第15話 リベンジマッチ

文字数 5,836文字

※――――――――――――――――――――――

 そして、茉莉菜は現れた。怒り、困惑、焦燥。昔ほど読み易い表情はしなくなった。栗色のショートカットはポニーテールに結われるまでに長い。服装はTシャツとショートパンツのラフな恰好。勝気な目は似合わない眼鏡に覆われ、どこかしおらしく。あの頃より少し大人になっていた彼女がそこに居た。

「よぅ……茉莉菜。話、聞いてくれるか?」

 だから俺も落ち着いた声を意識した。もう二人とも中学生の時の幼さでは語り合えない。互いに三年間の高校生活を経て様々な思想を知り、学んだことが沢山あるだろう。思い出だけで会話をしてはいけない。今の彼女を見据えるのだ。動揺を重ねる茉莉菜は開いていた口をぐっと閉めた後、どうにかといった様子で声を出す。

「……あの映像」

「三日前、鈴涼や健吾たちと学校に行ったんだ。鈴涼が何か思い出す手がかりになるかもしれないと思って」

「なんで!」

 彼女は語気を荒らげた。酷く当惑させてしまっているのは、健吾の作戦のせいもあるだろう。あの映像はあくまで彼女を家から引き摺り出す策でしかなく、そこから説得できるかどうかは俺の言葉次第だ。数年単位の隔絶がある相手、かつ殆ど騙すような形で呼び出したというのだから印象はかつてないほど最悪に違いない。

 でも恐れる必要はない。だって昔は、こうして真正面からぶつかっていたから。

「なんであんなDVD見せたの。海渡まで使って……! 私、関わらないって言ったわよね」

「あぁ。言われた」

「だったら!」

 茉莉菜の気持ちは痛いほどわかった。もう二度と関わらないと決めた相手に、もう一度向き合う勇気を持つことは難しい。俺もこうして一度は健吾を拒絶した。ただ彼を蔑ろにしただけではなく、記憶を失ってしまった鈴涼を直に見てもそうだったのだ。

「それでもお前が必要だと思った」

「すずちゃんのためにでしょ」

「違う。俺たちの、文学部全員のためだ」

 本心の言葉、本気の想いで返す。鈴涼の記憶を刺激するため――最初は単純な理由だけで彼女の元を訪れた。そんな理屈だけでは駄目なのだ。俺たち四人の運命の糸はもっとごちゃごちゃで、大切なものが雁字搦めになっているのを見逃した。全員が望まないことを全員が望んでしまった結果が、今だ。

「訳わかんないこと言わないで! 私も含まれてるって言いたいの? そんな下らない嘘つかないでよ!」

「嘘なんかじゃない! 鈴涼にも、俺にも、お前にだって必要なんだ!」

 強くなった語調は意図的ではなかった。ただ夢中で、必死で、俺は彼女とぶつかり合う言葉を選ぶ。確かに鈴涼はきっかけだった。時間以上のものを失った彼女がとても哀れで、せめて願いを叶えることが贖罪になると思ったから手伝いを始めた。

 誰に憚られることのない自分の胸の中には、俺さえも被害者なのではないかと思う汚い心がある。誰かの悪戯がなければこんな運命にはならなかった。鈴涼の記憶を取り戻すなんて綺麗事だ。自己愛に満ちた気持ちの悪い偽善に、今だって吐き気がしている。

「俺たちはみんな、まだあの頃に囚われてる。俺もお前も、健吾だって、どこかで昔を思い出してる。今の鈴涼は一番形に現れているだけだ。みんな、あの頃で足踏みしたままなんだ!」

 でもその最低な心に向き合えたから、茉莉菜のことを本気で考えることができた。救いを求めているのは鈴涼だけではない。彼女だって、親友を失くした日から停止してしまったのだ。だけどその救済を求めないのは、彼女が優しいから。傷ついた鈴涼を待ち続けるように、苦しい日々を送ることが正解だと信じて止まない。

 健吾もそうだ。あいつなりに変わったことが高校デビューなんて言葉だけで片づけられて良いはずがない。鈴涼に協力することを一番に選んだ訳がきっとあるはずなのだ。前を向いていたとしても、過去を振り返る気持ちが無ければ意識的に変わろうとするはずがないのだから。

「いい加減なこと言わないでよ! 私は前に進んでるの。あんたともすずちゃんとも交わらない道を選んだのよ!」

 互いにヒートアップし、茉莉菜の額に汗が滲んだのを見て、自分の熱を自覚する。もはや説得などではなく口論の類だ。だが少しだけ冷静な頭の片隅で、少女のために泣いた恩師は「これで良い」と言ってくれた気がした。そう、俺たちはこうして絆を紡いでいた。

「だったら何で海渡に断らせなかったんだ!」

「そ、それは……」

 その問いに少しだけ茉莉菜が勢いを削がれたのを見て、俺はここぞとばかりに言い詰める。

「お前が本気で関わる気が無いなら、海渡にDVDを突き返すように言えば良かった。それだけじゃない。前に来た時だって、鈴涼の名前を聞いたから俺たちの前に出て来たんじゃないのか」

「――っ」

 何かを言いたげな口は押し黙った。それはきっと茉莉菜が自身に抱いた懐疑であり、そして迷いや苛立ちへと誘う要因なのだ。彼女の本当の感情はもっと優しくて、誰かを遠ざけることなんて不向きな癖に。

「鈴涼を遠ざけることの理解に、お前は心底納得してるのか?」

 それはよく彼女自身が言っていたことだ。理解と納得は違う。茉莉菜は鈴涼から遠ざかることを良しとして自分の中での理解に至り、けれどその理由に誰よりも納得していない。

 茉莉菜は鈴涼に会うことが再び彼女を傷つける行為だと思い込み、姿を消すことが最適だと理解した。ただ心のどこかでは逃げ続ける自らの行為に納得し切れず、今も苦しみ藻掻いている。襲いくる罪悪感や無力感は、奇しくも俺と同じように茉莉菜が抱えていた葛藤なのだ。

 しかし、向き合うことを健吾が教えてくれた。彼の熱を受け取って、俺は確かに動き出したのだ。贖罪というあまりに身勝手な理由でも、それを鈴涼が望んでくれると言うのなら俺の中で納得し得る理由になる。そして俺が今できる贖罪の一歩目――それはきっと、与えられた熱を彼女にも伝えること。

「本当は誰よりも鈴涼に協力してやりたい。そう思ってるのはお前だ。茉莉菜」

 無力を嘆いた。それでも背中を押された。誓いを立てても拒絶され、独りよがりを思い知った。まだ全てが発展途上だけれど、俺は俺を望んでくれる誰かがいるなら、もうしばらくは折れないでいけると思う。

「鈴涼は今、記憶を失っている。そのことで悩み、苦しんでる。自分が誰かっていうことを忘れて、過去の自分に向けられた優しさの理由も知らない。それを探したくて、あいつは必死なんだ」

 あの頃のことをよく夢に見る。しかしそれと同じくらいに、約束をした日の鈴涼の瞳を思い出すようになった。知らないことに怯え、戸惑い、それでも前に進むことを選んだ強い瞳。潤んでいても、その意思の強さだけは確実に俺を貫いた。

「俺たちなら、その手伝いをしてやれるかもしれない。鈴涼が優しさの理由を思い出す――いや、掴むための」

 いつの間にか口の止まった目の前の茉莉菜を見て、俺は少しだけ話を変える。これでは依然と変わらない。茉莉菜の心を考えた言動をしなければ、三日前と同じ結果に終わってしまう。必要なのは彼女の根底にある不信感を取り除くための言葉だ。

「お前は離れ離れになった文学部を再建しようとしてた。でもできなかったのは、俺のせいなんだろ?」

 三年前に起きた教室での一件の後、彼女は自分の立場の居辛さを感じていた。俺の発言のせいで鈴涼とも関わることが憚られて動けなかったのだ。それでももう一度俺たちを引き合わせようとしてくれたのは、茉莉菜自身が俺や鈴涼にとってどういう存在か理解してくれていたから。

「俺と鈴涼に腹を割った話を持ちかけることができたのは、お前だけだったんだ。そうだよな。だって俺と鈴涼が繋がれた理由は、お前なんだから」

 ある放課後、鈴涼は突如として俺の目の前に現れた。偶然『同じ目標』を持っていた俺たちは、茉莉菜が接点になることで初めて仲良くなることができた。聡明な彼女はそんな過去の一ページを克明に覚えていたに違いない。健吾でも後藤先生でも駄目だった。茉莉菜だからこそ解けるはずの糸があると気づいていたのだ。

「だからお前は動いてくれてた。自分が居ればまだ全員が集まるチャンスがあるって思って……でも俺が、全部壊した」

 しかし彼女の計画は瓦解する。なにせ今まで真正面からぶつかり合っていた相手が、急に追いかけても届かない場所へと消えて行ったのだ。言葉を交わす機会すら奪われた茉莉菜は酷く困惑してしまったことだろう。そしてあの取り返しのつかない事故が起きてしまった。

 鈴涼が事故に遭った直後、駆け付けた茉莉菜は俺に何か言いかけた。しかし俺は全てを遠ざけたくて彼女に向かってこう言ったのだ。「あいつと関わっちゃいけないんだ」と。その一言がどれだけ茉莉菜を深く傷つけるとも知らずに。

「俺と鈴涼を引き合わせた。お前が感じる負い目は、そこにあるんじゃないのか」

 それが彼女の感じる自責。自分がどちらか一方とでも関わっていなければ、避けられた事態だったかもしれない。その可能性が生真面目な彼女を暗闇に引きずり込んだ。親友が倒れても、その顔すら見てはいけないと『理解』してしまうほど。


 俺の最後の問いに、彼女は俯いて動かなかった。コンクリートが吸い込んだ熱が、ぐつぐつと二人を煮る。ただどれだけ水滴が落ちても、俺は茉莉菜から視線を外さなかった。やがてゆっくりと髪と殆ど同系色の瞳がこちらを見た。

「……あんたが」

 震える声で彼女が何かを言い淀んだ。今度は俺が黙り、茉莉菜の言葉を待つ。

「あんたが、一番最初に逃げたんでしょ? なのにどうして今さら立ち向かうのよ。どうして今まで、逃げ続けてたのよ」

 茉莉菜は泣きそうな声で、けれどその音は何に阻まれる事無くしっかりと耳に届く。茹だる夏の空の日差しと、アイスピックみたいに鋭利な言の棘。今日が曇り空じゃなくて良かったと、切に思う。

「あんたが居れば、すずちゃんのこともどうにかなると思ってた。あんたが戻って来さえすれば、みんな元通りになると思ってた。あんたを信頼してた。あんたが、好きだったから」

 その言葉に今度は俺が目を見張った。

「あの頃のあんたは、あたしたちを引っ張って進んでた。誰より前に出て、部長のあたしも差し置いて、誰よりも。なのになんで……あの時だけは隠れたの? すずちゃんから逃げたの? いっつも前を歩いてくれるあんたが居なくなって、あたしはあの時、どうすれば良かったのよ……?」

 その瞳が下を向いて、俺は初めて彼女が『私』から『あたし』に戻っていることに気がついた。視線の先にあるのはコンクリートではない。鈴涼を失ってしまったことで迷子になってしまった幼い日の記憶だ。俺と鈴涼の関係の支柱が茉莉菜だったならば、あの頃の彼女の支柱は、俺だった。

 俺は鈴涼から逃げたあの日と同じかそれ以上に、いかに自分のことしか考えていなかったかを思い知った。今なら後藤先生のアドバイスの理由がわかる。茉莉菜が健吾を好きだと俺に相談していたのは、彼女が俺と同じ嘘をついていたから。互いが好きだという気持ちを隠しながら、その本音だけは絶対にぶつけ合うことなく居た。幼い俺たちの嘘は過ちとなって、鈴涼という一人の友人を傷つけた。

 果たして鈴涼はそのことを知っていたのだろうか。そしてそれを知っていてなお――あの事故の日、本当に俺へ気持ちを伝えようとしていたのだろうか。いや、今はそのことを考えている場合ではない。目の前の景色、目の前の少女の一挙手一投足を追う。彼女の言葉はまだ続いている。

「なんであの時じゃないのよ……なんで、今じゃなきゃ駄目なの? すずちゃんが起きてるか眠っているかなんて、関係ないじゃない!」

 裏返った声が響き渡る。その叫びは、責める言葉は、まるで俺へと向いていない。

「あたしは、どうすれば良かったのよ……」

 同じ言葉を言った茉莉菜の瞳からは涙が溢れていた。彼女はその場にしゃがみ込み、幼子のように小さくなってしまう。茉莉菜が抱える悔恨は『鈴涼を諦めた自分』に対してのものだ。自分の大切な人のための一歩目が挫けてしまったことが、岩本茉莉菜をあの時に縛り足踏みさせる要因になってしまっている。それならば俺の決意はとうに決まっていた。俺は少しだけ大きくなった歩幅で、三年分の距離を少しだけ縮めた。

「あの時は、ごめん。俺がちゃんとみんなに向き合っていれば、きっとこんな風にはならなかったんだ」

 過去の自分が犯した愚かな行動の数々は、誰かの頑張りも決意も全てふいにしてしまった。目に見える傷ばかりを見て、内側の痛みを瘡蓋のようにかなぐり捨てた。俺はそれでも良かったのかもしれない。でも、友達の癒えない痕跡が一緒に腐り落ちるのを待つしかないなんて、俺の心は納得し切れない。

「だからもう逃げない。信じられないかもしれないけど、あの時にできなかったこと、ちゃんと全部やりたいんだ。もう後悔して、立ち竦むのは嫌なんだ」

 この暑さに踏み出せたことで、俺の中にある何かが動き始めた。その正体はまだわかっていなくて、ハッピーエンドになるかどうかも何一つ確証はない。だけどずっと知っていた。時間が止まった先に未来なんかあるはずがないのだ。

「お前の現状は海渡から聞いた。勉強を頑張ってるってことも知ってる。その上で頼む。もう一度、鈴涼に会ってくれないか」

 信用なんてならないだろう。意気地無し、度胸無しの嘘つき野郎。でも俺は小細工よりも、真正面からじゃないと駄目なのだ。

「――また俺について来てくれ。お前と俺が、みんなが、前に進むために」

 茉莉菜と頭が並ぶくらいまで、俺は精一杯の誠意を込めた。纏まらない呼吸。水滴が落ちる。静かな夏の空間に、どこからか風鈴の音が聞こえる。やがて彼女はゆっくりと目だけを向けた。

「……あたしには、まだ答えが出せない。一晩、考えさせて」

「……わかった。ありがとう、茉莉菜」

「勘違いしないで。あたしはあんたを信じたわけじゃない。でも、あたしだけ取り残されるなんて、御免だから」

「あぁ。明日、健吾と一緒にまたくるよ。その時に返事を聞かせてくれ」

 そしてすぐに茉莉菜は家のドアを開いた。戻っていく彼女の後ろ姿はとても弱々しかったけれど、以前のような複雑な表情はしていなかった。いつの間にかコンクリートに水滴は残っていない。晴れやかな太陽は、ただそこに残された俺を見下ろすばかりだった。
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