第6話 空振る一歩目

文字数 4,902文字

 高校最後の夏休みに突入し、受験も目の前に迫りつつある。私は学級委員という面倒な仕事からも解放され、ただの岩本茉莉菜として自室の机に向かっていた。

 朝の十時。苦手な寝起きを乗り越えて、朝食を終えて軽く身なりを整えたら部屋に籠る生活。それもそろそろ一年を迎えるというところか。狙っている国立大学は難関なので、友達と必要以上の付き合いもせず、こうして勉学へと励む勤勉な生活リズムを形成した。

 小さな頃から殆ど変わらないレイアウトは、私に心地良い安堵を与えてくれる。だけど同時に、過去を忘れないための戒めだ。眼鏡をかけ、昔より伸びた栗毛を後ろで一つ結びにすると、私は赤本を開いて臨戦態勢へと移行した。

「……っし、やるか」

 スマートフォンからお気に入りの洋楽を流し始める。小さな気合いとともにシャーペンを握り、ノートに数式を書き写そうとした、その時だ。

 ピンポーン、とインターホンが鳴った。一瞬、共働きの両親に代わって出なければという責任感に駆られたが、今やそんな必要は無いのだと思い出す。頼りなかった弟の海渡(かいと)はもう十四歳になり、立派に対応してくれるだろう。案の定、がちゃりと家のドアが開く音がして、私は再び勉強に集中する。

 漸化式の問題は文系の私にとっての天敵だ。訳の分からないパターンを押し付けてきて、言葉も無いのに何かを伝えようとする。いや、きっとたどり着く解答にだって、大した理由なんか無いのだろう。けれども、私の進む道のためには避けては通れない障害だ。もう失敗を重ねないために、私は私にとっての最善を選び続けて生きていかなければならないのだから。

 アプローチを見つけ、シャーペンが動き出す。後は流れるアップテンポに乗せて、数字と記号を羅列していくだけだ。

「まりねぇ。お客さんだよ」

 〇.五ミリ芯の踊りが唐突に中断された。声の方を見ると、私と同じ栗色髪をスポーツマンらしい短髪に切り揃えた弟が立っている。

「お、お客? ってか海渡。ノック」

「したよ。音楽かけてて聞こえなかったんじゃん」

 呆れ顔を作る弟は、最近母親に似てきた気がする。元々私も海渡も母親似なのだが、細いラインやぱっちりした奥二重は私には欠けていて妬ましい。可愛らしい外見は多分クラスの女子に放って置かれないだろうが、本人はバスケ一筋だからしばらく色恋沙汰は起きないと思う――いや、そんなことを考えている場合ではなかった。

「お客って、思い当たる節ないんだけど。お父さんかお母さんの知り合い?」

 父も母も共働きで、私の夏休みの平日休みと両親の休日が被ることはまず無い。怪しさが募り、追い返す必要があるな、と重い腰を上げかけたその時。

「いや、かずにぃと……なんかチャラい人」

 海渡から発された単語が、一瞬何を表しているのかさっぱりわからなかった。

 『かずにぃ』それは確か、弟が誰かを呼ぶ時に言っていたあだ名だ。海渡は親しくなった私の友達に、女子だったら『ねぇ』、男子だったら『にぃ』とつける。それに私が呼ぶあだ名から上二文字を取るという法則性だ。だから『かずにぃ』は『かず』から始まる男子と推測できて――そいつは一人しか思い当たらない。

「はっ⁉ かっ、一晴⁉」

「うん。なんか久々に話したら落ち着いてたっつーか暗かったっつーか……でもかずにぃなのは間違いないよ」

 あまりに唐突な人物で、弟から見た性格分析などとても頭に入ってこなかった。なぜ今さら、過去の人物である一晴が私の前に現れたのか。最上鈴涼が意識不明となったあの事故以来、誰との関係にも拒絶を示したあいつが。

「海渡……悪いけど、追い返してきて頂戴」

「え、良いの? 久々にかずにぃと会うチャンスなのに」

「……今さらあいつと会ったって、なんにもならないわよ。それより、私は受験勉強で忙しいからって、そう言っておいて」

「ふーん。でもなんか、事情ありげだったよ。なんかすず……み? り? さんのことだって」

「え……すずちゃん?」

 その名前を聞いたことよりも、一晴が彼女の名前を口にしたという衝撃が私を貫いた。

 ――『こんなことになるくらいなら……初めから、鈴涼と会わなきゃ良かった』

 そう私に言った一晴は、以来家に引きこもってしまった。そして健吾も私も、卒業式まで彼と一言も会話することはなく、その背中をただ見送るしかできなかった。だと言うのに、なぜ三年も経った今、一晴は最上鈴涼の名前を出してまで私に会いに来たのか。

 私が彼を避ける理由より、もっと重要ななにかがあるのではないだろうか。そんな疑問が浮かんだ頃には、私は自分の家のドアを押し開けていた。

※――――――――――――――――――――――

 数年ぶりに訪れた岩本家の玄関から顔を出したのは、どこか昔の面影の残る少年だった。美少年といっても差し支えないそいつは、茉莉菜の弟である岩本海渡。昔は俺が茉莉菜と遊ぶとなるとよく周りに付いていて、慕ってくれていた記憶がある。

 正直なところ、彼が茉莉菜との接触にワンクッション置いてくれたことはラッキーだった。ここまで来て意気地がないと言われれば反論もできないが、数年ぶりの幼馴染みに会う――それもこちらが一方的に遠避けた相手だ――気まずさといったら酷い。

 俺はどうにか必要最低限の情報を海渡に託し、健吾とともに茉莉菜が話を聞いてくれる状況を願うばかりである。

「……ぷっ、くく」

「おいチャラ男。なに笑ってんだよ」

「いやぁ、弟くんが出てきたときの一晴の顔、めっちゃ面白くってさ。なんか拍子抜け感と安心感が混ざった間抜け顔だったよ」

「し、仕方ないだろ! というか、そんなこと言うならお前が事情を説明しろよ!」

「オレじゃ岩本さんが家から出てもこなそうって言ったのは一晴じゃないか」

 確かにここまでの道中でその懸念を呈したのは俺だ。いきなりチャラい格好をした見慣れない男が女子の家に押しかけても、居留守を使われるのは火を見るより明らかなのだから。

「お前が様変わりしてなければどっちでも良かったんだよ! 似合わないアクセサリージャラジャラ付けてる暇があったら、その髪黒染めしてこい」

「やぁやぁ、このセンスがわかんないとは残念なやつだな。良いかい? このネックレスは最近台頭してきた新進気鋭のブランドで……」

「知るか! 第一、コミュニケーション得意ですーみたいな格好して来たならお前が……」

「人の家の前でうるさくすんな! 近所迷惑でしょうが!」

 下らない言い合いに向かって突如飛んできた叱責で、男二人は同様に肩を揺らす。声のした方を向いてみれば、扉の隙間から細縁の眼鏡をかけたポニーテールの少女が覗いていた。外に出て来て見えた装いは、ラフなパーカーにショートパンツと落ち着いてはいるが、栗色の髪と誰かを叱責する際の勝気な目つきはあの頃と変わらない。間違いなく、我らが文学部部長の岩本茉莉菜だ。

「お、おう茉莉菜。久しぶりだな」

 どうにか絞り出した挨拶は何様だと言わんばかりに飄々としたものになってしまった。案の定この態度は随分と気に入られないらしく、途端に茉莉菜の顔色が曇る。

「久しぶりじゃないわよ。急に家に押しかけるとか、どういうつもりなの? すずちゃんの名前まで出してきて」

「ええっと、それは……」

 率直な感想だけ述べるなら、想像の十倍くらい気まずい。三年ぶりに会ったかつての想い人は、女子の中では高い方だろうが、少し俺を見上げている。多分、健吾と同じくらいだろう。当時は横並びで歩けば視線が合っていたことを、ふと思い出していた。

「それは、何よ。ってか、その人、誰」

 ピッと伸びた指の向く先は俺の隣にいるアロハシャツの男だった。すると彼はさっきから掴んでいたネックレスから手を離すと、やぁやぁとひょうきんな態度で前に出る。

「岩本さんもわかんないかー。じゃあ仕方ないなー。……日向一晴くんの呪文シリーズ! “紅き薔薇の”っ」

「いちいち人の黒歴史で確認を取ろうとするな!」

 人の痛々しい過去を持ち出そうとした不届き者は、後頭部を全力で叩かれたことで制止する。中腰姿勢で指先を下に向けていた彼はコンクリートに地肌を撫でられ、熱い熱いと飛び跳ねた。なんでこいつは詠唱文もフリも全部マスターしているのだ。完全に無駄過ぎる労力である。

「……あの、コントしに来ただけなら帰ってもらえますか」

 訝しげだった茉莉菜の視線はもはや呆れを通り越して軽蔑だ。冷ややかな空気に反射的にまずいと思った俺は、とにかく急いで口を回す。

「すまん。こいつは文学部の、眼鏡の……いや、今は違うんだが、えっと、真面目……でもなくなったな。んっと、とにかく、健吾なんだ」

 支離滅裂な説明で不安になったが、どうやら最後の一言だけで言いたいことは伝わったらしい。しかし茉莉菜は表情を変えることなく、ばっさりと言い放った。

「はぁ? 健吾って……そのチャラ男が健吾なわけないでしょ」

「豹変ぶりが受け入れられないのはわかる。でも健吾なのは間違いないんだ。あいつに双子の兄弟はいなかった」

「お二人さん。ちょっと失礼過ぎやしないかい? 人の見てくれがちょっと変わったくらいでさ」

 肘をさする当の本人はじっとりと俺と茉莉菜を交互に見やった。そして「やれやれ」とだけ呟くと、真面目な顔に柔らかな笑みを乗せて言う。

「改めて。こんにちは、岩本さん。オレは正真正銘、野沢健吾だよ」

「いやいやいや……え、嘘でしょ」

 思春期の片想いの相手が当時の面影も残らないくらい変貌している。それは動揺もするだろう。案の定、茉莉菜は引き攣った表情で固まってしまっている。

「笑えないドッキリなんて悪質過ぎるからね。オレの趣味じゃないよ」

「そういうことだ。まぁどうにか飲み込んでくれ。それより本題だ」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 無理矢理話を進めようとした俺の浅はかな作戦は早くも潰えた。茉莉菜は俺たちを睨みつけて、とうとう彼女の中にあった鬱憤をぶつける。

「あんたたち、急に来てなんなのよ! 三年間連絡の一つだって取らなかったのに、なんで今さら……それに、すずちゃんがって……」

 当たり前の言葉だった。三年間を通して、俺は文学部の出来事などなかったかのように部員との関係を抹消した。健吾も卒業以来、俺たちとは関わっていなかったと言う。その男たちが突然目の前に現れたのだから、警戒だってするに決まっている。

 茉莉菜の表情は険しい。ただその内にある感情は、鈴涼の名前が出たことの動揺もあるのだろう。やはり彼女も、どこかで文学部のことを忘れ去ろうとしていたということか。責任感の強い茉莉菜であっても、逃げたいことはあるのだと重いため息を吐き出したくなる。

「俺たちがここに来たのは、鈴涼が目を覚ましたからだ」

 レンズの先の瞼が大きく開かれた。何かを発しようとする彼女の口が震えるが、俺は間髪入れず次に考えていた言葉を繋げる。

「あいつは今記憶喪失で、俺たちは昔のことを思い出させようとしてる――協力、してくれないか」

 唐突であることなど重々承知だ。しかし、もう俺は逃げ出さないと決めた。こんな最初の一歩で躓いていて、贖罪など果たせようもない。

「記憶、喪失……すずちゃんが?」

「そうだ。あいつは俺たちのことも、昔の自分もわかってない。だから……」

「――行かないわ」

 え、と漏れた驚きが、自分のものだと理解するのに一瞬遅れた。決意、とも取れる茉莉菜の声音。それはまるで、昔から決めていたように頑なな瞳で。

「私は行かない。用がそれだけなら、さっさと帰って」

 冷たい声で言うなりドアノブに手をかけた茉莉菜は、翻って中に入ろうとする。あまりに急いだその態度に、俺は疑念を抱かずにはいられなかった。

「お、おい茉莉菜! 話くらい聞いてくれ! 鈴涼にとって、大事なことなんだ!」

 呼び止めようとした声も意に介さず、岩本家の扉は閉まっていく。暗い玄関に見えた茉莉菜の表情は、憂うようで、悲しいようで、何かに耐えるように歯を食いしばっていた。

 俺の贖罪への第一歩は踏み出されることすらなく、夏の猛暑に置いていかれたのだった。
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