第17話 嘘っぱちの勇気
文字数 4,613文字
病院は目前に迫っていた。結局俺たちは茉莉菜とろくな会話もできないまま、彼女を鈴涼の病室の前に案内する運びとなる。無機質な扉の前では、健吾のおふざけも茉莉菜の堂々とした態度も形無しだ。
この病室を開ける時はいつも緊張してしまう。ぴりぴりと感覚が痺れるような感じではなく、何者かに五臓六腑を握られるみたいな不快感。それは多分、俺が俺自身に与える苦しみの形だ。蠢く苦痛が過去を払拭することを決して許さず、ただあの夏の終わりに鳴り止んだ風鈴の音を告げる。
ならば目の前に立つ茉莉菜はどうだろうか。彼女の内を廻るのは、果たして痛みなのだろうか。自分で言うのは随分と憚られるが、茉莉菜と鈴涼は恋敵だったのだ。彼女は鈴涼を失い、逃げ出した俺を見て何を思っていたのだろう――いや、そんな簡単なことを想像するこの時間こそ、現実から目を背けているに過ぎない。
「茉莉菜」
「……!」
鈴涼の病室の前で立ち止まる彼女に俺は声をかける。驚いたように震えた肩で、彼女が怯えていることを初めて知った。俺が今できることは、茉莉菜の背中を押すことだけだった。
「お前が知りたがってる答えは、お前にしか見つけられない。でも、鈴涼はきっとヒントを教えてくれるよ……お前の、親友だろ」
親友。その言葉の意味が昔からどうにもわからなかった。俺には親友と呼ぶべき友はいない。いつもその場での友人、その場での関わりの中で生きてきた。健吾とだって、中学生の頃は学校以外のよしみは殆どなかった。
何を定義に友の領域を踏み越えるのか。信頼の試練が必要なのか、それとも思いが通じ合うことが条件なのか。不確定な積み重ねを過程に生まれる関係値は、余りにアンバランスだ。
けれど茉莉菜と鈴涼を見てからその意味に少しだけ近づいた。親友とは案外と身勝手に、相手を思っているのだ。こうしてここに来た茉莉菜も、あの夏の日に教室の片隅で一人傷ついていた鈴涼も。二人とも、ただ互いに相手のことを気遣い合っていただけ。
だからこそ、それで良いと思う。親友という関係値に確かな形は必要ない。いつも頭の端でその人のことを思える。それだけで十分ではないか。
「親友、ね……」
しかし茉莉菜はどこか迷うような素振りを見せた。彼女たちは他の誰よりも信頼し合っているお似合いのコンビだった。少なくとも俺の目にはそう見えていた。俺と彼女の認識は、どこかずれているのだろうか。
「……わかってるわよ」
ただ茉莉菜の返答は思ったよりもずっと強気だった。俺は抱いていた心配を手放すと、彼女を見守ることを決める。一つ深呼吸をしてから、その手がスライドドアを叩いた。
※――――――――――――――――――――――
あたしはあたしのことがとことん嫌いだ。
消極的な癖に理想だけは一丁前。人前で喋ることが苦手で、言いたげな瞳を分厚い眼鏡の裏に覆い隠す小心者。それがあたしが鏡を見て思う、岩本茉莉菜という人間であった。
だから幼い頃には、常に周囲が望む行動を取っていた。理解と納得は違うから、何かを壊したくないなら空気を読んでいなければならない。必要なのは、あたしの中で思う正しさよりも、誰かを大切にする気持ちだった。
そんなだったから、あたしは一晴に嫉妬していた。似たような環境で育った癖に、まさに自分勝手さの権化。あたしは弟の面倒を任されているから、一人っ子の彼と違ってしっかり者の姉として振る舞うことを求められる。弟がいくら可愛くても、そうして自分の自由が制限されることに抗えないのは苦しかった。でもそんな文句は口が裂けても言えるはずがない。だから無遠慮に人の心に踏み込める一晴が羨ましくて――どうしようもなく憧れていた。
決定的だったのは、小学生のとある日のことだ。両親が休日の仕事で家を空けていたこともあり、あたしと海渡は日向家でお世話になっていた。案の定じっとしていられない海渡のせいで、三人揃って近所の散策に飛び出す羽目になる。
「ねーえー! まりねぇも早く来てよー!」
「茉莉菜早くしろー! 海渡の奴、どんどん先行っちまうぞー!」
姉の心配も意に介すことなく車通りの少ない道を走る海渡と、そんな駄々っ子を追う一晴。本当の兄弟みたいに元気に遊び回る彼らが羨ましかったあたしはその場の空気に当てられて、いつもより少しだけはしゃいでみようと思った。
「待っててばー!」
自信の無い走力で二人を追う。緑土の匂いが漂う田園風景が広がって、少し冷たいくらいの風がとても心地良い。靴が擦り切れるまで、どこまでも走れそうな予感さえした。
「あっ」
しかし浮かれていたのが全ての運の尽きだった。見たことか、走っていた途中でずり落ちた眼鏡がどぷっと近くの田んぼの中に浸かってしまったのだ。
あたしは誰も居ない道端で大泣きした。せっかく買ってもらったお気に入りだったということもあるけれど、何より、あたしでは何もできないということを思い知らされたみたいだったのだ。悔しくて堪らない気持ちはあるけれど、頭では落とし物を諦めることが正しい理解だとわかっていた。弟を危険な場所から遠ざけて、両親の怒鳴り声を受け入れること。姉として、岩本茉莉菜として第一に考えなければならないことはすぐに頭の中に浮かんでいた。
――でも本当は、怒られたくなんかない。自分自身が何もできないなんて思いたくない。納得とは程遠い現実に、あたしは打ちのめされるばかりだった。
「よっ」
すると今度は、田んぼから眼鏡が落ちた時よりも余程大きな音がした。ばしゃっと泥が弾かれた中に、いつの間にか靴を置いて飛び込んだ一晴が居たのだ。
「か、一晴!」
「うえぇ、何か気持ちわりー」
事も無げに感想を言う彼はズボズボと腕を田んぼに突っ込み、泥だらけになりながら眼鏡を探す。春の陽気が強まったこの頃は水が張られたばかりで、すぐに一晴の半ズボンがそうそう取れない色に染まっていった。
「い、良いよ! 怒られちゃうよ!」
「だってあれ無いと見えないんだろー? 前にお父さんが家で眼鏡無くして、そこらじゅうに頭ぶつけてたんだよ」
こちらを振り向いた一晴の顔は飛び散った泥水で無茶苦茶だった。あたしは一緒に飛び込もうとする海渡を止めるのに精一杯で、それ以上彼に何かを言うことはできなかった。
「あったぁ!」
やがて、言いながら高々と片手を振り上げた一晴の手には、茶色に染まった眼鏡が摘まれていた。彼はその場でこちらを振り向くと、盛大にグッドサインを向けた。
「ほら! ここの家の人にバレる前に逃げるぞ!」
一晴は田んぼから戻ってくるなり、軽く泥を拭うとあたしに眼鏡を手渡した。ねちゃ、とした感覚が凄く不快で、とてもかけられたものではなかった。
「それ洗えば使えんの?」
「た、多分、大丈夫」
「でも今はかけらんないよな。仕方ないから、バレないようにゆっくり歩いていくか」
「おー!」
海渡の同調を合図に、あたし達はできるだけ家の塀なんかに姿を隠してその場から遠ざかった。あたしは海渡に手を引かれながら二人で一晴の背を追う。
「ここまでくりゃ大丈夫だろ」
一晴は泥だらけの笑顔を向けながら親指を立たせる。あたしは自分がとんでもなく悪いことをしたみたいに思えて、その場にへたり込んだ。
「お、おい茉莉菜。大丈夫かよ?」
「うん……大丈夫、大丈夫……」
そうやって自分に言い聞かせる。そうでなければあたしは、あたしの行動の範疇から大いに外れたこの出来事を整理できそうになかったから。小さな弟を任されている手前、これ以上弱い部分は見せたくなかった。
「そんなに落として嫌なら、眼鏡なんてつけなきゃ良いじゃん」
「え……」
あたしは一晴の謎の言葉に戸惑い顔を上げた。そんなことをすれば、あたしは今より何もできなくなる。それはどんな叱責やお化けよりも恐怖でしかなくて、あたしはまた泣きそうになった。だけど一晴は顎が汚れるのも気にせず、手を当てながら何かを思い出すように言った。
「コンタクト? っていうのがあるんだろ? それなら今日みたいにどれだけ走っても落とすこと無いんじゃねーか?」
「コンタクト……?」
それは母親が仕事に行くのに付けているものだ。未知のものに興味を示したこともあったが、まだ早いと諭されてそれ以上は追求しなかった。
「まーあれ目に直接付けるって言ってたし、怖……怖くないけど! 俺は嫌だね!」
へへ、と強がって笑う彼の得意顔は、今でもずっと忘れられない。あの強がりが、あたしに力をくれたのだ。嘘でも強がって良いじゃないか。だって、あたしが一番憧れる人は、それでこんなにも伸び伸びとしているのだから。
「うん……ありがとう」
あたしはまだ伝えられていなかった感謝を伝えると、三人で日向家に帰って行った。彼は庭にある水道を使ってあらかたの泥を落とし証拠隠滅を計ったけれど、偶然出てきた母親に見つかって大目玉となった。危険がどうだの洗濯がどうだの遊び場くらい選べないのかだのと言われ、萎縮し切った一晴を見て、あたしは急いでその間に割って入った。
「違うのおばさん! 一晴はあたしが落とした眼鏡を拾いに行ってくれただけなの! 悪いのはあたしだから、怒るならあたしにして!」
あたしは初めて誰かに一丁前の理想を伝えた。鬼みたいに怒る一晴の母は怖いけど、あたしは目を見るのを止めなかった。嘘っぱちの勇気だって良い。だってその後には、あんなにも晴れやかに笑っていられるのだから。
するとおばさんはあたしの頭に手をぽん、と置くと、そうだったのね、と優しく言ってくれた。
「ごめんね一晴。訳も聞かずに怒っちゃって」
「……そ、そうだよ! 俺べつに悪くないかんね! ……あ、でも茉莉菜だって悪くないよ! ちょっとはしゃいでただけなんだ」
「ここぞとばかりに調子に乗るのは誰に似たんだか。全く……」
早くお風呂に入っておいで。それを伝えた母親は家の中に消えて行った。あたしは呆然とその光景を見送ると、一晴から本日二度目のグッドサインを向けられた。
「ナイス茉莉菜! おかげでお母さんに怒られずに済んだ!」
さっきまでの暗い表情はどこへやら、一晴は空にも負けないくらいの晴れやかな笑顔をしていた。あたしはそれが彼と対等であることの証明に感じて、心の底から喜んでいた。いつも前のめりに踏み出す一晴と同じ一歩を踏み出せたこと、憧れに近づいた気がしたこと。誰かに褒められるよりも嬉しい気持ちが溢れていた。
「ありがとな、茉莉菜!」
「……うん!」
一晴が背中を押してくれるなら、あたしはどこへだって行けると思えた。あたしが踏み出したあの日から、一晴に対する想いが変わったのは必然だった。
そして中学生に上がる直前、あたしは母に意を決して言ってみた。今まで『良い子ちゃん』で居なければならないと思っていた私にとっては、一大決心だった。
「お母さん。あたし、コンタクトにしてみたい」
怒られるかな、と思っていた。あたしなんかが届かない理想を言うことは至って愚かで、救いようがないんじゃないか。そんな自己否定が誰かによってさらに助長されることが怖かったのだ。
「……うん、良いよ。今度学校に聞いてみようね」
母親の回答は随分とあっさりしたものだった。あたしは存外納得がいく世界に少しだけ安堵したのだ。そして心の中で、あたしの前を行く彼に感謝した。
――やがて、十二歳の春がやって来た。
この病室を開ける時はいつも緊張してしまう。ぴりぴりと感覚が痺れるような感じではなく、何者かに五臓六腑を握られるみたいな不快感。それは多分、俺が俺自身に与える苦しみの形だ。蠢く苦痛が過去を払拭することを決して許さず、ただあの夏の終わりに鳴り止んだ風鈴の音を告げる。
ならば目の前に立つ茉莉菜はどうだろうか。彼女の内を廻るのは、果たして痛みなのだろうか。自分で言うのは随分と憚られるが、茉莉菜と鈴涼は恋敵だったのだ。彼女は鈴涼を失い、逃げ出した俺を見て何を思っていたのだろう――いや、そんな簡単なことを想像するこの時間こそ、現実から目を背けているに過ぎない。
「茉莉菜」
「……!」
鈴涼の病室の前で立ち止まる彼女に俺は声をかける。驚いたように震えた肩で、彼女が怯えていることを初めて知った。俺が今できることは、茉莉菜の背中を押すことだけだった。
「お前が知りたがってる答えは、お前にしか見つけられない。でも、鈴涼はきっとヒントを教えてくれるよ……お前の、親友だろ」
親友。その言葉の意味が昔からどうにもわからなかった。俺には親友と呼ぶべき友はいない。いつもその場での友人、その場での関わりの中で生きてきた。健吾とだって、中学生の頃は学校以外のよしみは殆どなかった。
何を定義に友の領域を踏み越えるのか。信頼の試練が必要なのか、それとも思いが通じ合うことが条件なのか。不確定な積み重ねを過程に生まれる関係値は、余りにアンバランスだ。
けれど茉莉菜と鈴涼を見てからその意味に少しだけ近づいた。親友とは案外と身勝手に、相手を思っているのだ。こうしてここに来た茉莉菜も、あの夏の日に教室の片隅で一人傷ついていた鈴涼も。二人とも、ただ互いに相手のことを気遣い合っていただけ。
だからこそ、それで良いと思う。親友という関係値に確かな形は必要ない。いつも頭の端でその人のことを思える。それだけで十分ではないか。
「親友、ね……」
しかし茉莉菜はどこか迷うような素振りを見せた。彼女たちは他の誰よりも信頼し合っているお似合いのコンビだった。少なくとも俺の目にはそう見えていた。俺と彼女の認識は、どこかずれているのだろうか。
「……わかってるわよ」
ただ茉莉菜の返答は思ったよりもずっと強気だった。俺は抱いていた心配を手放すと、彼女を見守ることを決める。一つ深呼吸をしてから、その手がスライドドアを叩いた。
※――――――――――――――――――――――
あたしはあたしのことがとことん嫌いだ。
消極的な癖に理想だけは一丁前。人前で喋ることが苦手で、言いたげな瞳を分厚い眼鏡の裏に覆い隠す小心者。それがあたしが鏡を見て思う、岩本茉莉菜という人間であった。
だから幼い頃には、常に周囲が望む行動を取っていた。理解と納得は違うから、何かを壊したくないなら空気を読んでいなければならない。必要なのは、あたしの中で思う正しさよりも、誰かを大切にする気持ちだった。
そんなだったから、あたしは一晴に嫉妬していた。似たような環境で育った癖に、まさに自分勝手さの権化。あたしは弟の面倒を任されているから、一人っ子の彼と違ってしっかり者の姉として振る舞うことを求められる。弟がいくら可愛くても、そうして自分の自由が制限されることに抗えないのは苦しかった。でもそんな文句は口が裂けても言えるはずがない。だから無遠慮に人の心に踏み込める一晴が羨ましくて――どうしようもなく憧れていた。
決定的だったのは、小学生のとある日のことだ。両親が休日の仕事で家を空けていたこともあり、あたしと海渡は日向家でお世話になっていた。案の定じっとしていられない海渡のせいで、三人揃って近所の散策に飛び出す羽目になる。
「ねーえー! まりねぇも早く来てよー!」
「茉莉菜早くしろー! 海渡の奴、どんどん先行っちまうぞー!」
姉の心配も意に介すことなく車通りの少ない道を走る海渡と、そんな駄々っ子を追う一晴。本当の兄弟みたいに元気に遊び回る彼らが羨ましかったあたしはその場の空気に当てられて、いつもより少しだけはしゃいでみようと思った。
「待っててばー!」
自信の無い走力で二人を追う。緑土の匂いが漂う田園風景が広がって、少し冷たいくらいの風がとても心地良い。靴が擦り切れるまで、どこまでも走れそうな予感さえした。
「あっ」
しかし浮かれていたのが全ての運の尽きだった。見たことか、走っていた途中でずり落ちた眼鏡がどぷっと近くの田んぼの中に浸かってしまったのだ。
あたしは誰も居ない道端で大泣きした。せっかく買ってもらったお気に入りだったということもあるけれど、何より、あたしでは何もできないということを思い知らされたみたいだったのだ。悔しくて堪らない気持ちはあるけれど、頭では落とし物を諦めることが正しい理解だとわかっていた。弟を危険な場所から遠ざけて、両親の怒鳴り声を受け入れること。姉として、岩本茉莉菜として第一に考えなければならないことはすぐに頭の中に浮かんでいた。
――でも本当は、怒られたくなんかない。自分自身が何もできないなんて思いたくない。納得とは程遠い現実に、あたしは打ちのめされるばかりだった。
「よっ」
すると今度は、田んぼから眼鏡が落ちた時よりも余程大きな音がした。ばしゃっと泥が弾かれた中に、いつの間にか靴を置いて飛び込んだ一晴が居たのだ。
「か、一晴!」
「うえぇ、何か気持ちわりー」
事も無げに感想を言う彼はズボズボと腕を田んぼに突っ込み、泥だらけになりながら眼鏡を探す。春の陽気が強まったこの頃は水が張られたばかりで、すぐに一晴の半ズボンがそうそう取れない色に染まっていった。
「い、良いよ! 怒られちゃうよ!」
「だってあれ無いと見えないんだろー? 前にお父さんが家で眼鏡無くして、そこらじゅうに頭ぶつけてたんだよ」
こちらを振り向いた一晴の顔は飛び散った泥水で無茶苦茶だった。あたしは一緒に飛び込もうとする海渡を止めるのに精一杯で、それ以上彼に何かを言うことはできなかった。
「あったぁ!」
やがて、言いながら高々と片手を振り上げた一晴の手には、茶色に染まった眼鏡が摘まれていた。彼はその場でこちらを振り向くと、盛大にグッドサインを向けた。
「ほら! ここの家の人にバレる前に逃げるぞ!」
一晴は田んぼから戻ってくるなり、軽く泥を拭うとあたしに眼鏡を手渡した。ねちゃ、とした感覚が凄く不快で、とてもかけられたものではなかった。
「それ洗えば使えんの?」
「た、多分、大丈夫」
「でも今はかけらんないよな。仕方ないから、バレないようにゆっくり歩いていくか」
「おー!」
海渡の同調を合図に、あたし達はできるだけ家の塀なんかに姿を隠してその場から遠ざかった。あたしは海渡に手を引かれながら二人で一晴の背を追う。
「ここまでくりゃ大丈夫だろ」
一晴は泥だらけの笑顔を向けながら親指を立たせる。あたしは自分がとんでもなく悪いことをしたみたいに思えて、その場にへたり込んだ。
「お、おい茉莉菜。大丈夫かよ?」
「うん……大丈夫、大丈夫……」
そうやって自分に言い聞かせる。そうでなければあたしは、あたしの行動の範疇から大いに外れたこの出来事を整理できそうになかったから。小さな弟を任されている手前、これ以上弱い部分は見せたくなかった。
「そんなに落として嫌なら、眼鏡なんてつけなきゃ良いじゃん」
「え……」
あたしは一晴の謎の言葉に戸惑い顔を上げた。そんなことをすれば、あたしは今より何もできなくなる。それはどんな叱責やお化けよりも恐怖でしかなくて、あたしはまた泣きそうになった。だけど一晴は顎が汚れるのも気にせず、手を当てながら何かを思い出すように言った。
「コンタクト? っていうのがあるんだろ? それなら今日みたいにどれだけ走っても落とすこと無いんじゃねーか?」
「コンタクト……?」
それは母親が仕事に行くのに付けているものだ。未知のものに興味を示したこともあったが、まだ早いと諭されてそれ以上は追求しなかった。
「まーあれ目に直接付けるって言ってたし、怖……怖くないけど! 俺は嫌だね!」
へへ、と強がって笑う彼の得意顔は、今でもずっと忘れられない。あの強がりが、あたしに力をくれたのだ。嘘でも強がって良いじゃないか。だって、あたしが一番憧れる人は、それでこんなにも伸び伸びとしているのだから。
「うん……ありがとう」
あたしはまだ伝えられていなかった感謝を伝えると、三人で日向家に帰って行った。彼は庭にある水道を使ってあらかたの泥を落とし証拠隠滅を計ったけれど、偶然出てきた母親に見つかって大目玉となった。危険がどうだの洗濯がどうだの遊び場くらい選べないのかだのと言われ、萎縮し切った一晴を見て、あたしは急いでその間に割って入った。
「違うのおばさん! 一晴はあたしが落とした眼鏡を拾いに行ってくれただけなの! 悪いのはあたしだから、怒るならあたしにして!」
あたしは初めて誰かに一丁前の理想を伝えた。鬼みたいに怒る一晴の母は怖いけど、あたしは目を見るのを止めなかった。嘘っぱちの勇気だって良い。だってその後には、あんなにも晴れやかに笑っていられるのだから。
するとおばさんはあたしの頭に手をぽん、と置くと、そうだったのね、と優しく言ってくれた。
「ごめんね一晴。訳も聞かずに怒っちゃって」
「……そ、そうだよ! 俺べつに悪くないかんね! ……あ、でも茉莉菜だって悪くないよ! ちょっとはしゃいでただけなんだ」
「ここぞとばかりに調子に乗るのは誰に似たんだか。全く……」
早くお風呂に入っておいで。それを伝えた母親は家の中に消えて行った。あたしは呆然とその光景を見送ると、一晴から本日二度目のグッドサインを向けられた。
「ナイス茉莉菜! おかげでお母さんに怒られずに済んだ!」
さっきまでの暗い表情はどこへやら、一晴は空にも負けないくらいの晴れやかな笑顔をしていた。あたしはそれが彼と対等であることの証明に感じて、心の底から喜んでいた。いつも前のめりに踏み出す一晴と同じ一歩を踏み出せたこと、憧れに近づいた気がしたこと。誰かに褒められるよりも嬉しい気持ちが溢れていた。
「ありがとな、茉莉菜!」
「……うん!」
一晴が背中を押してくれるなら、あたしはどこへだって行けると思えた。あたしが踏み出したあの日から、一晴に対する想いが変わったのは必然だった。
そして中学生に上がる直前、あたしは母に意を決して言ってみた。今まで『良い子ちゃん』で居なければならないと思っていた私にとっては、一大決心だった。
「お母さん。あたし、コンタクトにしてみたい」
怒られるかな、と思っていた。あたしなんかが届かない理想を言うことは至って愚かで、救いようがないんじゃないか。そんな自己否定が誰かによってさらに助長されることが怖かったのだ。
「……うん、良いよ。今度学校に聞いてみようね」
母親の回答は随分とあっさりしたものだった。あたしは存外納得がいく世界に少しだけ安堵したのだ。そして心の中で、あたしの前を行く彼に感謝した。
――やがて、十二歳の春がやって来た。