第8話 思い出に踏み込んで

文字数 4,422文字



「いらっしゃい。こんなに暑い日に、来てくれてありがとうね」

 真夏に噴き出した汗を気にしながら鈴涼の病室に入ると、以前と変わらない黒髪のショートカットに眼鏡をかけた女性が出迎えてくれる。鈴涼の母親は、日々の殆どを鈴涼とともに過ごしているらしい。

「いえ、こちらこそ、急に押しかけてすみません。それに無理なお願いまでして」

 俺が返すと、鈴涼の母はいやいやと片手を振って否定してくれる。

「そんなことはないわ。むしろありがたい話だもの。鈴涼も私も、楽しみにしていたわ」

 そうは言うが、鈴涼には大きな感情の起伏は無いように見えた。家族から見れば何かしらの反応が読み取れるのかもしれないが、どうにも俺と健吾に気を遣っているように思えていたたまれない。こちらからできた気遣いなど、健吾が持っていた匂い付きのデオウォーターをくまなく塗りたくることくらいだと言うのに。

「……なら、良かったです」

 情けない声を絞り出すのが精一杯だった。そんな俺の不甲斐なさをかき消すように、横に控えていた健吾が両手を軽く広げる手振りを交えながら間に入ってくれる。

「学校のほうからは、日中なら何時に来てもらっても構わないと言ってもらってます。鈴涼さんの準備ができたら行きましょう」

「ええわかったわ。あの子、外出なんて全然できてないから、たまには良い機会よね」

「そう言って頂けると、こっちもアポを取った甲斐があります」

 慣れたような笑顔になって応じる健吾が何だか頼もしく見える。鈴涼の母も薄く口角を上げると、部屋の隅にあった車椅子を引き出してベッドの上の鈴涼へと呼びかけた。

「鈴涼。今日は病院の外にお出掛けよ」

 鈴涼は以前会った時の入院着ではなく、薄手のシャツとロングスカート姿だ。点滴の針も取れており、ようやく動けるようになったことが伺える。彼女は母親の手伝いを受けながら、ゆっくりとした動作で車椅子に移った。

「この子、まだ歩くのが危なっかしいから」

「あ、じゃあオレ押しますよ」

 苦笑しながら言う鈴涼の母に近づいて、健吾は車椅子のハンドルを握る。一歩だけ踏み出しかけていた右足に虚しさを覚えつつも、俺はせめてもと病室の扉を開いておく。

「そう? じゃあお願いね。思ったよりも力使うのよ、それ」

「そこは若人(わこうど)男の子なんで、どうか頼ってください」

 車輪が回り出し、思ったよりもずっと静かな音で床を滑り出す。横切って行く彼女の姿は、あの頃とは似ても似つかないくらい透明な空気に覆われている気がした。短くなりすぎた髪の上にはベレー帽を被っており、ふわりと揺れていた絹髪はもう見られない。俺は勝手に、見慣れたロングヘアーを彼女のトレードマークくらいに思っていたのだと思う。

 鈴涼も健吾も茉莉菜も、みんな大きく変わっている。俺も、彼らから見れば変わったのだろうか。どこかに置いて行かれてしまいそうな焦燥を感じて、俺は病室を出る三人の背中を追いかけた。


 桃川中学校へと着いた頃には、鈴涼以外の全員の息が上がっていた。特に勇んで車椅子を押していた健吾は悲惨で、途中からは流れる汗を気にしてか両腕を伸ばして坂道を登り切ったのだ。さすがに代わろうかと提案したのだが、彼いわく「一度言ったことはやり切るのが本当の男なんだよ」だそうだ。

 三年前には絶対に言わなかったであろうキザなセリフを尊重し、健吾の漢気へと敬礼。案の定この様子なので、せめて帰りは俺がやろうと誓った。

 夏休みと言えども、まだ盆すら迎えていないこの時期では、部活動のために校門も開いていた。俺はさっき来た時には見れなかった懐かしの世界を見渡す。グラウンドでは多くの運動部の生徒たちが各々のスポーツを必死に練習している。金網や倉庫は一段と錆が目立つようになっているが、校舎とは別棟の体育館なども特に変化はない。外観には、この三年の間に改修された箇所は無いようだ。

 数え切れないほど使った下駄箱たちを通り過ぎ、スロープを利用して本校舎に入る。ポスターや掲示物を横目にしながら、職員室への道を一直線に歩こうとして、俺はふと思った。

「そういえば、職員室って二階だよな。車椅子……担ぐか?」

「まぁ一階くらいなら男二人でどうにかなるけどさ。目的の図書室は四階だよ。さすがにちょっと億劫だなぁ」

 後ろで変わらず車椅子を押し続ける健吾は、今なおやや疲れた表情のままだ。四階までの階段は当時でも登るのが一々面倒だったのは文学部の共通認識だったこともあるし、なにより健吾にそんな重労働を押し付けるのは心配しか残らなかった。

「あら? 健吾くん、さっきはあんなに逞しかったのに」

「やめてやってください。こいつ、昔は真面目なもやしっ子だったんで」

 笑いながらチクリと針を刺した鈴涼の母に、俺は苦笑しながら言った。彼女は昔の健吾を殆ど知らないはずので、彼が頼もしく見えて仕方のないことだろう。しかしながら、かつての同級生だった俺や茉莉菜が気づけない程に原型からかけ離れているのだ。すると健吾は耳聡く、俺のフォローに難色を示す。

「野暮なこと言うなよ一晴。せっかく頼もしい男子高校生っぷりをアピールしようと思ったのにさ」

「さっき億劫だって言ってたろ……じゃあどうするんだ? この学校にエレベーターなんか無いぞ」

「とりあえず後藤先生を呼んでくるよ。そうしたらオレにアテがあるから」

「アテって……そんなもんどこにあるんだよ」

 思い出の学校にこんなことを言うのも無粋だが、桃川中学は俺たちが在籍していた当時に開校百周年を迎えたような学校だ。つまりそれだけ校舎も古く、また設備の充実度も低い。なにせエアコンすら取り付けられていないのだ。昨今の気温変動を考えれば、現代に取り残された秘境と言っても過言ではない。

 しかし健吾は俺の微妙な表情を気に留めることはなく、よろしく、と一言だけ言いながら鈴涼の乗った車椅子のハンドルを無理矢理握らせて、颯爽と階段を駆け上がって行った。

「元気か……あいつは」

 夏の日の下で遊ぶ子どもにも引けを取らない。すっかり運動部みたいになった彼の後ろ姿が見えなくなった頃、鈴涼の母が尋ねてきた。

「ねぇ、一晴くん。後藤先生って確か……」

「あ、はい。俺たちが文学部だった頃の顧問の先生です」

 先ほど健吾が名前を出した後藤先生は、当時の印象だけで言えば、眼鏡をかけた妙齢の女性教師という感じだ。下衆な同級生との猥談が始まると真っ先に名前が挙がるほど美人の先生で、満場一致で「保健医と言われた方がしっくりくる」と専らの評判だった。

 俺たちが入学するもっと以前から学校司書として勤めているそうで、教員の入れ替わりが激しい中学校教諭なのに良くぞ残っていた――いや、残ってくれていたと思う。おかげで今回の中学校訪問は、非常にスムーズにアポが取れたと健吾も感謝していた。

「思えば何年いるんだろうな、あの先生。俺たちが入学する前なら少なくとも七年以上前だし、あの口ぶりからしてもっと……」

「それは女性に歳を聞くようなものよ。日向くん?」

 階段の折り返しから健吾とともに降りて来たのは、ウェーブがかった長髪を横に流した女性だ。昔とはデザインの変わったスクエアの眼鏡をして、黒を基調にした落ち着いた服装。それが妙に良いスタイルを誇張していて、在籍当時と全く変わらない色気を感じさせている。

 ――いや、変わらな過ぎだろ。

 それが後藤先生に抱いた、紛うことなき感想だった。俺は想定していなかった会話の始まりに、あたふたと言い訳をするしかない。

「あ、えと、そういう意味じゃなくてですね」

「どういう意味でも、そういう風に捉える人はいるのよ?」

 柔らかな語調だが、俺はどうにもこの先生と相性が悪いらしい。仲が悪いわけではなく、なんだかいつも上手く言いくるめられたり、諭されれば大人しくするしかないのがあの頃の常だったのだ。

「す、すみません……」

 どうやらその関係値は依然健在らしい。俺が頭をかきながら謝っていると、後藤先生の後ろにいる健吾はクスクスと笑っている。隣を見れば鈴涼の母までもが口元に手を当てていた。俺は唯一笑っていない鈴涼に同情を求める視線をぶつけてみるが、彼女は不思議そうな顔をしているだけで、やはりこの場に俺の味方はいなかった。

 後藤先生は平謝りの俺から視線を外すと、本日のゲストに向かって丁寧に挨拶をする。

「最上さん。お母さんも、こんにちは。文学部元顧問の後藤です」

「初めまして。今日はわざわざありがとうございます。ほら、鈴涼?」

「こん、にちは」

 その上手く発声できていない鈴涼の挨拶を聞いて、後藤先生は一層柔らかな表情になった。事情は説明しているとは言えども、やはり生徒が痛ましい状況になっていることは耐え難いだろう。先生は膝を折って視線を車椅子の鈴涼に合わせると、優しい声音で呼びかける。

「うん。こんにちは、最上さん。今日は、昔あなたが好きだった場所に行くのよ」

「すき、だった?」

「そう。あなたがたくさんの物語を知って、大切な友達ができた場所よ」

 それは、鈴涼が失ってしまったものの数々だ。記憶を失くした彼女は読み漁った本の内容だって覚えてはいないだろう。そこでできた友達も――皆がそれぞれの道に行ってしまった。俺と健吾はまたここに引き返したけれど、まだ茉莉菜は戻って来ていない。四人で居られない物悲しさを今日ほど実感した日はなかった。

「先生……」

「さぁ、早速図書室に向かいましょう? あまり整理できていないのだけれど、内装は殆ど変わっていないから」

 言うなり後藤先生は階段から大きく方向を変えて歩き出す。俺が疑問符を浮かべている間に、健吾は鈴涼の車椅子のハンドルを奪うと迷うことなく彼女について行き始めたではないか。

「ちょ、ちょっと待ってください! なんにせよ上がらないとダメでしょう!」

 俺がどんどん歩く二人の背中に向かって叫ぶと、アクセサリーを揺らす男はニヤリという擬音が合いそうな笑みを作ってみせた。

「この先に貨物用のエレベーターがあるんだよ。給食のコンテナとか運ぶやつ」

「なっ……そんなのがこの学校にあるのか?」

「皆が並んで食器を持って、階段で降ろしてるところみたことあるかい?」

「そ、そんなことするわけないだろ!」

 子どもみたいな反応をしてしまってから少し頬が熱くなる。なんだって学校でカルガモの群れみたいな光景を再現しなくてはいけないのだ。しかし、考えてみればコンテナを運ぶ仕事は毎度どこかの委員会の仕事だったため、そんな裏方の管理体制なんて知る由もなかったわけだ。

「一晴は目先の情報だけで済まそうとせずに、もうちょっと頭を回すべきだね。ね、最上さん」

 健吾はあろうことか目の前の少女に同意を求めている。そして尋ねられた無垢な少女は、実に率直な疑問を返すのだ。

「……わたし、きゅうしょく?」

 目論見が外れ目を丸くする健吾を、今度は大人二人が笑って見ていた。
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