第3夜 4節
文字数 1,841文字
そんなくだらない事を考えながら、体を洗い終わったレナは湯船にそっと浸かった。……とても温かくて、入浴剤の柚子のいい香りがした。……そう云えば、お風呂にちゃんと入ったのはいつぶりだろう。実家を抜け出してからはろくに入れていなかったな。……汚いのは嫌だったので水を被ったり身体を拭いたりはしていたけれど。
湯船の温度は、追い焚き機能が働いていて三十九度の一定温度に保たれていた。……セツナの後に入ったと云うのに、まるで一番風呂のような温かさだ。思わず、うとうとしてしまいそう………いけないいけない。ゆっくりと立ち上がれば、ざぱ…と華奢な身体からお湯が伝って落ちて、水面がゆらゆらと波打った。
自分の小さな体は、傷と痣だらけでとても見窄らしかった。……けれど、これからは恐らく、もう新たに傷を付ける事は無いのだ。この忌まわしい傷跡も……次第にその形や色を忘れていくだろう。そうして、傷が癒えた頃が────自分が【表社会】の人間になれた、と云う時なのだろうな。
ドアを音を立てないように開けて風呂場から出る。そこにはふわふわのタオルが置いてあった。……朝倉さんが貸してくれたものだ。至れり尽くせりで何だか申し訳ないが、ここは素直に好意に甘えておく事にする。真っ白なバスタオルは、柔軟剤のシャボンの香りがして、心を癒してくれた。
着ていた服は、洗濯しておくから…と言われて洗濯機の中だ。畳んで置いてあった肌着の上に、恐らく朝倉さんのものであろう半袖のロング丈のTシャツとジャージのズボンが置いてあった。レナは小柄だ。その服をワンピースのように着て……ズボンは必要なさそうだった。
髪を備え付けのドライヤーでざっと乾かして、髪に付けていたリボンを持って……肩にタオルを掛けながら更衣室から出たら、何だか美味しそうな匂いがした。見れば、エプロン姿の朝倉さんがダイニングテーブルに料理を並べている。料理が出来ないレナは、「まるで理想的な女性だ…」と考えながらその姿をぼーっと眺めた。レナがお風呂から上がった事に気付いた朝倉はよし、と言うとレナとセツナを呼ぶ。
「二人とも、ご飯を食べましょう。席に着いて」
「え、」
……この家には今レナとセツナと朝倉の三人しか居なくて、料理は三人分だな……と云う事まで気付いていたのに、それが自分達が食べるものだと認識出来なかったレナは思わずそんな声を上げてしまう。それはどうやらセツナも同じようで。
しかし、朝倉が「いらっしゃい」と手招きするので……二人はぎこちない動作で席についた。
白米と、味噌汁と、卵ほどの大きさのハンバーグが二つ。小さな器にはヨーグルトが入っていた。……それは、朝倉にとっては「普通の夕飯」。米は朝炊いていたものを温めただけだし、味噌汁は豆腐とわかめで作っただけだし、ハンバーグも牛ひき肉が高くて合い挽き肉と木綿豆腐でかさ増ししながら作っただけ、ヨーグルトなんて既製品だ。……手の込んでいないズボラご飯、と云えるだろう。
しかし、レナとセツナにとってはご馳走でしかなかった。キラキラとした目で自分の作った手料理を見てもらえて……少し誇らしい気持ちになる。
セツナが口を開いた。
「え……これ、私達の…分ですか?」
「そうよ。私一人で三人分は食べられないわ。」
「え……えっ、えっ………食べて…いいの?」
「ええ、勿論。そのために作ったんだから」
「………じゃあ、いただき、ます……」
「どうぞ」
一口食べて、セツナは表情をぱぁ、と明るくした。続いてレナも箸を口に運んで、目を見開く。……美味しい。それは、温かくて、優しくて、幸せな味。
……私達、こんな幸せを享受して、いいの?何か罰を受けないと、こんな幸せ────セツナはそう考えて、首を振る。いや、いいんだ。だって、そのために【表社会】まではるばる来たのだから。私は、私達は幸せになってもいいんだ。
───食卓を囲み、同じ釜の飯を口にする、と云う行為は人と人を繋ぐ。たわいない会話をしたレナとセツナ、そして朝倉は親睦を深めた。ご馳走様でした……そう言って三人の茶腕が空になり、心身共に満たされた頃には、レナもセツナも朝倉に対して心から笑えるようになっていた。
片付けは、レナとセツナも手伝った。有難う、と朝倉は笑った。
明日は休日だから、【表社会】を回ってみましょうか────そんな素敵な約束をして、レナとセツナは和室を借りて泊まらせてもらった。とても、とても幸せだった。