第17話 京都旅行の始まり

文字数 5,880文字



 洗面台に飛び出した水が思ったよりも冷たく感じて、俺の眠気は消し飛んだ。夏は生温かった蛇口の水が、近くに訪れている寒空の温度をそのまま映し出しているようだった。

 横壁に取り付けたタオルラックを元通りにすると、リビングに戻って修学旅行振りに引っ張り出したキャリーケースの中身を確認する。昨日の内に準備を済ませておいたから焦るような事態にはない。過去の自分を思い出して時間に余裕を持たせてみたが、案外と成長した部分もあるようだ。

 妙な感慨に浸っている中で、母が一着のコートを持ってやってくる。

「一晴。やっぱりそれ、寒くない? もっと着込んで行かないと風邪引くんじゃない?」

「冬用だろ、それ。さすがに暑いって」

 反論するも、母は手に持ったコートと引っ掛けられたジャンパーをまじまじと見比べ続けていた。息子の俺からしたら杞憂でしかないと思うが、鈴涼の両親の声を聞いた今だとその気持ちも少しだけ理解できる。

 夏の暑さは鳴りを潜め、深緑の色はすっかり抜け落ちた。鈴涼やみんなと再会してから早三か月。赤や黄色の葉っぱがコンクリートに目立つ秋真っ只中――十一月になった。

 母はそんな季節の変わり目が心配なようで、未だにコートを手にしたまま仕舞おうとしない。俺は笑い混じりに言う。

「大丈夫だよ。天気荒れないって言ってたし」

「うーん。それなら良いけど……」

 自分のことでもないのに険しい顔でコートを戻しに行く母親。当たり前の光景の裏側には、一体いくつの「ありがとう」を積み重ねれば良いのだろう。親孝行はいずれするとして、今は目下の京都旅行について考えるべきだ。

 今日から始まる三泊四日の京都旅行は、水曜日にこちらを発ち、土曜日の正午過ぎ頃に帰ってくる予定である。基本平日、そしてかなり長期の日程になったことには、今回の主役である鈴涼の体力面が大きく関係していた。混雑は避けたい。加えて慌ただしく走ることになるのもいけない。幸い二か月も前から話ができていたお陰で、ノーを言う人は居なかった。

 玄関で履き慣れたスニーカーに足を入れる。平日だから父親が仕事で、挨拶は昨日の内に済ませておいた。後顧の憂いが無くなった体でキャリーケースを持ち、玄関まで見送ってくれた母に振り返る。

「じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 学校の行事で泊まりがけになる時は「はしゃいで物を壊すんじゃないよ!」ときつく言われていた頃が懐かしい。

 気をつけてね。その言葉の本当の気持ちがわかるようになった今は、少しだけ自分が成長したと自惚れても良いのではないかと思えた。



 最寄り駅から一時間ほど電車に揺られ、新幹線のある駅へとたどり着く。慣れないキャリーケースに苦戦を強いられつつも駅構内の待合室へ向かった。

 集合場所には予想通り、生真面目そうな少女がベンチに座って待っていた。縦ボーダーのシャツの上からストールを羽織り、下にはリボンの付いたくるぶし丈のカーキ色のスカート。肩掛けにしたポーチを携え、女の子らしくも大人びた服装は秋の季節の旅行にぴったりだ。

 俺は彼女と目が合うと、どこかの誰かを真似て、できるだけ軽い感じで話し掛けてみることにした。

「よ、茉莉菜」

「……驚いた。あんたが遅刻ギリギリじゃないなんて」

 栗色のショートカットは夏に比べたら少しだけ長くなっている。それはそれで似合うのだが、きっと茉莉菜のことだから冬に入る前には切り整えるのだろう。中学生時代を彷彿とさせるこの姿こそが、彼女が親友に協力しようとしてくれている証だ。

「俺だって成長したんだ……なんて、大層なことを言えたもんじゃないけどな。普通に楽しみで、いつもより布団でぬくぬくしてる時間が短かったんだ」

「そう」

 返事は相変わらず素っ気なかった。それでも着々と溝だらけだった距離感を掴み始めることができていると思う。三年という時の流れには勝てないにしても、もう一度歩み寄る時間ができたことは成長と言っても良いのかもしれない。

 俺はみんなを待つ間に、彼女の事情を思い返して言った。

「ありがとうな。受験で忙しい時に」

「それはもういいわ。この旅行を受験前最後の休憩にするもの」

 都合四日を割く日程は鈴涼の体調面を憂慮したものだが、代わりに大きな負担を強いてしまったのは受験生である茉莉菜だ。

 国公立大学の一次試験は一月。日にちだけ数えれば後二か月ほどあるが、当事者からしたらそんなものは殆ど目と鼻の先である。ベストコンディションで挑めるように、彼女なりのスケジュールを組んでいるに違いない。結果がどうあれ、落ち着いたら相応の労いをしたいところだ。

「一晴はおばさんたちに、やっぱり駄目って止められたりしなかった?」

 珍しく茉莉菜から尋ねられる。それは以前にもされた質問だったが、今は数か月前のように聞き流せない。

 健吾にちらりと聞いたのだ。彼女は今回の件を家族にどう言おうか迷っていたらしい。受験生という肩書きでは、長期間遊びに行くのはいかがなものかと問われることは容易に想像ができてしまう。

「いや、別に。薄着じゃないかって心配されたくらいだ」

「言いそう」

 中学生から面識も無いはずだが、親の印象はなかなか変わらない気がする。そういう面では茉莉菜の両親は非常に難敵だ。娘が規律にうるさいだけあって厳しいイメージが抜けない。いつかに俺が田んぼで泥だらけになった時は、茉莉菜の母親が菓子折りを持って謝りに来てくれた。娘たちから聞いただけの話できちんとそこまでするなんて、と俺の両親がいたく感心していたのを覚えている。

 そんなエピソードを思い出しながら「茉莉菜の方は?」と尋ねてみた。よもや無断で来た訳ではないだろうが、反対がなかったとも言い切れない。確認半分、心配半分で聞いた質問には、意外とあっけらかんとした様子で答えてくれた。

「こっちも、別に。意外と二つ返事っていうか。頼み事をしたわけじゃないから言葉が正しいのか知らないけど」

「そっか」

 親として心配だったのは間違いないはずだ。しかし茉莉菜が真面目で、そして友達思いだということをわかっているからこそ認められたのだろう。多分親というのは、自分の子どもがどう動くかくらい予言できてしまうのだ。

 それに比べたら、俺たちはただの友人同士である。お互いの行動の予測さえままならない。この旅行の件で茉莉菜と意見が食い違った時、こうして普通に話ができるイメージなんて湧かなかった。だけど不思議と違和感はない。それは多分、昔の俺たちが衝突を繰り返しても一緒に居続けたから。

「雨、降らないと良いな」

「……そうね」

 幸い修学旅行の時のように台風が来そうな予報はない。天が俺たちの――否、鈴涼の味方をしてくれているみたいに、京都は週末まで晴れの予報だ。百キロ以上離れたこの場所も快晴。旅行日和となった空を静かに見上げてみんなを待った。

「あれぇー。もう二人も居るのかい?」

 しばらくして、遠くから感嘆じみた声を放ってきた男が居た。毒々しい柄のシャツを着て、相変わらずの金色ネックレスを身に付けた健吾だ。光沢あるレザージャケットを羽織り、ファッションモデルみたいな着こなしをしている。どうしてあんなにも各パーツの主張が激しいのに纏まって見えるのだろう。健吾のセンスもとい俯瞰能力には感服する。

 彼はキャリーケースを引いて近づいてくると、至って真剣な顔つきになった。染めたてと思しき金髪をずい、とこちらに寄せる。

「岩本さんはともかく一晴が早いなんて。何か降らせないでくれよ?」

「失礼な奴だな、ったく」

 言うなりすぐにけらけらと破顔する。最近はようやく昔の健吾と今の健吾を分断せずに見ることができるようになってきた。性格と態度ががらりと変わったのを目の当たりにした時は、野沢健吾を名乗る偽物かとも思ったほどだったというのに。慣れとは末恐ろしいものである。

「相変わらず目立つ服ね」

 触れなくなった俺の代わりに言及したのは茉莉菜である。不快とは言わないまでも、露骨に趣味ではないという目だ。わかりやすい彼女の態度に臆することなくギラギラ男は自信満々に胸を張る。

「旅行なんだから気合い入れてくるに決まってるでしょ」

「何が気合いよ。こんなのとツレだと思われると、なんか軽く見られそうじゃない」

「おや。もしかしていつかのファミレスで嫌がったのはそういうこと?」

 健吾の言葉に茉莉菜は微妙に眉を顰めた。冷たい視線に立ち向かう男の胆力に要らない喝采を送りつつ、頭の中では何のことやらと疑問が踊る。少女は当然のように頷いて辛辣な口を開けた。

「そうよ。そんな服を着ている内は、間違ってもあたしの隣に立たないで頂戴……そうね、十メートルくらい離れてくれれば良いわ」

「一緒に旅をする気あるかい!?

 拒絶反応じみた茉莉菜の要求が通ることはないだろう。とは言え彼女の言い分も一理ある。目立つ人間の隣に居ることで視線を浴びてしまうのは、この何か月かで実感するところだからだ。

 そんな話題を出しかけて、再びタイヤがごろごろ聞こえてきた。今度はテンポの違う音が重奏の如く響き渡っていて、合間にはセラミックタイルを叩く靴音が鳴る。

「あら? みんな早いのね」

 続いてやって来たのは最上一家と、彼らを迎えに行っていたスーツ姿の後藤先生だ。大きな荷物は大人だけが持ち、両親に挟まれて歩いていた少女は小さな鞄を一つ。可愛らしいコートが他のみんなよりも暖かそうだった。

 鈴涼はあれからまた少しだけ髪が伸びた。もう最初に会った時のような少年然とした影はなく、耳にかかるくらいの漆髪がさらさらと流れている。しかし今の髪型にはすっかり見慣れたのに、未だに短くて珍しいという感慨に浸ってしまうのだから思い出の力とは凄まじいものだ。

 旅行には後藤先生と一緒に、鈴涼の母親も同行する。もし良ければ家族全員で、という誘いもしたのだが、仕事を何日も休む訳にはいかないと断られてしまった。ただし理由はそれだけではなくて、一悶着あった俺たちに気を使わせた可能性だってある。もしそうならば、鈴涼を目一杯楽しませてやることがせめてもの恩返しだ。

「一晴くん」

 そんな中、鈴涼の父親に突然指名をされて驚いた。あの説得の日以来まともに顔を合わせていなかったこともあって、今更ながらに緊張してしまう。

 上手く返事を返し損ねるも、健吾に背中を押されたことで一歩踏み出す。相手の顔が少し強ばっているように見えて拍動がうるさくなり始めたが、彼の言葉はしっかりと聞き取れた。

「私を説得してくれてありがとう。鈴涼を頼むよ」

 父親はあの夜に見た冷めた表情ではなく、娘によく似た微笑みだった。鈴涼に聞いたが、親子は以前に比べてよく言葉を交わすようになったらしい。家族の距離感はいずれ縮んで行くものだったと思うが、もしもこの旅行の説得が一つのきっかけになっていたとすれば、間違った道は選んでいなかったのだと安心する。

 柔らかな目線が信頼を置いてくれている証であり、俺は無意識に作っていた握り拳を弛めた。

「もちろんです」

 答えに満足してくれたのか、彼は鈴涼の代わりに引いていた荷物を手渡した。そうして娘のことを優しげな笑みで送り出す。

「鈴涼。楽しんでおいで」

「うん。ありがとう、お父さん」

 この旅行に向けて、鈴涼は日々軽い運動にも取り組んでいた。単純に退院後の体づくりもあるだろうが、それよりも両親に元気な姿を見せて、少しでも不安を取り除こうという配慮もあったのだろう。俺たちも彼女の付き添いを買って出ては一緒にジョギングをした。健吾なんかは趣味が運動と言っていただけあって、俺や茉莉菜が付いて行く時には必ず居た気がする。

 あの様子ならば、鈴涼の頑張りは間違いなく功を奏したのだろう。微笑ましい親子のやり取りを見守りつつ、俺は鈴涼と母親、そして後藤先生に作っておいたとある物を配る。

「あの、これ」

 手渡したのは五枚程度のA四用紙を半分に折って作った冊子。全て印刷紙で安っぽい見た目だが、表紙にはちゃんと秋になぞらえてイチョウの葉の絵があったりして本の体裁は保てている。いわゆる修学旅行のしおりというやつだ。ホチキス止めで作っただけのそれを、鈴涼の母はパラパラと捲りながら褒めてくれる。

「へぇ、よくできてるわねぇ」

「昔、部誌を出したお陰で何となくやり方は覚えてましたから」

「意外なところで役に立ったものね。顧問として鼻が高いわ」

 後藤先生は何年も前に教えた経験が活用されたことにいたく満足している様子だった。事前に日程は伝えておいたが、現地で可視化するためには昔ながらの方法が一番だろうと相談した結果である。ページを粗方見終わった後で、母親が尋ねてきた。

「これは、一晴くん一人で?」

「いえ。みんなでやりました」

 表紙の絵は茉莉菜が書いた。秋の季節と、明らかに俺たちの思い出の部誌を意識したイチョウの葉が舞い散る様子。その絵を見て、健吾なんかは「『銀杏』外伝だね」などと言っていた。

 そんな健吾は印刷するに当たって諸々のレイアウト調整をしてくれた。三人で膝を突き合わせて組み上げた日程は、最終的にこうしてみんなのハンドブックとなったわけである。少しだけ恥ずかしそうにする茉莉菜に対して、健吾は生き生きと片手を振り上げた。

「さあ! いざ行かん、京都!」

「とは言っても、今日は前入りするだけよ?」

「良いんですよ。こういうのは雰囲気が大事なんですから」

 勇む健吾がずかずかと歩いて行くのを見て、俺や先生たちは仕方がないといった様子で呆れ顔を見合わせる。見送ってくれる鈴涼の父親に大きく手のひらを掲げ、新幹線のくるホームへ向かった。

 健吾の後ろを付いて歩く途中、小柄な身長にはやや大きく感じられるキャリーケースを引いた鈴涼と目が合う。訝しげに見つめ返すと荒れのない唇がゆっくりと動いた。

「一晴くん」

「どうした、鈴涼?」

 瞳には以前よりも爛々とした光が入るようになっていた。言葉数や反応も少しずつ増えていて、段々といつかの面影に近付いている。

「ありがとう」

 些細な言葉がはっと胸に染みた。そう言われるだけでこの計画を立てた甲斐があったというものだ。この数か月が彼女に与えたものは、今の鈴涼に確かに希望を抱かせてくれている。俺は極力昔みたいに笑って言った。

「まだまだこれからだ。いっぱい楽しもうな」

「うん」

 そして始まるのは鈴涼に――俺たちにとって二度目の修学旅行。過去を追うために行く、新しい思い出作りの旅だ。
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