第4夜 8節
文字数 3,030文字
あの時───ちょうどユキに【ヤミカガミ】を植え付ける実験をした頃、そう…二週間前程は酷くない。けれど、それでも心臓を鷲掴みにされ全身を滅多刺しにされるような痛みと心の底からとめどなく溢れて脳を占めてゆく負の感情がもたらす苦しさは……何度繰り返しても慣れやしない。
「………ッ、ぁ、あ、あ………!」
声を殺して、レナは静かに泣いた。
……もう、朝だ。セツナや雪音が起きてくる。彼らに……心配などかけたくない。そして────自分が化け物に変貌している事を、悟られたくない。
『────まるで、化け物、だね。』
『─── まだ【ヤミカガミ】に成る勇気を────【人間】を捨てる勇気を持てないのね。』
ユキと郷原の嗤う声が脳でリフレインする。
私は……化け物……?いや、ちがう。違う、違う違う違う、私は人間だ……ッ!!!
それを何度言い聞かせても、心の何処かで疑問を抱いてしまう。
殺意を孕んだ紅の瞳に赤黒い血管を走らせ、超常的な力を持つ【ヤミカガミ】のレナ。……それは、どこからどう考えても「普通の人間」ではない。………でも、でもそれでも。自分は生物学上「人間」だ。だから私は、きっと人間だ、化け物なんかじゃない。
けれど────。
………。
けれど、幾ら私がこの力を否定しても、実験が中断される事は恐らく無いのだ。
私には、この力を受け入れて……化け物に成る選択を取るしか、生きる道は残されていない。【ヤミカガミ】を拒絶して、否定して……その結果襲ってくる能力の暴走と拒絶反応に苦しむか、【ヤミカガミ】を受け入れて、ユキのように人間を捨てる覚悟を決めるか……その二択だ。レナは馬鹿じゃない。どちらが賢い選択かなど……とっくに分かっている。
「ぅ、ううぅ……ッ………ぁ、あ、」
駄目だ、そんな考えを巡らせていたら「恐怖」や「絶望」と云った負の感情が芽生えて侵蝕が進んでしまう───もう何も、考えるな。
荒く、浅くなった呼吸を繰り返し、頭の中を「息をする事」でいっぱいにする。
………ああ、私はいつまで現実逃避をするつもりなんだろうな────
『────レナ、痛い?』
不意に、目の前から凛とした声が降ってきた。
涙で滲む視界でぼんやりと声の方を見れば、見知った顔がそこにはあった。
「……さ、つき……」
サツキはしゃがみ込むと、ベッドの上で身体を丸めて苦しむレナに目線の高さを合わせて顔を覗き込んだ。………真紅の瞳。光のない、吸い込まれそうなその瞳を見つめていると、頭がふわふわしてきて意識が飛びそうになる。───だからレナは、意識を逸らすようにぎゅうと目を瞑った。
『……辛そうね。【ヤミカガミ】の侵蝕が、苦しいんでしょう?』
「───ッ、ぅ、あ、ッ、ちが……」
『誤魔化さなくてもいいのよ、アタシには分かるもん。セツナや雪音と違って、アタシはアンタが化け物になっても嫌いになんてならないわよ?だって、私はお人形サン───レナ、アンタの事が大好きだもの』
耳元で優しく囁かれて、思わず心の主導権を譲ってしまいそうになる。……サツキの言葉は毒だ。彼女の言葉には人の心を掌握する力がある。耐えろ、呑まれるな、言いなりになるな……!……だが、満身創痍でぐるぐると回る思考の中でサツキの甘い声だけがはっきりと聞こえて────嫌でもその言葉に意識を向けてしまう。
サツキは心配そうな顔をして、笑った。
『大丈夫?痛いのね、苦しいのね───ねぇ、そんなに苦しいなら……アタシが壊してあげようか?あの子────ユキと同じように。』
それは、サツキなりの優しさなのだろう。
壊れて仕舞えば、恐らくきっと……これほどまでに痛みや苦しみを感じる事は無いのだ。【ヤミカガミ】を受け入れるか否か、人を捨てるか否か…そんなくだらない悩みを抱く事も無いのだ。
でも、それは言い換えれば、「今のレナ」を殺す行為だ。
「今のレナ」を殺して、「力を受け入れる新しいレナ」を生み出す……つまり、サツキの提案を呑めば今の自分は消えて無くなってしまう。今の自分では居られなくなってしまう。
セツナや雪音を護りたいと───ユキを救いたいと、そう思っている自分が、居なくなってしまう。それは……嫌だった。
レナは瞳に涙を溜めてぶんぶんと首を横に振った。
そして、震える声でこう紡ぐ。
「い、や…だ……。壊れたく、なんてない……ッ」
『そ……残念ね。直ぐに楽になれるのに。』
溜息を吐いてみせると、サツキはレナの血管が浮き出た頬に触れる。……彼女の手は、血の気を感じさせない程に冷たかった。
『可哀想なレナ。ねぇ……早く【ヤミカガミ】に成ってよ。覚悟を決めて、受け入れて────【ヤミカガミ】に、成ってよ。アタシ……ずっと、ずぅっと寂しいの……お願い、レナ。早く………この力を受け入れて。』
「………」
『【ヤミカガミ】は悪い力じゃないわ。きっと、アンタに素晴らしい恩恵をもたらしてくれる。欲しいんでしょう?大切なものを護る力が。奪われずに済むための力が。……【ヤミカガミ】は、そんなアンタの手足となってくれるわ。だから────』
………サツキは、何故そこまで私を【ヤミカガミ】の能力者にしようとしているのだろう…。
【ヤミカガミ】の能力者が欲しいなら、既にユキが成っている。ユキの方が能力者として既に安定しているし、力も使いこなせている。
「寂しい」と、彼女はそう言った。「お願い」と、彼女はそう願った。……その意図が、レナには分からない。
レナに【ヤミカガミ】の能力を植え付けるのはどうやら決まった事のようで───でも、それってどうして?どうして、レナ───私じゃないといけないのだろう。
『───何故かって?それは、最も君が適合できる可能性が高いからだよ』
【ヤミカガミ】を植え付ける実験を行った日、郷原はレナにそう言った。
どうして……どうして「レナが適合できる可能性が高い」と、そう言い切れたのだろう。【ヤミカガミ】は9割9分が適応できない、強大な力。ただの少女であるレナが適合できるなんて、どうしてそう判断された……?
「……サツキ………どう、して……どうして、私、を……【ヤミカガミ】にしようと、してるの…?」
その疑問は、口をついて出ていた。
「【ヤミカガミ】なら、もう、ユキが居る。私が……私が【ヤミカガミ】に成る必要なんて─────」
『……アンタは、「特別」なの』
……まただ。
「特別」……サツキも郷原も、研究員達も────【クレナイ】の人達は皆、レナを特別扱いする。…その理由が分からない。私はただの人間で、ただのモルモット1だ。特別視される謂れはない。なのに────。
サツキは暫く黙り込むと、意を決したように口を開いた。
『───アンタは、器なの。アタシの主の、器』
「うつ、わ……?」
『そうね………ねぇレナ、少しだけ……御伽話を聞いてくれる?』
サツキはレナの頬を優しく撫でながら、幼子に言い聞かせるようそう告げた。………御伽話。それがレナを特別扱いする理由の説明なのかは分からないが……何か、関係はあるのだろう。レナは小さく、こくんと頷いた。
『そう、いい子ね』とサツキは微笑むと、目を細めて何かを思い出すような素振りをした。
『───それは数千年前のことでした。むかしむかし、あるところに………』
これは、サツキが語る────とある「妖」の物語だ。