第21話 熱

文字数 4,029文字

 決めるが早いか、あたしはすずちゃんに説得されて四階の階段を急ぎ足で降りる。放課後のまだ浅い時間とは言え、部活にも入っていない一晴が帰るのは彼の気分次第だ。それを事前に説明したのだが、少しでも可能性があるならとすずちゃんは止まる素振りを見せなかった。

 そして到着した一年二組の教室。しかし吹き抜けの廊下を小走りしていた時から、なんとなくその周囲の閑散さを察知していた。

「誰も居ない、ね……」

 正確には既に鍵がかけられており、誰もいないことが明らかだったのだ。つまり一晴も既に帰宅している可能性が高い。

「あちゃー。残念だけど、今日はもう無理みたいだね」

 ちらりと横を見やると、すずちゃんはかなり残念そうな顔をしていた。息巻いてただけに勢いを削がれてショックだったというところだろう。

「まぁ仕方ないよ。明日……は休みだから、月曜日にあたしからまた話しておくよ」

 あたしは諦めて四階の図書室にとんぼ返りしようとした。しかし彼女は不服そうな顔をしていて、こんなことを言った。

「熱はね、熱いうちの方が伝わるの」

「……え?」

 ふと、言い回しに違和感のあるような言葉が飛び出した。

 それを言うならば『鉄は熱いうちに打て』だ。鉄で物を作るなら熱く柔らかいうちの方が良いという教えから生まれたことわざで、意味は若くて未熟な方が学びの吸収が良いとかそんなところだっただろう。ただ読書好きな彼女が慣用句を間違えているとも思えず、少しだけ異なる意味で言っているような気がする。

「私と日向くんの熱意は、今ピークだと思うの。だったらすぐに伝え合った方が良い。じゃないと、いつ心変わりしてもおかしくないもの」

「あいつに限ってそれはないと思うけど……」

「熱は、熱ければ伝わるから! 日向くんにも、まりちゃんにも、他の人にも!」

 すずちゃんが必死になって言うものだから気圧されるみたいに言葉に詰まった。彼女の生み出した少しの違和感が、どうしてかあたしの脳裏を離れない。思考が揺らぐような言葉の温度はずぶずぶとあたしの中に流れてくる。本からの借り物じゃない、彼女自身の強い意志が伝播してくるように。

「そ、そうかもしれないけど。でももうあいつ帰っちゃったんだよ? それなのにどうやって話なんて……」

 するの? と聞こうと思った刹那、今度は彼女に両肩をがしっと掴まれていた。逃げ場を奪われたあたしは、彼女の要求を正面から受け止めることとなってしまう。

「私を日向くんの家に連れて行って! まりちゃん、幼馴染みなんだよね?」



 見慣れた一軒家。それなのにこんなにも緊張するのは、おそらく隣に立つ人間が手のかかる弟ではないからだろう。日が沈むまでに到着した日向家は、なぜか以前までとは少し遠くに感じた。

「……ほんとにやるの?」

 あたしは何度目かもわからない質問をすずちゃんにぶつける。そして彼女の返答も、何度聞いても変わらない。

「やる。そのためにここまで来たんだもの」

 彼女がここまで頑固だと思ってはいなかった。いつも控えめだし、強い物言いなど聞いたことがない。しかしすずちゃんは、その華奢な体に一本芯の通った女の子だったのだ。知り合って約一月。彼女の友人を名乗るには、あたしは最上鈴涼という少女への理解がいささか浅過ぎたのかもしれないと思う。

「インターホン、押すね」

「あー、良いよ。それくらいあたしがやるから」

「……うん、ありがとう」

 こうなってしまってはもう渋る理由もなかった。そもそもあたしはなぜ二人を引き合わせることにこんなに躊躇っているのだろうか。その理由のないモヤモヤをあたしは追い出すために少し深めに息を吐いた。意を決して押されたインターホンから、ピンポーンといういつもの音が響いて、やがて女性の声がした。

『はーい』

「あ、おばさん。茉莉菜です。一晴いますか?」

『あ、茉莉菜ちゃんね。ちょっと待っててねー……一晴! ほら、茉莉菜ちゃんだよ! さっさと外行きな!』

『あ、茉莉菜? 何で……』

 会話はそんなタイミングで途切れた。道路には十数秒の静寂が流れ、やがて扉が開く音が大きく聞こえた。

「何だよ茉莉菜。俺明日期限の本読まなきゃなんないんだけど……」

 後ろ髪をかきながら面倒そうに出てきたのは一晴だ。彼はすずちゃんを見つけると不思議そうな顔になった。

「……えっと、そっちの人、誰?」

「紹介するね。こちらもが……」

「最上鈴涼です! こんばんは、日向くん!」

 あたしの言葉を遮って、彼女はばっと一晴の前に出た。その勢いに普段は物怖じしない一晴もさすがに一歩分仰け反る。もはや引いてると言っても過言ではない。何ともレアな光景だ。

「私も部活に入りたいんです!」

「ぶ、部活って……もしかして読書部のこと?」

「そうです!」

 すずちゃんの暑苦しいまでの熱量が一晴を押し潰す。夏の訪れはまだ先なのに、まるで彼女のいるこの場だけが炎天下に晒されているみたいだった。やがて何が何だか、という様子の一晴はあたしに向かってやや大きい声で呼びかけた。

「ま、茉莉菜。この人何者? もしかしてお前が誘ったメンバー?」

「誘ったって言うか……どっちかと言うとあたしがすずちゃんに連れてこられたのよ」

「はぁ?」

 一晴が状況を把握できないのも当然だ。あたしだってまともに理解していないのだから。幼馴染みの友達と言えども、すずちゃんは彼にとって立派な他人である。そんな人が部活の話を聞くなり、突然入部希望者の自宅に押しかけて来たのだ。あたしも自分の脳内の整理が全然ついていないことを自覚している。

 あたし達の沈黙を破ったのは他でもないすずちゃんだった。再び、ずい、と一晴に詰め寄って話を進める。

「後藤先生に図書室に新しい本が入らないって聞きましたよね? だから部活を作るって」

 正確には新しい本が入らないわけではない。そんなことになったらナントカ委員会からも大目玉を食らいそうなくらいには大問題である。話のスケールが大きくなっていくすずちゃんを止めようかと思ったが、彼女が一晴と似たタイプだと思い出してやめた。

「私も図書室のために協力したいんです! 私とまりちゃん、そして日向くんで三人。もう一人が見つかれば部の設立ができます!」

「ん? えっ」

 あたしは彼女の言葉に耳を疑って変な声を出した。

「ちょ、ちょっと待ってすずちゃん!」

「なんだ茉莉菜。入ってくれるのか?」

「言ってない! 言ってないから! あたし読書部に入るとか一言も言ってない!」

 あたしは早とちりする一晴に大声で否定する。あたしの役割はあくまで目的の同じすずちゃんと一晴を引き合わせることである。それ以上はまだ何も決めてなんかいないのだ。

「まりちゃんは入ってくれます!」

 すずちゃんはあたしの言葉を聞いていなかったみたいに断定した。えぇっ、とまた声を漏らすと、彼女はばっさりと言ってみせる。

「まりちゃんも本が好きだし、それに優しいから。きっと入ってくれます。だよね、まりちゃん」

 無言の圧力というものではなかった。それは多分信頼とか、小っ恥ずかしいけど友情とかいう言葉の類だ。こちらをぱちりとした目で見つめる彼女からは、邪な感情を一切感じ取れない。出会ってから一か月、彼女とは浅からぬ縁を結んできたつもりだが、そこまで心を許される切っ掛けなど何もなかったはずなのに。

「な、なんで?」

 あたしはつい尋ねてしまった。野暮な質問だったと思う。ただあたしは彼女の真意を聞かなければ、どうしても納得がいかなかった。だってあたしは彼女に何をしてあげたことも無いのだから。

「綺麗な目、してるから」

 すずちゃんの答えはさっぱり意味のわからないものだった。まるで小説のキザな奴みたいな台詞は、そこにいる清楚な少女の印象にはとても合わなかった。

「まりちゃんは家族とか友達とか、大事な人には多分とっても優しいから……私も、優しくしてもらってるから」

 最後の方にいくにつれて彼女は夕焼けに頬を照らした。そんな姿にあたしも熱くなって、そんなことはないだろうと反論しようと口を開きかけたその時。

「ぷっ、あははは」

 一晴が盛大に笑い出した。からからとあまりに楽しそうに笑うものだから、あたしは思わず反発する。

「な、何よ!」

「いやー、何でも。じゃあお前も茉莉菜のお節介にあったわけか」

 失礼この上ないことを言う一晴にいつものごとく食ってかかろうとする前に、間に居たすずちゃんが強く言い切った。

「お節介じゃないです。まりちゃんは私の無理を聞いてくれたんですから。こうやって話をしにこれたのも、まりちゃんのおかげです」

 それは嬉しくもあり、また美化し過ぎじゃないかとも思った。多分綺麗なのはあたしじゃなくて、すずちゃんの瞳のフィルターの方だろう。ただ一方で、一晴は彼女の言葉にうんうんと頷いている。

「なんか納得したわー。サンキューな、茉莉菜」

「全ッ然、理解も納得もできてないんですけど! 何で二人だけ納得してるのよ! おかしくない?」

 まるで二人ともあたしが部活動に参加することは前提というか、わかっていたという雰囲気である。確かに、幼馴染みと友達に誘われれば考えないこともない。断る理由も特に無いし、何より二人はあたしに大きな影響を与えてくれた人たちだ。本を読むきっかけをくれた人。本を読むことを教えてくれた人。この二人のためなら、あたしは自分の時間を使うことも厭わないと思う。

 ただ問題は、別に図書室のためになどとは一ミリも思っていないあたしのことを、一晴もすずちゃんも謎の信頼を置いて話を進めていることである。

「茉莉菜はそういう奴だからな」

「そういう人、ですよね」

 二人は互いに顔を見合わせ笑っている。全く納得のいかないあたしは、星空のカーテンがかけられそうな空に向かって大声で叫んだ。

「そういうって、何なのよ――っ!」

 私が抱いた疑問は、やがてとても楽しそうな二人の笑顔にはぐらかされてしまっていた。
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