第21話 鏡に浮かび、寄せる蓮と日
文字数 4,505文字
乗組員二名の舟が二隻出発した。健吾は鈴涼を連れて、人の重さなど感じさせないくらいスイスイと進んで行く。一方で、俺の手それぞれにあてがわれたオールはぱしゃぱしゃと軽い音を立てるだけだった。
「これ、イマイチ感覚掴めないな……」
オールを沈める角度と、推進力を生み出すための力の入れ具合が非常に難しい。受け付けに居たおじさんは親切に漕ぎ方の解説をしてくれたが、実際に持ってみると、話してくれた通りに動かすのは至難の業だった。百聞は一見に如かず、習うより慣れろとはよく言ったものだ。
俺の他にも悪戦苦闘している観光客がちらほら。やはり簡単にはいかないものなのだが、今回は仕方ないでは済まされない。なぜなら向かい合う前方の乗客から、アドバイスという名の文句が飛んでくるからである。
「もっと大きく振らなきゃ駄目なのよ。ほら、健吾くらい腕を回さなきゃ」
互いに足を投げ出したくらいの距離で、茉莉菜から催促じみた檄を飛ばされる。言われた通り遠方の健吾を見遣ると、肘が肩の辺りまで上がっていた。それを数回真似てみるものの、さっきと結果は変わらない。俺はふてぶてしい表情で乗員に弁明する。
「つってもな、これ結構重くて大変なんだぞ」
「進まなかったら面白くないじゃない」
「直球で面白くないって言うな」
どれだけ文句を言われても、初めてのことが簡単にできる訳が無い。む、と唇を真一文字にするのがやっとの抵抗だ。しかし茉莉菜がそれで満足するはずもなく、どうにかこうにかトライアンドエラー精神だけは保ち続ける。
「あ、ちょっとは動き始めたわね。でもこのままじゃ右に回っちゃうわよ」
「こうか?」
「まだ若干右に寄ってるわ。利き腕に力が入り過ぎなのよ。もっと均一にして」
よくもまあ、利き腕が右だなんて覚えていたものだ。一応長い付き合いになるのだから不自然なこともないが、茉莉菜の中から日向一晴との思い出はすっかり吹き飛ばされたものだと思っていた。
「こ、これでどうだ?」
「駄目。さっきより進まなくなったわ。左側を意識し過ぎて右腕の力が落ちてるのよ。もっとちゃんと力を入れて……」
「そんなにごちゃごちゃ言われてもわかるか! そんなに言うなら茉莉菜が片方持って漕げば良いだろ、ほら!」
思い通りに動かない苛立ちを放るように片方のオールの柄を彼女の側へと手放した。舟の横に固定されている上、結構な重さがある木板は全然飛びはしなかったが、茉莉菜は焦った顔で前のめりになりキャッチする。
「ちょ、ちょっと! 同じ側からじゃないとそもそも持てないでしょ!?」
「じゃあこっち来てみろ、寄るから!」
「ちょっ、バカ! 偏る! 舟がひっくり返っちゃうじゃない!」
中腰になってボートの端に移ろうとすると、浮力頼りの不安定な土台が大きく揺れた。傍目には大した変化が無いのだと思うが、体感では綱の上で立っているかのように感じられた。慌てて元の位置に戻ると、今度は波が返すが如く揺れて茉莉菜が喚く。
せっかく観光客の喧騒から離れた場所だと言うのに、水上でわぁわぁ騒ぐことになるだなんて誰が思っただろう。頼りない小さな大地に翻弄され続ける中、近くに寄るボートの影があった。いつの間にか健吾たちがやって来ていたのである。
「やぁやぁカップルさん。随分と賑やかだねぇ」
「誰がカップルよ!」
鈴涼の手にはどこで買ったとも知れないみたらし団子が握られている。見ればかなり遠くに売店があって、わざわざ俺たちを見物しに戻って来たという証拠でしかなかった。
「この野郎っ……! 悠々と漕ぎ回しやがって」
「日々の努力が違うんだから仕方ないだろ? ほら、彼女のためなんだから頑張れ! ファイト!」
「だから勝手にカップル認定すんな!」
健吾は金髪をかき上げ、怪盗みたいな高笑いを上げながら漕ぎ去って行く。鈴涼も楽しそうに「はっはっは」と棒読みしていたから良いものの、もしもあいつ一人だったら泳いででもボートをひっくり返しに向かうところだった。
翻弄する桂川と、言うことを聞かないオールとの格闘はしばらく続き、十分ちょっとしてようやく形になってきた。貸し出し時間の三分の一を消費しても健吾より下手なのは間違いなかったが、それでも観光には十分だろう。
「よ、よし。何とか進むようにはなってきたぞ」
「そうね。最初はどうなることかと思ったけど」
茶色のショートカットが露骨な溜息で揺れた。無駄な言い合いもあったせいで二人して疲れ気味だ。遊覧が始まれば互いに口数も減り、綺麗に焼けた木々の葉をゆったりと眺められる。流水の音が汗ばみそうな体を優しく冷やす。思えば京都に来てから静寂を過ごしただろうか。わかり切った犯人のせいでずっと騒がしかったことは間違いない。鈴涼と一緒だったら、口数の少ない彼女に向かって、つい俺から話しかけていたと思う。
「茉莉菜と同じ舟で良かったよ」
「へっ!?」
同乗人から変な声が上がって俺まで驚く。俺は無意識の発言を思い返した。こぼれ落ちた本音は何か大きな勘違いを生む要因になるのではなかろうか。豆鉄砲を食らった鳩の顔をする茉莉菜に向かって慌てて弁解する。
「い、いや変な意味じゃないぞ。折角鈴涼がこんな経験するなら、健吾みたいにスイスイ進んでくれる舟の方がきっと楽しんでくれるだろ?」
「あ、あぁ。そういう意味ね」
本来考えていたこととは違ったけれど、あながち間違いではない答えに乗客はクレームを付けたりはしなかった。代わりに川の清涼感を削ぐくらいのじとっ ととした声音が聞こえた。
「あんたまで妙なこと言い出したのかと思ったじゃない……」
だからといって「鈴涼と同じじゃなくて良かった」という方が語弊がありそうではないか。茉莉菜の前で鈴涼の悪口なんて言おうものなら、きっと昔に小突かれた比ではない鉄拳が鼻っ面に飛んできて、顔にクレーターが出来上がる。それを避けた結果、命は残ったが居心地は悪いものにしてしまった。
「でも確かにそうね。どうせなら、頼りにならない船頭よりは向こうの方が楽しそうだわ」
「自分で言っておいてだが、悪かったな」
「ふふっ」
茉莉菜とこんな他愛ない話で笑い合えるのはいつ振りだろう。旅行の非日常は万年続くかと思われていた仏頂面さえも解きほぐした。かつては当たり前だったこの光景がずっと続けば良いのに――くだらないことを、心は渇望するみたいに唱えていた。
「ねぇ一晴」
「何だ?」
茉莉菜はもう遥か遠くに行ってしまった親友の方を見た。
「反対したあたしが言うのもアレだけど、ありがとう。この旅行を計画してくれて」
ボートを漕ぐ手が止まりかけた。しかし追求する方が気恥しいことになるんじゃないかと思い直して、慌ててオールだけを見ながら大きく回す。
「何だよ、改まって」
「本当は迷ってたの。すずちゃんが記憶を取り戻したら、あたしたちはまたバラバラになっちゃうんじゃないかって。せっかく集まったのに、それが怖くて現状維持しようとしてた」
知っていた、なんて言葉は飲み込んだ。茉莉菜は俺や健吾が京都旅行のために動くことで、取り戻しつつある関係が破綻してしまうのではないかと危惧していた。親友のためだけではない。茉莉菜だって、こうして昔馴染みの四人が集まったことを喜んでいてくれたいる。
「でも、違うのよね。それはあたしが望むことであって、すずちゃんの望みじゃない。すずちゃんが思い出したいのは、今やこれからのため。わかっていたことだけど、見落としかけてた」
鈴涼の望みは過去を思い出して、両親が当たり前にくれる優しさの理由を知ること。それは同時に、彼女が目覚めてから得たあらゆる関係も見直すことに他ならない。茉莉菜は拒絶される恐怖に怯えている。そんな彼女を臆病だなんて言うことは、俺にはできなかった。
「思い出すのを諦めた時、本当に傷つくのはすずちゃんなんだわ。もう一度でも彼女を傷つけてしまったら、あたしは今度こそあたしを許せないと思う。友達、なのにって」
「それは……俺も、そうだ」
「だから、拒絶されたら消えようっていうのは違う気がするの。例え受け入れてもらえなくても、あの子が次の居場所を見つけることができるまで隣に居る……それが、あたしにできる唯一の贖罪だと思う」
彼女の罵声も呪詛も受け入れること。それだけがあの日に逃げ出した俺にできることだと思っていた。ただ、もしも鈴涼が望まなくても、一人にさせてしまうなんて無責任だけは駄目なのだ。逃げるだけでは、駄目なのだ。
「それに、一晴が言ってくれたでしょ。あたしたちは親友だから大丈夫だって」
彼女が少女と三年振りの再開を果たした日。俺は安心させたかったのか背中を押したかったのか、今となってはどうしてあの場であんなことを言ったのだろうと思えて仕方がない。茉莉菜と鈴涼の関係は俺が見ていたよりもずっと複雑で、他人が干渉する余白はただの一枚も残っていなかったのに。
しかし、茉莉菜にはその言葉でほんの少しの勇気を与えられていた。彼女があの時に「あんたに言われなくてもわかってる」と言ったのは、強がりと不安の結果だったのだ。
「だからもう少し、信じてみようと思う。あの頃のあたしたちと、今のみんなの気持ちを」
「……あぁ。きっと大丈夫だ。時間をかけて、みんなでやり直そう」
茉莉菜の言葉に、鈴涼の母も似たことを言っていたのを思い出した。過去を信じる。築いただけの時間なら信頼できるけれど、崩れてしまったものを簡単には信じられない。そんな難しさをみんなが抱えている。俺たちの関係がでこぼこだらけなのは、積み重ねた感情の違いそのものが浮き彫りになっているからだ。
そしてその違いを埋めるのは、やはり思い出の中の過去になるのだろう。今を映す鏡だけを見るのではなくて、水面の奥底に沈んだそれぞれの気持ちを知ること。見上げる空の青さは同じでも、俺たちは満場一致で綺麗だなんて言わない。それさえわかっていれば、きっと間違いを選ばずに済む。重なり合わなかった波紋と出会った時、俺たちはこの川のように同じ場所へと流れ着くことができるのだ。
茉莉菜はこれで和解としてくれるつもりだろう。お互いに素直な言葉を並べるなんて小恥ずかしいから、彼女なりの『折れ方』をしてくれた。俺たちの関係の上ではとてもありがたくて、彼女もまた大人になっている証拠なのだ。健吾や茉莉菜に追いつくため、前に進む気持ちを新たにしようとした時、目の前の少女は呟くように言った。
「あんたも……あんたの頑張りも、あたしは褒められるべきだと思うわ。少なくとも、あたしはそう思うから」
昔にも聞いた事のないような賛辞にぽかんと口を開けてしまう。初めは何のことを言われているのかわからず、それがこの京都旅行のことだと理解した時には、次の進行方向を指し示されていた。
「それだけ! ほら、さっさと漕ぎなさいよ。早くしないとボートの貸し出し時間、終わっちゃうでしょ」
俺はたどたどしい返事をして、止まりかけていたオールを強く握り直した。静かに水面に差し入れると舟はゆっくり進む。掴んだ感覚は離しようがなくて、むず痒い。
「これ、イマイチ感覚掴めないな……」
オールを沈める角度と、推進力を生み出すための力の入れ具合が非常に難しい。受け付けに居たおじさんは親切に漕ぎ方の解説をしてくれたが、実際に持ってみると、話してくれた通りに動かすのは至難の業だった。百聞は一見に如かず、習うより慣れろとはよく言ったものだ。
俺の他にも悪戦苦闘している観光客がちらほら。やはり簡単にはいかないものなのだが、今回は仕方ないでは済まされない。なぜなら向かい合う前方の乗客から、アドバイスという名の文句が飛んでくるからである。
「もっと大きく振らなきゃ駄目なのよ。ほら、健吾くらい腕を回さなきゃ」
互いに足を投げ出したくらいの距離で、茉莉菜から催促じみた檄を飛ばされる。言われた通り遠方の健吾を見遣ると、肘が肩の辺りまで上がっていた。それを数回真似てみるものの、さっきと結果は変わらない。俺はふてぶてしい表情で乗員に弁明する。
「つってもな、これ結構重くて大変なんだぞ」
「進まなかったら面白くないじゃない」
「直球で面白くないって言うな」
どれだけ文句を言われても、初めてのことが簡単にできる訳が無い。む、と唇を真一文字にするのがやっとの抵抗だ。しかし茉莉菜がそれで満足するはずもなく、どうにかこうにかトライアンドエラー精神だけは保ち続ける。
「あ、ちょっとは動き始めたわね。でもこのままじゃ右に回っちゃうわよ」
「こうか?」
「まだ若干右に寄ってるわ。利き腕に力が入り過ぎなのよ。もっと均一にして」
よくもまあ、利き腕が右だなんて覚えていたものだ。一応長い付き合いになるのだから不自然なこともないが、茉莉菜の中から日向一晴との思い出はすっかり吹き飛ばされたものだと思っていた。
「こ、これでどうだ?」
「駄目。さっきより進まなくなったわ。左側を意識し過ぎて右腕の力が落ちてるのよ。もっとちゃんと力を入れて……」
「そんなにごちゃごちゃ言われてもわかるか! そんなに言うなら茉莉菜が片方持って漕げば良いだろ、ほら!」
思い通りに動かない苛立ちを放るように片方のオールの柄を彼女の側へと手放した。舟の横に固定されている上、結構な重さがある木板は全然飛びはしなかったが、茉莉菜は焦った顔で前のめりになりキャッチする。
「ちょ、ちょっと! 同じ側からじゃないとそもそも持てないでしょ!?」
「じゃあこっち来てみろ、寄るから!」
「ちょっ、バカ! 偏る! 舟がひっくり返っちゃうじゃない!」
中腰になってボートの端に移ろうとすると、浮力頼りの不安定な土台が大きく揺れた。傍目には大した変化が無いのだと思うが、体感では綱の上で立っているかのように感じられた。慌てて元の位置に戻ると、今度は波が返すが如く揺れて茉莉菜が喚く。
せっかく観光客の喧騒から離れた場所だと言うのに、水上でわぁわぁ騒ぐことになるだなんて誰が思っただろう。頼りない小さな大地に翻弄され続ける中、近くに寄るボートの影があった。いつの間にか健吾たちがやって来ていたのである。
「やぁやぁカップルさん。随分と賑やかだねぇ」
「誰がカップルよ!」
鈴涼の手にはどこで買ったとも知れないみたらし団子が握られている。見ればかなり遠くに売店があって、わざわざ俺たちを見物しに戻って来たという証拠でしかなかった。
「この野郎っ……! 悠々と漕ぎ回しやがって」
「日々の努力が違うんだから仕方ないだろ? ほら、彼女のためなんだから頑張れ! ファイト!」
「だから勝手にカップル認定すんな!」
健吾は金髪をかき上げ、怪盗みたいな高笑いを上げながら漕ぎ去って行く。鈴涼も楽しそうに「はっはっは」と棒読みしていたから良いものの、もしもあいつ一人だったら泳いででもボートをひっくり返しに向かうところだった。
翻弄する桂川と、言うことを聞かないオールとの格闘はしばらく続き、十分ちょっとしてようやく形になってきた。貸し出し時間の三分の一を消費しても健吾より下手なのは間違いなかったが、それでも観光には十分だろう。
「よ、よし。何とか進むようにはなってきたぞ」
「そうね。最初はどうなることかと思ったけど」
茶色のショートカットが露骨な溜息で揺れた。無駄な言い合いもあったせいで二人して疲れ気味だ。遊覧が始まれば互いに口数も減り、綺麗に焼けた木々の葉をゆったりと眺められる。流水の音が汗ばみそうな体を優しく冷やす。思えば京都に来てから静寂を過ごしただろうか。わかり切った犯人のせいでずっと騒がしかったことは間違いない。鈴涼と一緒だったら、口数の少ない彼女に向かって、つい俺から話しかけていたと思う。
「茉莉菜と同じ舟で良かったよ」
「へっ!?」
同乗人から変な声が上がって俺まで驚く。俺は無意識の発言を思い返した。こぼれ落ちた本音は何か大きな勘違いを生む要因になるのではなかろうか。豆鉄砲を食らった鳩の顔をする茉莉菜に向かって慌てて弁解する。
「い、いや変な意味じゃないぞ。折角鈴涼がこんな経験するなら、健吾みたいにスイスイ進んでくれる舟の方がきっと楽しんでくれるだろ?」
「あ、あぁ。そういう意味ね」
本来考えていたこととは違ったけれど、あながち間違いではない答えに乗客はクレームを付けたりはしなかった。代わりに川の清涼感を削ぐくらいの
「あんたまで妙なこと言い出したのかと思ったじゃない……」
だからといって「鈴涼と同じじゃなくて良かった」という方が語弊がありそうではないか。茉莉菜の前で鈴涼の悪口なんて言おうものなら、きっと昔に小突かれた比ではない鉄拳が鼻っ面に飛んできて、顔にクレーターが出来上がる。それを避けた結果、命は残ったが居心地は悪いものにしてしまった。
「でも確かにそうね。どうせなら、頼りにならない船頭よりは向こうの方が楽しそうだわ」
「自分で言っておいてだが、悪かったな」
「ふふっ」
茉莉菜とこんな他愛ない話で笑い合えるのはいつ振りだろう。旅行の非日常は万年続くかと思われていた仏頂面さえも解きほぐした。かつては当たり前だったこの光景がずっと続けば良いのに――くだらないことを、心は渇望するみたいに唱えていた。
「ねぇ一晴」
「何だ?」
茉莉菜はもう遥か遠くに行ってしまった親友の方を見た。
「反対したあたしが言うのもアレだけど、ありがとう。この旅行を計画してくれて」
ボートを漕ぐ手が止まりかけた。しかし追求する方が気恥しいことになるんじゃないかと思い直して、慌ててオールだけを見ながら大きく回す。
「何だよ、改まって」
「本当は迷ってたの。すずちゃんが記憶を取り戻したら、あたしたちはまたバラバラになっちゃうんじゃないかって。せっかく集まったのに、それが怖くて現状維持しようとしてた」
知っていた、なんて言葉は飲み込んだ。茉莉菜は俺や健吾が京都旅行のために動くことで、取り戻しつつある関係が破綻してしまうのではないかと危惧していた。親友のためだけではない。茉莉菜だって、こうして昔馴染みの四人が集まったことを喜んでいてくれたいる。
「でも、違うのよね。それはあたしが望むことであって、すずちゃんの望みじゃない。すずちゃんが思い出したいのは、今やこれからのため。わかっていたことだけど、見落としかけてた」
鈴涼の望みは過去を思い出して、両親が当たり前にくれる優しさの理由を知ること。それは同時に、彼女が目覚めてから得たあらゆる関係も見直すことに他ならない。茉莉菜は拒絶される恐怖に怯えている。そんな彼女を臆病だなんて言うことは、俺にはできなかった。
「思い出すのを諦めた時、本当に傷つくのはすずちゃんなんだわ。もう一度でも彼女を傷つけてしまったら、あたしは今度こそあたしを許せないと思う。友達、なのにって」
「それは……俺も、そうだ」
「だから、拒絶されたら消えようっていうのは違う気がするの。例え受け入れてもらえなくても、あの子が次の居場所を見つけることができるまで隣に居る……それが、あたしにできる唯一の贖罪だと思う」
彼女の罵声も呪詛も受け入れること。それだけがあの日に逃げ出した俺にできることだと思っていた。ただ、もしも鈴涼が望まなくても、一人にさせてしまうなんて無責任だけは駄目なのだ。逃げるだけでは、駄目なのだ。
「それに、一晴が言ってくれたでしょ。あたしたちは親友だから大丈夫だって」
彼女が少女と三年振りの再開を果たした日。俺は安心させたかったのか背中を押したかったのか、今となってはどうしてあの場であんなことを言ったのだろうと思えて仕方がない。茉莉菜と鈴涼の関係は俺が見ていたよりもずっと複雑で、他人が干渉する余白はただの一枚も残っていなかったのに。
しかし、茉莉菜にはその言葉でほんの少しの勇気を与えられていた。彼女があの時に「あんたに言われなくてもわかってる」と言ったのは、強がりと不安の結果だったのだ。
「だからもう少し、信じてみようと思う。あの頃のあたしたちと、今のみんなの気持ちを」
「……あぁ。きっと大丈夫だ。時間をかけて、みんなでやり直そう」
茉莉菜の言葉に、鈴涼の母も似たことを言っていたのを思い出した。過去を信じる。築いただけの時間なら信頼できるけれど、崩れてしまったものを簡単には信じられない。そんな難しさをみんなが抱えている。俺たちの関係がでこぼこだらけなのは、積み重ねた感情の違いそのものが浮き彫りになっているからだ。
そしてその違いを埋めるのは、やはり思い出の中の過去になるのだろう。今を映す鏡だけを見るのではなくて、水面の奥底に沈んだそれぞれの気持ちを知ること。見上げる空の青さは同じでも、俺たちは満場一致で綺麗だなんて言わない。それさえわかっていれば、きっと間違いを選ばずに済む。重なり合わなかった波紋と出会った時、俺たちはこの川のように同じ場所へと流れ着くことができるのだ。
茉莉菜はこれで和解としてくれるつもりだろう。お互いに素直な言葉を並べるなんて小恥ずかしいから、彼女なりの『折れ方』をしてくれた。俺たちの関係の上ではとてもありがたくて、彼女もまた大人になっている証拠なのだ。健吾や茉莉菜に追いつくため、前に進む気持ちを新たにしようとした時、目の前の少女は呟くように言った。
「あんたも……あんたの頑張りも、あたしは褒められるべきだと思うわ。少なくとも、あたしはそう思うから」
昔にも聞いた事のないような賛辞にぽかんと口を開けてしまう。初めは何のことを言われているのかわからず、それがこの京都旅行のことだと理解した時には、次の進行方向を指し示されていた。
「それだけ! ほら、さっさと漕ぎなさいよ。早くしないとボートの貸し出し時間、終わっちゃうでしょ」
俺はたどたどしい返事をして、止まりかけていたオールを強く握り直した。静かに水面に差し入れると舟はゆっくり進む。掴んだ感覚は離しようがなくて、むず痒い。