第1夜 3節
文字数 9,582文字
「彼等と同じエレベーターには乗らないよ。【行く所】が違うからね…」
研究長のその言葉の真意は、「彼等は表側の職員で、自分達はこれから裏側に行くから同じエレベーターには乗れない」……と、そんなところだろう。
空室のエレベーターが到着するのに、数分もかからなかった。それに乗り込むと、研究長は首から提げたカードをエレベーター内のタッチパネルにかざす。ピ、と軽い機械音が鳴り、地上階しか選択できなかった画面に「B1」から「B8」までが表示された。……成る程。どうやら専用のICカードを持つ研究員だけが地下の実験区域…通称【クレナイ】の存在を知り、そこに行く資格を持つようだった。研究長は慣れた手つきで「B3」のパネルをタップする。フォン、と音が鳴って頭上のディスプレイに「1F▶︎B3F」と表示され、エレベーターが起動する。落下にも似た、重力が増したような感覚が十数秒続き、閉じた扉が開く。……その先は、地上階とは違い、コンクリートの冷たい廊下が続いていた。一定の距離感覚で天井に埋め込まれたLEDの照明が青白い光を放っているが…明るさが足りておらず、壁には濃い影が落ちている。その少し不気味さを感じる景色に一瞬狼狽え、足を進める事を躊躇してしまう雪音。だが、研究長達が何の躊躇いも無く足を進めるので、雪音も意を決して薄暗がりの世界へ一歩を踏み出すのだった。
カツン、カツン、と靴の音がコンクリートの壁に反響する。だが、研究長が手元の資料を見ながら名前と生年月日の確認、出身地や血液型からアレルギーや持病の有無などを事細かに質問し、それに応答する事に必死だったので静寂の不気味さを感じる事は無かった。被験体の怯えや不安感などの脳波の乱れは実験に影響する──それは、前の研究所でよく所長が言っていた事だ。此処でもそれは同じようで、研究長達は雪音の不安を取り除く為か…或いは単に気になっているだけか、それは定かでは無いが「苦手な食べ物はあるか?」や「勉強は得意か?」、「趣味はあるか?」など、細かい事まで質問し始める。「苦手な食べ物は特にありません」と雪音が答えると、研究長は笑いながら「それは素晴らしい。何処かの誰かさんとは違って…なぁ吉田。」と横の研究員を見遣る。どうやら吉田と云うらしき研究員は、視線を逸らしながら「研究長、僕が食べられないのはレバーくらいですよ。動物の肝臓なんてわざわざ食べる必要無いでしょう」とぼやく。
「けれど、レバーは栄養が豊富だろう?特に鉄分を補給するのに効率的な食材だと思うが」
そう言いながらくすくすと笑う研究長をじと、と睨む研究員。
「別にレバーを食べなくとも鉄分は他の食材やサプリメントで補えます。レバーは人間の食べ物じゃない…そしてお言葉ですが研究長。研究長こそパクチーは克服されたんです?」
「はは、君の言う通りだね。パクチーも人間の食べ物では無いよ……これは一本取られたかな。……どうだい雪音、好き嫌いがある人間は滑稽だろう。何でも食べられるというのは素晴らしい事だよ」
「あ、あはは……有難うございます……」
そう話しているうちに、一同は廊下の突き当たりに辿り着いた。大きな両開きの鉄の扉。その横の壁に設置されているパネルに研究長がICカードをかざすと、ガシャンと重厚な音を立ててロックが解除される。研究員がドアノブに手を掛け、その扉を開くと───
──そこは、地下にしては天井の高い、鍾乳洞のような風貌をした広々とした空間だった。ドームのような大広間を天井の無い仕切り壁で区切ったような、そんな感じ。扉から真っ直ぐ道が伸びており、壁で仕切られた部屋に沿って垂直に道が分岐している。碁盤の目のようなそれは、京都の街や、古代の日本の都……平城京や平安京などの造りとよく似ていた。仕切り壁には、一定感覚で鉄の扉が設置されており、扉の横には部屋番号らしき数字の羅列が刻まれている。白い簡素な衣服を身に付けた人が時折すれ違う。此処が、居住区域。…そしてどうやら、被験体もこの居住区域内は自由に行動出来るようだった。
……それにしても天井が高い……そう見上げると、上の階…つまり、B2FとこのB3Fは繋がっている吹き抜けのエリアだという事がわかった。雪音達が今いる中央通りを真っ直ぐ進んだ突き当たりに、緩い螺旋を描く坂道がある。それを登って行くと、同じく居住区域らしき上のフロアに繋がっているようだった。見た限り、螺旋の坂道の壁にも一定間隔で扉があるので、B2のフロアの部屋は坂道に面した壁の向こう側らしい。
ホテル、或いは病院の病室の造りに似た前の研究所とは違う広大な景色に、雪音は息を飲む。研究長はそれを横目で見てから微笑み、雪音と同じように視線を上に上げた。
「……驚いたかい?無理も無いね、此処に初めて来た者達は大抵君と同じ反応をするよ……被験体も研究員もね。此処にいる吉田だってはじめは腰を抜かしていたさ」
「誰だって驚きますよ。……まぁ、僕達職員の場合は『こんなに被験体が存在するのか』という驚きですが」
「ふふ、そうだね。……さ、じゃあ雪音、部屋に案内するよ……そうだ、君の部屋…実は大部屋なんだ。個室じゃ無くて済まないね…まぁ、同室の子達は良い子だから安心してくれ。ああ、大部屋だけど共有スペースの奥に人数分の小さい個室があってね。一人になりたいときはそこを使うといいよ」
「あ…は、はい…」
圧巻の景色に気を取られて生返事をしてしまう。……大部屋。前の研究所ではトラブルを抑える為に全員個室だったので他の被験体と関わる事はあまり無く、廊下ですれ違った時に挨拶をする程度だった。人生初の同居…人間関係の構築……自分に、上手くやれるだろうか…。そう思うと緊張が走る。
居住区域の入り口周辺の部屋番号はGから始まるものばかりだった。大通りに沿って歩いて行くと、それはF、E、D……と遡ってゆき、それがAになったとある部屋の前で研究長達は歩みを止めた。
「───此処だよ。そうだ、この部屋に付いている番号は被験体の識別番号だが…雪音はAではなくFから始まる事を覚えておいてくれ。本来はFの部屋を当てがうのだけれど、君に行う実験はこの部屋の被験体達との組でした方が都合が良くてね。此方の都合で一方的に決めてすまないが、よろしく頼むよ」
「あ、は、はい…、大丈夫です」
「有難う。……それじゃあ吉田、後は頼むよ」
研究長はそう言いながら研究員の方を振り返る。てっきりこのまま研究長が全てやってくれると思っていた研究員は少し狼狽えるのだった。
「え、研究長が此処の者達の担当では…」
「あの子達に私は嫌われているからね。変に触発して【発症】させては私にも君達研究員にも得が無いだろう?触らぬ神に祟り無し、だ。」
「う……承知致しました……」
その返事を受け取った研究長は雪音に向き合い、声を掛ける。
「さて…そんな訳で雪音、私とは此処でお別れだ。あとでまた実験があるから、その時に会おう」
「あ、有難うございました…色々。また、よろしくお願いします」
「ふふ、君は礼儀正しいね。けど…そう緊張しなくていい。私達は別に君にとっての上司じゃない。変に気を遣う必要も、敬意を表する必要も無いんだよ……まぁ、あの子達を見ていたらだんだんどういう事か分かってくるだろう。──それじゃあね。」
研究長はひらひらと手を振って、来た道を引き返して行った。
その姿を見送った研究員は目の前の扉を三回ノックする。中から「はい」と透き通った若い女性の声がした。……女性か。初めて人と同居するというだけで緊張するのに、まさか性別も違うとは。恋愛感情というものがよく分からない雪音が異性だからと変に意識する事は無いだろうが、向こうが同じとは限らない。男と一緒の生活だなんて、嫌な気分をさせてしまうのでは……と少し不安がよぎる。
そんな不安をよそに、ガシャンと重い音を立てて鉄の扉が開かれ───中から自分より少し背の高い、それでいて同じ年齢くらいの…紫がかった黒髪に金の瞳を持った少女が顔を覗かせた。
「……あれ、吉田さん?どうしました?てっきり研究長がまた何か言いに来たのかと」
「郷原研究長じゃなくてすまないね…さっきまで一緒に居たんだけど」
「あーあれです?また面倒な役押し付けられたみたいな…吉田さん可哀想…」
「哀れまないでくれ」
「冗談ですって。…それで、どうしたんですか?」
「この間、君達の部屋に新しい子が来るって話をしただろう、その子を連れて───」
「えっ!?昨日の今日ですよね!?もう来たんですか!?待って部屋散らかってる!?どうしよう来て直ぐに『この人達部屋片付けられないんだ…』とか思われたら…!」
「……連れて来たから、仲良くしてやってくれ…雪音くん、ほら」
頭を抱えながら狼狽えている少女を横目に、そう言いながら研究員が此方を見る。雪音は緊張しながらぺこりと頭を下げ、「雪音です、よろしくお願いします」とどぎまぎしながら告げた。慌てていた少女の動きが止まる。
「……え、男の子…?」
「男ですみません…」
「子供……」
「子供ですみません……」
「え……可愛い…」
「えっ」
てっきり嫌がられるとばかり思っていた雪音は、「可愛い」という予想外の言葉に変な声を出してしまう。しばしの沈黙。耐えられなくなった少女が「あー……ごめんね」と頭を掻き、コホンと咳払いをした後に自己紹介をしてくれる。
「私はセツナ。漢字で書くと白い橋に雪に奈良の奈で…白橋雪奈。『雪』ってところがお揃いだね……えーっと、雪音くん……あ、雪音って呼んでいい?くん付け慣れなくて…」
「セツナちゃん……うん、大丈夫だよ…そっか、漢字だと雪奈なんだ…素敵な名前だね」
「自分の名前が素敵な名前だなんて思った事ないけど、そう言ってくれるなんて嬉しいな。雪音って名前も素敵だよ…すごく、それっぽいって感じ」
「やっぱり見た目的に…?」
「ううん、見た目もそうだけど…雪みたいに透明で綺麗な心を持ってるなって感じたよ。名前は人を表すってこういうことかぁ、なぁんて」
「……」
「あれ、雪音どうかした…?もしかして嫌な事言っちゃったかな」
「あ、いや…僕の名前を、内面と照らし合わせてそれっぽいだなんて言われたのは初めてで…。みんなこの白い髪を見て外見で『それっぽい』って言うから…」
「あはは、私がズレてるだけかもだけど…見た目は幾らでも変えられるからね。名前が見た目に似る事なんて稀だと思うなぁ。でも内面はさ、ほら…自分の芯みたいな。それはあまりブレないでしょ?だから見た目と中身、どちらが名前に似るかっていうと…中身かなって。…ごめん、何言ってるか自分でも分からないかも」
「…ううん、すごくいい考え方だよ…それ。」
「えー、そんな事言われると照れちゃうな…褒められ慣れてないからさ。……とまぁ、こんな私だけど…もし嫌じゃなければ、仲良くしてくれると嬉しいな。性別の違いとか、私は大して気にしないし。同じくらいの歳の子と話せるなんて願ったり叶ったりだよ。……あ、重ねて言うけど勿論『嫌じゃなければ』、ね」
「全然嫌じゃない…寧ろ、僕も嬉しいよ。よろしくね、セツナちゃん」
そう雪音とセツナが親睦を深めているのを眺めていた研究員は、再び腕時計を見遣ると話がひと段落ついたところで声を掛ける。
「…それじゃあ、僕は次の仕事があるから。頑張ってね、雪音くん。セツナちゃん、レナちゃんもそうだけど彼をよろしく。じゃあね」
「あ…有難うございました…!」
「はいはい、吉田さんさよーなら〜!」
手を振って研究員を見送った雪音とセツナ。
セツナは、研究員の姿が見えなくなると雪音に部屋に上がるよう伝えた。……知らない部屋に上がるのは緊張するが、これから此処が自分の家になるのだ…躊躇ってばかりでは居られない。こういうのは、きっと少し図々しいくらいが丁度いい。出会ったばかりだからと遠慮していては、お互いが疲れてしまうだろうから。「ずっと友達でした」───そんな風に接する事ができた方が、互いに変に気を遣わなくても済む。……そしてどうやらそれは、セツナも分かっているらしかった。
お邪魔します、と部屋に入れば、そこはリビングのような雰囲気を感じさせる共用の談話室だった。天井に付いたLEDの機械的な明るさが照らすコンクリートの壁、安物のカーペットが敷いてある床、真ん中には木製のテーブルと椅子が備え付けてある。壁には扉が四つ付いてあり、奥にも部屋がある事が伺える。キッチンは備え付けてあるが、シャワールームは無いようだった。…恐らく、別のエリアにあるのだろう。
セツナが奥の扉を指差しながら雪音に説明をする。
「此処の左側三つの扉がそれぞれの個室。私は真ん中で、雪音が私の右だからね。間違えそうならプレートでもつけとこうかな……あ、そうだ、雪音の部屋の隣…一番右は今は空いてて倉庫だよ。実は、この前までは雪音の部屋も倉庫だったんだけどね…頑張って掃除したんだよ。埃とかあったらごめん、だけど」
「成る程……セツナちゃんが真ん中で、僕が右側…そして一番右が倉庫……。…あれ、じゃあ一番左は?」
「あ、言うの忘れてたんだけど、この部屋使うの私と雪音の二人じゃなくてもう一人居るんだよね。それが───」
セツナがそう言ったところで、玄関をノックする音がした。「ただいまー」とドア越しにのんびりした少女の声がする。
「あ、帰ってきた!はーい!」
セツナがぱたぱたと急ぎながら玄関のロックを外すと、そこには持ち手付きのバスケットにパンと牛乳を詰めて重そうに両手で持っている、ブロンドの髪を肩より少し上で切り揃え、髪の左側に青いリボンを巻き、澄んだ空のような…或いは湖のような青い瞳を持つ小柄な少女が立っていた。セツナが「おかえり、レナ」と声を掛ける。…どうやら、彼女の名前はレナと云うらしい。
「うーー、疲れたぁぁ……聞いてよセツナ、私達の分の食糧をさ、他の人達に間違えて渡しちゃったって研究員の人が言うから頑張って居住区画回って探して来たんだよ…うあーもう歩けなーい…」
「それはご苦労様……休むなら部屋で休んでね、此処で寝ると風邪引くよ〜?」
「分かった……ってあれ、あなたは……」
レナと云うらしき少女が此方に気付いたので、雪音はお辞儀をして挨拶をする。それを見たセツナが代わりに説明をしてくれた。
「初めまして、雪音、です」
「ほら、昨日研究長が言ってた新しい同居人。すごくいい子だから信頼していいと思うよ。……あ、雪音、こっちがレナ。私の幼馴染…信頼して大丈夫だよ」
「成る程。へぇ、『歳はそんなに離れてない』って聞いてたけどほんとに同年代くらいだったんだ!嬉しいな。えっと、私はレナ。夜国玲菜。よろしくね…ええと、雪音……って呼んでいいかな?」
「うん勿論!よろしくね、レナちゃん」
「えへへ、有難う!此処の事で分からない事があったらなんでも聞いてね。全部答えられるかは分からないけど…そこそこ知ってる方だと思ってるから」
「ほんと…?実はまだ色々不安で…」
雪音がそう言うと、セツナが隣でうんうんと相槌を打つ。レナはキッチンの台に持ってきた荷物を置いてひとつ伸びをした。
「そりゃあそうだろうね、こんな所に来て何も不安が無い…って方が変だよ。折角だから情報交換しよっか。みんなとりあえず座らない?」
「賛成、もう立ってるの疲れたよー…」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
セツナのその提案で椅子に着いてテーブルを囲む一同。セツナとレナは先ずこの研究施設──【クレナイ】の基本構造について話した。
【クレナイ】は地下研究区画で、地下1階から地下8階まで存在する。地下2階と3階は居住区域で、今はまだ全ての部屋は埋まって居ないとの事だった。それなのに新たに入って来た被験体の雪音に空室が当てがわれるのではなく、既に居る被験体と同室になった理由は、レナやセツナにも分からないという。だが、研究長曰く『実験に都合が良い』との事なので、ただの気紛れではなくそれなりの理由は有るらしい。……それを二人に伝えると、「どうせ碌でも無い理由だ」と言われてしまったが。…どうやら、本人が言っていたように研究長はレナとセツナに良いように思われてはいないようだった。
地下1階の説明を飛ばしたが、地下1階は【クレナイ】の研究員達の研究室、そしてこの地下区画のシステムを統括しているメインシステム管理室らしい。……だが、そこは職員以外の立ち入りが禁止されている為、レナもセツナも詳しくなかった。
そして地下4階は「倉庫」と呼ばれているフロアだ。戦闘訓練用、警備用、処刑用、システム管理用などのアンドロイドのほか、実験に使われる薬品などが保管されているという。此処も基本的には職員しか立ち寄れない場所なので、二人ともあまり知らないと言う。
地下5階から8階までの四フロアは実験区画……つまり実験室だ。だが、正確には地下8階のみ地下7階と繋がっているため実験室は3フロア、という事になる。1フロアごとに管理室と研究室、そして実験を行う部屋…という1セットが数セットあるのだが、地下8階だけは1フロアまるまる一つの実験室となっているらしい。研究室と管理室は吹き抜けになった階上の地下7階に存在しており、強化アクリル板で円状の実験室を囲うように配置されている。
…どうして地下8階だけそんな造りに?
その雪音の質問には、セツナが答えてくれた。
「実験にはレベルがあってね…低い順からレベル1、2……ってなっていって、最大5まであるみたい。レベルが上がると危険度が増すから、影響の出にくい地下深くで実験をやるのが決まり。レベル1と2が地下5階、レベル3と4が地下6階、レベル5が7〜8階……つまり、最下層の地下7〜8階の実験は一番危険度が高い実験なんだよ。だから他の実験室より造りが頑丈になってるし、指示を出したりデータを取ったりする研究員用の部屋も大きいみたい。」
「そういう事なんだ……あの、レナちゃんやセツナちゃんはそこで実験を受けたり…?」
「私は無いかな、MAXでもレベル3だよ。今話した内容も、研究員達の話してる事を盗み聞きしただけ。でも、実験が進めばだんだんレベルが上がってくるから、8階の実験室に行く日も来るかもね」
「……」
レナは、ぼんやりとその話を聞きながら上の空…いや、上の空、と云うより何かを考えているような様子だった。「…レナちゃん?」と雪音が声を掛けると、はっとしたように頭を振る。セツナが心配したように伺う。
「あ…ううんごめん、ちょっとぼーっとしてた…」
「やっぱ疲れてる?寝ててもいいけど…部屋戻る?」
「や、大丈夫……。……えっと、私もレベル4が最高、かな。実験は大体セツナと一緒にされるから、最近は二人して地下6階で受けてるよ」
「そっか……えと、『能力開発』って聞いたけど、具体的にどういう……」
それを聞いたセツナは腕組みをし……それでもなんとか分かる範囲で答えようと努力をする。レナもそこに関しては疎いようだったが、何か気付いている事があるようだった。
「んー、どういう、かぁ……。私も実験内容については詳しくないんだけど、脳に電流を流して脳波を変えてる…みたいな…?あと色々注射されたり…でもなんの注射か分からないんだよね。普通に考えてヤバい代物だっていうことは分かるんだけど。」
「多分、注射は精神汚染に近いものなんだと思う。理性を消して衝動性を剥き出しにする…みたいな感じの。私もその副作用か主作用か分からないけど…それはなんとなく感じてて。なんだろう、喜怒哀楽が激しくなった気はしてる…」
「それは分かるかも…。私の場合は、読書みたいな集中力を必要とする行動がちょっとし難くなったかなぁ……。雪音も気を付けてね…って言っても、気を付けようが無いんだけど」
「……なんというか、僕の前居た研究所とちょっと似てるかも。」
「へぇ!雪音は他の研究所から移ってきたんだよね。どんなとこだった?」
「僕にとっては、実家みたいなところだよ───」
雪音はセツナとレナに前の実験施設……先端脳科学研究所の話をした。
清潔な部屋の話、個性豊かな職員達の話、父親代わりの所長の話、自分の能力と実験の話……。それは雪音にとっては当たり前の日常だった話だが、セツナとレナからすると驚きに溢れた話のようだった。
「所長の事をお父さんのように思えるなんて…すごくいい人だったんだね」
「研究長にも見習って欲しいよね…」
「ほんとほんと。」
「でも僕から見たら、研究長はいい人みたいだったけど…」
雪音がそう零すと、レナはあからさまに嫌そうな顔をしながら注意する。……注意というか、陰口だが。
「騙されちゃダメだよ、あいつタヌキだもん。本性知ったらそうは言ってられないよ」
「人当たりはいいからなぁ〜…問題なのは中身で…」
「ひ、酷い言われようだ…」
「本当の事だからね。しっかし、雪音は根っからの研究所育ちなんだね…え、生まれもその先端脳科学研究所?」
「…ううん、でも、どこで生まれたのか分からないんだ。生まれて直ぐ捨てられたから…」
「………実は、私もそう。」
「レナちゃんも…?……でもね、僕は自分の事を不幸だなんて思ってないんだ…父のような所長が居て、家族みたいな研究員達が居て、温かい食事と寝床と家があったから…」
「そ…っか……。…凄く、幸運な事だね…雪音が出生の事で苦しまなくて、本当に良かった…。」
「レナ……」
───私みたいに、苦しまなくて良かった。
そんな、嘆きと哀しみの籠った優しい言葉が、レナから聞こえたような気がした。…それは雪音の気のせいだったのかもしれないし、本当にレナが口にしたのかもしれない。だが、それを追及するのは…どうにも、残酷な事のように思えるのだった。
……レナは、雪音から見て「不思議な人だ」という印象だった。あどけなくて、無邪気で、優しくて……それは演じているとか取り繕っているとかそういう事では無く、彼女本来の性格なのだろうが…なんというか、彼女は同じくらいの歳の人間が抱えられる許容量以上の負の感情を抱え込んでいて、今にも爆発しそうな……。…そんな印象を受けた。
レナの瞳は澄んだ青だが、それが…どうしてだろう、「本当に青いのか?」と思ってしまうような…そんな不思議な感情が湧いてくる。なんだろう、心の水面をざわざわと揺らされているような……これは何という感情だろう。…危機感?不安感?…兎も角、レナは「普通」ではない…そんな感じがしてしまうのだ───。
兎も角、そんなふうに三人で会話をしているうちに、雪音が抱いていた緊張感は徐々に和らいでいった。新しい環境での生活、そして実験……。それらに対する不安を、レナとセツナが取り払ってくれたからだ。少しずつ雪音の口調からも固さが消え……時計の短針が八を指し、レナが「遅くなったけどそろそろ夕食にしないか」と提案を持ち掛ける頃にはすっかり友達として…いや、家族として打ち解ける事が出来ていた。
先程レナが配給として貰ってきたパンに牛乳、そして以前貰ったものを保存していたのであろう野菜のスープを器に盛り付けて簡単な食事を用意した三人は、和やかに食卓を囲む。それは、まるでごく一般の家庭の団欒のようで。
自分が抱えていた心配は杞憂だったかもしれない……。雪音はそう思う。
だが、雪音はこの時まだ知らなかった。
……その不安が、杞憂では無かった事に───。