第25話 もがみすずりがのぞむもの

文字数 5,683文字

 鈴涼の失踪。全く予想だにしてしていなかった出来事に俺たちは騒然となった。すぐに先生や鈴涼の母親も合流し、旅館の大きなロビーで顔を付き合わせる。

「待っててもらった間に、いつの間にか居なくなってて……」

 茉莉菜の証言では、彼女は鈴涼とともに大浴場へ行く予定だったと言う。向かっている最中に、通路にあるトイレを利用しようとした茉莉菜は、鈴涼に荷物を預けて先に風呂に入るよう促した。しかし鈴涼は着替えを含めた全ての荷物をフロントに預けて、どこかへ行ってしまったようだった。

 フロントの人から着替え諸々を返された茉莉菜は、鈴涼が自分と同じようにお手洗いのために荷物を預ける人を探したのかと考えた。そうしてロビーで数分待っていたのだが、一向に鈴涼が戻ってくる気配はない。おかしいと思ってトイレや女性陣の部屋を覗いてみてたら、鈴涼が姿を消していたことが発覚したという事情だ。

 そして焦る少女のもとへ更なる不可解が訪れる。宿の中には居なかったはずの鈴涼について、フロントの人たちは揃って「部屋の方に戻って行くのを見た」と言ったのだ。茉莉菜はあり得ない状況でパニックになり、俺たちの部屋に駆け込んで来たのだった。

「宿から出ようとしたらフロントの人がすぐにわかるだろうし……」

「だけど靴は無くなっています。自分の足で出て行ったとしか」

 いつも冴えている後藤先生や健吾が頭を捻っても明確な答えは出てこない。旅行疲れのせいではなく、鈴涼がこんな行動をする理由が浮かばないからだ。

「鈴涼……何で……」

 最も心配しているのは間違いなく母親だった。病的に青白くなった顔がはっきりと心中を伝える。拳を握り締めながら震える肩を見て、俺まで血の気が引いていた。

 普段の鈴涼の性格を考えたら、友人から預かった荷物を放り出してまで何かするとは思えない。しかし、彼女が「らしくない」行動をすることに思い当たる節が無いとも言えなかった。清水寺からこの宿に帰ってくるまで、あるいはもっと前、一日目の観光日の後に彼女は俺に何かを言いかけていた。その時の言葉を閉じた表情――彼女は何か突発的な感情に掻き立てられていたのではないか。

 だとすれば、その変化に見て見ぬふりをした俺の責任はあまりにも大きい。ドクンと跳ねた心臓を静かな深呼吸で飲み込むと、今は冷静な選択をしなければならないと自らに沙汰を下す。その横で、後藤先生が玄関へと歩き出していた。

「とにかく私は街の方面に向かって最上さんを探してみます。みんなはここで待って、最上さんが帰って来たら私に連絡して」

「俺たちも……!」

「一晴、待って」

 遮二無二勇んだ足を健吾に止められる。その顔は日頃のおちゃらけた態度を丸ごと払拭するような真剣さで、焦っていた心が停滞を促した。彼はそれで良いと言わんばかりに頷き、後藤先生に向き直る。

「わかりました、先生。気をつけてください」

「――頼りにしているわ」

 かけられた台詞は、心配に対する返事と言うには期待が込められ過ぎていた気がする。多分、教師としてはあまり好ましくない頼み事をしたかったのだろう。俺たちは頷きだけで応えた。「私も行きます」と鈴涼の母が言い、大人が出て行った後で、俺は食い気味で健吾に尋ねた。

「理由があって止めたんだよな」

「もちろん。こんなところで指を咥えて待ってる訳ないじゃないか」

「すずちゃんの居場所がわかるの?」

 こちらも余裕の無い様子で質問した茉莉菜に、至って冷静な顔が答える。

「わかるとは言わない。だけど闇雲に探すよりは、幾ばくか分の良い賭けだと思うよ。二人とも、靴を持ってついて来て」

 彼に言われるがまま、脱いだ靴を指に引っ掛けて、マナー違反を承知で旅館内を走る。派手な服の背中を追う途中に、さっきの質問に答えるように健吾が言った。

「昨日、オレが出入りした小道を覚えているかい?」

「ああ。確か、飲み屋街に繋がってるんだろ?」

「あそこの小道から出た直後はT字路なんだ。右に行けば飲み屋街。左に行けば神社がある」

 そう言えばそんなことも言っていた。どうせ使うことなんて無いと思っていたので忘れていたが、鈴涼もその情報を知った人間だ。健吾の言いたいことに気がつき、俺と茉莉菜は顔を見合わせる。旅館の縁側に回り込むと、昨晩健吾とエンカウントした生垣だ。普通なら敷地を分けるだけの木々の隙間は、細身の人間なら通れてしまう。

「フロントの人も見ていないって言うならここから出た可能性が高い。オレたちはこっち側を手分けして探そう」

「それなら、広そうな飲み屋街方面は俺と健吾で、神社の方は茉莉菜に任せるのが良いか」

「オレが飲み屋街ってのは賛成。ある程度の全体像は把握してるからね。けど、あの神社への道はかなりの傾斜だ。岩本さんみたいな華奢な女の子はいざって時に危ない」

「すずちゃん……」

 茉莉菜が悲壮な顔になる。もし鈴涼がそっちの道を選んでいたら、また三年前のような事故が起きてもおかしくない。きっと俺たちには同一の記憶と危惧が蘇っている。

「一晴。悪いんだけど神社には一人で行ってくれるかい。オレと岩本さんで飲み屋街を探してくる」

「わかった」

 健吾の判断に従って二人と別行動することが決まった。T字路に向かう途中で、健吾が今となっては珍しい張りのない声を漏らす。

「……二人とも、ごめん。オレが変なことしてなければ、こんなことにはならなかったのに」

 確かにあの抜け道を見つけたのは健吾だ。だけど、鈴涼がどこかへ行ったことに直接関係しているかと問われればそうではなく、おそらくは彼女の感情の行き先としてちょうど良かったに過ぎないのだろう。むしろ健吾が罪悪感を押し殺して、努めて冷静で居てくれたことには感謝しか無い。

「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。とにかく鈴涼を見つける。反省会はそれからだ」

 率直な気持ちを伝えると、横に居た茉莉菜も小さくだがしっかりと頷いた。健吾が俺に「任せたよ」と言って、各々が行くべき方向に目を向ける。灯る電柱もない暗がりに駆け出しかけた時、少女の声が聞こえた。

「……気をつけて」

 去り際にかけられた小さな言葉に、俺は親指を立てた手を大きく掲げた。


 宿屋の抜け道を出て、たった一人で人里から遠ざかって行く。月明かりは頼りにならない上に、宿近隣の建物から漏れる光もなくなった。急いでいたからスマホも、ましてや懐中電灯も持っていない。人探しには最悪のコンディションだが、そんなことはどうでもよくなるくらいに、頭の中は少女への心配で一杯だった。

「鈴涼! 鈴涼!」

 声を張り上げながら道なりに進む。暗闇に少女の名前が吸われ続ける中、目の前の景色が緑色に一変した。足元からコンクリートの色は無くなり、養分の肥えた土に。そこから高々と伸びる竹の群れが夜風に揺れてざわざわと不気味に揺れている。

「この先に行ったのか……?」

 木の柵が順路を示すが如く一本道を作っているが、あくまで道を見失わないための急ごしらえのようなものに過ぎなかった。竹林の中で申し訳程度に整備された獣道。脇にはこの先に神社があることを教える立て看板が刺さっていた。

「行くしか、ないよな」

 ざりざりと肥沃の土を踏み荒らし始める。桃川中学校の通学路の坂よりきつい急斜面だ。連日の晴れのおかげで地面は乾いているが、足の踏ん張りがなければずり落ちたっておかしくない。至る所に生えていた竹の頑丈さを頼りにしながら木登りのように駆けて行く。

 しかし焦りに満ちた心が油断を呼び込んだ。暗がりのせいで竹を掴み損ね、冷たい土を大きく削る。旅行前には短くした爪の中に細かな粒が入り込んで、えも言えない不快感に苛まれた。気にしている場合ではないと崩れた姿勢を直したら、低くなった視界の中に小さなクレーターを見つけた。

 「これは」と思って目を近付けると、それは手を使って登った痕跡だった。俺よりもずっとか細い指が抉ったもの。女性の手をスコップ代わりにしたなら、まさにこんな形になるだろう。

「こっちに来てたんだな。鈴涼……」

 正直、神社側に居て欲しくない気持ちがあった。近くに人が居れば安全だなんて言わないけれど、少なくとも鈴涼自身に何かがあった時に目撃情報があるかどうかはかなり重要になる。彼女は長旅の疲れを見せていたし、嫌な想像が尽きることはない。

 ――まさかどこかに落ちたなんてことは。

「いや、あるはずない。殆ど一本道なんだ。落ちてたらすぐにわかる」

 不吉な予感を自己暗示じみた推測で振り払う。鈴涼は大切なものを失い過ぎた。これ以上なにかを奪われてしまうようなことがあれば、俺は一生神様なんて信じられやしない。見えないもののことは脳みそから省いて、目先に広がる緑の道をひたすらに進んだ。

「あった」

 赤い鳥居の頭が見えた瞬間、動かしっぱなしの足の疲れを忘れ、石畳の階段を一段飛ばしで駆け上がる。境内に入る時には礼もしなかった。閑散とした古めかしい神社。手水舎には木の傷みが見える柄杓があって、こんな場所でも誰かが訪れる場所なのだとわかる。そして賽銭箱と鐘の前に立つ一人の少女が居た。

 小柄な少女の後ろ髪が風に吹かれている。昔ならもっと腰の辺りでさらさらと靡いていた漆色も、今では首元で僅かに揺れるだけ。彼女が静かに佇んでいるのを見ると必ずあの教室の景色が蘇る。殆ど本を読んでいたけれど、時折ああして窓の外の生徒たちを眺めていたのだ。

 見覚えのある姿に安堵の気持ちが漂った。しかし問題はまだ終わらない。どうして彼女は一人で飛び出したのか。訪れた衝動の正体を知らないと、彼女はまたどこか遠くへ行ってしまうかもしれないのだ。俺は気付かれない内に息を整えて声をかけた。

「こんな所に居たのか、鈴涼」

「一晴くん」

 振り向いた少女の黒い目が驚きに包まれる。膝や手が土に汚れているが、見たところ怪我はないようだった。ひとまずの安心をバレないように小さくこぼしたら、彼女に向かって言葉を投げかける。

「戻ろう。みんな心配してる」

「ごめん……一人に、なりたかったの」

 鈴涼の返答を聞いて、やはり彼女の中には何かしらの迷いがあることがわかった。それを解決しないことには、連れ戻したところで鈴涼は再び孤独に走ってしまうかもしれない。

「悩み事か?」

 話すことで少しは楽になるだろうか。短絡的だとわかっていても、俺からできることなんてたかが知れていた。とにかく安全な場所まで帰らなくてはならない。早鐘を手伝う荒い呼吸に焦燥感が重なって、あまりに思考をおざなりにしていた。

「一晴くん」

 だから、改めて呼ばれた名前に何を求められているのかなんて考え至らなかった。鈴涼の喉から出ているとは思えないほど、重く淀んだ声が俺に問う。

「『わたし』は本当に『最上鈴涼』なのかな」

 どういう意味なのかさっぱりわからない。ただ、暗がりの中でもわかるあまりにも真剣な眼差しが、彼女の内側にある大切な何かを俺に伝えようとしていた。

 この答えで彼女の全てが変わってしまう。そんな重圧すら感じられる程に。

「お前以外に最上鈴涼は居ないだろ。鈴涼しか持っていない、たった一つの名前だ」

「――わたしは『私』の気持ちもわからないのに?」

「……!」

 安易に答えた俺に、彼女はこれまでに聞いたことが無いほど、静かで鋭い言葉を放った。そして遅過ぎるくらいようやく、鈴涼が言う『私』の意味に気付いたのだ。

 彼女が呼ぶ『最上鈴涼』が、過去に俺たちと三年間を共にした鈴涼のことだとするならば、彼女が持つ『もがみすずり』という名前には一体どんな価値があるのか。呼ばれる度に知らない誰かの存在を押し付けられることで、着実に蝕まれてしまうのは何も知らない現在の少女。つまり彼女にとって『もがみすずり』とは、字面だけの、虚ろな自分を示す呪いの言葉に他ならない。

 ――じゃあ、彼女が本当に望むものとは、一体何なんだ。

「一晴くん、教えて」

 どんなスポーツの時よりも跳ね上がった心臓にさらなる衝撃が伝った。三年前の『あの日』の声音に重なって、彼女の言葉が訪れる。


「『私』は、一晴くんが好きだったの?」


 開いていた口に空気が入らなかった。それどころか全身は渇いて、動悸が狂ったみたいに激しく打ち鳴る。視界に映る鐘の慶賀な音ではなく、もっと深く、黒く、暗い不響和音。

 俺が本当のことを伝えてしまったら、鈴涼はどうするだろう? 彼女は昔の鈴涼を追いかけて、日向一晴という存在を意識し始めてしまうのだろうか。そんなことは絶対にいけない。こんなどうしようもなく情けない男に惚れ込む価値なんてある訳がないのだから。

 だけどその質問を否定することは、過去の鈴涼を再び裏切る行為に他ならなかった。それだけは、二度と彼女を傷つけることだけは絶対にいけない。

 ――今の俺が、言うべき答えは。

「……俺はあの日、何も聞けなかった」

 三年前、俺が答えてしまうことで、変わってしまうことを恐れた関係値。友達として大切な鈴涼を傷つけたくなくて、そして自分がその引き金を引く勇気がなくて、夕焼けの屋上から逃げ出した。

「その言葉を聞くために、俺は、お前の記憶を……」

 「思い出させようとした」。そのエゴ塗れの本音を口にしかけて、頭の中に酷い吐き気を催した。必死に空気の入る部分を押さえつけて留めようとしたけれど、おそらく彼女には全て察されてしまっている。

「それが、一晴くんの目の、本当なんだね」

 顔を上げられない。彼女が浮かべる表情はわからなくても、いつも通りの澄んだ声音が聞こえないことが全てを教えたからだ。彼女は失望しただろう。俺を陰惨な人間だと思ったに違いない。これまで足掻き続けた日々の記憶が消炭色に染まっていく。

 日向一晴は酷くずるくて、あの日と何も変わっていなかったのだ。

「帰ろう……ごめんね」

 すれ違った鈴涼が鳥居を潜り、石畳の階段を降りて行く。凛と吹くような声はやっぱり聞こえない。秋空みたく渇いた喉は、まるで彼女が遠い過去から目を覚ましたばかりの頃のようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み