第18話 始まりの出会い

文字数 6,288文字



 新しい春。みんなに平等なはずの季節の風だけど、あたしにとってはちょっとだけ特別になった。母親によく似た栗色髪をショートカットにして、ランドセルよりも長い付き合いの眼鏡はそっと自分の机の引き出しに仕舞い込む。

「よく似合ってるじゃない」

 あまりお世辞を言わない母が、鏡を見るあたしにそう言ってくれた。真新しいセーラー服に、まだ自信はないけれど少し前を向いた顔。きっと弟の海渡なんかは何の違いもわからないんだろうけど、あたしはちょっとだけ見栄を張ってみる。

「でしょ!」

 コンタクトを入れたあたしは、もう眼鏡の奥に何かを隠す遠慮なんていらない。大袈裟かもしれないけど、あたしは変われたのだ。

 ――ちょっとは近づけたかな。

 いつもあたしの前を行く、あの目立ちたがりを思い出す。お調子者にはなりたくないけど、あいつに置いて行かれるのが嫌なのだ。だから少しでも近い距離に。いつからか芽生えたこの気持ちにまだ確証は無いけれど、多分小っ恥ずかしい名前の感情なんだと、そんな気がする。

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい。後で入学式、行くからね」

 今はその想いに整理をつけることはできない。あたしは玄関から勢い良く飛び出して、雲がかる気持ちを置き去るみたいに風を切った。新しい一年の春の訪れが、舞い踊る桜の花びらたちがあたしを祝福してくれている。


 中学校に向かうための長い登り坂。毎日歩くには随分と苦痛になりそうな坂だけど、浮かれ気分を自覚する今日は全く苦ではなかった。そして早足で登り切った直後、見慣れた癖っ毛のまま着慣れない制服に身を包んだあいつが居た。

「おはよ、一晴!」

「んぁ……? お前、もしかして茉莉菜?」

「他に誰だってのよ」

 大きめの学ランのせいで裾を余らせた彼もまた、あたしと似て疲れていそうな感じはなかった。ちょっとだけ瞳を見開くと、やがてぎこちなく喋り始めた。

「な、なんか雰囲気変わったな。眼鏡じゃないし、その、制服だし」

「あんたもじゃない」

 どことなく視線の合わない彼とのやり取りは少し不満だったが、あたしはまぁいいや、と一晴の先を歩く。

「ほら行こ! 同じクラスだったら良いわね!」

「あぁ」

 これからの日々が楽しみで、あたしはとびきりの笑顔だったと思う。やってみたいことは幾らでもあるのだ。部活や委員会、今までどこかで躊躇していた様々なことを遠慮なく。未来への展望を妄想する中で、ふと気になったことがあった。

「そう言えば、一晴は入りたい部活とかあるの? やっぱり運動部?」

 一晴と海渡に付き合わされてよく外に駆り出されていたが、考えてみれば三人ではスポーツもしたことがない。小学校での一晴は休み時間に色々な人達のところでサッカーやらバスケやらをしていたみたいだが、特別これが好きというのは聞いた事がなかった。

「いや、俺は文化部入ろうかなって思ってんだけど」

「え、えぇ? 何で?」

 その答えはあたしにとってかなり意外なものだった。小学校のスポーツテストではいつもA判定を自慢していた男だ。それがまさか文化部とはどういう心境の変化だろうか。

「何で、って。俺、本好きだし。家で結構読んでんだよ」

「……嘘ね。もしかして一晴、キャラチェンしようとしてる?」

「なんでそうなるんだよ! それに変わったって言うならお前の方だろ!」

 思いがけない一晴の趣味に驚いたが、あたしとしては好都合だった。なぜならあたし自身は運動が得意ではなく、部活動の選択肢は元々文化部しかなかったのだ。もしかすると一晴と同じ部活に入れるかもしれない。そんな淡い期待が浮かぶ。

「なら部活見学一緒にしようよ」

「えー、嫌だよ。他の奴らに色々言われそうじゃん」

「……確かに」

 それは幼馴染みと言えども少々恥ずかしい。小学校が同じ人ならばあたしと一晴が家族ぐるみの付き合いであることを知っている人もいる。しかし、中学校では他の地域の生徒も大勢いるのだ。事情を知らない人が見れば何かと勘繰られることもあるだろう……それに、なまじ勘違いじゃないことが余計にタチが悪い。

 他愛ない会話をしているうちに下駄箱の前にたどり着く。大きめのホワイトボードを三つほど連ね、そこに四クラス分の名簿が貼り出されていた。いくらコンタクトをしているとは言え、あたしの視力では小さな文字は随分とぼやけてしまう。仕方なく人混みをかき分けて自分の名前を探すが、我先にと勇む生徒たちに揉みくちゃにされて全然それどころではなかった。あたしが初っ端の試練に苦戦を強いられていると、突然制服の後ろを誰かに掴まれる。

「な、なにっ?」

 状況もわからないまま同級生の群れから引っ張り出されると、強引な行動の主は当たり前のように言った。

「お前、四組な」

 正体は一晴であった。思えば彼は昔から視力が良く、後ろからでも見つけられたのだろう。あたしはありがたいと思いながらも、さっきの一緒云々を早速蔑ろにする一晴に妙な苛立ちを覚える。変に顔が熱い。

「か、一晴は何組なのよ」

「俺は……二組だな」

 何かを誤魔化すみたいに話題を紡ぐ。彼は再びホワイトボードを一瞥しただけで自分の名前を見つけたらしい。どうしてあたしを先に見つけてるんだ、と文句を言いたくなったが、一晴は何だかんだで面倒見が良いタイプだ。悪戦苦闘するあたしを見かねて先に探し出したのだろう。そんな扱いをされたことにまた苛立ちを募らせる。

 ――それに、同じクラスじゃなかったか。

 あたしは残念に思っていた。四組まであるのだからクラスが違うなんてことは当たり前にあるはずなのに、色んな感情が入り交じって少しだけ俯いた。すると一晴が体を折って覗き込んでくる。

「……眼鏡取ったからよく見えねーんじゃねーの?」

「う、うっさい! ちゃんとコンタクト入れてるわよ! バカ!」

 なんなのだこの男は。あたしのコンタクトの心配よりも先にデリカシーを入れてこい、という言葉は、何だかこの場で彼に言っても仕方がない気がしたので堪えた。しかし、一晴からすれば親切に対して文句で返されたわけで、それが琴線に触れたのか大きな声で叫ぶ。

「なんだと!」

「何よ!」

 半ばヤケクソで彼に反発する。そしてあたしはなぜこんなにも怒っているのだろうか。ただお互いにバカバカ言い合う低俗な喧嘩が数秒間続いた。

「こらお前らぁ! 入学初日から喧嘩すんじゃねぇ!」

 突然後ろから怒鳴り声が飛んだ。あたしと一晴は同時に肩を震わせ、恐る恐る後ろを確認する。そこにはしかめ面であたし達を見下ろす男がいた。この時間にスーツ姿でこの場所にいるということは先生だろう。

「他の奴らに迷惑だろうが! やるなら他所でやってこい!」

 言われて少し周りを見渡せば、大量の視線があたし達に向かっていた。それに気づくと同時に、さっきよりも余程熱い羞恥心が込み上げてくる。一晴は微妙な表情で顔を引き攣らせていた。

「す、すみませんでした……」

「……みま……んで……た」

「……式じゃうるさくすんじゃねぇぞ」

 言いながら先生が去り、やがて多くの視線も外れていった。あたしと一晴は気まずさを覚えながら互いを見やる。

 先生に怒られた経験など生まれて初めてだ。外から見ている分にはこんなに怖いものだとは思っていなかった。叫ばれた瞬間から、心臓がばくばくと跳ね続けている。

「お、お前がバカとか言うからだぞ……」

 ぼそり、と言った一晴の一言をあたしは聞き逃さなかった。

「は、はぁ? あたしのせいって言いたいの? 明らかに、あんたが変なこと言ったからでしょ!」

「茉莉菜だ!」

「一晴よ!」

 あたしたちは再びヒートアップしかけた。すると当然、さっきのしかめっ面がどしどしと戻ってくる。

「お前らうるせぇっつってんだろ!」

 二度目の怒号に、また内蔵が跳ね上がった。



「本……本かぁ」

 数日後、あたしは桃川中学の階段を上がっていた。もちろんこの数日で行った場所は色々とあり、階段を使うことが特別珍しいことではない。珍しさだけで言えば、あたしが一念発起して学級委員になったことの方が余程大ごとだ。その報告を一晴にしてみれば、案の定目を丸くして驚いていた。

「図書室は……四階だっけ」

 入学後のオリエンテーションで訪れた図書室。クラス全員でぞろぞろと階段を登り、その時に試しに一冊だけ本を借りることになった。あたしはドラマでよく見るからという理由だけでミステリー小説を選んでみたが、やはり読み慣れていないためにそれほど手がつかない上、状況もよくわからない。

 しかしながら、それではなんだか一晴に負けたようで気に食わない。あいつがどんな本を読んでいるかは知らないけれど、あたしだって本くらいまともに読める人間でいたい。ただそのためには、もっと興味があったり簡単な本じゃないと駄目だ。あたしはそんな考えで、返却期限前日に再び図書室に向かっていたのだった。

「あら、いらっしゃい」

「こんにちは」

 図書室のスライドドアを開けるとカウンターから歓迎された。座っていたのは、確か後藤という名前の先生だ。オリエンテーションの時もここに居て、利用方法などを丁寧に説明してくれた。本の知識がたくさんあって、色っぽさを感じさせられる大人の女性。あたしはこんな風にはなれないだろうなぁ、なんて関係の無いことを思いながら、先生に相談してみることにした。

「あの、後藤先生」

「何かしら?」

「あたし、本を探してるんですけど……本を読み慣れてない中学生でも読みやすい本とか、ありませんか?」

 我ながら抽象的な物言いしかできないが、ろくに知識のないあたしが伝えられるのはこの程度でしかない。それでも彼女は少しだけ考え「ちょっと待ってね」と言ってから席を立った。少ししてから、一冊の文庫本を持って戻ってくる。

「こんなのはどうかしら?」

「『カーマインの鈴蘭』?」

 それはタイトルからは内容の想像がつかないような本だった。カーマインは赤系の色で、鈴蘭は確か白い花が有名だったはずだ。なんともめでたい色の対比だが、タイトルを見ただけで考えられることなんてこの程度でしかない。表紙の写真からは、建物の造りから学校のどこか一部分ということだけが伝わってくる。

「これ、この前借りた子が面白いって話してたのよ。私も昔に読んだけど、学園ミステリーだからあなた達世代にピッタリだと思うの」

「そうなんですか……」

 あたしは手渡されたその本をじっと見つめる。どうせ本を読むにしてもアテは無いのだ。あたしは殆ど考えることなく言った。

「わかりました! これ、借ります」

「はい。じゃあ自分の図書カードに本と日付を書いておいてね」

 あたしはオリエンテーションで教えてもらった通りに、手のひらサイズの紙の二枠目にタイトルと日付を記入した。この『カーマインの鈴蘭』が、あたしに本の面白さを伝えてくれるのだろうか。そんな不安とわくわくが入り混じって、いつもより字が歪になった。

「期限は二週間よ。忘れないでね」

「はい、ありがとうございました!」

 あたしはその本を片手に持ち、図書室のスライドドアを開けようとした。すると手持ちを掴む前にドアが開き、入ろうとして来た女子生徒とぶつかりそうになる。

「わっ」

 あたしは思わず声を出してしまった。相手もかなり驚いた表情で、ドアから半歩ほど後ずさる。あたしと同じくらいの身長で、長い黒髪が印象的な少女だった。制服のスカートと同じように黒糸がふわりと浮き、羨ましくなるくらいの大きな瞳と、長い睫毛が良く見えた。

「ご、ごめんなさい。大丈夫……ですか?」

 少女はあわや衝突しかけたあたしに急いで謝ってくる。しかしながら勢い良く飛び出そうとしたのはあたしの方で、少女に謝らせるのは至って不本意だ。あたしはばっと頭を下げて早口で言う。

「こ、こちらこそごめんなさい! あたしよく前を見てなくって……」

「いえ。私も不注意でしたから、顔を上げてください」

 優しげな物腰で喋る少女の片腕には、三冊の文庫本が抱えられていた。おそらく読破した作品なのだろうが、あたしからすれば二週間で三冊もの本を読むというのは知らない次元の話だった。相当な読書家なのだと推測できる。

「あら、いらっしゃい最上さん」

「こんにちは、後藤先生」

 少し気まずい空気の中、図書室から後藤先生が出てきてくれた。どうやら最上と呼ばれたこの少女と先生には浅からぬ接点があるようだ。

「前に来たのは……一週間前だったかしら? もう全部読んだの?」

 ――一週間!

 あたしは心の中だけで叫び驚愕する。一週間ということはつまり、二日と半日以内に一冊を読み終える計算になる。少女の読書量に感心したのも束の間、彼女ははにかみながらこう言った。

「実はこれ、三日前に借りた本なんです。後藤先生じゃなくて、三嶋先生が当番だった時に」

「み、三日⁉」

 あたしは今度こそ声を上げてしまった。一日一冊。あたしは世の中の広さを思い知らされながら、自分自身の現状に赤面した。

「す、すごいですね……」

「そんなこと。他に趣味がないだけですよ」

 最上さんは平然と言ってのけるが、今のあたしからすれば尊敬の対象でしかない。もし一晴がこの境地に達しているのだとすれば、彼に対する認識もかなり改めなくてはならないと覚悟した。

「あ、あたしも頑張らなくちゃ……」

「……?」

 不思議そうな表情をする彼女に、後ろに立っていた後藤先生が語り始める。

「こちら、岩本茉莉菜さん。本に慣れたいから、読みやすい本を探してるんですって」

 あれ、名前教えたっけ。さっきの図書カードに名前が書いてあるからそれか、などと困惑する中、目の前の少女は深々と丁寧なお辞儀をしてくれた。

「私は一年の最上鈴涼と言います」

 一年生。大人びていて年上かと思っていたが、どうやら同級生らしい。胸の辺りを確認してみると、あたしと同じ緑のラインが入った名札が付いていた。これは学年ごとに色分けされているため、誰でもその人が何年生かわかる仕組みだ。ちなみに二年と三年の色は、知らない。

「そ、そっか。あたしも一年なの。よろしくね、最上さん」

「はい、よろしくお願いします」

 まるで名家のお嬢様みたいなお行儀の良さだった。なんだか色々とあたしとは違う世界の住人な気がして、少しばかり気が引ける。しかしそんなあたしの気持ちはお構い無しに、後藤先生は話を進めてしまった。

「それでね、最上さん。もしあなたからお勧めの本があれば、彼女に紹介してあげて欲しいの。良いかしら?」

「はい。良いですよ」

 二つ返事で即答だ。最上さんは面倒くさがる様子も見せず、すんなりと先生の依頼を了承してくれた。それが良いことだったのかどうかは、この時はまだ知らない。

「でも、今はその本を借りてるんじゃないんですか?」

 最上さんは視線をあたしが持っている『カーマインの鈴蘭』に向けた。

「それはさっき私が勧めたの。でも同年代の方が何かと共感できることもあるでしょうし、私もいつもここに居るわけじゃないから。もし次の本に悩んでいたら、一緒に考えてあげてくれる?」

「わかりました」

 またもあたしの意思に関わらず、話がとんとん拍子で進んでいく。あたしは困惑を極めながら、彼女たちを交互に見つめていた。

「学年も同じですから、いつでも聞いてくださいね」

「あ、ありがと」

 そんな優しい言葉をかけながら、少女は図書室に入って行った。あたしは一人廊下を歩き、帰るために下駄箱へ向かう。この数奇な出会いが、あたしを――あたしたちを大きく変えてしまうとは、夢にも思わないまま。
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