第10話 面影づくり
文字数 3,459文字
後藤先生は鈴涼を離すと、一言だけ「ありがとう」と呟いていた。それがどんな意味だったかなんて、エスパーでもない俺にはわかりようもない。しかし次に俺たちに見せた顔には一滴の涙もなく、いつも通りの先生の顔に戻っていた。
「日向くん、野沢くん。この学校で最上さんに見せたいところがあったら言ってね? 開けてもらうようにするから」
彼女なりに何かけじめが着いたのだろう。頼もしいことこの上ない台詞を聞いて、俺と健吾は少しだけ目を合わせて笑った。揃ってお礼を言った後、以前から用意していた計画を呈する。
「あの、先生。ちょっとした提案があるんですけど」
「何かしら?」
「この部屋、昔みたいにしたら駄目ですか?」
「それは……部活動をしていた頃の部屋を再現するということ?」
後藤先生の言った解釈は正しく、俺は力強く頷く。これは「せっかく見てもらうならできるだけ昔に近い方が良い」という健吾の発言のもと生まれたものだ。最初は当時のように、机や椅子だけ用意すればすぐにできるだろうとも高を括っていたわけなのだが。
「良いけど……大変よ? なにせこの有り様だもの」
そう、言ってはなんだが部屋は思っていたよりもずっと汚い。床に物が散乱しているとは言わないが、本の入ったダンボールやパソコンなどで使われるケーブルなどが『かろうじて整理している』くらいのレベルで置かれている。殆ど何も無かったあの頃の簡素な部屋を作り出すにはなかなかの労力が必要だろう。しかしながら、俺はここで引こうとは思わなかった。
「やります。時間はかかるかもしれませんが、今日中には元通りにして帰ります」
そう宣言すると、先生は優しそうに微笑んだ。
「わかったわ。でも、熱中症には気をつけなさい?」
「大丈夫ですよ! そのために男手がいるんですから。な、一晴」
「お、おう」
いつの間にか逞しくなっていた健吾はともかく、俺は高校に入ってから外に出ることすら減っていたのだ。体力には大いに不安が残るが言い出した以上は致し方あるまい。肩をぐるぐる回して、引き攣りそうな顔を気張らせた。
「じゃあ鈴涼。私たちは隅っこに居ましょうか」
「ん」
鈴涼の母がハンドルを引っ張っていく。鈴涼は未だに大きな反応を見せてはいないが、かつて見慣れた景色なら、もしかしたら記憶を取り戻すきっかけになってくれるかもしれない。俺と健吾はその一心で机上の蔵書たちを取り除いていくのだった。
※
窓からそよぐ風が実に気持ち良い。思えば今日は朝から動きっぱなしだ。茉莉菜の件もあって心身ともに酷く疲労を感じているが、どうにも状況は俺に休憩を与えてはくれないらしい。
「一晴、そっち持って」
「す、すぐ行く。ちょっと待ってくれ」
「だらしないなぁ」
未だにきびきびと作業に勤しむ健吾には昔の軟弱さなど微塵も見られない。一緒に机を持ち上げた瞬間にはとても軽く感じられたし、半袖のアロハシャツから覗く腕は同性ながら感心させられる筋肉がはっきりと見える。運動と無縁の生活を送っていた俺とはまるで違うプロポーションだ。
「こ、これが最後か?」
俺は隙間なく本が詰められたダンボールを教室の隅に置いた。ようやく清々した図書室裏には、健吾が別の教室から拝借してきた机が四つ並び、あたかも部活動時代のような光景が広がっている。
「あとは椅子かな。四つ分。これも一個下の階から借りてこよう」
「えぇー……さすがに要らないだろ。鈴涼は車椅子だし、俺たちは立ってたら良いじゃないか」
「せっかくここまでやったのに、最後で手を抜くのはもったいないじゃないか。ぶつくさ言ってないで行くよ」
「うー……い」
俺は言葉でもない返事を返すと、てきぱきと動く健吾の後を追って教室を出て行く。女性陣が「頑張れ」と言ってくれたが、正直階段を往復する怠さには勝てなかった。俺が後ろ手で扉を閉めると、健吾がこちらを向いて話しかけてきた。
「なぁ一晴」
「……なんだよ」
「さっきの最上さんさ、ちょっと意外だったよね」
少し詰まり気味な感じで言う健吾に、俺は少し同質の感想を抱いていた。
「あぁ。鈴涼があんなに喋るなんて……いや、今までなかったわけじゃないけど、まだ発声がキツいから喋りたくないみたいだし」
「あぁ、いや。そうじゃないんだ」
「え?」
俺は少々不意を突かれたようだった。しかしながら、健吾の言わんとしている真意は掴めない。彼の口から次の言葉が出るのを待っても、それ以降は特に喋る風でもなかった。
「……なんなんだよ」
俺は思わず健吾に尋ねた。けれど健吾は唸ってからこんなことを言うだけだった。
「ちゃんと見てるよね。案外と言うか、やっぱりと言うか……最上さんは、昔っから良く見てる」
「……お前、さっきから何が言いたいんだ? さっぱりわからんぞ」
「最上さんは会って間もない先生の人柄も良くわかってた。人のことをそれだけ見れるって、オレは結構すごいことだと思うんだ」
「……そりゃ俺への当て付けか?」
「悲観するなよ。別に嫌味じゃないさ。ただ……」
健吾はまた言葉に詰まったけれど、今度は俺が聞き返す前に答えた。
「ただ、羨ましいって思っただけさ。誰かを正しく見れるってことが」
こう締めくくられた健吾の心情は、やはり俺には量りかねた。ただ彼の瞳は俺じゃないどこかを見ているみたいで、これ以上の追求が俺の届かない領域にあることだけはわかった。健吾は、次に瞬きをした時にはいつもみたいな笑顔になって、さっぱりとした様子で言う。
「さて、さっさと椅子を運んじゃおうか。一晴、四つだからな。最上さんの分は要らないとか絶対に言うなよ」
「ここまで来て言わねーよ。つか字面悪過ぎだろ。俺があいつをハブるつもりだったみたいになる。いらないとしたら茉莉菜の分だ」
「それはそれでどうなんだい? ……でも却下。そっちは今後のためにちょいと必要なんだ。だからちゃんと持ってくよ」
「必要? なにに?」
思わず聞き返した彼の意味深な表現に、俺はまたこいつの腹の底の読めなさを悟った。しかしながら今度は素直に答えてくれる気のようで、さっきとはうって変わった得意顔をして言ってみせる。
「そりゃあもちろん、岩本さんを引っ張り出すための作戦に、さ」
※
机と椅子のセットが四つ。それとみんなが読み回す本が、各々一冊ずつを持ち込んで四冊。言ってしまえば俺たちの部活はこれだけで機能していた。その真似事のように図書館の蔵書から適当なものを見繕い、それぞれの机に置いてやる。夏の外気に大きなカーテンが揺れれば、まさに昔の通りの光景が広がっていた。
「懐かしいわね……」
俺がこの教室に来て一番に思ったことを、今度は後藤先生がしみじみと言った。健吾は先生の表情を見て、満足気に胸を張る。
「何とかそれっぽくできたね。隅に寄せたダンボールなんかは……まぁちょっと甘めに採点してもらって」
健吾は苦笑混じりに言うが、十分過ぎるほどに再現ができていると思う。俺たちはいつもこの教室で語らい、ふざけ、時を過ごした。その欠片が脳裏をよぎるほどに、この空間が、入り口から見える景色が想い出をつつく。そして良いことだけではなかった、内にある苦々しい感情までもが刺激されるのだ。
「わたしは……」
その景色を眺める最中、不意に鈴涼が声を発した。
「わたしは、どこにいたの?」
短い質問は、きっと昔の自分がどこに座っていたのかを尋ねたかったのだろう。クラスでもあるまいし、決まった座席などはなかったにしても、二年間も同じ場所に集まっていれば一種のパターンができるのは当たり前だった。
「鈴涼は向かいの一番奥だったな。窓側の左……」
「すわりたい」
彼女が間髪入れずに言うものだから、俺は少々驚きながらも鈴涼の母から車椅子のハンドルを預かる。思えばこの少女がこんなにも強い意志で何かを要求するのは、あの病室での一件以来だ。さすがに四つ足の椅子への移動は躊躇われたので、俺は車椅子に乗る鈴涼を机の隣につける形にした。
二つの椅子が並んでいる。車椅子の隣の空いた席が、まるで今は居ない過去の鈴涼を彷彿とさせた。重なるはずだった一人の存在は、今はなぜか二人の人間だったかのように思えてしまう。俺はその瞬間に言い知れない身勝手さを覚えた。最上鈴涼をこんな状態にしたのは、間違いなく俺であるはずなのに。
俺の目に映った二人の少女は酷く憂うような表情で、それがまた自分の心の醜さを如実していて内側が締め付けられた。それは奇しくも、健吾が鈴涼に抱いた感情とよく似ていたのかもしれない。
「日向くん、野沢くん。この学校で最上さんに見せたいところがあったら言ってね? 開けてもらうようにするから」
彼女なりに何かけじめが着いたのだろう。頼もしいことこの上ない台詞を聞いて、俺と健吾は少しだけ目を合わせて笑った。揃ってお礼を言った後、以前から用意していた計画を呈する。
「あの、先生。ちょっとした提案があるんですけど」
「何かしら?」
「この部屋、昔みたいにしたら駄目ですか?」
「それは……部活動をしていた頃の部屋を再現するということ?」
後藤先生の言った解釈は正しく、俺は力強く頷く。これは「せっかく見てもらうならできるだけ昔に近い方が良い」という健吾の発言のもと生まれたものだ。最初は当時のように、机や椅子だけ用意すればすぐにできるだろうとも高を括っていたわけなのだが。
「良いけど……大変よ? なにせこの有り様だもの」
そう、言ってはなんだが部屋は思っていたよりもずっと汚い。床に物が散乱しているとは言わないが、本の入ったダンボールやパソコンなどで使われるケーブルなどが『かろうじて整理している』くらいのレベルで置かれている。殆ど何も無かったあの頃の簡素な部屋を作り出すにはなかなかの労力が必要だろう。しかしながら、俺はここで引こうとは思わなかった。
「やります。時間はかかるかもしれませんが、今日中には元通りにして帰ります」
そう宣言すると、先生は優しそうに微笑んだ。
「わかったわ。でも、熱中症には気をつけなさい?」
「大丈夫ですよ! そのために男手がいるんですから。な、一晴」
「お、おう」
いつの間にか逞しくなっていた健吾はともかく、俺は高校に入ってから外に出ることすら減っていたのだ。体力には大いに不安が残るが言い出した以上は致し方あるまい。肩をぐるぐる回して、引き攣りそうな顔を気張らせた。
「じゃあ鈴涼。私たちは隅っこに居ましょうか」
「ん」
鈴涼の母がハンドルを引っ張っていく。鈴涼は未だに大きな反応を見せてはいないが、かつて見慣れた景色なら、もしかしたら記憶を取り戻すきっかけになってくれるかもしれない。俺と健吾はその一心で机上の蔵書たちを取り除いていくのだった。
※
窓からそよぐ風が実に気持ち良い。思えば今日は朝から動きっぱなしだ。茉莉菜の件もあって心身ともに酷く疲労を感じているが、どうにも状況は俺に休憩を与えてはくれないらしい。
「一晴、そっち持って」
「す、すぐ行く。ちょっと待ってくれ」
「だらしないなぁ」
未だにきびきびと作業に勤しむ健吾には昔の軟弱さなど微塵も見られない。一緒に机を持ち上げた瞬間にはとても軽く感じられたし、半袖のアロハシャツから覗く腕は同性ながら感心させられる筋肉がはっきりと見える。運動と無縁の生活を送っていた俺とはまるで違うプロポーションだ。
「こ、これが最後か?」
俺は隙間なく本が詰められたダンボールを教室の隅に置いた。ようやく清々した図書室裏には、健吾が別の教室から拝借してきた机が四つ並び、あたかも部活動時代のような光景が広がっている。
「あとは椅子かな。四つ分。これも一個下の階から借りてこよう」
「えぇー……さすがに要らないだろ。鈴涼は車椅子だし、俺たちは立ってたら良いじゃないか」
「せっかくここまでやったのに、最後で手を抜くのはもったいないじゃないか。ぶつくさ言ってないで行くよ」
「うー……い」
俺は言葉でもない返事を返すと、てきぱきと動く健吾の後を追って教室を出て行く。女性陣が「頑張れ」と言ってくれたが、正直階段を往復する怠さには勝てなかった。俺が後ろ手で扉を閉めると、健吾がこちらを向いて話しかけてきた。
「なぁ一晴」
「……なんだよ」
「さっきの最上さんさ、ちょっと意外だったよね」
少し詰まり気味な感じで言う健吾に、俺は少し同質の感想を抱いていた。
「あぁ。鈴涼があんなに喋るなんて……いや、今までなかったわけじゃないけど、まだ発声がキツいから喋りたくないみたいだし」
「あぁ、いや。そうじゃないんだ」
「え?」
俺は少々不意を突かれたようだった。しかしながら、健吾の言わんとしている真意は掴めない。彼の口から次の言葉が出るのを待っても、それ以降は特に喋る風でもなかった。
「……なんなんだよ」
俺は思わず健吾に尋ねた。けれど健吾は唸ってからこんなことを言うだけだった。
「ちゃんと見てるよね。案外と言うか、やっぱりと言うか……最上さんは、昔っから良く見てる」
「……お前、さっきから何が言いたいんだ? さっぱりわからんぞ」
「最上さんは会って間もない先生の人柄も良くわかってた。人のことをそれだけ見れるって、オレは結構すごいことだと思うんだ」
「……そりゃ俺への当て付けか?」
「悲観するなよ。別に嫌味じゃないさ。ただ……」
健吾はまた言葉に詰まったけれど、今度は俺が聞き返す前に答えた。
「ただ、羨ましいって思っただけさ。誰かを正しく見れるってことが」
こう締めくくられた健吾の心情は、やはり俺には量りかねた。ただ彼の瞳は俺じゃないどこかを見ているみたいで、これ以上の追求が俺の届かない領域にあることだけはわかった。健吾は、次に瞬きをした時にはいつもみたいな笑顔になって、さっぱりとした様子で言う。
「さて、さっさと椅子を運んじゃおうか。一晴、四つだからな。最上さんの分は要らないとか絶対に言うなよ」
「ここまで来て言わねーよ。つか字面悪過ぎだろ。俺があいつをハブるつもりだったみたいになる。いらないとしたら茉莉菜の分だ」
「それはそれでどうなんだい? ……でも却下。そっちは今後のためにちょいと必要なんだ。だからちゃんと持ってくよ」
「必要? なにに?」
思わず聞き返した彼の意味深な表現に、俺はまたこいつの腹の底の読めなさを悟った。しかしながら今度は素直に答えてくれる気のようで、さっきとはうって変わった得意顔をして言ってみせる。
「そりゃあもちろん、岩本さんを引っ張り出すための作戦に、さ」
※
机と椅子のセットが四つ。それとみんなが読み回す本が、各々一冊ずつを持ち込んで四冊。言ってしまえば俺たちの部活はこれだけで機能していた。その真似事のように図書館の蔵書から適当なものを見繕い、それぞれの机に置いてやる。夏の外気に大きなカーテンが揺れれば、まさに昔の通りの光景が広がっていた。
「懐かしいわね……」
俺がこの教室に来て一番に思ったことを、今度は後藤先生がしみじみと言った。健吾は先生の表情を見て、満足気に胸を張る。
「何とかそれっぽくできたね。隅に寄せたダンボールなんかは……まぁちょっと甘めに採点してもらって」
健吾は苦笑混じりに言うが、十分過ぎるほどに再現ができていると思う。俺たちはいつもこの教室で語らい、ふざけ、時を過ごした。その欠片が脳裏をよぎるほどに、この空間が、入り口から見える景色が想い出をつつく。そして良いことだけではなかった、内にある苦々しい感情までもが刺激されるのだ。
「わたしは……」
その景色を眺める最中、不意に鈴涼が声を発した。
「わたしは、どこにいたの?」
短い質問は、きっと昔の自分がどこに座っていたのかを尋ねたかったのだろう。クラスでもあるまいし、決まった座席などはなかったにしても、二年間も同じ場所に集まっていれば一種のパターンができるのは当たり前だった。
「鈴涼は向かいの一番奥だったな。窓側の左……」
「すわりたい」
彼女が間髪入れずに言うものだから、俺は少々驚きながらも鈴涼の母から車椅子のハンドルを預かる。思えばこの少女がこんなにも強い意志で何かを要求するのは、あの病室での一件以来だ。さすがに四つ足の椅子への移動は躊躇われたので、俺は車椅子に乗る鈴涼を机の隣につける形にした。
二つの椅子が並んでいる。車椅子の隣の空いた席が、まるで今は居ない過去の鈴涼を彷彿とさせた。重なるはずだった一人の存在は、今はなぜか二人の人間だったかのように思えてしまう。俺はその瞬間に言い知れない身勝手さを覚えた。最上鈴涼をこんな状態にしたのは、間違いなく俺であるはずなのに。
俺の目に映った二人の少女は酷く憂うような表情で、それがまた自分の心の醜さを如実していて内側が締め付けられた。それは奇しくも、健吾が鈴涼に抱いた感情とよく似ていたのかもしれない。