第20話 嵐だちし紅に心は騒がねど

文字数 3,963文字

※――――――――――――――――――――――

 何気ない日常を送り続けることができた俺にとって、その光景はいつまでも残り続ける特別なものだった。

 だから、なんてとても言えないけれど、鈴涼にとっても心のどこかに残る景色なのではないかと期待していたのだ。そんな独りよがりはいくらデリカシーがないと評される俺でも言葉にはできず、ただ黙って隣に立つ可憐な横顔を眺めていた。

 鈴涼の瞳の先に映る景色――かの有名な渡月橋から見えるのは、唐紅や黄檗色が周囲の山々を覆い尽くす絶景だ。視界の遥か先まで重なった│紅葉(もみじ)に、僅かに残る緑のグラデーションが深い色味にアクセントを加えている。下を流れる桂川が山並みを分かつのなら、遠い青空には大自然と空の境目がくっきりと描かれていた。照らす太陽と交わって、希望を浮かべたくなるような風景画がそこにあった。

「――知らない」

 時計の短針がどれだけ動いたのかはわからない。しかし美しい大自然は、少女にとって憧憬ではないことは確かだった。だから隣で勝手に失望する俺は至って愚かで、あの頃と変わらない未熟者だった。

「ま、そうだよねぇ」

 軽い感じに努めた健吾の声が響いた後も、誰も言葉を続けることはできなかった。今回の京都旅行のきっかけとなった写真と同じ場所、嵐山。一生ものの思い出を作り上げたここであっても、やはり鈴涼の記憶を刺激するには至らない。

 茉莉菜がこちらを見ていた。いつもの攻撃的な雰囲気は一切なく、昔に弟の海渡の面倒を見る時によく見た表情だった。他人から見た俺はエゴイストにしか捉えられないはずなのに、まるで彼女だけは同情するような目を向けている。それがほんの少しだけ救いになっているのは認めたくない事実であった。

「ほらほらみなさん! 露骨に沈んだら、最上さんが自分が悪いって勘違いしちゃうでしょ? こんなことは想定の内だったんだから、今日も観光の続きに勤しみましょうよ!」

 そう言った健吾の顔に、ダメージの痕跡は一切存在しなかった。あれだけ協力を惜しまないでくれたのに、鈴涼のことを一番に考えてこの場を明るくしようとしている。きっと俺のように奇跡なんて曖昧なものを信用してはいない。彼はずっと大人だ。いつの間にかできてしまった溝は一向に埋まらない。

 健吾の気遣いを引き継ぐように後藤先生が鈴涼の背に優しく触れる。川のほとりに視線を落としていた小さな背中がぴくりと揺れる。

「野沢くんの言う通り。私たちはあくまで新しい思い出を作りに来たんだもの。最上さん。責任を感じる必要なんてないのよ?」

「……うん」

 鈴涼も表面上は理解してくれているものの、結果的に傷つけてしまったのは自明の理だ。

「一晴くん」

 声がまた遠くから聞こえた気がした。娘に声質のよく似た鈴涼の母親が俺の名前を呼んで、幻聴のように聞こえたのかもしれない。とにもかくにも願望の産物に間違いはなく、ちゃんと現実を見ようと目を擦った。

「気落ちしないで。私たち家族は感謝しているの。一晴くんが説得してくれたから、いつも以上に鈴涼の笑顔を見ることができている。この旅行があると決まってから、鈴涼は目覚めた当初よりもずっと口数が増えたのよ」

 強がりの励ましであることはわかっていた。けれど鈴涼本人にまで大きく頷かれてしまったら、これまでの行動に意味があったんだと思ってしまう。

「この旅行で思い出すことはできなくても、思い出を作った意味は間違いなくあったわ。だから、主人の分も言います。ありがとう」

「……はい」

 長らく熱を帯びることがなかった目頭が熱くなった。こんなところで俺が泣くなんて情けなさ過ぎて、堪えるために短い返事をするのが精一杯だった。

「写真、撮ろ」

 鈴涼はそう言って、俺の服の袖をつまんだ。大切なのは彼女の記憶だけではない。鈴涼が歩むことの叶わなかった三年間を少しでも取り戻せるようにすること。鈴涼の母親が言ってくれた通り、この数日が鈴涼の心に良い思い出として刻まれることの方が大切なのだ。

「そうだよ一晴。元々はもう一度この場所で写真を撮ることが主目的(メイン)だったじゃないか。それだけで万々歳だよ」

「そう。万々歳」

「すずちゃん。こいつの言い回しは真似しなくて良いからね」

 両腕を小さく上げながら言ってくれた鈴涼に無理矢理笑ってみせる。日常と思えるようになったこの光景が続くことが俺にとっての救いだ。今なら確信できる――俺たちが再会したことは、決して間違いではなかったのだと。

「じゃあ、先に四人の集合写真を撮るわね。他の人の迷惑にならないように並びなさい?」

 昔と同じ並びになったので、情けない頬を無理やり吊り上げた。シャッターの落ちる音が何度も響く。後から見たデジカメの写真には、あの頃よりも落ち着いているけれど、確かな笑顔が並んでいた。



 近場にあった定食屋で昼食を済まし、さあ次はいよいよ清水寺だぞと息巻いていると、健吾がこんなことを言い出した。

「折角こんな所まで来たんだし、他にも思い出を作らないともったいないじゃないか」

 いわく日本三景なのにどうのとか、紅葉の時期に狙って良い天気なんて天文学的とまでは言わずとも相当な確率だ、とか取って付けたような理由を並べ立てる。

「午後からは清水寺にも行くんだぞ。あんまり悠長なこと言ってたら、宿に戻る時間が遅くなるだろ」

「そのくらいの時間はあるって! ねぇ、岩本さん?」

「あ、あたし? ……まぁ、そうね。平日のおかげで思ったよりも混み合わなかったし、時間のゆとりはあるんじゃないの」

「ほら!」

 質問のターゲットを変えたことで隆盛するテンションの高い男。このまま押し切ってきそうな雰囲気だが、簡単に折れてしまっては今後のスケジュールの合間ごとにも言いそうだ。そうはさせまいと適当な質問を投げつける。

「だからって何をするんだ。紅葉なら橋の上から十分楽しんだだろ」

 健吾はちっちっち、と舌を鳴らしながら指を振る。最近わかってきたが、こういうわざとらしい動作をする時は大体ろくな事を考えていない。

「ここは日本有数の絶景ポイントだよ。色々な角度から見てみたいじゃないか」

「色々な角度……?」

「アレだよ」

 健吾が指さした方角にみんな揃って首を曲げる。そこにあったのはオールを回しながら川を遊覧する観光客の姿。しかし、彼が示すのが誰とも知らない人々ではないことくらいわかっていた。

「……舟?」

 燐光散らして流れる桂川の上には何隻かの手漕ぎボート。穏やかな川ならではのアクティビティを見て、舟より目立ちそうな男が大袈裟に腕をぶんぶん振り回す。

「漕ぎたい! 漕ぎたい漕ぎたい!」

「じゃあお前一人でやってこいよ」

「……一晴。オレを見世物にしたいのかい? さすがに見られるだけなんて良い気はしないよ」

 子どもみたいな言動をしたやつが、あからさまに仕方のない子どもを見るような目になった。いつも派手派手しい服を着ているくせに何を言っているのか。どうやって言いくるめようか考えていると、案外と乗り気な後藤先生が健吾の援軍に回った。

「そうよ日向くん。友達として一緒に経験してくると良いんじゃない?」

「先生、絶対面白がってますよね?」

 この時点で何となく負け筋を察する。この美人先生が言ったことは何だかんだで形になるのだ。部活動を作った結果、桃川中学校の図書室の蔵書は順調に数を重ねた。予算削減案が出ていたとは思えないくらいに、俺たちは毎月何冊も新発売の本を読むことができていたのである。

 こうなってしまえば反論するだけ無駄な労力だ。視線で健吾に白旗を振ると、彼はガッツポーズをした後で残りのメンバーに問うた。

「女性陣はいかがですか? オレと一晴が一隻ずつ担当すれば、全員乗ることもできそうですけど」

 遊覧のお誘いに、保護者二名は「酔いたくないから」と渡月橋から眺めていることを早々と決めた。鈴涼母はともかく、けしかけた後藤先生が乗らないのは解せなかった。しかしこれも考えるだけ徒労なのである。

「乗りたい」

 大人の強かさに弄ばれている中、透き通る声がはっきりと意志を告げた。鈴涼は元々好奇心旺盛な性分なので、純粋に貴重な経験ができることが嬉しいのだろう。

「最上さんは乗り気だね。文字通り」

「うまくねぇよ」

「いけずぅ」

 この状況を作り出した張本人の調子が良いとやけにムカッとする。茉莉菜に倣って背中を叩いてやっていると、大人の悪ふざけの矛先が新たなターゲットを見据えていた。

「それじゃあ、岩本さんも合わせて四人で行ってらっしゃい? ボートにも二人ずつで丁度良いわ」

「え。は、はい」

 こちらもやや押し切られている形にも見えたが、元顧問としては俺たち全員が公平になるようにしたいのだろう。もしくは保護者である鈴涼の母親と話したいことでもあるのかもしれない。何にせよ茉莉菜も含めて乗ることになったので、三人乗りのボードには二人ずつ乗るのがバランスが良いだろうという話になった。

「最上さんはオレが責任を持ってお連れするよ。ヒョロヒョロの一晴じゃ心配だからね」

「やかましい。反論は無いが」

 いちいち嫌味な言い方だが、鈴涼の安全は父親との約束もあって最重要事項である。舟を漕いだ経験なんて昼食後の授業くらいのものだから、ここは頼りになる人選をするのが至極真っ当。俺は目を伏せながら健吾の提案に乗ることにした。

「じゃあ、一晴は岩本さんを頼んだよ」

「……え」

 健吾が当然の顔をして俺を見る。鈴涼のためと思って合理的な判断を飲み込んだが、それは必然的にもう一つの組も決まるということ。俺たちのやり取りを見ていた栗毛の少女の顔を見遣る。

「……悪かったわね、あたしで」

 しばらく振りに見た幼馴染みの不機嫌な表情に、背中が外気以下の冷や汗に濡れた気がした。
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