最上鈴涼の恋思慕 1

文字数 4,547文字

 最後の文章を読み終わった瞬間、窓から入ってきた運動部の掛け声で、私の意識は現実へと引き戻された。走る時に「いち、に」を繰り返す様子は、真似したいとは思わないけれど、ほんの少しの憧れがある。昔から体格には恵まれず、体育でさえ息苦しくなってしまうのだ。お父さんはそんな私のことを心配しているので、一人の時の帰り道は小走りをしている――とは言え大体は部活の友達と帰っているから、その成果が実を結ぶことがあるのかと疑わしくもなってしまう。

 ともあれ、今日もみんなが揃う前に一冊読み終えることができた。さっきまで読んでいたのは野沢くんお勧めのミステリーで、少し恋愛色が強め。オムニバス形式で進みつつ、最終話は今までの話の中に張られた伏線を回収していった。今まで読んだ中だとストーリーの構成は『カーマインの鈴蘭』に近い。今度まりちゃんが読む時はぜひそれを教えてあげよう。きっと彼女は、普段読む本の何倍も興味を持ってくれるはずだ。

「んんー……」

 手の指を絡めて、いつの間にか固まっていた体を引き伸ばす。入道雲の浮かぶ空から風が入ると、私は言い表せない程の清涼感に息を漏らした。

 今日は八月三十一日。長いようで短かった、二年生の夏休みの最終日である。本当なら今頃は、自分の部屋で借りた本を読んでいたことだろう。自宅から市の図書館までの距離は学校よりも近いのだ。しかしわざわざ制服に袖を通し、大変な坂道を上るだけの労力を支払うのは、それだけの価値があると思っているから。

「そろそろかなあ」

 今日の二番乗りは誰だろう。初めの頃はそんなこと考えもしなかったのに、いつの間にかこの部屋に早く居着くのが定番になってしまった。原因は多分、何かと負けず嫌いなあの部員さんが毎回言ってくるからに違いない。

 がちゃ、と扉が開いた。忙しなくドアが開いた先に、ちょうど頭の中で思い浮かべていた人物が現れて面白くなる。私は自分の考えを悟られないように、上がりそうになる口角を極力抑えて言った。

「こんにちは、日向くん」

「また鈴涼が一番乗りかよぉ!」

 相当走ったのか、彼の黒髪の下の額はびっしょりと濡れていた。本気で残念がる表情がまるで幼子のようで、私はまた笑顔が溢れてしまうのを抑えるのに必死になった。



「それで一晴のテンションが妙に低い訳ね」

 隣に座るショートカットの少女がやや呆れ顔になって言う。ブラウンがかった瞳で目の前に座る日向くんを見つめるのは、中学校で初めてできた友達である岩本茉莉菜――まりちゃんだ。彼女は私がさっきまで読んでいた本に興味をそそられながらも、会話に集中するためにまだ手を付けないでいる。その真面目さこそが、部長やクラス委員長という仕事を請け負う原動力の一つなのだろう。

「結局一晴はこの夏休み、一度も最上さんの先を越せなかったね」

 彼の落ち込みぶりに拍車をかけた理由を口にしたのは野沢健吾くん。一年生の頃から変わらない丸眼鏡はある種のトレードマークみたいなものになっていて、その下にある柔和な目つきが安心感を醸し出している。日向くんは机に頬を預けて不貞腐れたまま、今にも唸り上げそうな顔になっている。

「くそぅ……なんでなんだ。今日は二度寝だってしてないのに」

「そんなに勝ちたいなら集合時間を午後にして、午前中から居れば良かったじゃない」

「そんなのフェアじゃねぇだろ。俺は正々堂々鈴涼に勝ちたかったんだよ」

「何でそこだけ律儀なのよ」

 夏休み中の部活――ここ文学部は去年設立されたばかりの新しい部活動で、『本を読むこと』を主体とした文化部である。元々は図書室の入荷蔵書削減を阻止するために、司書教諭の後藤先生が提案したもので、今ではちゃっかり前年度よりも多い予算を手に入れてしまっているらしい。

 言わば目的は達成されてしまっていて、本来であれば夏休み中にこの教室を使う理由もない。文化祭に部誌を発行できれば良いのだから、わざわざ休日にも練習をしている運動部や吹奏楽部とは違うのだ。それでもこうして集まるのは、多分――

「なぁ鈴涼、お前暇なのか? 実は夏休みの宿題全部やってませんとか言わない?」

 暇なだけならきっと殆ど毎日ここに通うことは無かっただろう。私は釈明も兼ねて、日向くんの言葉に反論する。

「ちゃんと全部やったよ。一週間前には終わらせてたかな」

「何でお前はそんなにできる奴なんだっ……!」

 できる人、という認識はない。ただ昔から色々なものが良く見える。それは視覚的なものではなくて、もっと直感的な、ここが要点なのだと理解できる瞬間があるということだ。だから勉強の仕方はある程度わかるけど、時間がかからないという訳ではない。

「すずちゃんと比較対象になろうだなんて、あんたじゃ百年早いわ。基本スペックが違うのよ。ね、すずちゃん」

「そ、そんなことないと思うよ」

 日向くんにもまりちゃんにも、もちろん野沢くんにも、私より優れている部分が沢山ある。例えばまりちゃんは意見を纏めることが上手だし、野沢くんは知識がとても豊富で頭が良い。日向くんはみんなを引っ張ることができる。みんながみんな、私が不得手なことができる凄い人達だ。

「お前、何でも早過ぎんだよ。部室にくるのも本読むのも……だからって早死すんなよ? 悲しいから」

「不謹慎なこと言ってんじゃないわよ、バカずはる!」

 ほら、こういう軽口だって、私じゃズバズバ返せない。日常の会話の節々にだってみんなの凄さは溢れているのだ。

「でも、部活があるお陰で去年から生活リズムが崩れなくなったよ。僕は毎年、長期休みがある度に朝が辛くなってたから」

「あ、わかるわ、それ。あたしも海渡に付き合って、ゲームで夜更かしとかさせられてたもの」

 私の家では夜更かしをするとお父さんの視線が厳しくなるので、どんなに遅くても日が変わるまでには寝ることにしている。本当はよく残業をしてくるお父さんともっと話す時間を作りたいのだが、私自身の心配をされている以上無視するのも些かいただけない気がするのだ。もしかしてこういうのを過保護と言うのかな、と疑問が過ぎる。別に嫌と言うわけではないから良いのだけれど、なんとなく恥ずかしいことだからみんなに聞いたりはしない。一人の世界に行きかけた思考を正して、二人の会話に一言だけ添える。

「じゃあある意味、みんな健康になってるんだね」

「読書で生活リズムが整えてるとか、それだけ聞いたらとんだ優等生集団だな」

「そうねー。あんたが居なかったらそう呼ばれてたかもねー」

「なにおう!?

 まりちゃんの棒読みに鋭いツッコミが飛んだ。彼が不本意になる気持ちはわかるが、私と野沢くんが苦笑いしかできなくなるのは心のどこかで否定できないと思っているからか。

「さ! それじゃ今日も健康のために本を読みましょ。あたし、さっきからずっと始めるの待ってたんだから!」

 文句を言いたげな日向くんを差し置いて、まりちゃんからはウキウキと楽しみな気持ちが伝わってくる。

「よっし。じゃあ今日も文学部、活動開始!」

 そうして元気なスタートの合図の後には、図書室の一角みたいに静かな空間が生まれる。とは言え全員同じクラスだから、明日も教室で顔を合わせるのだけれど。



 夏休みが明けても、季節の風がすぐに変わることなんてなかった。日が当たればまだまだ暑い坂を上って、私たち生徒は一月以上振りの授業へと臨む。

 ただし九月に入ると、桃川中学校はとても忙しない雰囲気になる。なぜなら今月の末には体育祭、翌月の上旬には文化祭が開かれるのだ。この慌ただしい日程には委員会活動に精力的なまりちゃんから文句があるようで、いわく「文化の日は十一月なんだから、文化祭くらいずらしなさいよね!」ということらしい。一理あると思った。

 そんなまりちゃんは、私たち二年一組の女子クラス委員として黒板の前に立っていた。教卓に両手を置いて、これからの予定決めをする会の司会を務めている。

「じゃあ、文化祭実行委員は木田さんにお願いしようと思います。よろしくお願いします」

 ぱちぱち、とまばらな拍手が起こる。取り仕切る人の決定は大事なことだけれど、意外とみんな関心がない。桃川中学校の文化祭はそれほど大きいものではなく外部からのお客さんも少ないので、やる気を起こそうという生徒もあまりいないのだろう。

「それで次は体育祭の方なんだけど、例年通り、実行委員には体育委員さんがなってくれます」

 ええー、という一部の男子の声が聞こえるも、まりちゃんは「そこ、うるさい」の一言で一蹴してみせる。やっぱりかっこいい。進行の妨げを許さないテキパキとした態度で次の話題を呈す。

「決めなきゃいけないのは応援旗係です。大きな模造紙に絵を描くアレね」

「誰か美術部とかいねーのー?」

 まりちゃんの隣に居た男子のクラス委員さんが呼びかける。しかしその声に応じる人は居なかった。

「そう言えばこのクラス、美術部の人居ないのよね」

「えぇー、じゃあ仕方ねぇなー。誰でも良いや。絵が得意なやつー?」

 これまた、シーンと静寂に包まれる。真剣に話は聞くものの、私と同じで辺りをキョロキョロするしかできない野沢くん。そして絵には微塵も興味がないであろう日向くんは何やら奇怪なペン回しに挑戦していた。前を向き直すと困り顔のまりちゃんと目が合って、彼女がやれやれと首を振る。そうして困り顔の人が増えた頃、声がした。

「そう言えば最上さんはどうなの?」

 突然呼ばれた名前が、一瞬だけ誰を示すものかわからなかった。ぽかんとしてしまった表情のまま二つ隣の席を見れば、長い髪を一つ結びにした女子生徒が自らの記憶を呼び起こしている。

「私、前に教室で絵描いてるの見たことあるよ」

「あ、あれは部活の冊子用の絵で、いつも描いてるわけじゃ……」

 私は反論した。休み時間を使って描いていたのは今年度の『銀杏(イチョウ)』の表紙絵だ。去年のイラストよりも良いものを描こうと練習していたのを見られていたらしい。しかし練習したとは言え、描いていたのは植物の絵だけ。応援旗に相応しい絵なんて描いたことがない。

「でも経験無い人より良いに決まってるわ!」

 近くに居た他の女子生徒が高らかに言った。真っ当な意見に言葉を遮られ、それでも自信の無さから「でも」と断りを入れようとする。すると教卓に立っていたまりちゃんが口を開けた。

「やりたくない人に押し付けるやり方はあんまり……」

「でも岩本、他にやりたいって奴も居ないぜー?」

 男子委員長の一言にまりちゃんも困り顔を作った。彼女は友達思いだけれど、それと同時に誰しもを平等に見ようとする公正さもある。クラス委員として、私ばかりに肩入れすることはできないだろう。何より、これ以上フォローを入れてくれるまりちゃんを困らせるのは忍びなかった。

「自信は無いですけど、それでも良ければ……やり、ます」

 私は進まない心を無理矢理に押し出す。このまま話が動かなければまりちゃんの負担が増えるばかりだ。私のことを友達と思ってくれている彼女のためにも、ここは嫌でも役を買って出るのが正しいと思った。教室はさっきより幾分か大きい拍手に包まれたけれど、私の気持ちは乾いた音たちほど軽やかではなかった。
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