第8話 祭りのあとで

文字数 6,206文字



 スピーカーがぷつ、と短く音を吐き出したことに気づいた。二秒くらい待った後で校内放送を告げるチャイムが響く。

『本日の三田高文化祭は、全てのプログラムを終了致しました。お越しくださった皆様、本当にありがとうございます。また、明日の来校をお待ちしております』

 来訪者に向けた今日最後のメッセージ。文化祭自体は明日の日曜日も開催しているようだが、俺たちからの返事は「さようなら」だ。まだ日が傾き始めたばかりの空には明るい翳りが残る。眩しいくらいど派手に飾られた校門の脇で、俺たち文学部の面々は解散のための会話を交わしていた。

「それじゃあオレは、この後片付けと明日の準備があるからさ」

「あぁ。今日はありがとな」

 生徒である健吾は明日に向けた仕事があるため一緒に帰ることはできない。しかしながら、こうしてきっちり見送りをしてくれる辺りに彼らしさを感じる。健吾は今回のメインターゲットである鈴涼の方に体を向けると、少し前屈みに近づきながら聞いた。

「どうだったかな、最上さん。楽しんでもらえたかい?」

「うん、とても。だから、ありがとう」

 返答こそ短いものだったが、彼女の表情はあまり見られない満足気な微笑みだ。今回の企画を用意した策士は、その笑顔に真っ白い歯を見せて応えた。

「どういたしまして」

 普段の学校とは一風変わった文化祭の一日。ステージ発表や様々に工夫を凝らした生徒たちの活動記録を見た。そして自分が元ネタになるという物珍しい経験まで。こんな稀有な文化祭は、二度とあり得ないだろう。

 俺個人だけではない。きっと鈴涼にとっても良い思い出を作ることができたはずだ。未だ記憶を取り戻すことは叶わないが、その過程で得られる過去以外の記憶――それを彩りの中で作れるのなら、今の鈴涼にとって素晴らしいことなのではないか。

「他に、こんな感じで色んなことをしてやれたらな」

 願望はちらと口から漏れていた。記憶を刺激するためとは言え、鈴涼が笑っていなければ意味が無い。それは茉莉菜や健吾と相談してきちんと話し合ったことだ。この文化祭は、目標としていたその指針の真ん中を辿った。

 ――俺はまだ何もしてやれていない。俺が思い出せる、鈴涼を連れ出してやれる場所は。

 思案している中で、隣の茉莉菜がいつの間にか俺を見ていた。感じた視線を追おうとすると、いつかみたいにふいと避けられる。だけど今日始めて会った時よりは、少しは目が合わせられるようになった気がした。

「じゃあ帰るか。鈴涼は家まで送ってくれって頼まれてるから、まずは鈴涼の家に……」

「ま、待ってくださーい!」

 突然聞こえた声の方を見ると、遠くからお下げを揺らす少女が大袈裟に手を振りながら走って来た。もう片腕には何か入った紙袋を抱えており、焦った様子で俺たちの前に立ち止まる。

「中峰さんじゃない。どうしたの?」

 相当走ったのか、中峰はぜぇはぁ息を荒らげてしばらく茉莉菜の呼び掛けに答えられない。健吾が俯いた背中をさすってやると、ようやく落ち着いて新しい空気を深々と取り込んだ。中峰はばっと起き上がって紙袋を鈴涼に差し出す。

「あの、こ、これ! 良かったら持って行って下さい!」

「……これは?」

 受け取った鈴涼が短く尋ねた。紙袋の中身は、パンフレットにしては余りにも厚みのある冊子だ。表紙には机の上に積まれた本のイラストと『文学部物語』というタイトルが記されている。

「それは今日の演劇の台本です。偶然書き込みの無いものを見つけたものですから……」

「わざわざ、持って来てくれたの?」

「はい。先輩からお話を聞いた時から、私にも何かお手伝いができたら良いなって思っていたので」

 お手伝いなどと謙遜するには、彼女の働きは余りにも大き過ぎるだろう。今日のことは中峰という脚本家が居てくれたからこそ成せたものだ。「彼女はお人好しなのさ」と耳打ちする健吾の言葉は何だか楽しそうに聞こえた。鈴涼は台本をまじまじと見た後、中峰を真正面に捉える。そうして紙袋を握る手に力を込めたら、その心の内を言葉にした。

「今日は、あなたからたくさんもらった。全部、大切にする」

 一介の学生に焦点を当てた物語。観客を楽しませるだけでなく、鈴涼や俺たちに対するメッセージを伝えてくれた。鈴涼だって本当ならば演劇部全員に感謝を伝えたかったことだろう。しかしそれを叶えようとすると中峰に迷惑をかけてしまう。だからせめて、この思い出を失くしてしまわないように、奪ってしまわぬようにと誓ったのだ。

「そうしてくれたら、私も嬉しいです。早く記憶が戻ると良いですね」

「――うん」

 鈴涼は柔らかな笑顔で、中峰からの贈り物を確かに受け取った。太陽に当てられていない空気が水気と僅かな冷たさを運ぶ。しんみりしてしまった空気を打ち壊すように、健吾がやぁやぁと声を大きくして言った。

「いやぁ、さすが未来の小説家だねぇ! やっぱり中峰さんに頼んで正解だったよ」

「小説家?」

 俺が聞き返したのと殆ど同時に、中峰が表情を真っ赤にしながら焦り出す。

「ちょっと先輩! それは内緒だって言ってるじゃないですか!」

「へぇー。中峰さん、小説家志望なんだ?」

 興味が勝ったのか、割と容赦の無い茉莉菜の追及が飛んでしまった。人にデリカシーに厳しいことを言っておきながらである。じっとりその顔を見つめると、直後に「やってしまった」みたいな顔になるのだから彼女だって大概だ。

「えっとぉ……はぃ、そぅですぅ……」

 わかりやすく中峰の声に覇気が無くなってしまった。これでは言って欲しくないことではなく、ただの弱点だ。神経を削ってしまった茉莉菜が慌てた様子でリカバリーに入る。

「しょ、小説家になりたいなんて、別に恥ずかしいことじゃないわよ。あんなに面白いお話も書けるんだし」

「うぅ……ありがとうございますぅ……」

 一応お礼を言うくらいの精神的体力は残っていたようだが、それが中峰の精一杯だった。およおよと顔を隠してしまい、振り向いたら恨みがましいのっぺらぼうにでも成り果てているんじゃなかろうか。

「違うんだよ岩本さん。確かに彼女の書く話は面白いんだ。だけど一つだけ問題があってね」

「問題?」

「地の文が絶望的に下手なんだ」

 その言葉を聞いて、あぁなるほどと得心した。舞台の脚本に必要なのはあくまで台詞やシチュエーションだ。読み手となる演者への伝わりやすさが大切だろうし、読み上げられない文の美しさは必ずしも必要ではないのかもしれない。

「い、いかんせん小説家になりたいと思ったのが今年の春頃の話でして。まだ全然、進歩が見えないんです」

「贔屓目に見ても、まだまだなんだよねぇ。脚本を書いた経験は何度かあるらしいから、その辺の慣れでどうにかなると思ってたんだけど」

「お前は一体どの立場なんだよ」

「んー……監督、兼編集者? まぁ脇役だよ」

 つまりそれが二人の謎の秘密だったというわけか。演劇部でも何でもない健吾が二年の中峰と仲が良いのは、彼女の文章を見ているからなのだ。

 ――いや。それはそれでどんな経緯が気になるけど。

 しかし今はこれ以上突っ込んでも中峰をいたぶる結果にしかならないと悟った。いつか健吾に直接聞こうと思い留まって、今はこの場を離れてやるのがお互いのためだ。

「ほら。二人とも、まだ学校のことがあるんだろ? もう解散するぞ」

「あぁ、そうでした! 私、明日の舞台の準備を抜け出して来てたんです!」

「一晴にタイムキーパーをされるとはねぇ。これは槍が降る前に戻れという思し召しかな」

「おい、そこのチャラ男。去り際に戯言を吐いていくな」

 こりゃ失言、と言わんばかりの顔を作った健吾が逃げるように走り去る。隣に立っていた中峰もぺこりと頭を下げて元の場所へと戻って行った。最初に会った時よりも、体の曲がりは鈍角だった。

「なんか……忙しなさの似た二人ね」

「他人に迷惑をかける分、健吾の方がよっぽど酷いと思うけどな。俺たちも帰ろう」

「そうね」

 かくして三田高校での文化祭巡りは幕を閉じた。帰り道、鈴涼は座った電車の席で、貰った脚本とずっと睨めっこをしていた。その様子はかつて読書に熱中していた頃の彼女を彷彿とさせる。時に難しい顔を作るのを、俺と茉莉菜は微笑みながら見ていた。



 文化祭から帰った後、俺は自室の本棚を漁っていた。本棚には最近話題になった文庫本や殆ど表紙とタイトルだけ見て買ったもの、さらに昔は好んで読んでいたライトノベルまで、多種多様と言うよりはざっくばらんなラインナップが並んでいる。

 日向一晴の読書遍歴は小学校高学年の頃に遡る。見ていたテレビアニメの原作小説が、偶然小学校の図書室に置いてあるのを見つけたのだ。

 その頃の俺は、控えめに言っても読書に興味なんて無かった。頭で考えるよりも体を動かす方が楽しかったし、感想文なんて何を書くべきかわからない。今でこそ学生が求められる感想なんて大したものではないとわかるが、当時はたかが日本語の羅列に思うところなんてなかった。

 しかし気紛れに取ったその小説を読んで、初めて視覚に映らない景色というものを確かに見たのだ。テレビの中で見た情景の一つ一つに、未知の色の名前があることを知った。去って行く誰かに、言葉以上の感情があることを学んだ。

 それ以来、見たことのある映像媒体の原作を中心に読書の沼に嵌った。中学生になってからはそういった自分の趣味での読み方だけでなく、部活でみんなが好きな作品も読み出した。おかげで今では、小説ならばジャンルを問わない本の虫である。

 この本棚はそんな俺の嗜好がひたすらに詰められているため、どんな本があるかはほぼ記憶している。ただしその中で一冊だけ、手に取ることもしないで奥底に沈めたものがあった。

「……あった」

 分厚さは授業で使う辞書にも劣らない。大きさなんてそれ以上で、対抗できるのは子どもがよく見る動物図鑑くらいではあるまいか。いや、ある種図鑑ではあるか。もちろん掲載されているのは象の生態でもカマキリの特徴でもない。存在するのは、まだ幼さを残すヒトの子らの写真のはずだ。

「卒アル……初めて開くな」

 『絆の木』と銘打たれた、桃川中学校第八十八期生の卒業アルバム。正直卒業するまで自分が何期生だったかなんて覚えちゃいなかったが、重要なのはそこではない。この中には集合写真だけではなく、日常生活の中で撮られた写真なんかも載ってあるのだ。


 今日の文化祭で、健吾が決行した『過去の再現を見せる』という作戦。もちろんそれで鈴涼の記憶が戻ることはなかったが、ほんの少しだけでも彼女の感情を揺さぶることができたのは確かだ。

 文学部で作った文集を見せた時や茉莉菜と再開した時、加えて今回の演劇。これらは鈴涼が大きな感情の変化を見せたタイミングである。反応にこそ違いはあるが、その三つに共通するのは、どれも中学の頃の思い出と密接に関係しているということだ。

 それならば、やはり中学校当時の思い出にリンクした何かをしてやることが記憶復活の手助けになるだろう。だからこそ、こうして今までに一度たりとも開いたことのない卒業アルバムをわざわざ本の山から引っ張り出した訳なのだが。

「……」

 目的の本を見つけてからしばらく経っても、未だに中身を見ることができていない。そもそも俺は一度たりとも、この卒業アルバムは開いたことが無いのだ。

 この本の中には、間違いなく過去の俺たちの思い出が居る。思い返せるだけでも、部活の集合写真や同じクラスで撮られた記憶がある。俺がいっそ消し去りたいとまで思ったあの頃の笑顔が、ここに。

 はぁーっと大きく息を吐いた。汚れてしまった肺の空気を吐き出すようにして、そして全く新しい意思を獲得する。

「もう、逃げないって言ったもんな」

 俺は少しだけ揺らぐ指先に力を込める。捲った先にある写真たちは、巡る思い出たちの世界。三年前に駆け、同じ時間の分だけ囚われている過去の情景が広がった。

 クラスの集合写真に始まり、一人一人の笑顔のアップ。教師陣の紹介の欄には、現役では聞くことのなかった感涙モノの言葉が並ぶ。大きな見開き一ページを恐る恐る進めていくうち、部活ごとの集合写真が出てきた。

 ――見つけた。

 文化部の一覧の中にある、今はもう存在しない部活動。顧問の後藤先生を入れてもたった五人しか写らない小さな小さな一幕は、それでも俺の記憶から抜け落ちることなく突き刺さる。

 今より数センチ短い髪で、全く上がらなくなった口角を広げるかつての俺。憎たらしいくらいの明るさが今ではもう懐かしい。『日向一晴』なんて輝かしい名前は、きっとこの時の自分にはぴったりだったのだろう。

 その左隣に居るのは茉莉菜だ。被写体ということを意識し過ぎて、ちょっと顔が強張ってしまっている。普段は肝が据わってるのに、こんな時ばかりは上がり症なのだ。

 逆側に立つのは健吾。こちらもまた写真越しに緊張の伝わる様子である。校則から一つも外れぬ制服の着こなしに、水泳の授業でしか取った姿を見たことがない丸眼鏡。こうして見ると、本当に変貌という言葉が脳裏を埋め尽くす。

 そして鈴涼は、一番左端から俺たちを見守っているみたいに少しだけ体が傾いている。漆に塗られたような鮮やかな髪が腰の高さで見え隠れし、柔らかな笑みは大和撫子と呼ぶに相応しいだろう。そうして本を両手に、騒がしい俺たちに微笑んでくれるのが彼女だった。

「良い、写真だな」

 絵を見れば視覚以上の背景が浮かぶように、本を読めば想像の世界がどこまでも広がるように、この写真を見れば、すぐにあの頃の情景が蘇った。

 ――『おい、緊張すんなよ健吾! もっとシャキッとしろって!』

 ――『そんなこと言ったって……』

 ――『ちょ、ちょっと一晴! 急に大きい声出さないでよ! びっくりするでしょ!』

 ――『三人とも。静かにしないと、写真屋さん困ってるよ』

 茶化して、叱って、宥められて。肩を叩いた感触や窓から流れる空気の音が今でも染み付いている。撮影者の掛け声に合わせて各々が精一杯の笑顔を作り、そうして留めた青春の切り抜き。泡影と化しても、まだ形だけは鮮明に水面に残るのだ。

 俺はふぅ、と息を吐いて、硬くなった上体の背筋を伸ばした。最初からこんな様子では卒業アルバムを見終わるまではもうしばらくかかりそうだ。天井の蛍光灯を一度見上げてからチカチカする目の頭を抑えてアルバムに戻っていく。

 目を落とした次のページには体育祭や林間学校などイベント事の写真が並んでいた。文化祭でおかしな仮装をしている生徒や合唱コンクールの練習をしていると思しき元クラスメイト。三年振りに見る顔がたくさん居る中、俺は文学部全員が揃って写っている写真を見つけた。

「これは……」

 真っ赤になって落ちるもみじを背景に、元気なピースサインをカメラに向けている。後ろに見えるのは、段々になって流れる山からの清涼な恵みだ。その上を和風な小舟が浮き、船頭と乗客が談笑しているのだろうか。空は少し重苦しい雰囲気だが、ピントを合わせられた若人たちの笑顔がそんなものをあっさりと跳ね除ける。

 水面には無限のプリズムが煌めいて、眩しいほどに思い出を美しく彩った。

京都、嵐山――俺たちが修学旅行で訪れた場所を見て、俺の脳裏には馬鹿げた非現実がよぎった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み