第23話 親友
文字数 6,246文字
※
時が過ぎるのが早いのは、楽しいからだと誰かが言った。それが現実にあることを知ったのは中学生の頃だ。あの頃の思い出は今でも鮮明に覚えている。友人に恵まれ、自分という人間をここまで曝け出せる場所は家族を除けば初めてだった。いや、家族の中でさえ、どこか『長女』や『姉』という看板を外せはしなかった気がする。
文学部は唯一、あたしがあたしらしくいられる居場所だったのだ。しかしその場所は、今は存在しない。たった一夏 の下らない出来事に奪われてしまったから。
かちゃ、と恐る恐る図書室裏の扉を開いた。そこには揺れることのないカーテンに塞がれて溢れんばかりの蒸し暑い空気が充満し、無人の机と椅子が四人分鎮座するだけ。あたしはその光景を見て、恐れとともに抱いていた期待に傷つけられた。
今日も、誰も来ていない。
別のクラスであったと噂のとある事件。そんな大袈裟な言い方をすることはないかもしれないけれど、その一件は間違いなく文学部を引き裂いた。いつも誰より早くこの場所に来ていたすずちゃん。普段はおろおろとしている癖に、一番爛々とした瞳で本を読んでいる健吾。そして、この部活を誰よりも楽しんでいた一晴。
誰も居ない。たった一月前に起きたという一晴とすずちゃんへの嫌がらせは、未だにセンシティブな中学生の心を深く抉っている。あたしの耳に彼らの情報が届いた頃には、それよりも早く彼らはこの場所を去ってしまった。一晴とすずちゃんは気まずさ故か当日からここにくることを避け、少ししてから健吾も顔を出さなくなった。
「……」
あたしはすっからかんになってしまった机に座ってみる。窓際の右側があたしのいつもの席。隣にはいつも一番乗りのすずちゃんが居て、正面の席には一晴が居た。
居た、はずなのだ。
「どうして、こうなっちゃったのかな……」
あたしはみっともないくらい弱気な声を出す。涙腺が緩み、止めどなく雫が溢れ出してきた。どうしてこうなってしまったのか。それを考える度にわからないという言い訳が過ぎり、そして一瞬でも浮かれてしまった自分を許せなくなる。
一晴はあたしのことが好きだった。それを聞きつけた人間から噂が流れてくるのは実に早かった。あたしがこの中学生活で様々な活動に参加し、沢山の人達と知り合いになっていたというのもあるだろう。ある意味あたしは目立つ存在であり、その手の話題で表沙汰にされるのは当たり前だったのだ。
だから彼があたしを好きだということを聞いて、飛び上がるくらい嬉しかった。数年越しの片想い。口で言うには恥ずかしくて死んでしまいそうだけど、それが叶った――叶っていたのだ。あたしはその事実に浮かれて、彼がそんなことを口走った経緯を蔑ろにしていた。そこにはもう一人、一晴と同じくらいあたしの大切な存在が居たと言うのに。
『聞いた? 最上って子、振られたんだって。マジウケる』
体育でクラスの違う見知らぬ女子がそんなことを言っていたのを聞いて、あたしの中には一番に幾通りかの呪詛と信じられないほどの怒りが込み上げた。誰だ、あたしの大事な友人を嘲笑している大馬鹿者は。殺されたいのか。
しかしその言葉の続きを聞けば、あたしは自身の愚かさを思い知ることになった。
『相手、日向ってやつみたい。ほら、あのうるさい奴』
――一晴?
あたしはその言葉に耳を疑った。すずちゃんが、一晴のことが好き? まさか、彼女はそんな素振りどこにも見せていなかったのに。彼女に好きな人を聞いても、いつだって居ないと言っていたのに。
その後あたしは知った。黒板に大々的に描かれた彼らの間違った関係は、一晴だけが強く否定したことによって『最上鈴涼の片想いだった』という認識になってしまっていたことを。ただ、それだけならば彼女が文学部を避ける理由が無い。なぜなら笑って「勘違いされちゃった」と言えば良いだけなのだから。すずちゃんがそんな言い訳をしに現れないことが、あたしにとっての揺るぎない確証になってしまった。
大して知りもしない同級生のことなどどうでも良い。重要なのは、あたしがとびっきりの愚図で、最低な大馬鹿だったことだ。すずちゃんを大切な存在だと思っておきながら、彼女の心の奥に仕舞い込まれた感情には気づくことができなかったのだから。
――謝らなければ。
もう一度、あたしは彼女と話をしなくてはならない。あなたの気持ちに気づいてあげられなくてごめんなさい、と。どれだけ遅くても、あたしは正面から言うことしか知らない。回り道をしようとしたら、きっと昔みたいに逃げてしまうから。
あたしは意を決して立ち上がった。赤くなるのも厭わず目の周りを拭って、図書室裏の扉に向かう。ここを出て、何としてもすずちゃんを見つける。必要なら家にだって行く。かつて彼女が一晴にそうしたように。熱は、熱くなければ伝わらないから。
そして扉を勢いよく開けて外に出ようとしたその時、同時に反対側から扉に手をかけていた者が居た。あたしは軽くなったドアノブよりも、目の前にいる少女に驚いた。長い絹糸のような黒髪と、同色のぱっちりとした瞳が揺れている。あたしの探し人――最上鈴涼がそこに居た。
「す、すずちゃん!?」
まるで初めて会った時のような状況に二人して驚き顔を隠せない。ここ一月の間すずちゃんは部室に現れなかったのに、どうして今になって来たのだろうか。しかしこれは千載一遇のチャンスだ。溜めに溜め込んだ言いたいことをちゃんと言おう。まずは謝って、そして話すのだ。あたしも一晴のことが好きだということを。
「すずちゃん、そのっ……」
「まりちゃん」
しかしあたしの言葉はすずちゃんによって止められてしまった。一か月振りに聞いた声は、茹だる夏に吹き抜ける風鈴のような音。
「ちょっとだけ、中でお話しても良いかな?」
彼女がいつになく真剣な表情で言うので、あたしは断ることなんてできなかった。うん、と短く返事すると、彼女もまた短く「ありがとう」と言って部室に入り、いつもの自分の席に座った。二人揃っていつもの席に並ぶと、しん、と教室に静寂が訪れる。
「め、珍しいね。最近来てなかったのに」
いたたまれなくなったあたしはできる限り当たり障りない切り出しをした。彼女との会話で気を遣うことがあるなど、いつ振りだろうか。あたしの言葉に、すずちゃんは特に表情を変えることなくこちらを向いて言った。
「まりちゃんなら、もう知ってるよね。一組で起きた、私と一晴くんのこと」
あたしは返答に迷った。それを知っていたことを知って、彼女はあたしをどんな風に見るのだろう。まるで汚い物でも見るかのように、あたしのことを蔑むのだろうか。それとも、これまでの繋がりを否定して軽蔑するのかもしれない。しかしそんな逡巡は、他ならぬすずちゃん自身によって否定される。
「……ううん。意地悪な質問だったよね。色んな人と仲の良いまりちゃんが、こんな目立ったこと知らないはずがないもん」
「……っ! ごめ……」
「謝らないで。私はまりちゃんが悪いなんて思っていないし、ましてやまりちゃんが嫌いなんて――絶対思ってない」
最後の言葉は、今まで聞いた彼女のどんな言葉よりも強い意思が篭っていた。あたしは今さらながらに、最上鈴涼が人一倍優しい少女なのだということを認識させられる。
「今日はね、私が謝るために来たの」
「え……」
突然、本来あたしが言うべきだった台詞が投げ掛けられて、声が漏れた。すずちゃんがあたしに謝るだって? あたしはすずちゃんを一方的に傷つけるばかりで、親友面していただけの大馬鹿者なのに。そしてやってきたのは、まるで予想だにしていなかった言葉だった。
「私、知っていたの。まりちゃんがずっと、一晴くんを好きだったってこと」
喉が渇いていく感覚がした。感情が飽和して、胸が絞られるような気持ちになった。体の末端が鈍くなり、何も感じなくなっていく。あたしがひた隠しにしてきたはずの秘密はいとも容易く見抜かれていた。
「ど、どうして?」
真っ白になりそうな頭をどうにか叩き起こし、声を発した。この期に及んですずちゃんの探りなのではないかと疑ってしまったあたしは、多分相当心が汚れているのだと思った。
「見てたら……って理由じゃ納得しないよね。まりちゃん、みんなの前だと隠すの上手だったから。でも本当は私、一年の秋から気づいてたんだ」
「そんなに、前から」
あたしは信じられなかった。色々な人と『好きな人』論争は起きることがあったが、その度にのらりくらりと躱して明言を避けてきた。誰にだって、その想いを一瞬たりとも伝えたことはない。だってそれが知られれば、きっと今のままじゃ居られなくなるから。
けれども何もしないのは嫌で、たった一つだけ、決意をある物に残した。誰にも解けるはずのない謎に、あたしだけの想いを込めて。
「『銀杏』、だよね?」
今度こそ視界がぼやけた。遠くなる聴覚でようやく聞き取れたのは、彼女の導き出した答え合わせに他ならない。
「まりちゃんは一晴くんが部誌の名前をカタカナで『イチョウ』にしようって言った時、真っ先に嫌だって言ってた。わかりやすさを取るっていう一晴くんの意見はもっともなのに、どうしてそこまで変えたくないんだろうって疑問だった。だから、まりちゃんの考えを読み解こうとしたの」
覚えのある話だった。なにせあたしはすずちゃんに一度それを尋ねられたのだ。真意を知られたくなかったから、その時はなんとなくと言って誤魔化した。彼女はずっとそのことを不可解に思っていたのだろう。
しかし、あの時のすずちゃんは簡単に退いて、むしろ『銀杏』にしようと言ったあたしの主張に味方してくれた。つまり、最初にあの部誌を作った一年の秋に全て気づいていたという彼女の主張は、揺るぎないほどに真実なのだ。
「ヒントはまりちゃんの一番好きな本……『カーマインの鈴蘭』。あの本のタイトルは、ただの紅色の花を示す言葉じゃない。カーは車、マインは地雷で、別々の言葉がくっついたもの。タイトルそのものが伏線だったんだよね。抗争に巻き込まれた女性教師の死因が、車に仕掛けられた爆弾だったから」
『カーマインの鈴蘭』は、あたしが本にハマり、ひいては文学部に入るきっかけとなり、そして――すずちゃんと仲良くなった始まりの本。その影響を多分に受けたあたしは、それからたくさんの言葉遊びや花言葉を調べた。ロマンチックな言い回しだったり、時には少し怖い意味にだって興味があった。その手の話題が絡む作品を文学部の中で一番読んでいた自信さえある。
「鈴蘭の本来の花言葉は『幸せがやってくる』とかだけど……作品で使われていたのは全く逆の考え方、つまり『不幸をも呼び寄せる』っていう裏花言葉。飛び散った女性の血を吸って咲いた鈴蘭は紅色になって、怪奇現象を引き起こした」
裏花言葉――それは、本来存在する花言葉とは別に表裏一体の暗い意味があるという俗説だ。無論全ての花に悪い意味があるわけではないが、鈴蘭にはそれが存在する。毒のある実を付けることや首がだらりと曲がる様子から、そのような不吉さがまことしやかに囁かれるようになったらしい。
「そして地縛霊となって学校を彷徨い続ける女性が、今度は自分に幸福が訪れるようにと願うほどに誰かに危険を運んでいた。これが『カーマインの鈴蘭』の真実」
「……」
「まりちゃんが『カーマインの鈴蘭』を忘れていないなら……ううん。忘れるわけないよね。だからわかったの。わかってしまって、いたの」
あたしは何を言えば良いのかわからなくなった。すずちゃんはあたしの仕掛けた真実にはまだ何一つ触れていない。しかし、なぜか彼女はそれを寸分の違いなく言い当てることができるだろうという確信があった。
イチョウの本来の花言葉は『荘厳』。ただしそれはあたしの気持ちを誰にも悟らせないためのブラフで、本当の意味――言わば裏の意味は別にある。
あたしはもう、すずちゃんの答えを待っていた。
「『銀杏』は『カーマインの鈴蘭』と一緒で、別々に考えるものなんだよね。杏の花言葉は『臆病な愛』――それに銀が付くことを考えたら、さしずめ『固く揺るぎない臆病な恋』っていう風になるのかな」
もう何一つとして、あたしの秘密は無かった。彼女の鋭い洞察力を持ってすれば、浅はかな中学生風情の考えを見抜くなんて造作もなかったのだ。
付け加えれば、銀には若さを主張する意味も存在する。あたしがずっと昔から寄せていた想いをどこかに失くしてしまわないようにと願って、貫き通したたった一つの我儘だった。
「……」
二人の間に沈黙が降る。彼女にとっての『答え合わせ』は、あたしの無言によって花丸が与えられた。そして、あたしにも今日すずちゃんが謝りたいと言った意味がわかっていた。全てを暴いてしまったことこそが、彼女の抱えている罪の意識なのだ。
「ごめんね、まりちゃん。私は余計なことに気が付いちゃうから。だからせめて、黙って二人を応援しようと思ったの――でも、でもね」
すずちゃんの声が震えた。あたしはその変化にはっとする。顔を上げた先で見たすずちゃんの双眸からは、つぅと雫が落ちているのだ。
――泣いている。
いつも気丈で、この三年間、殆ど弱さを見せることなんてなかったすずちゃんが。誰にだって物怖じしない彼女を、あたしはどこかでより大人びた女性だと思っていたことに今さら気づかされた。
「私も、好きになっちゃったの。一晴くんのことずっと諦めようと思ってたのに、忘れられなかった。彼に助けられたあの日から、私は、私はっ……」
すずちゃんは両手で顔を隠し、決壊した堤防を抑えた。読み取れない表情とくぐもった声。全てが、彼女のありのままの感情を伝えてくる。
「ごめんっ……! ごめんなさいっ。私、まりちゃんの気持ちに気づいてたのに……どうしても、諦められなかった……! もっと早くまりちゃんの背中を押してあげていたら、こんな事にはならなかったのに」
「そんなことっ……! みんなが集まらなくなったのはすずちゃんのせいじゃないじゃん! 元はと言えば、すずちゃん達のクラスで変なことがあったから……」
そう、すずちゃんに悪いことなんて一つも無い。全ての元凶はあの一件の犯人。すずちゃんの純粋な気持ちを踏み躙った輩のせいなのだ。
「すずちゃんは悪くないっ。むしろ、悪いのは私で……私が、すずちゃんの気持ちに気づいてあげられなかったから」
気づけばあたしの頬にも熱いものが伝う感触があった。こんなにも苦悩した彼女の想いを、どうして今まで気づかなかったのだろう。あたしと彼女はどこかで距離を感じていた。互いに互いを思いやっている。何かあれば最も信頼できる相手として相談だってできる。だけどどこか――どこか、踏み込んではいけない一線があったのだ。あたしはその正体に今さら気づいて、すずちゃんだけを傷つけていたことを知った。
――最低だ……! 最低だ、あたし。
あたしの内側で氾濫せんばかりに込み上げる、あたし自身への怒り。あたしは今まで、こんなにも大切な人をいたぶるような真似をしていたのだ。
私たちはいつしか抱き合っていた。お互いの背に手を当てて、握り締めるように。小さな図書室裏に二人だけの泣き声が止まない。ただお互いの温もりと想いの丈を伝え合ったこの瞬間だけは、紛れもなく、あたし達は親友だった。
時が過ぎるのが早いのは、楽しいからだと誰かが言った。それが現実にあることを知ったのは中学生の頃だ。あの頃の思い出は今でも鮮明に覚えている。友人に恵まれ、自分という人間をここまで曝け出せる場所は家族を除けば初めてだった。いや、家族の中でさえ、どこか『長女』や『姉』という看板を外せはしなかった気がする。
文学部は唯一、あたしがあたしらしくいられる居場所だったのだ。しかしその場所は、今は存在しない。たった
かちゃ、と恐る恐る図書室裏の扉を開いた。そこには揺れることのないカーテンに塞がれて溢れんばかりの蒸し暑い空気が充満し、無人の机と椅子が四人分鎮座するだけ。あたしはその光景を見て、恐れとともに抱いていた期待に傷つけられた。
今日も、誰も来ていない。
別のクラスであったと噂のとある事件。そんな大袈裟な言い方をすることはないかもしれないけれど、その一件は間違いなく文学部を引き裂いた。いつも誰より早くこの場所に来ていたすずちゃん。普段はおろおろとしている癖に、一番爛々とした瞳で本を読んでいる健吾。そして、この部活を誰よりも楽しんでいた一晴。
誰も居ない。たった一月前に起きたという一晴とすずちゃんへの嫌がらせは、未だにセンシティブな中学生の心を深く抉っている。あたしの耳に彼らの情報が届いた頃には、それよりも早く彼らはこの場所を去ってしまった。一晴とすずちゃんは気まずさ故か当日からここにくることを避け、少ししてから健吾も顔を出さなくなった。
「……」
あたしはすっからかんになってしまった机に座ってみる。窓際の右側があたしのいつもの席。隣にはいつも一番乗りのすずちゃんが居て、正面の席には一晴が居た。
居た、はずなのだ。
「どうして、こうなっちゃったのかな……」
あたしはみっともないくらい弱気な声を出す。涙腺が緩み、止めどなく雫が溢れ出してきた。どうしてこうなってしまったのか。それを考える度にわからないという言い訳が過ぎり、そして一瞬でも浮かれてしまった自分を許せなくなる。
一晴はあたしのことが好きだった。それを聞きつけた人間から噂が流れてくるのは実に早かった。あたしがこの中学生活で様々な活動に参加し、沢山の人達と知り合いになっていたというのもあるだろう。ある意味あたしは目立つ存在であり、その手の話題で表沙汰にされるのは当たり前だったのだ。
だから彼があたしを好きだということを聞いて、飛び上がるくらい嬉しかった。数年越しの片想い。口で言うには恥ずかしくて死んでしまいそうだけど、それが叶った――叶っていたのだ。あたしはその事実に浮かれて、彼がそんなことを口走った経緯を蔑ろにしていた。そこにはもう一人、一晴と同じくらいあたしの大切な存在が居たと言うのに。
『聞いた? 最上って子、振られたんだって。マジウケる』
体育でクラスの違う見知らぬ女子がそんなことを言っていたのを聞いて、あたしの中には一番に幾通りかの呪詛と信じられないほどの怒りが込み上げた。誰だ、あたしの大事な友人を嘲笑している大馬鹿者は。殺されたいのか。
しかしその言葉の続きを聞けば、あたしは自身の愚かさを思い知ることになった。
『相手、日向ってやつみたい。ほら、あのうるさい奴』
――一晴?
あたしはその言葉に耳を疑った。すずちゃんが、一晴のことが好き? まさか、彼女はそんな素振りどこにも見せていなかったのに。彼女に好きな人を聞いても、いつだって居ないと言っていたのに。
その後あたしは知った。黒板に大々的に描かれた彼らの間違った関係は、一晴だけが強く否定したことによって『最上鈴涼の片想いだった』という認識になってしまっていたことを。ただ、それだけならば彼女が文学部を避ける理由が無い。なぜなら笑って「勘違いされちゃった」と言えば良いだけなのだから。すずちゃんがそんな言い訳をしに現れないことが、あたしにとっての揺るぎない確証になってしまった。
大して知りもしない同級生のことなどどうでも良い。重要なのは、あたしがとびっきりの愚図で、最低な大馬鹿だったことだ。すずちゃんを大切な存在だと思っておきながら、彼女の心の奥に仕舞い込まれた感情には気づくことができなかったのだから。
――謝らなければ。
もう一度、あたしは彼女と話をしなくてはならない。あなたの気持ちに気づいてあげられなくてごめんなさい、と。どれだけ遅くても、あたしは正面から言うことしか知らない。回り道をしようとしたら、きっと昔みたいに逃げてしまうから。
あたしは意を決して立ち上がった。赤くなるのも厭わず目の周りを拭って、図書室裏の扉に向かう。ここを出て、何としてもすずちゃんを見つける。必要なら家にだって行く。かつて彼女が一晴にそうしたように。熱は、熱くなければ伝わらないから。
そして扉を勢いよく開けて外に出ようとしたその時、同時に反対側から扉に手をかけていた者が居た。あたしは軽くなったドアノブよりも、目の前にいる少女に驚いた。長い絹糸のような黒髪と、同色のぱっちりとした瞳が揺れている。あたしの探し人――最上鈴涼がそこに居た。
「す、すずちゃん!?」
まるで初めて会った時のような状況に二人して驚き顔を隠せない。ここ一月の間すずちゃんは部室に現れなかったのに、どうして今になって来たのだろうか。しかしこれは千載一遇のチャンスだ。溜めに溜め込んだ言いたいことをちゃんと言おう。まずは謝って、そして話すのだ。あたしも一晴のことが好きだということを。
「すずちゃん、そのっ……」
「まりちゃん」
しかしあたしの言葉はすずちゃんによって止められてしまった。一か月振りに聞いた声は、茹だる夏に吹き抜ける風鈴のような音。
「ちょっとだけ、中でお話しても良いかな?」
彼女がいつになく真剣な表情で言うので、あたしは断ることなんてできなかった。うん、と短く返事すると、彼女もまた短く「ありがとう」と言って部室に入り、いつもの自分の席に座った。二人揃っていつもの席に並ぶと、しん、と教室に静寂が訪れる。
「め、珍しいね。最近来てなかったのに」
いたたまれなくなったあたしはできる限り当たり障りない切り出しをした。彼女との会話で気を遣うことがあるなど、いつ振りだろうか。あたしの言葉に、すずちゃんは特に表情を変えることなくこちらを向いて言った。
「まりちゃんなら、もう知ってるよね。一組で起きた、私と一晴くんのこと」
あたしは返答に迷った。それを知っていたことを知って、彼女はあたしをどんな風に見るのだろう。まるで汚い物でも見るかのように、あたしのことを蔑むのだろうか。それとも、これまでの繋がりを否定して軽蔑するのかもしれない。しかしそんな逡巡は、他ならぬすずちゃん自身によって否定される。
「……ううん。意地悪な質問だったよね。色んな人と仲の良いまりちゃんが、こんな目立ったこと知らないはずがないもん」
「……っ! ごめ……」
「謝らないで。私はまりちゃんが悪いなんて思っていないし、ましてやまりちゃんが嫌いなんて――絶対思ってない」
最後の言葉は、今まで聞いた彼女のどんな言葉よりも強い意思が篭っていた。あたしは今さらながらに、最上鈴涼が人一倍優しい少女なのだということを認識させられる。
「今日はね、私が謝るために来たの」
「え……」
突然、本来あたしが言うべきだった台詞が投げ掛けられて、声が漏れた。すずちゃんがあたしに謝るだって? あたしはすずちゃんを一方的に傷つけるばかりで、親友面していただけの大馬鹿者なのに。そしてやってきたのは、まるで予想だにしていなかった言葉だった。
「私、知っていたの。まりちゃんがずっと、一晴くんを好きだったってこと」
喉が渇いていく感覚がした。感情が飽和して、胸が絞られるような気持ちになった。体の末端が鈍くなり、何も感じなくなっていく。あたしがひた隠しにしてきたはずの秘密はいとも容易く見抜かれていた。
「ど、どうして?」
真っ白になりそうな頭をどうにか叩き起こし、声を発した。この期に及んですずちゃんの探りなのではないかと疑ってしまったあたしは、多分相当心が汚れているのだと思った。
「見てたら……って理由じゃ納得しないよね。まりちゃん、みんなの前だと隠すの上手だったから。でも本当は私、一年の秋から気づいてたんだ」
「そんなに、前から」
あたしは信じられなかった。色々な人と『好きな人』論争は起きることがあったが、その度にのらりくらりと躱して明言を避けてきた。誰にだって、その想いを一瞬たりとも伝えたことはない。だってそれが知られれば、きっと今のままじゃ居られなくなるから。
けれども何もしないのは嫌で、たった一つだけ、決意をある物に残した。誰にも解けるはずのない謎に、あたしだけの想いを込めて。
「『銀杏』、だよね?」
今度こそ視界がぼやけた。遠くなる聴覚でようやく聞き取れたのは、彼女の導き出した答え合わせに他ならない。
「まりちゃんは一晴くんが部誌の名前をカタカナで『イチョウ』にしようって言った時、真っ先に嫌だって言ってた。わかりやすさを取るっていう一晴くんの意見はもっともなのに、どうしてそこまで変えたくないんだろうって疑問だった。だから、まりちゃんの考えを読み解こうとしたの」
覚えのある話だった。なにせあたしはすずちゃんに一度それを尋ねられたのだ。真意を知られたくなかったから、その時はなんとなくと言って誤魔化した。彼女はずっとそのことを不可解に思っていたのだろう。
しかし、あの時のすずちゃんは簡単に退いて、むしろ『銀杏』にしようと言ったあたしの主張に味方してくれた。つまり、最初にあの部誌を作った一年の秋に全て気づいていたという彼女の主張は、揺るぎないほどに真実なのだ。
「ヒントはまりちゃんの一番好きな本……『カーマインの鈴蘭』。あの本のタイトルは、ただの紅色の花を示す言葉じゃない。カーは車、マインは地雷で、別々の言葉がくっついたもの。タイトルそのものが伏線だったんだよね。抗争に巻き込まれた女性教師の死因が、車に仕掛けられた爆弾だったから」
『カーマインの鈴蘭』は、あたしが本にハマり、ひいては文学部に入るきっかけとなり、そして――すずちゃんと仲良くなった始まりの本。その影響を多分に受けたあたしは、それからたくさんの言葉遊びや花言葉を調べた。ロマンチックな言い回しだったり、時には少し怖い意味にだって興味があった。その手の話題が絡む作品を文学部の中で一番読んでいた自信さえある。
「鈴蘭の本来の花言葉は『幸せがやってくる』とかだけど……作品で使われていたのは全く逆の考え方、つまり『不幸をも呼び寄せる』っていう裏花言葉。飛び散った女性の血を吸って咲いた鈴蘭は紅色になって、怪奇現象を引き起こした」
裏花言葉――それは、本来存在する花言葉とは別に表裏一体の暗い意味があるという俗説だ。無論全ての花に悪い意味があるわけではないが、鈴蘭にはそれが存在する。毒のある実を付けることや首がだらりと曲がる様子から、そのような不吉さがまことしやかに囁かれるようになったらしい。
「そして地縛霊となって学校を彷徨い続ける女性が、今度は自分に幸福が訪れるようにと願うほどに誰かに危険を運んでいた。これが『カーマインの鈴蘭』の真実」
「……」
「まりちゃんが『カーマインの鈴蘭』を忘れていないなら……ううん。忘れるわけないよね。だからわかったの。わかってしまって、いたの」
あたしは何を言えば良いのかわからなくなった。すずちゃんはあたしの仕掛けた真実にはまだ何一つ触れていない。しかし、なぜか彼女はそれを寸分の違いなく言い当てることができるだろうという確信があった。
イチョウの本来の花言葉は『荘厳』。ただしそれはあたしの気持ちを誰にも悟らせないためのブラフで、本当の意味――言わば裏の意味は別にある。
あたしはもう、すずちゃんの答えを待っていた。
「『銀杏』は『カーマインの鈴蘭』と一緒で、別々に考えるものなんだよね。杏の花言葉は『臆病な愛』――それに銀が付くことを考えたら、さしずめ『固く揺るぎない臆病な恋』っていう風になるのかな」
もう何一つとして、あたしの秘密は無かった。彼女の鋭い洞察力を持ってすれば、浅はかな中学生風情の考えを見抜くなんて造作もなかったのだ。
付け加えれば、銀には若さを主張する意味も存在する。あたしがずっと昔から寄せていた想いをどこかに失くしてしまわないようにと願って、貫き通したたった一つの我儘だった。
「……」
二人の間に沈黙が降る。彼女にとっての『答え合わせ』は、あたしの無言によって花丸が与えられた。そして、あたしにも今日すずちゃんが謝りたいと言った意味がわかっていた。全てを暴いてしまったことこそが、彼女の抱えている罪の意識なのだ。
「ごめんね、まりちゃん。私は余計なことに気が付いちゃうから。だからせめて、黙って二人を応援しようと思ったの――でも、でもね」
すずちゃんの声が震えた。あたしはその変化にはっとする。顔を上げた先で見たすずちゃんの双眸からは、つぅと雫が落ちているのだ。
――泣いている。
いつも気丈で、この三年間、殆ど弱さを見せることなんてなかったすずちゃんが。誰にだって物怖じしない彼女を、あたしはどこかでより大人びた女性だと思っていたことに今さら気づかされた。
「私も、好きになっちゃったの。一晴くんのことずっと諦めようと思ってたのに、忘れられなかった。彼に助けられたあの日から、私は、私はっ……」
すずちゃんは両手で顔を隠し、決壊した堤防を抑えた。読み取れない表情とくぐもった声。全てが、彼女のありのままの感情を伝えてくる。
「ごめんっ……! ごめんなさいっ。私、まりちゃんの気持ちに気づいてたのに……どうしても、諦められなかった……! もっと早くまりちゃんの背中を押してあげていたら、こんな事にはならなかったのに」
「そんなことっ……! みんなが集まらなくなったのはすずちゃんのせいじゃないじゃん! 元はと言えば、すずちゃん達のクラスで変なことがあったから……」
そう、すずちゃんに悪いことなんて一つも無い。全ての元凶はあの一件の犯人。すずちゃんの純粋な気持ちを踏み躙った輩のせいなのだ。
「すずちゃんは悪くないっ。むしろ、悪いのは私で……私が、すずちゃんの気持ちに気づいてあげられなかったから」
気づけばあたしの頬にも熱いものが伝う感触があった。こんなにも苦悩した彼女の想いを、どうして今まで気づかなかったのだろう。あたしと彼女はどこかで距離を感じていた。互いに互いを思いやっている。何かあれば最も信頼できる相手として相談だってできる。だけどどこか――どこか、踏み込んではいけない一線があったのだ。あたしはその正体に今さら気づいて、すずちゃんだけを傷つけていたことを知った。
――最低だ……! 最低だ、あたし。
あたしの内側で氾濫せんばかりに込み上げる、あたし自身への怒り。あたしは今まで、こんなにも大切な人をいたぶるような真似をしていたのだ。
私たちはいつしか抱き合っていた。お互いの背に手を当てて、握り締めるように。小さな図書室裏に二人だけの泣き声が止まない。ただお互いの温もりと想いの丈を伝え合ったこの瞬間だけは、紛れもなく、あたし達は親友だった。