第2夜 9節

文字数 5,917文字

………そう決意したのが、数週間前だ。

話は最初に戻る。

結論、現時点で「【表社会】に行く」と云う望みはただの夢物語だ。
一週間もすれば追っ手は諦めて姿を消すだろう…と侮っていたが、彼等はずっとセツナを探し続けているようだった。……【裏社会】はそんなに広くは無い。見つかるのも時間の問題だ……。
現に先程、セツナが居た路地裏の、家を挟んだ一つ隣の道の方から男達の怒号と、自分の名を呼ぶ声が聞こえたのだ。危険は、着実に迫ってきている……。
セツナがいる路地と男達が居るであろう路地はそう離れていない。なにせ、この民家や廃屋が密集した区域の路地裏は組み入っていて道が沢山分岐している。彼等の居る路地からこの路地に繋がっている道だって多く存在している……三分もあれば此方に辿り着いてしまうだろう。
逃げなきゃ、そう思い息を肩で吐きながら足にぐっと力を入れる─────






─────その足に力が入らず、かくんと膝をつく。


「……!?」


足に、力が入らない。
立てない、歩けない、走れない…!?
焦るセツナ。だが、その理由は明確で、とても解り易いものだ。
………エネルギー切れ、そして───体の限界。

セツナはここ数週間、ろくなものを食べていない。もっと言えば水すら十分に飲めていないのだ。なにせ食料を買うお金も無ければ、恵んでくれる人など存在しないのだから。……最近は専ら、野良猫のように生ゴミを漁って食べられそうなものを見つけ…足りない分は霊力で補って…という風にして過ごしてきた。
加えて、休息だって取れていない。寝たら母親に殴られる……そういう恐怖が、両親のもとを離れてなお消えないセツナは、寝ようとしても寝付く事が出来なかった。その上いつ追っ手に見つかるか解らない、そしてこの【裏社会】でいつ犯罪者に出会すか解らないという不安と緊張感……それが眠気を覚ましてしまい、余計に眠る事が難しくなった。
……豊富な霊力も、底をついている。体力も限界に近い。
気を張っていたセツナは、自身の身体が限界を迎えていると云う事に、今の今まで気付かなかった。かと云って此処で動けずにいるのは非常にまずい。動け、動け、動け……ッ!!!そう自分を激励、叱咤しながら足に力を込めるが……自分の足は惨めったらしくかたかたと震えるばかりで、ちっとも力が入らなかった。

へたり。

その場に崩れ落ちてしまうセツナ。
路地の入り口に、男達の影が落ちた。


「────居た、!」


男の一人が此方を指指すのが見える。
セツナはひ、っ……と小さく悲鳴を上げた。
彼等は一直線に此方に向かって走ってきて……セツナの襟首を掴んで持ち上げた。
三人の大柄な男に囲まれるセツナ。
華奢な身体がぶらん、と宙に浮く。


「い、や……ッ!」

「ようやく見つけたぞセツナ、手間取らせやがって…!」

「これでようやくこのクソだるい仕事から解放だな、あー疲れた疲れた」

「報酬がたんまり貰えるぜ、よっしゃあ!」


ほら、帰るぞ……そう言いながら乱暴に連れて行こうとする中心格らしき男を、セツナは思い切り突き飛ばした。まさか自分達に抵抗するとは思わなかった男は襟から手を離して一歩後退った。その顔に、苛立ちの色がありありと浮かぶ。


「やだッッ!!!もう、私はあんなところには帰らない…!!」

「ぉわッ……!!…クソガキ、テメェの意見なんて求めてねぇんだよ!」

「嫌だ絶対に帰らないッ!!」

「クソッタレ、俺達に抵抗するってのがどう云う事か、わかんねぇみてぇだなァッ!?」

「きゃ…ッ!?」


───瞬間、左の頬に衝撃。
痛い、と云うよりそれは熱い、に近い感覚だった。…今、何をされた?決まっているだろう……殴り飛ばされたんだ。…そう悟ったのと同時に、身体が後ろに吹き飛ぶ。がしゃん、と音を立ててポリバケツが倒れた。セツナはゴミ山に叩きつけられ、かは、とか細い嗚咽を漏らす。
男達はパキポキと両の手を鳴らしながら、歪な笑みで此方へ足を進めてくる。
いや、いやだ、やめて………ッ!!!


「しっかりその体に叩き込んで逆らえないようにしてやるよ……ひひッ」

「や………やめて……ッ…いや…ッ……」


じりじりと、男達はゴミ山のセツナに近付く。
ひゅん、と拳が勢いよく空を切る。
セツナは自分を守るように両手を頭の前に出し、目をぎゅっと閉じて叫んだ。


「───覚悟しろよクソガキィィィィ!!!」

「───嫌ぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁあぁぁぁああああッッッッ!!!!!!」


ばこ、ぐちゃ、めき。

そのどれもに似たような、どれも似てないような……そんな、鈍い音がした。
ぐわん、と視界が揺れる。
セツナは男に殴られ、苦痛に顔を歪めた。
逃げたい、怖い、痛いのは嫌、辛い、怖い、怖い怖い怖いッ………!!!
……不意に、両親の面影が…彼等に重なる。
その途端胸の内から溢れてくる、「自分は悪い子だから酷い扱いを受けて当然」と云う真っ黒な感情。……ごめんなさい。私が悪いの。謝るから、言う事を聞くから、だから、もう痛くしないで…ッ!!

「今」のあまりの恐怖に、「家に帰りたくない」と云う意思が折れかける。帰った方が、いいのかな……帰るべき、なのかな………そうしたら、もう、痛い事、されないかな……。何度も殴っては蹴られを繰り返されるセツナは、ぐちゃぐちゃの感情の中でそう思った。

………その時、自身を襲う攻撃の手が、一瞬止まった。

セツナはゆっくりと、目を開ける。


「───あ?なんだこのガキ」


中心格の男の低い声が、そう告げた。
彼等はセツナから視線を外し、路地の入り口の方を見ていた。それに釣られて、セツナもまたそちらを見遣る。
……そこには、セツナと同じ年齢くらいの────体つきはセツナより小さいが────、ブロンドの髪を肩より少し短いところで切り揃え、横髪に青いリボンを揺らし、俯きながら此方に向かって歩みを進めてくる少女の姿があった。


「………め、だよ……」


ぼそり。少女は、か細い声でそう呟いた。


「あ?んだよ、聞こえねーっつの」

「……め。駄目………」

「ボソボソボソボソ、何言ってんのかわかんねーって───」


そこで少女は、決意したように顔を上げる。
彼女の瞳は、底無しの湖のような青だった。……だが、その瞳の奥で何かが燃えている。………闘志?敵意?違う────殺意だ。


「その子を殺しちゃ、駄目」

「んな……ッ!?」


彼女の声には、明確な殺意が篭っていた。男達も、そしてセツナもそれをびりびりと感じ取って息を呑み、怯む。「なんだよ、お前…!」と中心格の男が声を震わせながらたじろぐ。大の大人が子供相手に怯んでいるなど情けないかもしれない……だが、彼女の瞳の奥にひしめくどす黒い感情……それはまるで、怪物を相手にしたような衝撃。人智を超えた怪物を前にすれば、大人だろうが人間は皆等しく無力だ。……この少女を目の前にして男達が、そしてセツナが感じたのは…それに近しい感情だった。


「酷い事しないで。傷付けないで。これ以上……何もしないで」


その言葉を聞いて、セツナは「彼女は自分の味方になろうとしている」と云う事をここでようやく察する。男達もそれを察したようだった。
……ただのガキだ。どうせ単なる脅しだろう。馬鹿馬鹿しい……男達は、そう判断したようだった。鼻で少女の事を嗤いながら、ずかずかと彼女に歩み寄る。


「はッ……。黙って聞いてりゃ偉そうに……」

「何も、しないで───」


その瞬間、少女が吹き飛んだ。
中心格の男が、少女が言葉を最後まで紡ぐのを待たずに殴り飛ばしたのだ。がしゃん、ごとっ……不愉快な音を立てて少女はポリバケツに叩きつけられる。汚らしいゴミが散乱し、腐敗臭が辺りに漂った。セツナは顔を真っ青にしながら、逃げて、と精一杯叫んだ。
私のせいで、誰かが傷付いてしまう。
私のせいで、あの子を苦しめてしまう。
やめて、やめてよ、痛いのも苦しいのも嫌だけど、その子は何も関係無いでしょ…ッ!!!


「もう遅ぇよ」

「やっちまえー!」


セツナの近くに居た男達は、セツナを蹴りつけながらそう囃し立てた。無言でゴミ山から立ちあがろうとする少女。中心格の男は彼女の元へ足を進め、軽蔑したような目で見下ろした。


「邪魔する気ならテメェから殺すぞ」

「………そう。」


───少女を取り巻く雰囲気が、変わった。
どうやらそれに気付いているのは、セツナだけのようだった。……なに、この、忌まわしいような、気持ち悪いような「気」の流れは……。
まるで、汚泥を頭から被ったような不快でどす黒い「気」を感じるセツナ。これは、御光の一族に伝わる【霊力持ち】の力なのかもしれない。一般人には解らないものなのかもしれない。………邪気。恐らく、名付けるとすればそのような「気」───雰囲気、だ。

救いようのない屑って、居るんだね。

邪気と殺気を孕んだ声音で、少女は淡々と、残酷に告げる。
びり、と世界が揺らぐような衝撃と圧を、セツナは感じた。


「あぁ─────?ッ!?」


それに気付かない男は食ってかかるが、そこにはもう───少女の姿が無かった。
消えた?いや違う、後ろだ!!
男もそれを悟ってばっ、と振り返るが、少女は既に男の急所に狙いを定めていた。彼女は腰に手を遣ると、巻かれたホルダーからナイフをすらりと取り出す。それを一思いに雁首目掛けて振り下ろし─────ぴ、と血が吹き出した。
首が落ちる事は、無かった。
それでも、ひょっとしたらこのまま彼女を相手にしていると、自分達は、殺され────!


「ひ……ッ!!!」

「化け物だッ……!」


男達は顔色を青くして、その場から逃げ出した。唖然とするセツナ。少女は暫く警戒していたようだが、彼等の姿が完全に見えなくなるとふぅ、と小さく息をしてナイフをホルダーに納めた。
くるり、と踵を返して此方を向く少女。一部始終を見ていたセツナはびくりと身体を跳ねさせる。「大丈夫?」と彼女は声を掛けてくれたが、警戒を解く事が出来ないセツナは堅苦しい口調で「あ……う…うん……」と曖昧に返事をする。
少女はそこで、怖がらせてしまったと気付いたのだろうか……ぱっと笑顔を作って、此方に話しかけてくる。…どうやら、悪い人では無いようだった。


「酷い目に遭ったね…!痛いとこない?ほんとに大丈夫?」

「だ…大丈夫。え、っと…そっちこそ大丈夫?さっきゴミ山に叩きつけられて…」

「私、体が丈夫だからモーマンタイ!むしろ凝りが解れて良かった?みたいな?」


肩を大袈裟に回して見せて「凝ってましたわ〜」と朗らかに言う少女。張り詰めた気が解けると、たまらなくそれが可笑しく思えてきて、つい……失礼かもしれないが声を出して笑ってしまった。勿論、焦って「ごめん、つい笑っちゃった…!」と伝えておくが。


「……!」


少女は笑みを零すセツナを見て、目を見開いていた。
それを見て、セツナはふと気付く………先程まで感じていた少女の「邪気」が、みるみる消えていっている事に。瞳の奥で燃え盛っていた業火のような不穏な感情が、ちろちろと火力を弱める。くす、と少女の表情が和らいだ。


「……ふふ、あははははっ……!大丈夫、気にしてないよ!」

「よ、かったぁ……」


少女もセツナも、ころころと笑う。
セツナにとって「誰かと笑い合う」と云う事は、初めての経験だった。ああ、笑うって、こんなに楽しいんだ───。

……ひとしきり笑い合ったところで、少女が口を開いた。


「私、レナ。ちょっと色々あって、家を出てきてひとりなの。」


やはり、彼女も何らかの理由───それもセツナと同じで家に関係する複雑な事情に巻き込まれているようだ。色々あって……彼女はそう一言で纏めたが、その「色々」にはとても重く苦しい意味が込められている事をセツナは悟った。
彼女───レナは、「こんなに楽しい気持ちになったのは久しぶり。……ねぇ、名前を聞いてもいいかな?」と尋ねてきた。…答えない理由は無い。


「…私も、こんなに笑えたのは久しぶり。私は……私は、セツナ。たまに追っ手が家に連れ戻そうとしてくるけど、家に帰りたくなくて…。それで、こうやって逃げてるの。」

「セツナ、か……覚えた!…大変だね、あんなのに追いかけ回されたらたまったものじゃないよ…」

「ふふ、でもあんな風に追い返せたのは今回が初めて。……まぁ、見つかったこと自体今回が初めてなんだけど。レナって強いねぇ」

「んーーー……強い…。家で色々あっただけだよ。…それにしても、セツナも家の事で悩んでるんだね」

「お母さんとお父さんがちょっとこう…おかしい人でね。このままじゃ死んじゃうって思ったから逃げてきたの。でも、逃げたところでこんな場所じゃ、ろくに生きていけないだろうし……」

「そ、っか……そうだよね……」


レナもまた、この【裏社会】で生きていくのは難しいと理解しているようだった。……なら、私のこの【夢】を、共有するのはどうだろうか。一人では無理な事も、協力すれば叶えられるかもしれない。レナと一緒なら、もしかして……二人で救われる事が、できるかもしれない。


「……だからね、私……夢があるの」

「……夢?」


セツナはそうゆっくりと告げると、ばっ、と両手を広げて高らかに宣言した。


「私は、【表社会】に行く。こんな街、さっさと抜け出して、平和な街で平和に生きるの!」


叶わないかもしれない、と最近諦めていた。
出来ないだろう、と。
ただの夢物語だ、と。
そう、諦めていた。

だけど。

だけど、彼女の前でこう宣言して───セツナの胸に、再び「頑張りたい」という希望が芽生えてきた。
希望なんて、期待なんて、持っても裏切られるだけなのに……。
かつての全てに怯えている自分が、そうぼそりと呟く。
違うよ。
希望を持つ事、それは活力になる。
できると信じなければ、奇跡は起こらないんだ。
だから、もう一度自分の手札の全てを賭けよう。今度こそ諦めない。絶対に、絶対に【表社会】に行くんだ。

そして、それは、私一人では無く───。


「…それ、すごく、いい…」

「でしょ?……ねぇ、レナも行こう?」

「──え」


セツナは困惑するレナに手を差し出して誘った。
この奇跡を現実にするためには、セツナ一人では力不足だ。
けれど、レナが一緒なら。
そうであれば、きっと。

レナは幾度か視線を泳がせていたが……それでも、最後には決意を瞳に宿してセツナの手を取った。にこ、と微笑みかけるレナ。彼女の言葉にもまた、希望の響きが感じられた。


「うん、行く。2人で行こう───【表社会】に、必ず…!」


路地裏に、朝陽が差し込んだ。
本格的な冬が訪れようとしている。冷たい風が、心なしか心地良く感じた。
レナとセツナは固く手を繋いで、朝焼けの空を眺める。
未来を、絶対に掴もう。
そう、心に刻みつけて───。
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登場人物紹介

夜国 玲菜(やくに れな)


実験体A-11316-01


ブロンドのボブヘアに青いリボンと青い瞳の小柄な少女。

【発狂症】持ちにして、【ヤミカガミ】の適合者。妖の血を引いており、身体能力が高い。誰かを助けたいと強く思う反面、敵には容赦しないなど残酷。

白橋 雪奈(しらはし せつな)


実験体A-11316-02

 

紫がかった黒髪と黄金の瞳を持つ背の高い少女。類稀な「霊力」を秘めている。

神事【神憑り(かむがかり)の儀式】で繁栄を築いてきた「御光(みこう)家」の生まれ。 だが、儀式に出られるのは男児のみだったため一族から出来損ない呼ばわりされ虐待されて育つ。

白夜 雪音(びゃくや ゆきね)


実験体F-40556-E3


先端脳科学研究所で育ち、【クレナイ】に移ってきた実験体。

髪はもともとは黒かったが実験の影響で色が落ちてしまった。

実験を通して人間の限界まで身体能力を磨き上げられている。 おどおどしていて丁寧、優しい性格。

星野 有希(ほしの ゆき)


実験体L-90996-A4

 

学校でいじめを受けていた黒髪で眼鏡をかけた内気な少女。

レナの強さに勇気を貰っていじめっ子に反発したことでいじめが悪化し、屋上から身投げをする。その後【クレナイ】に拾われて二代目【ヤミカガミ】として完成する。だが、彼女は精神を破壊されており───。

サツキ


レナに助言を与える、銀の髪に紅の瞳を持つロリィタ服の少女。

対象の精神を汚染する「人を壊す力」を持ち、【クレナイ】の研究員と実験体に精神汚染を行っている【クレナイ】幹部にしてお姫様。

レナを特別視しているが、その理由とは…。

研究長:郷原雅人(さとはら まさと)


【Dolce】の職員にして能力開発研究所【クレナイ】の所長兼研究長。

人当たりがよく物腰柔らかで紳士的だが、倫理観がどうかしており、非人道的な人体実験だと理解した上で実験を行なっている狂人。
実は彼にも事情があって────。

ヒナ(緋那)


【感情の権化】───妖の1人にして、【死】そのものを司る、生きる厄災。

全てを奪い、失いながら永劫を生きる地獄に耐えられなくなり、禁呪を用いて命を絶った。だが、彼女の死が全ての物語の運命を歪める事となった───。

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