第16話 茉莉菜のスタートライン

文字数 4,888文字



 家を出たら、いつも向かう駅とは逆方面へ――いや、夏休みに入ってからというもの、俺は同じ方向しか向いていない。住宅街を抜けて行くと現れる大きな坂道は、桃川中学校へ向かうための最大の関門である。酷い傾斜をぜぇぜぇ言いながら上り切った先で、情けない様子を見物していた男が一方的に声をかけてくる。

「二番目の方が今ゴールしましたー。ですが一晴くん、もっと頑張ってください」

「運動会みたいな言い方するな、わざとらしい……! はぁ、もう突っ込む気力も湧かん」

 昼の頃。俺よりも早く頂上にたどり着いていたアロハシャツ姿の健吾がニヤニヤと笑っている。相変わらずジャラジャラしたアクセサリーが蝉みたいにうるさい奴だ。今日も連日の猛暑に加え、乾き切らない空気が息苦しさを助長する。そのせいで目の前のにやけ面に向かって満足に文句も言えなかった。

 本来、茉莉菜の家に行くだけならば、俺はこの坂上る必要はない。健吾の家との立地関係上、彼と待ち合わせをする時だけ中学校を経由するのが一番近くなるだけなのである。こちらの気遣いもふいにするような態度は些か頂けないが、苦言を呈す立場でもないから、やはり苦い唾と一緒に飲み込んだ。

「知ってるかい。待ち合わせっていうのは、先に着いておいた方が出発までの時間が長いんだ」

「……当たり前だろ。だから何だ」

「つまり休憩できるのは先着の特権なのさ。さぁ、行こうか」

 言うなり健吾はくるりと身を翻して颯爽と歩いて行く。俺は悪態やら溜息やらをつきながら足早に彼の隣に並んだ。制汗剤を使ったのであろう彼からはシトラスの匂いがぷんぷんする。

「それで、昨日は上手くいったの?」

 何食わぬ顔で質問する健吾に全力で嫌な顔を向けてやりながら、俺は先日の出来事を話し始めた。茉莉菜の説得の結果はこれからだ。互いに溜まり溜まっていたことを吐き出す様子は、そんじょそこらの痴話喧嘩よりも余程タチが悪かった自覚さえある。しかし、両者白熱すれば周囲なんて気にも止めることはなかった。

「言いたいことは言った。俺も、茉莉菜も。その上であいつが鈴涼に会うかどうかは……わからない」

「……そっか」

 今日は元々、俺と健吾が揃って鈴涼に会う約束していた日だった。しかし茉莉菜が鈴涼に会うことを承諾してくれたら、このまま三人で病院を訪れようと思う。健吾が「熱は伝播する」と回りくどいことを言ったのは、塞ぎ込んでいた俺を引き摺り出した後だっただろうか。俺は何となく心に残ったその言葉を信じてみることにしたのだ。

 健吾は下り坂にも関わらず、悠々と両手を頭の後ろに組みながら言った。

「まぁ、その時はその時で、また何か考えるさ。岩本さんを連れて行く作戦。正直、これで上手くいってくれるのが一番ありがたいんだけどね」

「……逆に、これで無理でも諦めないのか? もうこれ以上どうにかする手段は思い当たらないぞ」

「当然だよ。こんなことでへばっちゃいられないからね」

 友人の思わぬ執念深さに頼もしさだかゲンナリだかの複雑な感情を示しながら、俺たちは岩本家に向かって歩き続ける。

 きっと茉莉菜は昨日一日、悩み、考え抜いたことだろう。だからこそ、もしその答えが俺たちの欲しい一言でなかったとしても、それを受け入れなくてはならない。

「茉莉菜が俺たちと違う場所で前に進む決意をしたなら……止める権利なんて、無いだろ」

「……」

 夏の暑さが大嫌いになってから三年。二度と歩まないと思っていた道を再び歩いている。ファンタジーでは無いけれど、現実は意外と想像だにしていないことが起きるようだ。あの頃浮かれていた自分が酷く遠く見える。

「もし一晴が岩本さんを諦めたとしても、オレは……」

 ふとそんな言葉が聞こえた。言ったのはもちろん健吾だろうが、どうにも彼らしからぬ物言いだった気がする。しかしすぐに首をぶんぶん振ると、またあっけらかんとした態度に戻った。

「なぁーんてね。そんなことをするのはやっぱり野暮だよ」

「頼むからあいつの琴線を刺激するようなことを言ってくれるなよ。今俺は、ただでさえあいつと折り合いがつかなそうなんだから」

「わかってるよ。自重自重」

 その軽薄さが懸念だと言いたくなるが、これが今の健吾である。多分それを貶めることは、茉莉菜の決断や俺の誓いを否定するのと同義なのだろう。そのことに気づき、また一つ溜息を熱気の中に放るのだ。


 やがて茉莉菜の家の前に着いた。そこで勃発したのは、どちらがインターホンを押すのかという問題。「昨日会っているんだから一晴がすべき」と主張する健吾と、気まずさがマックスだから健吾にして欲しい俺との攻防戦が始まっていた。埒が明かないと判断した俺たちは、わかりやすくじゃんけんでの決着に臨む。

「じゃん、けん……!」

 掛け声が始まった瞬間、岩本家のドアがガチャリと開いた。

「……何してんの?」

 顔を出したのは海渡で、学校指定のジャージを着ていることから、どうやら午後からの練習に行くところらしい。俺は急いでパーのために開いていた手のひらを背中に隠した。一方で健吾は握り拳を突き上げる動作に切り替えたが、それではただ変人っぷりを助長するだけである。ドアから半身を覗かせたままブラウンの目をぱちくりさせる少年に向かって、海渡はやや声を大きくしながら迫った。

「やぁーやぁ海渡くん! 丁度良かったよぉ。お姉さんを呼んで欲しいんだ」

「あ……そう、なの? ……わかった。ちょっと待ってて」

「助かるよぉ!」

 戻って行く海渡を見送って、ノリとテンションだけで誤魔化したと思い込んでいる健吾はふぅ、と一安心。

「いや、ただお前の印象がよりおかしくなっただけだと思う」

「辛辣なこと言うなよ。わかってるから」

 自覚があるようで何よりだった。もしも三年振りに再開した時のような不敬を働こうものなら、拳一つでは済まなかったところである。

 そして待つこと数分。海渡が先に出て行ったせいで再び肝が竦んだが、しばらくしたら茉莉菜は外に出て来てくれた。実に不愛想で不機嫌なしかめっ面を貼り付けて。

「よ、よぉ茉莉菜……って、その恰好は……」

 茉莉菜の服装は昨日のようなラフな部屋着ではなく、七分丈のジージャンに長めの白いワンピース。肩には小さめのバッグを引っ掛けている。眼鏡とポニーテールは変わらないが、外行きの私服姿はあの頃より余程大人っぽくなっていた。

「似合ってるね。大人っぽい感じが一晴の好みっぽ……いたっ」

 ふざけたことを耳打ちしてきた健吾の足を爪先で弾いてやると、その様子を見て少し呆れた表情の茉莉菜が言った。

「病院、行くんでしょ。ちゃんとした恰好ぐらいするわよ」

「会ってくれるんだな」

「……別にあんたに感化されたわけじゃないから。私はただ、答えを見つけたいだけ。このままで良いのか。それとも、あんたについて行くべきなのか」

 冷ややかな声色でそう言われてしまえば、こちらから返せることなど何もない。俺たちを置いてつかつかと歩き出す靴音を追いかける。俺はひとまず、彼女の選択に感謝することにした。

「ありがとうな。茉莉菜」

「さっきも言ったけど、私は私のために行くのよ――すずちゃんのためだなんて、絶対に思い上がらないわ」

 それは責任感の強い茉莉菜だから言える一言だと思った。俺たちは互いを意識し、肝心なことを慣れない嘘で塗り固めた。その結果が鈴涼をあのような事態に陥らせてしまったならば、きっと俺も『鈴涼のために』なんてことは、本当は言っちゃいけないんだろう。

 ――強いな。

 茉莉菜や健吾、ここには居ない後藤先生や鈴涼の母親。俺の周りにいる人たちは、俺なんかが一生かけても得られない強さを持っている。全員のベクトルは違えど、それぞれの前を向こうとする強さ。だが俺はこれからもずっと、『鈴涼のための贖罪』と思わねば心が折れてしまうだろう。

 茉莉菜は一層早歩きになって俺たちと距離を離す。馴れ合う気はないという意思表示なのだろうが、いかんせん行き先が同じせいで不自然に数歩後ろを追随する。するとこれまで黙っていた健吾がたどたどしく尋ねてきた。

「……一晴。一体昨日何て言ったんだい? 部長様、めちゃくちゃご機嫌ナナメであらせられるけど」

「お、俺はただ思ったことを言っただけだ」

「その思ったことが悪かったんじゃない? ほら、女子って案外言葉の裏を聞いてるよ。もしかしたら絶妙に気に触ること言ったんじゃないかい?」

「いや、そんなこと言ったら昨日のあれは殆ど口喧嘩だ。正直なことを言うと、俺もちょっとキレそうだったし……」

「聞こえてんのよ! 黙ってなさいバカ!」

 ひいっと俺たちは同時に飛び上がった。茉莉菜が地獄耳だった印象は無いが、これだけ離れた距離の会話を聞き取られるのだと思えば下手なことはそうそう言えない。案の定、健吾と揃って気まずい空気を流しながら静かにとぼとぼと歩いて行った。

 行き着いた駅で、茉莉菜に病院の最寄り駅を伝えようとすると、知ってる、という一言で片付けられた。やはり彼女も彼女なりに鈴涼のことを気にかけていたようである。

 夏休みの平日。俺たちは殆ど人の乗っていない電車に揺られて鈴涼のいる病院へと向かう。茉莉菜は座席でさえ俺たちと距離を置きたがって車両の端っこに座る。健吾は途中で茉莉菜にお菓子を渡して会話を試みようとしたが、あえなく失敗したので男二人でもそもそ食べた。あれ以来喋りもしない茉莉菜は、やはりどこか緊張しているらしい。あのビデオを見て現状を知ったからとは言え、見るだけと実際に会うのではわけが違う。

「あいつ、大丈夫かな」

「……トライするなら今度は一晴に頼むよ。オレはちょっと心折れそうだ」

「変わり果てたお前に何言われたって、警戒しかしないだろ」

 そこに関しては茉莉菜が正しい。容姿一つを取っても信頼や気兼ねのしにくさである程度の判別をつけなければ、今頃この世は詐欺師で溢れかえっていることだろう。中学時代とは別人と言われても全く違和感が無い健吾だから、鈴涼の事でいっぱいいっぱいな茉莉菜は彼に対して何かを慮ってなどいられないのだ。

「これでも結構モテるんだよ?」

「知らねぇよ」

 道理はわかる。行動力があって、好みは分かれそうだが容姿にも気を使っている。明るくさっぱりした短髪と少しの垂れ目は取っ付きやすい印象を与えており、女の子が放っておかないのも納得だ。そんな会話をしていたからか、俺はふと茉莉菜には聞けなかったことを思い出した。

「なぁ健吾」

「ん? なんだい?」

「お前はその……聞いてたのか? 茉莉菜が、お、俺のこと……」

「あぁ、知ってたよ。オレを恋バナのブラフにしてたことも。岩本さん自身から直接お願いされていたからね」

 つまり彼は最初からそのこと知っていたから、自分よりも俺の方が茉莉菜を呼び出すのに適任だと言っていたのだ。ここに来て余りにもあっさりと答える友人を、俺は責めることはできなかった。

 茉莉菜の恋愛相談――今となっては嘘だとわかったが、相手として挙げられていた健吾だけには全てを伝えていたのだ。頼まれた健吾は友人として茉莉菜に協力をしていただけ。もし彼女の努力に気づけていたら、俺たちはあの頃に互いの想いを伝え合うことができていたのかもしれない。

「聞いたら教えてくれてた……わけないよな」

「もちろん。他言無用ってきつーく言われてたからね。約束は守る主義なんだ」

 こういう部分を当たり前の信条にしているからこそ、茉莉菜も彼に秘密を共有しようと思えたのだろう。当時の甘酸っぱさが滲んで少しだけ胸が痛くなる。昔は両片想いだったらしいにも関わらず、こんなことになってしまうのだから人間関係とは恐ろしい。

 でも良いんだ。どうせもう、俺の青春は過ぎ去っている。これから考えるべきは、茉莉菜と鈴涼について話せる良好な関係を築くこと。もう恋なんかにかまけている余裕などない。茉莉菜だけではなく、俺も前に進むことをしなければいけないのだから。

 車窓を見つめる茉莉菜の視界には、景色だけじゃない何が映っている気がした。
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