第13話 子どもと大人の交渉

文字数 6,130文字

 他愛のない話に花を咲かせて、休日の昼中は過ぎていく。かつて文学部でどんな本を読んでいたか、先日の文化祭で観た『文学部物語』のどこが脚色の部分だったか。あたしは何故だかいつもより妙に騒いで疲れたけれど、不快には感じなかった。

 机の上にある時計が午後四時を示して、もうそんなにも話し込んだのかと驚いた頃、一晴がここに来た本題について話し始めた。

「今日は鈴涼に相談したいことがあって来たんだ」

「……相談?」

「もし鈴涼さえ良ければ、俺たちで京都に行かないかって話をしてたんだ」

 すずちゃんが馴染み無さげに首を傾げるので、一晴の隣に座っていた健吾が体を前に押して追加説明をする。

「京都は俺たちの修学旅行の行き先なんだよ。ほら、卒業アルバムにも載ってるんだよ?」

 言うなり、彼は部屋の本棚に並ぶ背表紙の中の一冊を指さした。すずちゃんはその分厚いアルバムを膝の上に持ってくると、中から健吾が言っていた写真を探す。あたしは隣で覗き込みながら、数ページ捲った先の嵐山での写真を見つけた。

「……懐かし」

 ぽそっと呟くと、いつの間にやら視線を写真からあたしへとシフトさせていたすずちゃんと目が合う。そういえば昔も、こうして隣から本を覗くとよく見られていた。彼女の癖なのかもしれない。

 あたしはすずちゃんに「この写真」と人差し指を合わせて教えてあげると、彼女はじぃっと美しく輝く水面へと見入った。

「行くのは大変だから、無理にとは言わないんだが……どうだ?」

 一晴の誘いにすずちゃんは顔を上げて戸惑った。京都という見知らぬ土地に行くことは、彼女一人の判断ではどうにもできないものだからだろう。だとしても、彼女の気持ちは飛行機雲を描くみたいに綺麗で、真っ直ぐだ。

「わたしは、少しでも記憶を見つける可能性があるなら、行ってみたい」

 ――やっぱり。

 最上鈴涼をよく知っている人間にとってはわかり切っていた返事だった。元より一晴たちに記憶を取り戻したいと伝えていた程なのだから、彼女の意志が行き着くのは絶対にそこなのだ。

「印象深いイベントではあったからね。ひょっとしたらってこともあるかもしれない。そうじゃなくても、純粋に思い出作りにはなると思うよ」

 健吾は駄目押しみたく言って見せる。こういう言い回しが本当にズルい。勇気の後押しをする言葉は時に残酷なくらい逃げ場を奪うのだ。今のあたしには、その勇気に待ったを掛ける台詞は一つも浮かばない。

「……みんなが、良ければ」

 すずちゃんが静かに付け足した一言に、一晴は小さくガッツポーズを作った。立ち上がって用意していたらしい言葉を投げかける。

「それなら善は急げだ。今から鈴涼の両親に掛け合ってみよう。鈴涼、少しだけ話せる時間が取れないか、聞いてみてくれないか?」

「わかった」

 一晴の要望に応じてすずちゃんは短い黒髪を縦に揺らした。ワンピースの裾を翻して行くのを見て、あたしたちもその後を追う。

 揃ってリビングに向かうと、扉の前ですずちゃんが両親に声をかけてくれるのを待った。彼女が呼びかけてくれている中、あたしたちは薄暗い廊下で押し黙る。どことなく落ち着かないのはあまりに慣れないシチュエーションだからか。

「なんか、職員室でこういうのあるよね」

「下らないこと言わないで」

 耳元で健吾が今の状況について囁く。言う通り学校ではありがちな光景だけど、ここは最上家であって、詰まるところ人の家である。誰も彼もが敷居を跨いで良い場所ではないのだ。

 今頃すずちゃんと両親の間では「用事? 私たちに?」みたいな会話が交わされているのだろう。あたしや一晴みたく家族ぐるみの付き合いがあるならともかく、最上家とはすずちゃんが記憶を失ってから関わり始めたのだ。彼らに思い当たる節があるはずもなく、きっと困惑を生じさせているに決まっている。

 そんな中で、急に「京都旅行に行きたい」なんて要望が果たして受理されようか。ネガティブな不安がまた心を過ぎる間に、カチャッとリビングの扉が開いた。顔を出したのはすずちゃんで、いつも通りの無表情で言ってくれる。

「入って。人数も多いから、中でお話しようって」

 あたしたちは促されるまま部屋へと通された。リビングはかなり広く、オーク調のフローリングと真っ白な壁でとても清潔感を感じる。液晶テレビの横には、すずちゃんの家らしく縦長の本棚が三台並んでいた。その正面には座卓のテーブルがあって、上にはリモコンやティッシュケースが置かれている。

「いらっしゃい、みんな」

 台所に居たすずちゃんのお母さんが迎えてくれた。洗い物をしていたようで、少しだけ水滴の散ったエプロンを外している。全員が挨拶を返すと、彼女はちょっとだけ悪戯っぽい笑みを向けた。

「さっきまで、どんなお話をしていたのかしら? 随分楽しそうだったけど」

「あ、いえ! すみません。うるさくしてしまって」

「いえいえ、鈴涼にも賑やかなお友達が居て良かったわ」

 何か見透かされているようで、もしかしたら聞こえていたのかもと思うと耳まで熱くなる。後で一晴たちには、改めて苦言を呈さねば気が済まない。

 そして台所から見えるすぐ手前にはダイニングテーブルがあり、日曜日の午後を読書で満喫していた男性と目が合った。細身ではあるが、ポロシャツから覗く腕回りは少し厚い。娘と同じ不透明な黒髪を短めに整えていて、安心感のある人柄を感じ取れる。

「こんにちは、久し振り……それと初めまして、だね」

 前半はあたしと一晴に向けて、後半は面識の無い健吾に向かって言ってくれた言葉だろう。すずちゃんのお父さんはいつかにも見た柔らかい表情をあたしたちへと向けてくれた。しかし落ち着いた深い声は、今ばかりは安心よりも緊張が勝る。

 そんな中で、先陣を切らんとばかりに健吾が丁寧な口調で言い出した。

「わざわざお時間頂きありがとうございます。今日は、ぜひ皆さんに聞いて欲しいお話があったんです」

 見た目とかけ離れた丁寧な態度に驚いたのか、すずちゃんのお父さんは一瞬目を丸くした後、すぐに元の顔に戻った。

「鈴涼も言っていたね。一体、どんな用事なのかな?」

 健吾が隣に立つ一晴に向かって「ほら、発案者」と促す。このまま健吾が話を進めてくれると思っていたのか、彼はしどろもどろになりかけながら父親の方を向いて言った。

「その……旅行に行けないかな、と」

「旅行? どこへ?」

「京都です。修学旅行で行った」

 倒置法になったのは強調でもなんでもなく、ただ一晴がキョドった結果だ。ポカンとしているすずちゃんの両親に向かって、見兼ねた健吾がフォローに入る。

「思い出巡りの一環です。お父さんがどう聞いていらっしゃるかはわかりませんが、オレたちは今、昔の話や関わりのあった場所を鈴涼さんに教えています」

「この前、文化祭に出掛けたのもそういう理由だと聞いているよ」

「まさに仰る通りです。それで、オレたちが共通して行った場所というのは限られていまして。いかんせん文化部でしたから、専ら図書室に篭り切りだったんですよ」

「それで?」

 回りくどい言い方は、多分一晴へのパスだ。案の定、全て健吾に言わせるのはさすがに悪いと思ったのか、今度は堂々と歩み出た。

「俺たちが一緒に行った場所を考えました。それが修学旅行の京都です。思い出巡りをして、少しでも記憶に近づけたら良いなって思ってます」

 鈴涼のお父さんは、なるほど、と納得するように頷く。しかし私には、どうにも彼が賛同の様子を見せる未来が浮かばないように思えた。なぜなら少し前に居合わせた時に聞いた、詰まった声色だったから。

「少しだけ君たちだけに相談したいことがあるんだ。鈴涼、悪いけど部屋に戻っておいてくれるかな?」

「……? わかった」

 その言葉であたしたちは弦楽器みたいにピンと張り詰めた。これから流れくる不和を予感し、喉を通る唾が嫌に粘つく。

 すずちゃんは言われた通りにリビングを出て一人だけで部屋へと戻って行った。横に居る二人を見遣ると、一晴は歯を食い縛るように無為な力がこもっており、健吾は落ち着いた様子ながらも、あの獣みたいな真剣な瞳を向けていた。

「立ち話もなんだから。みんな、座ってくれるかな。お母さん、あと二つ椅子を持ってこよう」

 言うなりすずちゃんのお父さんは立ち上がり、テキパキと用意をしてくれた。椅子を三つ並べて座るあたしたちと、ダイニングテーブルを挟んで向かい合うように正面に戻ったすずちゃんのお父さん。そして隣にはひと仕事を終えたすずちゃんのお母さんが座って、あたかも高校受験の時のグループ面接みたいな形になった。

 一晴たちはどういう切り口で攻めるのかと思っていたら、先に発言をしたのはすずちゃんのお父さんだった。

「結論から言わせてもらうよ。旅行の話は、無しにしてくれないか」

 予想だにしなかった先制攻撃に、あたしは面食らった。横側を見遣ると、一晴はあたしと同じく豆鉄砲どころか一発ジャブをもらったような顔をしていて、健吾は強張った表情で相手を見据えていた。

「ど、どうしてでしょうか」

 つっかえながら一晴が尋ねた。すずちゃんのお父さんはあたしたち全員を流し見て、その理由を諭すように語る。

「鈴涼はまだ目覚めたばかりだ。急にそんなことを言われても、あの子の体力が心配なのはわかるだろう?」

「実際に旅行へ行くのは、そんなに急な話にはしません。少なくとも十月か十一月、今から考えてもひと月以上準備できる期間があります。それでも駄目でしょうか?」

 用意していたみたいに健吾が答えた。同級生なのに、しっかりした受け答えが年上同士の会話にすら見える。誰かが割って入る間もなく、年長者の返事が会話を繋いだ。

「あの子が意識を取り戻してからもう少しで三か月……検査やリハビリで病院に行くことも多くて、きっと疲れていることだろう」

「すっ、鈴涼も。行きたいと言ってくれました」

 二人に比べたら、一晴の言葉は大人になり切れていないみたいだった。すずちゃんのお父さんは少しだけ上を向くと、深呼吸のようにゆっくりと言う。

「鈴涼なら、そう言うんだろうね」

 何かを懐かしんでいる表情が、あたしの目にはとても悲しげに映る。彼がどんな懐古をしているかなんて、手に取るようにわかってしまうから。

 かつての少女の姿。あたしに悩みがあればいつも隣に一緒に居て、そよ風に長い髪を揺らされるのも気にせずに話を聞いてくれる。そして柔らかな笑みを浮かべながら、私も、と言ってくれるのだ。

 そしてそのことを一番に知っているのは、もちろんあたしたちなんかじゃない。

「あの子は誰かのために頑張れる優しい子だ。私たちのため、周囲のため。もちろんその中には君たちのこともちゃんと含まれている。一刻も早く記憶を取り戻そうと努力している。私にはその姿が、凄く可哀想に見えて仕方がないんだ」

 すずちゃんの目覚めてからの努力は一晴たちから聞いている。まだ喋ることも辛かった時から図書室裏へと足を運び、部誌を読んだり、みんなから話を聞いたり。彼女は改めて人生を歩み始めたのではなくて、まだあの頃の面影を追いかけ続けているのだ。

「本当だったらもっとゆっくり、色々な思い出を積み重ねていくはずだった――だから私は、君たちを妬ましく思ってしまう」

「あなた……!」

 大人の口から出るにしては、あまりに子どものような感情だった。ましてやそれが大人びていたすずちゃんの父親から発されたことが、ショックどころか信じられないとさえ思わされる。

 彼はそれ以上の言葉を紡ぐために、すずちゃんのお母さんに一瞥した。自分の内に燻るものを全て打ち明けようとする覚悟が瞳の奥で燃えている。

「大の大人が何を言っているんだろうと思ってくれて構わない。でも私はね、鈴涼のことを、家族のことを、世界で一番大切に思っている。けれど私たちが築き上げてきた時間は、あの子の中から消えてしまった」

 三年経ってからテレビ越しの彼女を見た時、途方もない程の衝撃を受けた。共に過ごした日々の全て、一緒に泣き心から親友となれた日のことも忘れられて、凍土の上に立っているのではないかと思うくらい全身の温度が奪われるのがわかった。あたしですら、そうだったのに。

 ならば、すずちゃんの両親があたしよりも現実を受け入れるのに辛かったことは想像に難くない。すずちゃんの家族全員が、あの夏の被害者なのだ。

 彼らを直視できなかった。きっとすずちゃんのお父さんは、とても冷ややかな瞳を向けているに違いない。そんな幻覚を裏付けるみたいに、彼はとつとつと語り続ける。

「それなのに、君たちは鈴涼が目覚めるまで一度も心配そうな素振りを見せてくれなかった。前にも言った通りそれを責めるつもりはないけれど、そんな君たちが『旅行に行こう』だなんて、鈴涼を遊びの理由にしているんじゃないかって思ってしまうのは……仕方のないことだろう?」

「そんなことっ」

 一晴がすぐに反論しかけたのを見て、あたしは前屈みになった彼を両手で制止した。驚いた顔と瞳がかち合う。

 こちらに悪意やおふざけはなくとも、すずちゃんの家族からそう思われるのは当然なのだ。一晴もそれを察してか、弱々しい声を出すことしかできない。

「そんなつもりは、ありません……」

「……意地悪なことを言ってすまない。こんなことを言っても信じて貰えないかもしれないけれど、みんなには本当に感謝しているんだ。私は仕事ばかりで一緒に居てやれる時間が少ないし、あの子にも気にかけてくれている友達がいるとわかったんだからね」

 思えば文化祭の日、一緒に病院の検査に行っていたのだって、ほんの少しでも我が子との時間を作りたかったからなのだろう。休みの日も仕事帰りの夕時も、彼にとってはかけがえのない時間なのだ。

「もう一度言う。この話は白紙にしてくれないかな?」

 曖昧なんて許さない。まるでそう言われているみたいだった。彼の親として当たり前の心情に触れて、改めてとどめを刺される。黙ってしまった二人に代わって、あたしは「はい」と短く肯定の意を示した。

 ――良かったのよ、これで。

 あたしたちはすずちゃんの部屋に戻って、結果を報告した。説明に困っていたら、健吾が明るく「うーん、駄目だったよ」と言ってくれたのがとても助かった。しかし、察しの良い彼女のことだから、平静を装い切れていないあたしや一晴に気づいていたかもしれない。

 帰り際、すずちゃんのお母さんが玄関先まで見送りに来てくれた。さっきのことを気にしてか、申し訳なさそうな顔で断りを入れてくれる。

「ごめんね、みんな。主人が気を悪くさせるようなことを言って」

「いえ、こちらこそ出過ぎた真似をして、すみませんでした」

「良いのよ。すぐには無理かもしれないけど、鈴涼がもう少し元気になったら、ぜひ一緒に行ってあげて。きっと喜ぶわ」

 すずちゃんのお母さんはそう言ってくれたけれども、彼女だって表立って否定しないだけなのだろう。その優しさにつけ込んでしまったようで、一層罪悪感に苛まれる。

 時期が悪かった。そう思っていないと、あたしの心は酷くヒリついたままだった。
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