬彼女が固まり、反射的にしまった、と感じた。昔に絡めた俺からの質問なんて、茉莉菜が最も嫌うところだろうに。つくづく自分の思慮の浅はかさに辟易してしまう。ロック調の音楽が余計に沈黙を目立たせる中、やがて茉莉菜の口がゆっくりと開いた。

「オーガスタの花言葉は、輝かしい未来」

 彼女はステージに目を落としてしまい、俺には憂うような横顔しか見せなかった。それが俺に対する最大限の譲歩だったのか、それともその花言葉に対して何か思うところがあったのかはわからない。つい思考を巡らせて黙ってしまっていると、俺たちの間に居た鈴涼もまた、ステージで演奏する三人を見下ろしながら言った。

「名前は意味が、大事。あの人たちは、その意味が欲しかったの? それとも、もう『それ』になっているの?」

 鈴涼の言葉に少しだけ考える。俺たちから見える今の彼らは間違いなく“オーガスタ”という名前のバンドであって、だけど彼らが欲しい世界は、こんなちっぽけな箱では収まりきらない高みなのかもしれない。彼らはいつをもって、自分自身のことを心からその名前で呼ぶことができるのか。

「どう、だろうな」

 結局、気の利いたことなんて一つも返せなかった。目の前の茉莉菜との状況に必死になって、鈴涼の発した言葉の『本当の意味』すらわからずに。そしてそれが、のちに俺がいかに未熟で愚鈍であるかを知らしめることも。

 全部で三曲を披露した“オーガスタ”は、退場を惜しむ狂声と拍手に大きく手を振りながら去って行く。再度天幕が降り、体育館はまた暗闇に包まれた。余波か季節か、熱気がこもる世界の中で、二人の少女は一階を見つめながらただ佇む。誰と目が合うわけでもなく時間は流れた。それから二グループの有志が発表を終えて、アナウンスが告げる。

『次が午前ステージ最後の演目です』

 果たして健吾が鈴涼に見せたかったものは何だったのか。かねてより抱いていた俺の中の疑問が、会場一帯に響いた声によって消化される。

『演劇部による“文学部物語”です』

 そして、新たな懐疑が生まれた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み