第3話 指間から落ちるもの

文字数 4,685文字

 土曜日の駅はなんとなく新鮮な光景だった。決まった色ばかりの平日の朝とは違い、制服の同級生も居なければ、出勤に憂鬱そうなサラリーマンも見受けられない。俺は高校生になってからというもの休日は専ら自宅で過ごしていたので、たった少しの変化が思わぬところで世俗とのギャップを与えてくる。

 しかし今はそんな些細なことで気持ちを揺るがされている場合では無いのだ。いつもは一人で暇を持て余すホームだが、今日は隣にお洒落した女子が並んでいる。電車がくるまでの隣人ではなく、しっかりと約束をした上での待ち合わせ。同年代同性の多くからすれば羨ましいシチュエーションなのだろうが、その実態は浮かれる気分など湧くはずのないものだ。

「……」

「……」

 電車を待つ俺と茉莉菜の間には、沈黙とか静寂とかでは生温いほどの痛々しい無音が流れていた。キャスケットから覗く涼しげに短くなった栗色の横髪をちらりと見遣るが、彼女からは一瞥もあるはずがなく、前に向き直ることを余儀なくされる。

 ――気まずい。

 リアルタイムで流れる居心地の悪さが語彙力を奪っていく。今日なんてお互いにぎこちない「おはよう」を交わしただけだ。もはや会話と呼ぶことすら烏滸がましい言葉のやり取りに、この後の予定にも幸先の悪さしか感じない。

 思い返せば返すほど、茉莉菜と再会を果たしてからずっとこんな調子だ。真夏のコンクリートの上で吐き出し合った本音の数々は互いの胸に刻み込んだけれども、三年分の壁が取り払われたわけではない。あくまで鈴涼という共通目的に向かって走っているだけの『チームメイト』と表現するのが適切だろう。

 確かに茉莉菜が俺と仲良くする義理はない。過去のことも含めて、彼女に落ち度は何一つとしてないのだから。茉莉菜自身は俺と鈴涼を引き合わせてしまったことを悔いていたが、それはあくまできっかけに過ぎないことである。中学校という狭いコミュニティの中で俺たちが関わらなかったという保証はどこにもない。しかしそこにおいて自責の念に駆られるのもまた岩本茉莉菜の人間性である。

 普段は気にならない車輪の音がやかましく聞こえながら、隣の三番線に電車が到着して茉莉菜の纏う膝丈のスカートの裾を揺らす。いっそ瞬間移動でも出来たら、線路分はこの時間を無くしてしまえるものを。ここから健康診断を受けに行っているらしい鈴涼を病院まで迎えに行ってから、再び電車に揺られなければならない。一時間そこそこはありそうなスケジュールを、果たして茉莉菜と一緒で乗り切れるのだろうか。俺に流れている汗は、多分気温のせいじゃない。

「……あたし、喉渇いたから自販機行ってくる」

「あぁ」

 スリーブの白いレースを小さく振りながら、茉莉菜は俺の後ろを通り過ぎて行った。おそらく彼女も俺と同じ気持ちを抱いているのに、どうやっても折り合えないのだから人間は難しい。さすがに現実逃避は失礼だと思ってネットニュースに目を通す真似はしないが、本当は手持ち無沙汰が一番余計なことを考えてしまって心は落ち着かなかった。一時でも清々しているであろう彼女の後ろ背をちらと見遣ると、その距離が情けないくらい遠く見えてしまう。

「昔はもっと、安心できる相手だったんだがな……」

 あいつもあんなに冷たい表情ができるのだと初めて知った。かつて行ったどんな悪ふざけの中でも、彼女の心の奥の笑窪が垣間見えていたから。だから、いつからか昔の俺は、そんな彼女の本心を目に焼き付けたくて、必死で――

 思考はそこであえて打ち止めることにした。現状において貪欲になるべきは茉莉菜との仲を再建することではない。一番は鈴涼の記憶。斜め上の真っ青な空に目標を掲げたら、少しだけ肺に詰まった靄が換気できた気がした。

 一瞬にも感じられた二分間が過ぎた頃、茉莉菜がペットボトルを持って帰って来た。しかし不可解なのは、片手ずつに同じ種類のスポーツ飲料をぶら下げていることだ。ろくに回っていなかった脳みそで、そんなにも喉が渇いていたのだろうかと思って前を向き直ったら、眼前にその内の一本が突き付けられた。

「ん」

 見下ろす景色に居る彼女の真意は、帽子の縁でさっぱりわからない。いや、この状況でこのペットボトルをどうすれば良いのかはわかるのだが、彼女がそうする理由が全く浮かばないのだ。

「く、くれるのか?」

 心底意外そうな――実際意外だったのだが――表情を作り上げてしまった俺に、茉莉菜の顔色が曇る。

「それ以外何があるのよ。腕、疲れるからさっさと取ってくれる?」

「あ、あぁ。ありがとう」

「ふん」

 この前貸してくれたハンカチといい今回の飲み物といい、彼女が取る態度に一貫性がない気がする。ありがたいことに間違いはないのだが、別に感謝や見返りを求められるでもなく、何なら「それ以上寄ってくんな」みたいなオーラを放ってくるあたり、かつての親睦を取り戻そうとしているわけでもないのだろう。

 もしかすると、俺は海渡と同じカテゴリだろうか? 手のかかる弟というか、腐れ縁だから、性格上、手を焼かずにはいられないといった具合か。むしろ中学生になって姉思いになっていた海渡よりも面倒だと思われているのかもしれない。もしそうならば一人の同級生としては何だかとても惨めだ。

 心の空が再び陰って、悶々靄が立ち煙る。待ちに待った電車が到着する頃、俺の手から水滴が落ちていたのに気づいたのはマメで生真面目な少女の方だった。



 備え付けられた壁掛け時計を見て、病院に着いたのは午前十時より少し前の時間だと知った。土曜日の診察は午前中だけのようで、社会人と思しき中年の男性や、家族に付き添われている老体の人も見える。しかし鈴涼の姿は見つからず、俺たちは受付に居た女性に事情を説明しに行った。

「最上鈴涼さんでしたら、もうすぐお戻りになると思いますよ。お掛けになってお待ちください」

 茉莉菜とともに抹茶色の長椅子に腰掛ける。また待ち時間かと微妙な顔を作りかけたが、あまり声を出してはいけない空間というのが実に救いで、二人して黙って背筋を伸ばすだけだった。時折知らない誰かが呼ばれて、見た目に性別がわからなかった白髪の老人が女性だとわかった。まさか俺が人間観察を趣味にする日がこようとは。なんとまぁ、柄にもないとはこのことである。

 しかしながら十五分も慣れないことをしていると飽きが回ってくるのも当然だった。横を向くのだけは億劫なので、もういっそ目を閉じてしまおうかと意志を固めようとした頃――奥の方から線の細い、短い髪の少女が、ポロシャツを着た中年の男性と一緒に歩いてくるのが見えた。

 少女の方は言わずもがな鈴涼だ。浮かべる表情は乏しく、無機質然とした姿は記憶を失う前を知る俺たちからしたらまるで別人に見える。言葉数が決して多かったわけではないが、表情は結構コロコロと変わるようなやつだった。フリル付きのワンピースに薄手のカーディガンという装いは、少年っぽく見えることへのせめてもの抵抗だろうか。

「……ねぇ、隣の人、誰か知ってる?」

 少し間を取って座っていた茉莉菜は、蚊のような声がギリギリ聞こえるくらいまで距離を詰めてから尋ねてきた。俺は少し顔を寄せて答えようとすると、同じ分だけ茉莉菜の横顔が遠ざかる……そこまで意識しなくても良いではないか。

「鈴涼のお父さんだ。昔、一回だけ会ったことある」

「……そう」

 初めて会ったのは中学三年生の時、鈴涼が意識を失くした後のことだ。事故の当事者として謝罪をするため、母親と一緒に最上家を訪ねた。あの時の俺はまだ現実と向き合えていなくて、いくつかの質問に対して正直に答えることしかできなかった。挙句、鈴涼の両親には「君のせいじゃない」と気を遣わせてしまったのだ。一番辛いはずの人達に慰められるなんて、今思い出しても情けなくて仕方が無い。

 ――だからこそ、俺はここに居るんだ。

 健吾が気づかせてくれた、責められる罪が無いのなら自ら償わなくてはいけないということ。俺の行動理念は、鈴涼に誓ったあの日からそれだけだ。鉛のような腰を上げて挨拶に行こうとすると隣に居た茉莉菜も立ち上がった。彼女もまた後悔と自責の中で思い悩んでいる。俺たちの反りは一向に合わなくても、同じ穴のムジナであることはきっと茉莉菜もわかっているのだろう。

「お久しぶりです」

 鈴涼たちに近づいて、俺たちは深々とお辞儀をしながら挨拶した。鈴涼の方は殆ど無反応だったが、父親はおお、と気さくそうな笑みを向けてくれた。

「久し振りだね、一晴くん。そちらの女の子は、岩本茉莉菜さん、かな?」

「は、初めまして」

「あはは。そう堅苦しくしないで」

 鈴涼の父親の身長は俺より少し低い。多分健吾と同じくらいだろう。昔会った時にはもう少し迫力のあるイメージだったが、それは俺が身長を追い越したからか、それとも彼の痩身が目立って見えるからかは定かではなかった。

「二人とも。最近は、また娘と仲良くしてくれてありがとう」

「いえ、そんな……」

「妻からも聞いているよ。わざわざ中学校に連絡をして、部活の再現なんかもしてくれたんだって?」

「それの発案はここに居ないもう一人のやつですよ。今日も、そいつの計画で……」

「野沢健吾くん、だろう? いや、彼にももちろんだが、きみたちには一度ちゃんとお礼を言いたかったんだ」

 俺たちが鈴涼のために何かをする時は大体健吾が主導して動いている。中学の時からこういった作戦よく考えてくれていたが、今は妙な行動力が身に付いたせいで振り回されるばかりだ。今日に至ってもあいつが全ての準備をしていたし、一体何があればあのような突然変異を起こすのかは永遠の疑問である。

 考えても仕方がない思考に一瞬だけ気を取られていると、鈴涼の父親はちょっと複雑そうな、しかし僅かに喜びを含んだ表情を浮かべた。

「正直、不安だったんだ。鈴涼は元々本ばかり読んでいて、友達と遊びに行くなんてのは珍しかったからね。入院中も同級生がくるなんてなかったし……」

 苦笑いをしながら言った彼の言葉に、俺も、隣に居た茉莉菜も息が詰まる。おそらく当時の鈴涼と最も親睦があったのは元文学部の人間だが、揃いも揃って会うのを渋って彼女の見舞いに行こうとしなかった。それすらも親御さんには一つの心労としてのしかかっていたのだと思うと、つくづく自分が立ち止まっていたことへの愚かさに吐き気がする。反射的に謝ろうとしてしまって、振られた手で慌てて制止された。

「あぁいや、責めているわけじゃないんだ。きみたちが鈴涼のために協力してくれているのは間違いないんだからね」

 父の否定に黙っていた鈴涼もこくりと頷く。それを見て幾許か安心する心も、嫌になる。ここに居る鈴涼は、俺が彼女にした仕打ちなんて覚えていないのに。

「今日は僕も妻も付いて行けないが、偶には友達とだけで遊びに行くのだって、この年頃なら当たり前だろう。二人とも、鈴涼をよろしく頼むよ」

 当たり前のことに『当たり前』という言葉が使われていることが酷く辛かった。俺は努めて笑顔を取り繕って、それでも震えかけた声で、はい、と答えた。揃って病院を出て、親子は短い会話だけを残した。

「それじゃあね、鈴涼。楽しんでおいで」

「うん。ありがとう、お父さん」

 夏空の下で聞こえた鈴涼の声は、もうすっかりあの頃と同じだった。こうして一つずつ何かを取り戻していけば、少しでも彼女が失った時間の慰みになってくれるのだろうか。三分の一が無くなったペットボトルの中身は、まだゆらゆら揺れている。
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