第25話 あの夏のエピローグ

文字数 4,797文字



 あれから、気が遠くなるような時間を過ごした気がする。少女が姿を見せなくなったあの日から、私の世界はまるで色を失ったみたいに静かになった。でもそれは当たり前。私はいつも隣に居てくれた友達をずっと傷つけていたのだから。その愚行にも気づけない、愚かなんて言葉じゃ形容できないくらいの大馬鹿者には、見えている景色なんて所詮そんな薄い視界でしかない。

 三年という歳月は、十八歳の少女が失うにはあまりにも長過ぎる期間だ。本当ならその間に、彼女は何度も笑い、泣き、恋し、愛されるはずだった。最上鈴涼という存在を、もっともっと素敵な女性へと昇華させる大事な時間だったのに。それなのに。

 私はもう彼女に関わってはいけないのだと悟った。私が一緒にいることは、きっと彼女を苦しめる。だって私は彼女にとって疫病神でしかないじゃないか。私と一緒に居るから、私に優しくしてくれるすずちゃんだから、彼女は私と一緒に居ると幸せになれない。

 もう間違えない。最初から間違いなんて選ばない。そうしないと、きっとまた大切な人を失う。そう誓った。

 ――誓った、はずなのに。

 私はどうして、彼女に会うために歩を進めたのだろう。どうして、彼女の居る病室に手を伸ばそうとしているのだろう。これが正解だなんて、なんの保証もないのに。迷いがまだ残っているのに、なぜ彼女を危険に晒すような真似ができたのだろう。

 私はこれ以上、すずちゃんに何を求めるというの?

「……茉莉菜」

「……!」

 不意にかけられた声に、私は肩を震わしてしまった。振り向いた先に居た一晴は、私の抱く不安なんてすっかり見透かしているみたいに言った。

「お前の知りたがってる答えは、お前にしか見つけられない。でも、鈴涼はきっとヒントを教えてくれるよ……お前の、親友だろ」

 ――親友。その言葉は、もしかしたら最上鈴涼の呪縛なのかもしれない。私は彼女が眠る間、何度もそう思っていた。一晴を含めた事情もあって直接言い合ったことなんてないけれど、私たちはどこかで、きっとそんな意識を持っていた。親友と呼べる存在は、もし一人選ぶとするならば互いではないか、と。だからこそ、私は彼女を締め付ける鎖になってしまっているのでないか、と。

 その答えもこの先にあるのだろうか。いや、一晴の言う通り、答えは自分で見つけなくてはいけない。これ以上、すずちゃんから何かを搾取することなどあってはならないのだから。でも、もしこの三年間の問いの答えにたどり着けるなら、彼女がその言葉を有しているというのなら。

 聞きたい。私は最上鈴涼にとっての何で、何を望まれているのか。私は彼女の前から消え去るべき人間なのか、それとも――

 指が扉を弾いた瞬間は、鼓動の音で全く聞こえなかった。跳ねる心臓が私の抱く全ての不安を体現していた。病院の静寂も、一晴と健吾の視線も忘れてしまうくらいに。

「どうぞ」

 優しい声なのに、高校受験で受けた面接なんて比じゃないくらいに緊張した。意を決して扉を開き、その先に居たのは、あの夏から一度も会ったことのない最上鈴涼だった。

 ベッドからこちらを見る少女は、あの頃の優しげな雰囲気とは明らかに異なる。ただその瞳に宿るのは決して冷たさではなく、困惑や迷いだった。髪は少年かと思わせるほどに短く、流れるようだった嫋やかな漆色は少し荒れているように見える。

「……」

 彼女は私を見ても何も言うことはなかった。いつもなら、おはようと、こんにちはと。同級生にも妙に礼儀正しく挨拶をしてくれる。そんな過去のすずちゃんは、もう居ない。突きつけられる現実に、私はただ押し黙ることしかできなかった。

「いらっしゃい。よく来てくれたわね」

 歓迎してくれたのは、どことなくすずちゃんと似た丸みのある瞳を持つ、ショートボブの女性だった。面識は無いが、直感的にすずちゃんの母親だとわかる。昔すずちゃんに両親のことを尋ねた時、母はいつも優しく見守ってくれる尊敬すべき人なのだと憧れを語っていた。その時は私もいつか会ってみたいと言ったものだが、こんなシチュエーションでは気まずさしかない。

「お邪魔します。ろくに間も空けずに来てしまってすみません」

「いえいえ。そんなこと気にしなくて良いのよ。鈴涼もお友達が来てくれて、喜んでるわ」

 一晴の返答に対してにこやかに言うすずちゃんの母親。彼女は私達の訪れを快く思ってくれているが、当のすずちゃん本人は特にこれといった意思を見せることはなかった。一人どこか遠くの世界に居るように、私達をまるで異質なものとして捉えている気さえした。

「あなたが、茉莉菜ちゃん……かしら?」

 すずちゃんの母に突然話しかけられて、私はどきりとしながら頭を下げた。

「は、はい。初めまして。岩本茉莉菜です」

「あなたの話はよく鈴涼から聞いていたわ。ありがとう、来てくれて」

 その言葉に針のような痛みが走る。彼女達からしてみれば、本来私は何を置いてもここに駆けつけるべき人間だったはずだ。にも関わらず、最初にかけてくれたのは私を責め立てる憎しみではなく、純粋な感謝の意である。頭の中で描いていた予想図とまるで違う状況に、なんて応えるのが正解なのかわからなくなっていた。

「もっとこっちに来て、鈴涼と話してあげてくれる?」

 今度は体がびくっと反応してしまった。さっきまでは後ろの男子二人から遠ざかろうと早足になったりしていたが、今はその一歩を躊躇ってしまう。三年分のすずちゃんとの距離は、見た目よりずっと深く、遠い。

 お互いに変わってしまったから。私は彼女の居ない空白じみた日常を過ごし、彼女は誰も居ない虚無の暗闇に居た。どちらが辛いなんて比べるまでもない。ただ確実に、もうあの頃の岩本茉莉菜と最上鈴涼では居られなかった。一度壊れてしまった関係が、もっと酷く胸の奥に刻み込まれてしまいそうで、怖い。

 ――この期に及んで、やっぱり最低だ、私……!

 中学生の頃、眼鏡を外して露呈したのは自分勝手な私自身だった。納得のいかないことにはどれだけだって噛みついて、執着とも言える醜さで最後は自分だけが気分良くなっていた。その尻拭いさえ、今の私は恐れている。この一歩を踏み出すことで、私はすずちゃんとの関係の全てを失ってしまうのではないか。あの夏以上の喪失感を繰り返して、私は本当の意味で空っぽな存在へと成り果てるのだ。

「茉莉菜」

 突然、思いも寄らない声が飛んだ。さっきも呼ばれた一晴の声にハッとする。彼はあの頃並んでいた身長より一回り大きくなっていた。数日前からわかり切っていたそんな事実が、私の脳裏をふっと横切る。

「大丈夫だ」

 根拠のない自信。昔みたいに見栄を張って、でも格好つけるだけじゃない。私がこの先に進むことを後押しするように、たった一言だけ、私が一番欲しかった言葉をくれる。

 ――そうだ。一晴は大人になったんだ。

 きっとまだ、お互いに未熟でしかない。それでも過去の辛さと向き合うための気持ちと、誰かを思おうとする優しさを手に入れようとしている。だからどれだけの痛みを背負うとしても、私をここに連れて来たのだ。最上鈴涼を言い訳に立ち止まっているのは、もう私だけなんだ。

 そうして右足が動いた。次いで左足が前へ。合わせて五歩も進めば、目の前にはあの少女が佇んでいた。

「すずちゃん……」

 三年前、私の身勝手で傷つけ続けた少女。当時のような瑞々しさは無く、骨ばった痩身がその歳月を物語る。私が苦しめたのは彼女の心だけではない。身も家族も、すずちゃんが守りたがった『文学部』という居場所さえも、私が削り取った最上鈴涼の一部。言葉が出なくなり、彼女の無垢な瞳に吸い込まれそうになっていた時、その口が動いた。

「それは、わたしのなまえ?」

「え……」

「『すずちゃん』は……わたしの、なまえ?」

 彼女はその名前を疑うように――否、存在を確かめるように、私を真似て自分の名前を繰り返した。聞き慣れないそのあだ名は、一晴の言っていた通り、もう現在の最上鈴涼のものではないから。

「――っ」

 気づけば息を飲んでいた。カラカラになった喉には唾も通らない。彼女は探しているのだ。過去に私と過ごした時間、誰かとともに居たという、かけがえのない思い出を。誰よりも苦しんでいるのは、やっぱり誰よりも優しい『最上鈴涼』に他ならない。

「そう……だよ……!」

 だからこそ私が立ち止まっていて良いはずがなかったのだ。今の今まで足踏みしていたのは、結局ただのエゴだったと気づいた。この子の助けになりたい。だって私は、すずちゃんの親友なのだから。

「ごめん……ごめんね……!」

 あの日からつっかえたままの言葉。あの日伝えられなかった謝罪が、溢れるように、嗄れた喉から紡がれる。あの日の『あたし』が言わなければいけなかった、たった三文字の大切な想い。

「あたしが、あたしがいけなかったの……あの日本当に謝らなきゃいけないのは、あたしの方で……すずちゃんはちっとも悪くなくて、あたしが……っ」

「ま、茉莉菜ちゃん?」

 片手で口元を覆ったあたしを見て、すずちゃんの母が心配そうに言う。それはそうだ。いきなり現れた娘の友達が突然泣き出したら不審極まりないだろう。でもあたしは、状況の理解はできていても決壊した涙腺を抑えることができなかった。早く平常心に戻らなければ。そう思うほどに、眼鏡が曇って余計に視界が白ばむ。思考がぐるぐるに絡まって、とうとう目の前の少女さえ見えなくなった。

 ふわっ、と何かがあたしを包み込んだ。少しだけ角張った、でもほんの少しの柔らかさを持った温かさだった。

「鈴涼……!」

 後ろで一晴が驚いたようにすずちゃんの名前を呼んだ。その瞬間に気づいた。立ち上がった彼女が、あたしの体に細い腕を回している。

「こうしたら、せんせいは『ありがとう』って、いってくれた」

 耳元で声がした。弱々しくて、ちょっと枯れていて、でも懐かしい。彼女が何を伝えようとしているかはわからなかったが、三年振りに聞く親友の音は、あたしの心にあまりに簡単に響いた。

「あなたのめは、やさしい。でも、ほかのどんなひとよりも、かなしい」

 すずちゃんは詰まり詰まりの声を続ける。まるで喋ることが不慣れなように、一言ずつを噛み締めるように。

「わたしにはまだ、『りゆう』がわからないから。でもこれが、あったかいってことは、わかるから」

 背中にすずちゃんの手の熱が伝わる。それは奇しくも、彼女が忘れたはずのあの日の温もりと全く同じだった。

「すず、ちゃん……!」

 あたしは彼女のことをしっかりと抱き締めた。もう失いたくない。大切な人を、親友を、二度と苦しめることなんて。ぎゅうと痩い体を引き寄せると、あたしの頬にあたしのものじゃない水滴が伝わった。

「なんで、だろ……わた、しも、とまら……ない……」

 まるで彼女は独白をしているようだった。あたしと同じように、彼女もまた涙を流している。ただ決定的な違いは、本人も含めてすずちゃんの涙の理由がわからないことだった。

「せんせいの、ときとはちがう……わかんない。でもとまらない……このかんじ、どこかで……」

 記憶を失っているはずの彼女もまた、いつかの遠い思い出を感じている様子だった。そして彼女は救いを請うがごとく、あたしに向かって言葉を紡ぐ。

「おねがい……もっと、よんで。わたしのこと。もっと……おねがい……!」

「……! すずちゃん、すずちゃんっ……!」

 あたしは止まっていた時間の分だけ、彼女の名を呼び続ける。いくらでも呼ぶはずだった名前。聞き届くことのなかった親愛が、あたし達が失くした時間を埋めるように繋がっていく。終わってなんていなかったんだ。あたし達の物語はずっと続いていたのだと、この瞬間が教えてくれたのだ。

 ――あの夏はまだ、ここで待っていてくれたから。
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