第26話 誰の手も離さないで(二章最終話)

文字数 3,833文字

 旅館に戻ってから、何をどうしたのか覚えていない。鈴涼の顔も見れないまま、靴の踵だけを追って歩いていた。ロビーで顔の見えない人に話しかけられ、少女が見つかったことは瞬く間に保護者たちに伝わった。

「鈴涼!」

「すずちゃん!」

 殆ど同時に戻って来た二組から、様々声が響く。心配そうな声、安心したような声、少し怒りを滲ませているような声。脳内に異なる感情の起伏が訪れる度、鈴涼の「ごめんなさい」だけは尽く聞き取れた。

 しかし最後はみんな一様に喜んでいて、そこに混ざれない自分が酷く穢らわしい人間に見える。繰り返してしまった過ちを――鈴涼の気持ちを二度も踏み躙ったことを頭から弾き出すなんてできなかったからだ。

「神社の方に居たんだね。ナイスだったよ、一晴」

 隣で聞き覚えのある声がした。軽い感じで、それでも心の底からしみじみと滲むものがある。だけど言葉の意味は耳に入れてはいけない気がした。

「……一晴?」

「悪い。先に部屋に戻ってる」

 鈴涼発見の立役者とも言える友人を讃える言葉すら浮かばず、俺はまた逃げるようにその場を離れてしまう。男子部屋に戻って、燻る気持ちに蓋をするように三角座りでうずくまった。風呂に入る気力すら無く、時折開いたり閉じたりした襖の音も雑音みたいに流れる。

 万事うまくいくなんて思い上がってはいなかった。ただほんの少しだけ希望を抱いてしまっていたのだ。鈴涼と再会してからの日々は、いくつもの苦難と、同じだけの成功があったから。

 だけど本当は違ったのだ。俺は俺の前に成功を積み上げていただけで、どんどんと視界が埋め尽くされているのに気づいていなかった。そうして鈴涼が苦しんでいる内に頑張った分だけ報われようだなんて、自分勝手以外の何になるだろうか。

 ――そして何より、鈴涼の問いに再び答えられなかった日向一晴という男の情けなさだ。

 三年経ったところで何も変わらない。鈴涼のためという建前を旗にして、欲しくないものを拒絶した卑怯者。この旅行に付いて来てくれた友人たちにも申し訳が立たないほど、俺は自己保身に走ったのだ。

 目頭に熱が溜まる。これは絶対に流してはいけないものだ。誰かを傷つけた人間が血を滲ませるなんてあってはならない。そんな馬鹿馬鹿しいことが許されてしまったら、本当に傷ついた人はどうやって救われたら良い?

 溢れ出そうになる嗚咽を堪えるのに必死だった。腕の皮が剥けるくらい体を抱き抑えて、忘れかけていた機械のような日々を思い出す。あの時の彼の言う通り、俺はあの頃からずっと『止まったまま』だったのだ。

 どれだけ時間が経ったのかわからなくなった頃、襖には似合わないノックの音がした。ぱん、ぱんと強めに鳴らされると、問答無用と言わんばかりに「入るわよ」という声が響く。俺は自分がどんな顔をしているかを気にする暇もなかった。入って来た少女は昨日のように、栗色のショートカットを水が落ちない程度に濡らしたままだった。

「茉莉菜……?」

 多分、疑問が顔に貼り付いていたのだろう。口で問うまでもなく少女は答える。

「健吾がボヤいてたのよ。あんたが部屋で塞ぎ込んでるから気まずいって」

「そっか……悪いことしたな。場所、移すよ」

「大丈夫よ。あいつ、今回の件で反省して、宿の人に抜け道があることを説明しに行ったから。しばらくは帰ってこないわ」

 俺は再び「そっか」と返事をした。今は彼女と仲良くすべしという健吾からの指令も忘れたい。一人になるために言葉を止めたら、すぅ、と襖が閉じて、再び光が消えた。気配は消えず、裸足が畳を踏む音が近づく。湯気の温かさはすぐそこにあった。

「すずちゃんが言ってた。一晴を困らせちゃったって。何があったの?」

 言いながら隣に腰を下ろした横顔を直接見ることはできなかった。背を丸めて、膝に顔を埋めてしまおうとする。心臓の音が静かな部屋に反響しているのがわかるくらい、じっと黙っていた。

「話せないこと?」

「……」

 できるできないなんて簡単な二択で済ませられるほど、おいそれと片付けて良い問題とは思わなかった。糸を結び付けても元には戻らないように、現在と過去に分かたれてしまった鈴涼の心はちぐはぐにしかならない。記憶を取り戻しさえすれば解決するなんて甘い考えだった。そうして繋ぎ止めている間に、彼女は少しずつ苦しみに苛まれている。過去を思い出したってその事実は変わらない。

 言葉を堪えるように沈黙を貫く。口を開けばきっと、甘えた俺は泣き言を口にしてしまう。これ以上、誰かに情けない姿を晒したら、もう一歩も歩けなくなってしまいそうなのだ。すると隣からは呆れも怒りも滲むようなことはない至って冷静な声が聞こえる。

「話せないなら、無理にとは言わない」

 強情な幼馴染みには似合わない気さえした。しかしやっぱり茉莉菜は茉莉菜のままで、すぐさま引き下がるような性分はしていない。

「だけどあんたは『みんなで』って言った。言ったからには、除け者になんてしないでよね」

 その発言で昼に見た嵐山の景色が思い出される。二人で乗った小舟の上の会話は鮮明に覚えていた。俺は確かに「時間をかけて、みんなでやり直そう」と言った。彼女はその言葉を覚えていてくれて、俺の言動の矛盾に納得がいかないのだ。

 鈴涼の親友である茉莉菜に言うことは憚られる。しかし同時に、話すことができるのはそんな幼馴染みしか居ないとも思った。

「……今の鈴涼にとって、昔の鈴涼は思い出すものじゃない。ならなきゃいけないって思うものだったんだ」

 唐突に語り出した脈絡の無い言葉を、茉莉菜は微動だにせず聞いて待ってくれた。こんがらがる頭の中には、以前に見た熱気溢れるステージの光が浮かぶ。

「文化祭で言ってたろ。名前は意味が大事って」

 有志バンド“オーガスタ”のライブを見た時、その花言葉が『輝かしい未来』と知った鈴涼は問うた。彼らはその意味を目指しているのか、それとももう既にその名前を冠するに値するステージに居るのか。真実は本人にしかわからない――せめて、そのことさえ理解していたならこんなことにはならなかっただろうに。

「俺は思い出させることばかり考えてた。鈴涼が過去を見て、どれだけ苦しむかも知らないで。あいつは自分の名前を呼ばれる度に追い込まれてたって言うのに」

 最上鈴涼は彼女自身。だけど呼ばれる名前は意味を持たず、ただ雁字搦めの糸になる。今の鈴涼にとって名前とは、彼女が「わからない」と言った誰かの優しさの象徴でしかない。それでも誰かが求めるのなら、彼女は進んで『最上鈴涼』になろうとする。例え今の自分の心を殺してしまおうとも。

「鈴涼は昔の鈴涼になろうとしてる。だから、俺なんかに、また……」

 もう一度、鈴涼が俺を好きになってしまう。望んだからではなく、過去の最上鈴涼がそうだったから。そして過去の姿を望ませたのは、紛れもない俺自身だ。

「最低だ、俺。あの日から何も変わってなかった。怖くて、また逃げ出したんだ」

 約束を果たすために躍起になって彼女の心を見落とした。日向一晴が必死になるほど、大切なものは昼間の月のように姿を隠したのだ。だって、鈴涼はとても優しいやつだから。

 元に戻したって意味がない。俺はもう、あの日に鈴涼の言葉を断ち切ってしまっている。例え正解は無くても間違いだけは犯してはいけない。いつかの励ましを無為にして、彼女の前で再び不正解を選んだのだ。

 思いつく言葉も無くなったせいで、部屋には静寂だけが残った。茉莉菜はきっと怒る。いっそ怒鳴られたいとすら思ってしまっているのかもしれない。鈴涼が責められない分を親友である彼女からぶつけられることで、少しでも楽になれるものだと、また逃げ出しそうな考えをしていた。

 しかし茉莉菜は、そんな俺を逃がす気なんて毛頭なかった。

「あたしもこの旅行で考えたの。あたしがするべきことは、本当にすずちゃんの記憶を取り戻す手伝いをすることだけなのかなって」

 大きな声とはかけ離れた穏やかな音。奇しくもあの小舟の上で聞いたものとそっくりで、張り詰めていた心臓が少しだけ静かになった。

「……俺は、そればっかり大事にしてた。過去の鈴涼の姿を取り戻すことだけが救いになるんだって」

 だけどそれは、どこまでいっても『俺の救い』なのだ。目指していた理想とはかけ離れていることにどうして気づけなかったのだろう。体が燻るようになるのは考える時間を得るため。頭の片隅には、いつかに後藤先生に言われたそんな言葉がずっと住んでいたはずなのに。

「もう戻れないのよ。あたしたちは、誰一人あの頃と同じじゃない」

「取り戻すことは、間違いだったんだぞ……」

「だから、変えようよ。中学生の頃に戻るんじゃない。今あたしたちの隣に居るすずちゃんは、過去の記憶が無くても、あたしたちの友達なんだから」

 俺の手が強く握られた。突然のことで体が震えるくらい驚いたけれど、畳に抑えられるようにして柔らかな手は不思議と離れたくなかった。風呂上がりではない温かさに包まれて、塞ごうとしていた瞼のダムが壊れてしまう。

「中学の頃に囚われるのは、これが最後。あたしたちは前に進むの。誰の手も離すことなく」

 これから歩む道の指針は途切れていなかった。微かに残っている繋がりを断たせはしない――茉莉菜から伝わる決意の熱は、頬に貼り付いた涙よりもずっと熱い。枯葉が舞う季節には、とても似つかわしくないほどに。

(二章 完)
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