第2話 初心で小心な傷心の

文字数 5,161文字

 それは九月に入ってすぐのことだった。卒業のために出席日数を稼ぎに行っていた俺は、うるさく鳴り続けるバイブレーションのせいで弁当を食べる手を止めた。

 俺のスマートフォンを鳴らす人間なんて極限られている。せいぜい家族か、登録している各種サービスのメールマガジン。中学まではケータイの類を買ってもらっていなかったためその頃の友人は全く登録していないし、高校に入ってからも……いや、居た。この振動音くらいやかましくなった男だ。

 数名のクラスメイトからの視線を浴びながら、乱れた整列をする机たちを躱して教室から外に出た。未だコールを続けるスマートフォンを片手に慌てて先生の目が届かない場所を探す。とりあえず最寄りの男子トイレの個室に逃げ込んでみたが、用を足していた生徒に訝しげな顔を向けられるのは心地良いものではなかった。

「もしもし」

 便座を開くことなく座り、すり潰したような小声で応答すると、一週間前には直に聞いた軽薄そうな口調が飛んできた。

『おっ。やっとこさ出てくれたかい。てっきり昼休みの時間が違うんじゃないかって思ってたところだよ』

 電話越しにガヤガヤと聞こえるあたり健吾は教室からかけてきているのだろう。人を目立たない場所へ追いやっておきながら良いご身分だ、と文句の一つも言いたくなる。

「お前の学校がどうかは知らないが、うちは基本ケータイ禁止なんだよ。用件があるならさっさと話せ」

『おおっとこれは失礼。時間が無くなる前に、伝え忘れたことがあったから慌てていたんだよ』

「時間? 伝え忘れ?」

 俺たちの連絡と言えば十中八九鈴涼に関することだ。オウム返しに尋ねると、健吾はそうそう、と肯定を挟んでから話を始めた。

『最上さんに次なる刺激を! ……ってことで、ぜひ来てもらいたい場所があるんだよね』

「アイデアが浮かんだってことか」

 それは俺と健吾と茉莉菜の三人でかねてより相談していた課題だった。俺たちの思い出の殆どは図書室裏や帰り道――要は桃川中学校に集約されてしまっているため、協力をしようにも次の手に行き詰まっていたからである。毎度中学校に行くというのも刺激としては不十分だろうし、何より鈴涼が飽きてしまいかねない。彼女を助けるつもりが彼女を苦しめてしまっては意味が無いのだ。

「来てもらうって、お前ん家でも行く気か?」

『違うよ。そんな怪しいこと提案するわけないだろ。訳が分からないじゃないか』

「お、おう。なんかすまん。言葉的にそんな感じなのかと……」

 なんだか下らないことを過剰に指摘されたような気がする。思えば俺ですら野沢家の敷地は跨いだことが無いのだから、鈴涼のことを率先して入れる訳がない。

『まぁホームって意味じゃ、間違ってもないけどね』

「……訳の分からんことを言ってるのはお前の方じゃないか?」

 毒を吐いたら、酷いなぁ、とか、オレだって真面目にだなぁ、とかいうボヤき声がした。俺は健吾の真意にさっぱり辿り着けそうになく、休み時間は後何分だったかなどと考えていた。多分、心底面倒くさそうな顔をしていたと思う。ひとしきり文句らしきものが終わった後、ようやく彼は本題に移った。

『うちの文化祭に来て欲しいんだ。来週の土曜日にね』

 文化祭。それは青春を謳歌する学生たちが必死になって催す年に一度きりのイベントだ。中学の頃は俺も参加意欲を持っていたが、高校に入ってからはクラスメイトから文句を言われない最低限の協力しかしていない。今年もそのスタンスは変わらないだろうし、最後の青春を楽しもうと画策する同級生を横目にできるだけ関わらないようにしている。つまり何が言いたいかと言うと、今の俺には殆ど縁の無い行事ということだ。

「文化祭……なんでまた」

『当日のお楽しみさ。ネタバレなんて面白くないだろう?』

「それはそうだが……あまりにも急じゃないか? 鈴涼にだって予定があるだろ」

『そこは抜かりないオレなんで任せてよ。前会った時にちゃんとお誘いして、オーケーをもらってあるからさ』

 前会った時、つまり桃川中を訪れた時のことだ。よもやそんな話をいつの間に通していたのか知らないが、(したた)かにも彼の計画は進行していたようである。そういうことは俺の知らない内にではなく、ぜひ事前申告してもらいたいものだ。

「お前、水面下で勝手になぁ……」

『あ、それと岩本さんを誘っておいてね! オレはこれから準備があるから、しばらく連絡つかないと思うんでそこんとこヨロシク!』

「なっ! お前、ちょっとまっ」

 俺の言葉の途中で、スマートフォンは温度のない音を鳴らす。画面を見直すと無慈悲な「通話終了」の四文字が健吾とのトーク履歴に浮かんでいた。

「ええ……」

 随分と自分勝手な報告の上に、人に厄介事まで押し付けていきやがった。俺はすぐにかけ直そうと電話マークに指をかけ、そして発信する直前にくぐもったチャイムがトイレにまで響き渡ったのだった。

 液晶画面に表示された時刻は一時ちょうど。これから訪れる面倒事と、直近の遅刻を咎められる二重の憂鬱に襲われながら個室のドアは嫌々開かれる。



 メッセージアプリに表示されている送信ボタンの上で、俺の親指は右往左往していた。

 自室は勉強机と本棚、そして押し入れがあるだけの部屋でベッドは無い。どうしてか昔から床に体を置いた状態でしかリラックスできず、毎晩布団を引いて寝る習慣が根付いているのだ。両親いわく、俺のそんな性質は赤ん坊の頃からだったようで、そのせいで家にあったベッドは邪魔だからと撤去したらしい。

 しかしながら今はフローリングにお尻をどれだけピッタリくっつけても落ち着かない。ただ一行の文章を送るだけの行為が、思考を悶々と曇らせる。

「ウブか、俺は」

 健吾に押し付けられた、茉莉菜を文化祭に誘うというだけの仕事。思えば何もおかしいことはなく、元よりこうしてお互いの連絡先を交換しているのも『鈴涼のことについて相談しやすいように』という目的のためである。だからこうして悩んでいるのは実に非合理的かつ無駄なことなのだ。自覚はある。だが、感情はそう何でもロジックに当てはまってくれない。

「そもそも、健吾がグループでも作って伝えてくれたらそれで万事解決だったじゃないか……!」

 俺たちの気まずさを知りながら、あの軽薄男は全てを丸投げしてきたのだ。けれどもこんな些事でいちいち文句を言うような男に成り下がったとも思われたくはない。今さら気にしたって仕方のないプライドかもしれないが、それもまた理にかなわない人間の面倒なメンタリティーなのだ。

「あぁ、くそ」

 「来週の土曜って空いてるか?」の短文を自分の箱にしまったまま、シャツがシワになることも厭わずごろごろと体を回す。どうしようもなく茉莉菜に対しての苦手意識が染み付いていた。間違いなく嫌われているという状況の悪さもあるが、それよりも、かつては幼馴染みとして仲が良かったというバックボーンがあることが余計に関係を複雑にしている。

 昔とは違う。元のようには戻れない。しかしそれ以外の接し方も知らない。物心ついた時には家族ぐるみの付き合いで、彼女の弟も交えて遊ぶ仲だった。だからこそ遠慮なんてしなかったし、茉莉菜という親友じみた間柄の同級生が居てくれることが嬉しかった。

 問題があったとすれば、きっと俺が――そして茉莉菜も、お互いを異性として意識してしまったからなのだろう。何でも言い合える中に二人揃って隠し事を持ち込んでしまったがために、そして今はそれを知ってしまっているがために、俺たちは『別れたカップル』みたいな歪さを伴っていて嫌気が差すのだ。

「はぁー……」

 胸を張るような大きい溜め息を天井のライトに向かって吐き出した。何も見えない手探りよりは、まだ冷え切った冬に見える吐息の方がマシに思える。しかし残暑の空気の中はやはり透明感あるまま溶けていくのだ。

 フローリングの冷たさに体温を預けていると段々と目蓋が重くなってきた。いっそこのまま眠ってしまったら楽だろうが、それでは昔と同じままだ。俺は意を決してもう一度スマートフォンと向き合う。現代人が生み出した厄介事の塊を今こそ打ち破る時――と意気込んだ瞬間、突然画面が切り替わって着信を伝えた。

 うおっ、と叫んで思わず端末から顔を遠ざけてしまった。他に誰も居ない部屋で大袈裟なアクションを起こしたことへの羞恥はひとまず置いておいて、電話を寄越した相手を確認する。そこに表示されているのは、なんと岩本茉莉菜その人だった。

「な、なんで」

 まさか焦れったい俺を見かねてスマートフォンが勝手にかけた訳ではあるまい。第一着信を受けているのだから、矢印の方向は茉莉菜からである。疑問に支配されつつもツーコール分ほど待って、心を落ち着かせてから電話に応じた。

「は、はい。もしもし、日向です」

『……なに畏まってんのよ。ケータイにかけたんだからわかってるに決まってるでしょ』

 電波を通じて聞こえてきたのは呆れと不機嫌さがミックスされた女子の音声だった。思えば茉莉菜とは小学生の頃によく家の固定電話で、遊びの約束のために連絡を取り合っていた。しかし茉莉菜も中学の時は携帯電話を持っていなかったから、こうして個人を特定した状態での電話というのは初めてのことである。

「そ、そうだな。なんか用か?」

 とりあえず沈黙なんて状況には耐えられるはずもないので、俺は彼女の電話の意図を尋ねてみた。しかし返ってきたのは一層不機嫌になった声だった。

『はぁ? あんたの方が何か用事があるんじゃないの?』

「お、俺が?」

 思いもよらぬ言葉に俺は動揺する。いや、もちろん用件はあるのだが、文化祭のことは俺だって今日聞いたばかりなのだ。だとすると別の話という線もあるが、そうなると思い当たる節はどこにもない。考えるほどに謎が深まる中、痺れを切らした茉莉菜が早口気味になって言った。

『健吾が言ってたわよ。すずちゃんのことについて相談があるんだけど、詳細は一晴が知ってるって』

 ――あの野郎。

 ギラギラのピアスを付けた金髪のしたり顔が脳裏に浮かぶ。そこまで言うなら内容も全て伝えてしまうべきだろう。わざわざ茉莉菜に連絡を取っておいて、どうしてたらい回しにする必要があっただろうか。

「あー、っと。色々事情は飛ばすけど、とりあえず来週の土曜日は何か予定あるか?」

『な、なによ、藪から棒に。別に、普段通り勉強してるだけだと思うけど』

 以前、彼女の弟である海渡から聞いているが、茉莉菜は国立大学志望だ。つまり年明けには全国規模のテストを受け、さらにそこから二次試験も乗り越えなければいけない。生真面目な彼女のことだからその辺りは抜かりなく努力していることだろう。

「それなら無理にとは言えないんだが……もし良ければ、健吾のところの文化祭に行きたいんだ」

『健吾の? 確か三田高よね? 何でそんな誘いをあんたが言うのよ』

「そこに関しては、俺が聞きたいくらいだから突っ込まないでくれ」

 状況のおかしさを押し付けられているのは俺も同じなのだ。健吾の真意がちっとも読み取れず困惑が消えない。せいぜいできる抵抗と言えば、浮かべても仕方の無い文句をぐるぐると巡らせるだけだった。

「そう言えばお前、よく健吾が三田高だって知ってたな」

『……同級生の進路くらい、誰かが噂してることもあるわよ』

 冷えたコーヒーくらい苦々しい低い声で返ってきた。あまり気分の良い質問ではない様子だ。やっぱり中学時代の話は茉莉菜に対してタブーな気がする。

「そ、そうか」

 追及しても良いことはないと確信した。こんな危険予知能力だけは長年の付き合いのせいで培われてしまっている。俺は多分わざとらしく聞こえた咳払いを挟んで、本題をさっさと済ませてしまおうとした。

「と、とにかく健吾が文化祭に鈴涼を連れて来て欲しいそうなんだ。それで、茉莉菜も誘っておいてくれって」

『……? それ、あんたを通す理由ある? ま、すずちゃんに関することなら良いわ。じゃあ来週の土曜日、すずちゃんを迎えに行ってから文化祭に行くってことね?』

「あぁ。時間とかは追って連絡する。とは言え、俺もまだ健吾から何も聞いてないんだけどな」

『できるだけ早めに頼むわよ。土曜なら海渡のお弁当だって用意しなきゃいけないかもしれないんだから』

「もちろんだ」

『じゃ』

 短い別れの挨拶にすら食い気味になって通話はぷっつりと切れてしまった。どこか億劫になっていた呼吸が戻ってきて、ふぅー……と肺から二酸化炭素が吹き出る。いつからか茉莉菜との会話に消費するカロリーが何十倍にも増えてしまった。その分が俺たちの今の距離感を表しているのだと思うと、あまりに顕著な溝の大きさに溜め息を繰り出すのだった。
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