第16話 ここに、いたいから

文字数 9,776文字

※――――――――――――――――――――――

 ――『人間まずは見てくれだよ。視覚の情報は、無意識的に相手の心象を変えるんだ』

 そんなことを得意げに語った健吾が選んだ慣れない服装。さっぱりとした感じに少しの大人っぽさを取り入れた――とは彼の受け売りだが、今日の交渉相手には年相応程度に見られたのでは困る。できるだけ同じ土俵に立つために、まずは服装を変えようとなったのが俺たちの作戦の第一段階だった。

「お話があって来ました」

 そして今日は最終段階の決行の日。鈴涼の希望を叶えるためには、目の前の男性に身を砕く覚悟で挑まねばならない。既知の仲であった茉莉菜を説得した時とはまた違った緊張感がある。中途半端に子どもであるということが今ほどもどかしいことはなかった。

 鈴涼の父はほっそりとした顔を驚かせたものの、すぐに事情を察知した様子で尋ねてきた。

「京都旅行の話かな?」

「はい」

 目の前の大人の表情が明らかに曇る。もしかしたら心変わりをしているかも、なんて貧小な期待は一瞬で打ち砕かれた。コンクリートの壁から伝わる冷たさが視線のごとく刺ささってくる。

「それは前にも言っただろう。鈴涼はまだ目覚めてから間もない。無理をさせるわけにはいかないんだよ」

「わかっています」

 幸先はとても悪い。そもそも一度断られた話をぶり返している時点で印象が最悪からスタートしていることは間違いない。

加えて言えば、俺はこの緊張感に覚えがあった。鈴涼の両親と初めて話したのは、鈴涼が昏睡状態に陥ってからすぐのことだ。母親の説得により、事故の当事者として体中を蝕む拒否反応をどうにか抑えつけて、謝罪に行ったのである。

 その時、俺は人間という生き物にこれ以上ない恐怖を抱いていた。どんな暴力や罵声でも、彼らからの断罪なら逃げ場は用意されていない。知る限りの呪いの言葉たちが脳内で渦巻いて、直前にはその息苦しさに胃の中の全てをぶちまけた。

 しかし彼らは、俺が想像していた劣悪な言葉は一つとしてこぼさなかった。それどころか「鈴涼と友達で居てくれてありがとう」とまで言ってくれたのだ。俺は彼らが寄り添ってくれる度に、自分の中にある汚さがもっと酷いものに見えて仕方がなかった。

 今はあの時より苦々しい唾液の味がする。用意していた言葉が溶かされてしまう前に、だから、と口を開いた。

「ちゃんと考えました。鈴涼が無理しない日程で旅行ができるように」

「そんなの、推測だけだろう」

「信用してもらえないのはわかっています。でも、どうしても連れて行ってやりたいんです」

 再会して聞いた今の鈴涼の本心。彼女が抱え込み続ける苦しみは確かな熱を孕んでいて、体温を奪われていた俺に夏の暑さを思い出させた。鈴涼の想いを伝えられるのは、あの日に全てを打ち明けられた俺だけなのだ。

 ただ、そのことを正しく伝えるためには、あまりにも言葉を尽くし過ぎてしまう。全てを打ち明けることを鈴涼自身は本当に良しとするだろうか。面倒を見てくれる彼らを傷つけてしまうから、鈴涼は見知らぬ俺にしか言えなかっただけ。そんな憶測のせいで説得の言葉が喉の奥で押し留まってしまう。

 ――馬鹿か、迷うな。そんなことは散々考えてきたはずだ。

 真っ向から意見の対立する人を前に心はどこか萎縮してしまっている。揺らぎそうになる決意に反して言葉には押し通す強さを持たせなくてはならない。そのアンバランスさを父親の瞳に見透かされてしまいそうな気がしてしまうのだ。

「駄目だ」

 言い淀んでいる間に、目の前の男性は強い口調で断定した。いつの間にか下がってしまっていた顔を跳ねるように上げると、柔らかな目つきはすっかり消えて、鋭い視線が伸びていた。

「君たちがどれだけ鈴涼に親身になってくれても、あの子の体にはまだまだ負担がかかり過ぎる。無理をさせてまた事故に遭ったりでもしたら、君はあの子を返してくれるのか」

「でも、今のままじゃ駄目なんです! 鈴涼がそこに居るだけじゃ意味がないんです!」

「一体何がいけないと言うんだね。あの子が健やかに暮らすことに意味なんていらない。平和に私たちと日々を過ごすことの邪魔をしないでくれ」

「鈴涼は!」

 平行線をたどる会話がもどかしく、俺は思わず声を張ってしまっていた。しかしすぐに悪手だと悟り、表情と共に勢いを潜ませる。

「鈴涼はずっと苦しんでます。目覚めてからずっと……!」

「そんなことは知っている。きみは私を愚弄しているのか」

「ち、違います……! そんなんじゃなくてっ」

 父親の中には怒りの感情が芽生えていた。言葉の綾だとしても、娘の苦しみは三年間離れずに見てきた彼らの方が知っているに決まっている。苦心した日々が貶められるなんて侮辱以外の何物でもない。

「もういい。これ以上、話すことはないよ。今日のことは忘れるから、早く帰りなさい」

 説得の言葉は出てこなかった。それどころか、俺の奥底から這い出たのは自分に対する嫌悪感だけだ。これ以上は鈴涼の意思を踏み躙る可能性がある。そうとわかっていても、やはり俺にはありのままを伝えることでしか、冷涼な気温に立ち向かえなかった。

「その、優しさなんだ……」

「なに?」

 呟くように出てしまった本音が、自分がまだ酷く幼くて無知であることを知らしめる。街灯に映る影がとても小さくて、明るさという名の正論に全てをかき消されてしまいそうだった。俺は情けなさに声が震えながら、沈めていた原動力をとうとう引き上げてしまう。

「その優しさなんです。鈴涼がわからないのは、優しく接してくれるあなたやお母さん、みんなの気持ちなんだ」

 鈴涼の父が疑問に口を閉ざしている間に、止まってしまいそうな喉に無理やり空気を入れて続ける。

「あなたは優しい。こんなに馬鹿でしつこくて、世間を見れてない俺のことだって、大事な娘と引き剥がそうとしない。あの事故でもう一人の当事者だった奴だっていうのに、恨まずに許してくれた」

「それは君が、鈴涼の友人だから……」

「鈴涼はその理由を知りたがっているんです。あなたやみんなが向けてくれる優しさ。その意味がわからないから」

 遮ってまで言った言葉の本当の意味を、鈴涼の父は未だに理解できずに居る。ほんの少しのニュアンスの違いでしかないけれど、そのちっぽけな歯車のズレが鈴涼の心を不自由にするのだ。

 ふつふつと苛立ちが募っていくのを感じていた。もどかしさと、何より鈴涼が打ち明けてくれたことの全てを使わないと伝えられない俺自身の不出来さに。

「鈴涼と再会した時、言われたんです。『みんな、どうしてわたしに優しくするの』って」

「親なんだ。当然だろう」

「俺も、そう言いました。そうしたら鈴涼はこう聞いてきたんです。『わたしはお父さんとお母さんのことを知らないのに、何で優しくするの?』って」

 父親は、はっと目を開いた。虹彩に反射する電灯の光が増して、俺の言葉の意味が正しく伝わったことを示す。

 鈴涼が直接両親に告げることができなかった葛藤――彼女の優しさ故に「当然」に支援をしてくれる両親に疑いなんて向けたくなかったのだろう。だけど鈴涼は記憶を失っても、自分の辛さを哀れんで欲しいなんて思っていない。それどころか自分の周りの苦しみに気づいてしまうくらい良いやつだから。

「あいつは……鈴涼は、その戸惑いにずっと苦しんでいます。その答えを見つけたくて、理由が欲しくて、一度は離れていった俺たちのことを頼ってまで過去を探してるんだ!」

 優しさは人を救うはずのものなのに、彼らは優しさがあるから傷つき合う。お互いに思いやることが苦しみになってしまうなんてあってはならない。俺が最上鈴涼にした最大の罪は、彼らから『当たり前の優しさ』を奪い取ったことだ。

「俺はそのためならどんなことでもしたい! だって――だってあの日、俺は鈴涼から逃げたから」

 口をついた身勝手な独白を、鈴涼の父親は黙って聞いていた。短い間隔で入ってくる空気の味さえ薄い。

 俺は何を話すべきか。伝えたかったことはもう言い切っている。鈴涼の抱える苦悩も、自分自身の醜い決意も全て。だから次に言うべきことは旅行の説得の続きであるはずなのに、ぶちまけた言葉の反動だと言わんばかりに顎が動かない。

 辺りには静寂が訪れる。夜の帳が降りた世界で、俺は目も合わせられなかった。見下ろす星々が聴衆の視線に感じられて喉が枯れ果ててしまう。飲んだ涎に痛みを感じた時、閉じたフェンスの先からガチャリという音が鳴った。

「あなた」

 心配げな声のする方に二人の女性の姿があった。憂いのある表情にはいくつも共通点が見えて、娘の伸びてきた髪はもう少しで母親のショートカットと同じくらいになる。並ぶだけで親子と呼ぶには十分過ぎた。

「千颯、鈴涼……」

 父親が呼んだ前者の名前はおそらく母親の名前なのだろう。真空にも思える世界の中で、自分が今どこに居るのかさえ忘れてしまっていた。驚きに包まれた父親は唖然と家族を見つめている。

 こんな話をするのに鈴涼たちの許可を取っていない訳がない。家の前で待ち伏せのような真似をさせてもらえたのも、彼女たちの協力のおかげだった。全て承知済みの母親が見覚えのある困りげな笑顔を俺に向けた。

「ごめんなさい。少し心配だったから、モニターで見ていたの」

 インターホンに備え付いたカメラが目玉のようにこちらを見ている。今までのことを全て聞かれていたのかと思うと体内から蒸気が溢れそうになった。失礼で勝手なことを散々言って、最上一家から反感すら買っていてもおかしくない。もう何で跳ねているのかわからない心臓が破裂しそうだ。

 しかし母親は、あの頃と同じで俺を責め立てはしなかった。体を父親に直して、結ばれた唇に呼びかける。

「あなた。私は一晴くんの話を聞いて、納得したのよ。鈴涼がどうしてここまで頑張るのか……それは自分のためだけじゃなくて、私たちのためでもあるんだって」

 鈴涼の肩に手をかけると、少女はぎこちなくその手を握り返した。ゆっくりと近づくこの距離こそ、鈴涼が埋めたいと思う距離だ。道のりは近く、そして険しい。

 だから探しに行く。その獣道の歩き方を記して、彼女が躊躇いを失うその日まで協力すると誓った。再び暗い気持ちが漂う中、母親は少し可笑しそうに言った。

「それにあなたは知らないと思うけど……一晴くんは、記憶を失う前の鈴涼が、あなたの次に信頼していた男の子なのよ?」

 驚いたのは、今度は父親だけではなかった。そして、せり上がる苦しさを噛み潰すみたいに表情を歪めて、母親は告げる。

「私たちもいい加減、鈴涼を信じてあげても良いと思うの」

 道端の時が止まったみたいだった。夏の冷たい風が何倍も肺を凍らせる。誰もが思っていて口には出せなかった。今の鈴涼はみんなが知る最上鈴涼の延長に居ない。だから、どこかで信頼の気持ちをこぼすように落とした。それは紛れもなく彼女に浴びせた辱めであり、親子の間にあるような優しさの中で黙殺された現実なのだ。

「ごめん、鈴涼。俺……」

 言葉が溢れ出す。元より謝らなければならなかった。鈴涼が両親のために隠していた想いを使って説得の材料にしたこと。昔から続く不義理さに自分ですら嫌気が差す。こんなやり方しか知らないだなんて、言い訳だ。

 鈴涼はこちらに歩いて来て、手を広げたくらいの距離で止まった。顔を上げられない情けない男の前で、空気が震える。

「ううん、大丈夫だよ」

 あの頃の教室から声がした。はっと顔を上げたらさっきと変わらない景色。そのはずなのに、心配をかけまいとする気丈さだけは遠くから流れて来たメッセージのようだった。

「本当はわたしが伝えなきゃいけないことだった。だから、ありがとう」

 彼女の声で聞くその五文字がいたく心臓に沁みた。鈴涼から何かを受け取ることは、俺なんかが許されて良いことではないのだと思う。だけど彼女は無意識に優しさをくれた。そしてそれを彼女が受け入れられない現実が、また涙腺を弛ませるのだ。

「本当に、情けないな。俺は」

 彼女の願いを叶えるつもりでいるのに、いつも後押しをされている。悔しさに頬が熱を孕んでしまい、とうとう顔は月を凝視しないといけなくなっていた。

 多分、いつかこの不出来な自分のツケを払わされる日がくる。だけどそれが今日でないことだけが心からの救いだった。

「……非現実的な計画だろう」

 黙っていた父親がぽつりと言った。さっきまでの威圧的な雰囲気は消えていて、後悔の自念に苛まれている。だけど俺の直感は、前に進む一歩はもうすぐだと告げていた。

「大丈夫です。さっきは説明し損ねましたけど、現実的にしてくれる人も居るんです」

 説得は俺に与えられた役目だったけれど、この計画は個人戦ではない。俺はおもむろに近くの曲がり角を見遣った。釣られるように一同がそちらを向くと、顔だけをひょこっと出した金髪がピアスを光らせる。

「やぁやぁ。いつ出てこようか困ったじゃないか、一晴」

 神妙な表情をしていた風にも見えたが、瞬きの次にはいつものお調子者な態度に戻っていた。健吾は笑顔のまま数歩出てくると、わざとらしく手のひらを上に向けて曲がり角を示した。

 そこに現れたのは、健吾と肩を並べるくらいの身長をした女性だった。知的な雰囲気を漂わせるスクエアの眼鏡に、長めのスカート丈をしたタイトスーツ。年齢の読めない顔には糸のように黒髪が流れる。実に見覚えのある女性は式場よろしく深々と腰を折った。

「みなさん、こんばんは」

「あなたは……?」

「以前、桃川中学で娘さんの顧問をしていた後藤と言います。今日は突然押し掛ける形になって申し訳ありません」

 投げかけられた疑問に、後藤先生は丁寧な所作と挨拶で返した。彼女が訪れたことに父親だけでなく最上一家全員が驚いている。

 それもそのはず、もしも先生がわざわざ訪れるとわかっていたら、彼らはきっと相応のもてなしをしなければという義務感に駆られると思ったからだ。そんなのじゃない。俺たちが説得するべきは世間体の気持ちではなく、一家の本心だからだ。

 自己紹介もほどほどに、彼女がここに居る理由の本題を切り出した。

「京都旅行の件、私にも協力させてください。この子たちの面倒は、私が同行して責任を持って見させて頂きます」

 父親が何度目かの驚きを見せる中、健吾が解説を加えるように言った。

「子どもだけじゃどうにもならないこともあると思いまして。オレたちなりに考えた誠意の見せ方です」

 後藤先生は中学校の司書教諭であり、大人としての地位を確立している。加えて三年前までは俺たち文学部の顧問――この幻想じみた話の中で、最も説得力を持たせられる人だ。俺の服装を整えた後で行われた作戦の第二段階目は、実は後藤先生の助力を請うことだったのである。

 鈴涼の父親が唖然とする中で一人の少女が歩み出た。短い漆髪を月明かりに晒し、大きな瞳で目の前の大切な人を見る。

「お父さん」

 短い呼び方は発音的な違和感こそ無い。けれど生まれた時から培ってきた想いは薄らいでいて、鈴涼の呼ぶ『誰か』は、誰であっても殆ど空っぽと変わらないのだと思う。

 だから彼女は、言葉の意味を探し続けている。そこにある意味を追い求めて、その先にある大切な人の幸せを掴もうとしている。

「わたし、行きたいよ。心配かけるのはわかってるけど、お父さんのこと、お母さんのこと、早く思い出したい」

「早く、なんて、思わなくったって……」

「わたし、知ってるんだよ。お父さんがいつも、わたしを見る度に悲しそうな顔をするの」

 鈴涼の父はぎょっとした顔をして、そしてすぐに納得したような表情になった。自分の娘がどれだけ聡いかなんて、きっと俺たちよりも知っている。鈴涼はそんな優しさを家族にもずっと向けていたに違いない。

「わたしもわかるの。わからないことが怖い。わかられないことが苦しい。お父さんはわたしが何も言わないと、すぐにそんな表情をするの」

 寂しそうな目が交差する。きっとどこかで自覚があったのだろう。娘の呼ぶ自分と、父親の呼ぶ自分。二人のパズルは偶然嵌った間違いのピースでできている。こうして暗い夜道に隠してしまえば、他の誰も気づけないくらいに『ちゃんと』繋がってしまっている。

「でも、一晴くんたちが教えてくれた。ちゃんとぶつかることも大事だって。だからわたしも、お父さんとぶつかろうと思う」

 その捉えて離さない瞳は、鈴涼と初めて出会った時――彼女が記憶を失うもっと前に見たものを彷彿とさせた。それは部活を作ろうとした時に鈴涼から雪崩込んだ決意の熱さ。同じだけの想いを乗せて、彼女自身の言葉で父親に伝わる。

「わたしはお父さんに笑っていて欲しい。お母さんにも、毎日楽しんでいて欲しい。だから思い出すの、必要なの。優しいの理由が、必要なの。ここに、いたいから」

 誰が許容するでもない。鈴涼自身が納得し、飲み込めるだけの理由が必要だ。それを見つけるために、彼女は記憶を取り戻す必要がある。初めて出会った時から変わらない強い意志を孕んだ声。父親は気圧されたみたいに体を斜めに向けてしまった。

「けど、ね……」

 娘からの言葉でも決断を渋った。いや、これは当然のことなのだろう。親が子を思うからこそ、揺れ動く。傲慢なことを思う自分に喝を入れることに必死になっていたら、後藤先生が突然言い放った。

「彼らはまだまだ未熟です。考えの至らないことや、若さにかまけて失敗もすることでしょう」

 続く言葉を塞いでくれたかと思うのも束の間、まるで後ろ背に刃物を突き立てるみたいな発言だった。ばっと振り向いた先で、彼女は「任せて」と言わんばかりの微笑だけを渡してきた。

「それでも言えるのは、彼らは自分のためだけじゃなく、他の誰かを思って行動できる人間だと言うことです」

「子どもの言うことじゃないですか、先生」

「第三者である私が真実を知る術はありません。ですが、お父さんは日向くんたちに『妬ましい』と仰ったそうですね?」

 一方的に切り替わった話題に、父親はバツの悪い顔をする。最初に説得を持ち掛けた時、俺は自分たちと鈴涼のことしか考えていなかったことを突き付けられた。

 奇しくもそれは俺が命題として定めていた「他者の気持ちを考える」ことの未熟さを露呈させた。茉莉菜を鈴涼と会わせることができたと言っても、エゴイストの性根はそうそう変わらない。しかし後藤先生は断罪するでもなく続ける。

「そう言われて彼らは今日まで考えて来ました。これから起こす行動が誰に影響を与え、誰を喜ばせることができ、誰を悲しませるのか。もう彼らは、私が知る頃よりもずっと成長しています。考えることができる大人に近づいているんです――そしてそれは、娘さんも」

 小さな体が確かに頷いた。後藤先生は満足気ににっこりと笑って少女を肯定する。

「紛れもなく、みんなが再会したことで起きた変化なんです。ここに居ない岩本さんも含めて、四人がもう一度手を取り合えたから、みんなで成長できているんです」

 鈴涼は記憶を失って孤独に立ち止まっていた。しかし茉莉菜や健吾との再会が少しだけ物語を動かした。そして影響を与えられたのが彼女だけではないことを日向一晴という人間は嫌というほど知っている。

「私は、日々を歩き続ける彼らのことを信頼しています。ここまであなたの心を揺らすことができた彼らであっても、まだ信頼は置けませんか?」

 この話を持ちかけた時、後藤先生は殆ど考えることなく承認してくれた。俺と健吾は予想外の即答に呆けた顔を見合わせただけだったが、彼女は俺たちにそのような信頼を置いていてくれたのだ。

「心を、揺らす……」

 鈴涼の父が短く繰り返す。後藤先生のその言葉にどれだけの含みがあったかはわからない。しかしほっそりとした顔は覚悟を決めたように前に出て、鈴涼を正面から捉えた。

「鈴涼」

「うん」

「鈴涼は……知りたいんだね? 意味があるとしても、ないとしても」

「うん。知ってるか知らないかじゃ、全部、違っちゃうから」

「――わかった」

 はっきりと聞き取れた言葉に母親が目を柔らかく細めた。父親は俺たちの方を向いて、それぞれを一瞥してから頭を下げた。

「しっかり準備する時間を用意させてください。冬になる前に鈴涼の体調が万全であったなら……その時は私も応援します」

「ありがとうございます」

 何かぷっつりと糸が切れていた俺の代わりに、健吾が父親よりも深々腰を折る。話合いは以上となって、黙っていた夜風がちょっとだけ強くなった。家に入って行く家族の表情はそれぞれで、父親の顔はまだ釈然とはしていなかった。

 最後まで悩み抜いた決断であろうことは俺にだってわかる。きっと不安と心配で仕方がないはずだ。しかし同時に、初めて対等な存在として認めてもらえた喜びが芽生えていた。

 何より父親の言葉を聞いた娘は、かつての豊かだった表情を取り戻していた気がするのだ。



 一瞬の出来事のようだった交渉は、俺たちの欲しがった結果を携えて終わった。鈴涼たちが家へと戻ったのを確認するや否や、俺の体からはどっと冷や汗が飛び出した。

「はぁぁ……」

「とても万事上手くいった人間の顔じゃないね。一晴」

 苦笑する健吾に言われ、さっきまでの会話を思い出していた。目的は達成できたとは言え、正直なところ、俺自身の役割を果たせたとは言い難い。みんなの協力があってようやくここまでこぎつけたのだから。

 まだまだ大人には程遠い。それでも今だけは少しくらい甘えても許されるのではないかと思った。

「当たり前だろ……今日はコーヒーの一つも用意してくれてないのか」

「あるよ、ほら」

 健吾が手に持っていたのは甘ったるそうなカフェオレだった。今はどんなご馳走より美味しそうに見える缶に手を伸ばす。

 しかし目の前の甘露を受け取ろうとした瞬間、雪を欺く五指にひょいと取り上げられてしまった。透き通るような桃色をした爪の先には、結果的この話し合いを決定付けてくれた後藤先生が居た。さっきまでの真面目顔はどこへやら、片眉を上げて俺を見ている。

「日向くんには、まだ仕事が残っているんじゃないの?」

「……はい」

 俺は携帯を取り出したが、メッセージアプリの通話ボタンを押しあぐねてしまう。疲労し切った思考回路のせいで何を言えば良いか言葉が纏まらない。しかしそんな間にも周りの視線は冷ややかになっていく。

「さっきまでの威勢はどこ行ったんだよ。ほら、さっさとかける!」

「わ、わかってるよ!」

 俺は言い訳を立てる時のような忙しなさでコールした。緊張流れる数秒の後、携帯からは無機質さを意識したような声が聞こえる。

『もしもし』

 電話の先は茉莉菜だった。彼女には、事前にこの話し合いの結果は伝える旨を話している。俺は渇き果てた喉で言った。

「もしもし……説得、上手くいったよ」

『……そう』

 沈黙が訪れかけて、俺は慌てるようにして確認する。

「これで茉莉菜も来てくれるよな?」

『約束、だから』

 茉莉菜の声音は腑に落ちない様子ではなくて、この場に居ないことに対する罪悪感に苛まれているようだった。彼女だって一度は説得に付いて来てくれたのだから、旅行について俺たちに丸投げするのは不本意だったのだろう。

 茉莉菜は、彼女なりの考えで俺たちとは違う道を選んだ。しかし紛れもなく鈴涼のための選択だ。だから彼女を責めるなんてあり得ないし、俺から言いたいことはたった一言だった。

「あぁ。ありがとう」

『……別に、感謝なんてしなくて良い。全部、あんたが勝ち取ったものなんだから』

 彼女は道理だと言わんばかりだったが、俺は本心から茉莉菜への感謝があった。もしも最初に断られた時に彼女が不安を打ち明けてくれていなかったら、俺はまた誰かの気持ちを推し量ることなく突っ走ってしまっていたと思うから。

「今度、健吾としおりを作ろうって話も上がってるんだ。良ければ手伝ってくれ」

『……わかった』

 返事を聞いてから五秒して、電話はぷっつりと切れてしまった。いつの間にか隣に立っていた後藤先生に没収されていたカフェオレを渡される。喉を通り過ぎたミルクの味が、いつもよりずっと甘い。
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