最上鈴涼の恋思慕 4

文字数 4,693文字

 帰り間際、修繕した応援旗を見下ろす文学部員たちの表情はあまり明るいとは言えなかった。

「何とかできたけど……」

「現物通りとはいかなかったね」

 状況を悲観してしまうまりちゃんと野沢くん。しかし、三人が協力してくれたおかげで絵の進捗は殆ど取り戻すことができたのだ。それだけでどれだけの感謝をしても足りないくらいである。

「みんな、本当にありがとう。事情は私から話しておくね。作業進度はそんなに変わらないと思うし……」

 まりちゃんは私も一緒にと立候補してくれそうな勢いだったが、これは私が引き起こした問題である。責任を取るのに、協力してくれたみんなを巻き込むことなんてできない。

 それでも二人はどうにかならないかと頭を悩ませ続けてくれる。すると応援旗を見たままじっと黙っていた日向くんが授業終わりのような気怠い様子で言った。

「ここまでできてたら問題ねぇだろ。さっさと帰ろうぜ」

 まりちゃんは咎めようとしたけれど、そんな日向くんの淡白さが今はありがたかった。私は彼の意見に同調し、その日は解散となる。帰り道は男子組と女子組に分かれて帰っていたのだけれど、その間、まりちゃんは延々と「バカずはる!」と叫び倒していた。彼らの仲の良さにはいつだって感服するしかない。心地の良い悪口を言うまりちゃんに釣られて、私も少しだけ調子に乗ったことを言ってしまった。

「面倒くさがりの日向くんが、あんなに積極的に助けてくれるなんて思ってなかったな」

「あいつは友達のためなら意外と動くのよ。昔っからそう」

 彼女はひどく実感のこもった様子で語る。確かに日向くんが偽善的なな振る舞いをところは見たことがない。つまり彼の中には人に対して明確な優先順位があって、そこに居る人のことを特筆して大切にしているのだろう。彼にとっての『友達』とは他者が思うよりずっと高い位置にあるのだ。

「じゃあもしも日向くんに友達よりも大切な人ができたら、その人はいつも助けてもらえちゃうかもね」

 私は私だけがわかる微かなイジワルを言った。するとまりちゃんは釈然としない顔を作って「うーん」と唸る。

「一晴に友達以上なんて考えあるのかしらね」

 言っている意味を捉えられず「どういうこと?」と質問する。彼女は自分の中でもどうにか言葉を探るように言った。

「あいつにとって、友達はみんな平等なのよ。誰かを選ぶなんてことできなそうってこと」

 次の言葉を探したまりちゃんは、夕焼けも過ぎた空の下で僅かに頬を染めていた。こういう時に、ぷいとそっぽを向くのは彼女の癖であり、同じ癖が日向くんにもあったことに気がついた。

「だから、もし友達と違う枠組みで大切にする人ができたとしたら、あいつは――」

 その次に繋げた言葉が、まりちゃんがその枠を踏み出そうとしない理由だと思った。

「とっても困るんでしょうね」

 その晩、私は上手く寝付けず、翌朝はいつもより少し遅い時間に登校した。みんなのおかげで元の進度まで戻すことができたとは言え、改まって事の仔細を説明しないといけない緊張感が妙に食べ物を喉に通さなかった。だけど私が登校した頃には、既に事は終わっていたのだ。

「聞いたよ最上さん。大変だったんだってね」

 席の近いクラスメイトに話しかけられた。突然のことで全く話題が見えなかったけれど、すぐに昨日の応援旗のことだと察しがつく。きっとクラスの誰かが異変に気づいたのだろう。絵そのものは遠目に見れば問題はないまでに修正できたが、近くで見れば紙の重ね合わせが一目瞭然。きっとクラス中が私の失態を既に知っているはずだ。

「う、うん。そうなの。ごめんなさい」

「なんで最上さんが謝んの?」

「え? だって……」

 私は女子生徒の反応に戸惑った。彼女自身が怒ったりはせずとも、良い顔をされるような話でないことは確かだ。さりとて疑問を浮かべられるような話でもない。それに聞き方もおかしい。「なんで最上さんが」なんて言い方は、まるで犯人が別に居るみたいではないか。そして私の耳には予想だにしていなかった名前が聞こえてくる。

「日向がさ、応援旗に水ぶちまけたんでしょ? あいつが朝一番にクラスに来て、他の女子に謝ってるところ見たよ」

 寝耳に水、という言葉を今ほど実感したことはなかった。そしてすぐに彼が嘘を吐いていると直感が告げる。「そ、そんなことっ」と声を跳ねさせた時には、女の子は次の文句を語り出していた。

「最上さんの作業量増やしちゃったから協力してあげて欲しい、とか。体良く言ってるけど、何様って感じよね。あいつ、少しは自分で手伝ったの?」

 そんな的外れな質問を受けて、答える間もなく急いで日向くんを探した。話している同級生が怪訝な顔になるのも厭わずに教室中を見渡す。私には、彼が自ら嫌われ役を買って私のミスを隠そうとしてくれていることがわかった。教室に居なかったので廊下に出ると、どこかへ向かって歩くボサっとした黒髪が見えた。私は部室に行く時よりもずっと速く走って、その後ろ姿に呼びかける。

「日向くん!」

「よ。鈴涼」

 いつも通りの、何でもないような表情。だけど私にはその顔が贋作みたいにわざとらしく作られたものに見える。私は挨拶もしないで問い詰めた。

「何でみんなに嘘ついたの? 日向くんは悪くないのに」

 さすがの彼もここでしらばっくれることはできず、バツが悪そうに唸った。

「あいつらさ、多分鈴涼のせいってわかったら、もっと逃げ出す気がしたんだ。お前って器用だから、何でもできるような気がするし」

 日向くんの指摘に、私は俯くことしかできなかった。誰かの真似事がそれなりの結果を生み出すのは当然だ。最上鈴涼は偶然それが得意なだけの人間だった。だから今まで、正面から助けてくれる人は居なかった。任せ切りが生み出す孤独は、簡単に「じゃあよろしく」なんて台詞を言える人が考えているほど温かいものではない。

「まあ面倒事からは逃げたいって気持ちは俺もわからなくないし。てか基本逃げるし」

 日向くんは昨日まりちゃんが予見した通りのようなことを言った。そしてまりちゃんが言うには、日向くんは友達のためならそういった損得を切り捨てて動く。きっと彼にとって一番大切なものが『友達』だから。

「だから健吾に聞いて、波風が立たないやり方を考えてもらった。誰かが破いた噂が流れれば、あいつらも協力しないと同罪にしてやれるって。健吾って時々怖いこと言うよな」

 言葉とは裏腹に、日向くんは実に楽しそうに笑っている。全てが手のひらの上だと言わんばかりの様子で、そこに一切の後悔は無い。だけど、日向くんの評判が下がってしまったことは間違いないのだ。

「だからって……私だって日向くんが嫌われて欲しいなんて思わないよ」

「鈴涼の紹介する本は、俺的に当たり多いからな。早く読みたかったんだって」

 彼は取って付けたような理由で誤魔化そうとした。しかし納得し切れない私に気づいたのか、顔を背けながら髪を掻く。

「どうせなら、みんなで笑ってるのが良いじゃんか。俺はクラスの連中よりも文学部の方がずっと楽しいんだ」

 その言葉に、おそらく嘘偽りはない。文学部の活動はみんなが楽しんでいる。大切な居場所であり、それぞれが仲良くありたいと願える人たちだ。そして部活動を最も楽しんでいるのは、間違いなく日向くんだった。多分これ以上、彼を問い詰めても何も変わらない。彼が発言を撤回することはないだろうし、彼もそれを望まない。八方美人とは対極に居るような思想で、本気であの場所を守るためだけに動いている。

 そんな覚悟ができる人が世の中にどれだけ居るだろう。感心と同時に、まりちゃんの懸念が頭に過ぎる。もしも彼に『特別』が生まれた時、今までの『友達』とどう折り合いをつけたら良いのかわからなくなってしまうのではないか。

 ――そっか。まりちゃんはずっと、こんな気持ちなんだね。

 ズキ、と痛むものがあった。体調の一つも悪くない。ただ瞭然と、親友と呼べる人の気持ちが理解できた。そんな顔をされたら自分が特別だと勘違いしてしまう。黙って心の痛覚を飲み込んでいる間に、日向くんは逃げ出すようにこれだけ言って去ってしまった。

「次の本はバトルありのファンタジーで頼む!」

「さ、探しとく」

 彼の小さくなっていく背中に、短く応えるのがやっとだった。立ち竦む廊下で、私は鼓動を抑え続ける。ずるいな、とようやく悪態をこぼせたのは、ホームルームの予鈴が鳴った頃だった。

 そうして応援旗の問題は解決し、期限間近になりつつも完成を果たした。あの日以来、文学部のみんなは手伝うことはなかったけれど、私が一人で作業をする日はなかった。



「うー……ん」

 唸り声に苦悩を乗せながら、斜め前の少年がノートと睨めっこをしていた。あのノートは去年も使っていた気がする。一年振りに引っ張り出されたのであろうネタ帳はさっきから大して進んでいない。しかし本を読む同級生たちに迷惑をかけまいと黙り込んで悩む姿は微笑ましく思える。

 向かいに座る野沢くんと目が合い、同じ気持ちを交換した。日向くんがいくら私たちに気を遣ってくれても何だか放って置けないのだ。ただ、委員会で遅れてくるまりちゃんからは「甘やかさないで!」というお達しがある。

二人は本当に仲が良い。この数日間で――いやもっと前から、二人の間にある強い絆を見てきた。あの日から、私の彼を見る目は少しだけ変わってしまった。視界はとても綺麗に煌めいているのに、心はずっと痛い。

 ガラガラと図書室裏の扉が開いた。そこに現れたショートカットの可愛い女の子を見て、日向くんは「うげ」と漏らす。まりちゃんは彼の手元にあるノートを見ずとも声を張った。

「ちょっと一晴! あんたまだ書けてないってどういうこと!? そろそろ冊子作り始めないと文化祭に間に合わないでしょうが!」

「ご、ゴタゴタしてたんだから仕方ねぇだろ!」

「結局あんたが一番暇そうにしてたでしょうがバカ! バカずはる!」

 私はあの二人のようにはなれない。ああやって相反しながら、正面から絆を紡ぐことは叶わない。この想いは胸に仕舞っておこう。私は二人の友達で、大切な人だからこそ幸せになって欲しい。この『無理』だけが彼らがくれた言葉への最後の裏切りだ。いつか私にどうしようもない問題が訪れた時、彼らをどれだけでも頼ることを心に刻む。

 ――どうか秘めたまま、この気持ちが忘れられますように。四人で居る場所がいつまでも壊れませんように。

「なぁ、鈴涼も何か言ってくれよ!」

 人の気も知らない彼は私の心を揺らしてくる。初めてまりちゃんの苦労を理解できた気がして、少しだけイタズラな気持ちが浮かんだ。

「締切は守ろうね、ば……バカずはるくん」

 みんながキョトンとした顔をして、すぐに何やら一大事が巻き起こってしまったように騒ぎ出した。

「とうとう鈴涼まで言うようになっちまった! どうしてくれんだ茉莉菜!」

「し、知らないわよ! そもそもあんたがちゃんとしてれば言う必要なんてなかったんだから! 責任取んなさいよ!」

「何一つ筋通ってねぇじゃねぇか!」

 大騒ぎする二人と、それを宥める少年。いつもの景色の中に帰って来た幸せだけで十分だと思わないといけない。この気持ちがどれだけ私を苦しめるのかわからないけれど、大切な人たちのためなら、この痛みを抱えていこう。

 後ろでカーテンが揺れる。秋風が強くなって黄色の葉が舞っていた。沁みる冷たさは、きっといつか新緑を芽吹かせるはずだ。

 でも今は、ちょっとだけ幸せを感じていても良いかな――一晴くん。
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