第1夜 1節
文字数 4,726文字
”
───システムを起動します。コード101、戦闘訓練アンドロイドを起動。システムメンテナンス……完了。十秒のカウントダウンの後、戦闘を開始します。十、九……
”
「所長ーー、始まりますよぉー?」
「嗚呼。…雪音、準備はいいか?」
ところどころがほつれている大きめなパーカーの上に皺になった白衣をだらしなく纏った研究員の一人が、戦闘訓練の開始のカウントダウンが始まったことを告げると、所長はアクリル板の向こうの実験室で屈伸をしている白髪の少年──雪音にスピーカー越しにそう問う。それに気づいた雪音は屈伸をやめ…アクリル板越しでは声が届かないために軽く手を挙げ、それからぺこりとお辞儀をして「OK」を伝えた。
“
五秒前……三、二、一───訓練を開始します。
”
そのアナウンスの直後、白い素体のアンドロイドが五体、センサーのついた模造品の武器を携えて一斉に雪音に襲いかかる。ナイフ、日本刀、槍、二丁拳銃、マシンガン。どれも「攻撃に触れたら管理室にデータが送られる」だけの偽物だ。当たったところで死ぬわけではない……勿論、これは実戦を想定した戦闘訓練なので当たらないに越したことはない、むしろ実戦で当たるということはそれ即ち死を意味するのだから、訓練だからといって無闇に攻撃に触れていいというわけではないのだが。
「───………。」
雪音はとんとん、と軽く二度ジャンプをして足慣らしをすると、残像を残してその場から消える。対象を目視できなくなったナイフのアンドロイドが一瞬思考処理を停止させ、脳内メモリで再計算を行う。それは、雪音を相手にするには致命的な時間のロス。アンドロイドに搭載された高性能なAIが処理を行うより早く背後に回り込んだ雪音は首元に手刀を入れあっという間に倒してしまう。
その後ろから狙いを定めて日本刀を、そして槍を振り下ろすアンドロイド二体。倒れた機体の持つ模造品の二刀流のナイフを奪い、両の手に携えて攻撃を受け止める雪音。単純な力勝負ではアンドロイドのほうが強い。だが、雪音は押し合う力をふと弱め、右手側のナイフを傾けると上手く力を流して日本刀持ちの体勢を崩す。その一瞬の隙に左手のナイフを手から離して右側の日本刀のアンドロイドの懐に入り込み、腹部にナイフを突き立てれば、日本刀持ちはシステムを停止させた。そのまま流れるように左手で持っていたナイフを空中でキャッチ。左側に居た槍持ちは押し合っていた力のバランスが崩れ機体を傾かせる。それを見逃さない雪音はくるりと空中で身を翻しながらアンドロイドに斬撃を与える。槍持ちは攻撃を食らったことを認識すると、そのシステムを停止し崩れ落ちた。
息を吐く暇は無く、左右から襲いかかる銃弾の雨。勿論これも弾のひとつひとつに所謂「当たり判定」があるだけのレプリカだ。それでも戦場では殺戮の兵器。当たってしまうと得点が引かれてしまうので当たらないように避けなければならない。宙返りを繰り返しながら銃弾を躱しながら動向を伺う。…どうやら、二丁拳銃持ちとマシンガン持ちは自分から動く気は無いらしい。それがわかると、雪音は敢えて中央で立ち止まる。動かない対象に向けて最大火力で撃ち出される銃弾───それが届く直前になって、雪音は空気に溶けるように姿を消す。直撃するはずだった銃弾は対象を見失いそのまま直線上に飛び……互いの攻撃で両サイドに鎮座していたアンドロイドは被弾。システムを停止させた。
着地した雪音は5体全てが動かなくなったことを確認すると、ちらりと管理室を見遣った。……ここまで、およそ十五秒。五体もの高性能AIを搭載した自立戦闘特化型のアンドロイドを、たった1人の少年が、わずか十五秒で鎮圧したのだ。
管理室にはおお…と息を漏らす者も居た。所長が鉄でできた扉を開き、雪音を実験室から開放して管理室に呼び出す。
「お疲れ様。どうだった、雪音。手応えは」
「ええ…と……。やはり僕は力が無いようです。押し合いになると間違いなく負けます…」
「それでも、自分の弱点を上手く克服した立ち回りが出来ているよ。今回のポイントは+1051p、前回より54p向上している……脳波も安定しているね。」
「有難うございます…。」
感謝の言葉を述べる割には、雪音の表情は明るくは無かった。視線を泳がせる彼の瞳には不安の色がくっきりと映っている。それに気付いた所長ははて、と首を傾げ……考えるより聞いた方が早いと本人に直接聞いてみることにした。
「どうした雪音、何か悩み事でも?」
「え……いや……その……。……」
「君の悩み事というのは我々からしても放置できないんだ。…話してくれるか?」
「………え、っと…。……僕は…」
…僕はいずれ、戦場で戦うことになるのでしょうか───【軍事兵器】として。
雪音は震える声で、そう言った。しん、とあたりに沈黙が訪れる。……が、その沈黙は五秒も持たなかった。所長が微笑みながら、雪音の頭にぽんと手を置く。
「…我々の研究は『脳に特別な実験をして脳波を変えれば、超能力者と呼ばれるような人材を人工的に作り出せるのではないか』という机上の空論から生まれたもの。空を飛んだり物を遠隔操作できたり…人間の脳は自然と深く関わっているから、自然のオカルト的な力を利用できるようになるのではないか、という考えのね。そこに本来、兵器を生み出すという目的は設定されていなかったんだよ。……ただ、君が得た力を最大限に活用できるのが戦闘の場だった、それだけ。ゆくゆくは、災害救助なんかに役立つ人材になってくれたら、そう思っているよ。君を兵器だなんて呼ばないし呼ばせやしないさ……僕達がついている限りはね」
「……は、い……」
少し安心したのか、ほっと胸を撫で下ろし、頭を撫でられて目を細める雪音。その姿は、父に褒められて喜ぶ、何処にでもいる少年のようで───。
……雪音。彼がそう呼ばれる所以は彼の透けるような肌の色からだった。両親の顔も覚えていないくらい幼い頃に路地に捨てられ、命を落としかけていたところをこの「先端脳科学研究所」に拾われ、実験のデータ収集と治験などを行う代わりに生活の面倒を見てもらって生きてきた。薬品や実験で幾度となく脳を弄った影響か、濡れたような艶やかな黒髪はすっかり真っ白に変わってしまったが、その白い髪色が「雪音」という呼び名により説得力を持たせていた。
雪音にとっては、物心ついた頃から被験体として彼等研究員の実験に協力していたため、人体実験を行うことは当たり前の光景。そこに疑問を抱いたことは無かった。傍から見れば数奇な彼の運命だが、彼自身は別に不幸に思うことはない。父のような存在である所長も居る。家族のような研究員達も、実家のような研究所も、温かな食事も、寝床もある……これからも、ずっとそうなのだろう、そう、思っていた───。
……だが、彼を待ち受ける運命は、そんな“日常の持続”を許さなかった。
それは、初夏のとある夜の事だった。
シャワーを済ませた雪音はシャワールームから廊下に出て、中央管理室の向かいにある洗面台に、髪を乾かすべく向かっていた。鉄格子の嵌まった窓越しに、白い月明かりが見える。換気の為に数センチ開かれた窓から初夏の薫りと涼しい風…そして、蛙の鳴き声が聞こえている。
───この研究所は、被験体に対して待遇が良い。此処は【表社会】と【裏社会】の狭間に位置する研究施設……それは即ち、【表社会】にも身を置ける存在であるということ。人間の脳をあれこれ弄って研究している、悪く言えば「人体実験を行っている」と云う点に限っては完全な【表社会】では受け入れられないのだろう。しかし、此処の職員は皆、「被検体の体調優先」を遵守している。食事も雇われた栄養士が作るバランスの良いメニューが提供されるし、入浴も中央管理室で予約すれば九時から二十一時までの間ならいつでも自由に出来る。外出は基本的に出来ないが、施設の中庭に出る事は可能だ──そう、此処の研究所は被験体の施設内自由行動が許されているのだ。此処で実験を受けている被験体は、【表社会】、或いは【裏社会】で「長期間の被験バイト」の広告に申し込み、きちんと説明を受けて了承した者達が九割以上を占めている。その為、「ここから脱出しよう」だとか「反乱を起こそう」だとか、そういう考えを持つ者は極めて稀だ。雪音は上記の例からは漏れているが……実家のようなこの研究施設から逃げ出そう、などと云う事は考えた事も無い。
そんなわけで、肩にバスタオルを掛けた状態で窓越しに夜空を眺めながら洗面台に向かっていた雪音だったが……ガラス窓で囲まれている中央管理室で電話が鳴った音がしたので、そちらに意識を向ける。所長が二コール目で電話を取り、「はい、此方は先端脳科学研究所……」と定型文を読み上げる。……こんな夜でも仕事の電話か。研究員達は忙しいな……などと考えて再び歩き出そうとしたところで、電話していた所長が「───え、雪音を、ですか?」と自分の名を口にしたので、再びそちらを見る。中央管理室でざわめきが起こる。雪音の胸も、心無しかざわついていた。
「はい……はい……わかり、ました……」と向こうの条件を呑む所長。どうやら、電話の相手は此方より上の立場の者らしい。その後も色々と話をして、電話は十分程で終了した。……気付けば、電話をしている所長の姿を最初から最後まで眺めていた。髪は夜風に吹かれて半分乾いていた。所長は机の上にあれこれと資料を出して何か他の研究員達と相談している。不意に顔を上げる所長。彼と、雪音の目が合った。
所長は中央管理室から飛び出て、雪音のもとにやって来た。顔が、少し汗ばんでいる。
「……雪音」
「所長……何か、あったんですか…?」
「……嗚呼…いや、はは……何かあったかと云うと……うん…そうだね、あった。」
「…それは、僕に関する事ですか…?」
「…聞いていたんだね。そう……君に、関する事だ。実は───」
───明日から、君は別の研究所に異動してもらう事になったんだ。
自身もまだ少し混乱している様子で、所長はそう言った。どうやら、上の者から雪音を異動させるよう指示があったらしかった。突然の話に、雪音も少し混乱する。
ずっと、此処で育ってきた。此処は実家のような所。当たり前の日常。…それが、急に終わりを迎える事になろうとは───。
「能力開発研究所、という実験施設のようでね。上が口が重くて、薬品投与を主に行なって能力向上・開発に関する事を研究している施設……とまでしか教えてくれなかったんだ。【表社会】ではルブルム製薬……製薬会社として起業していて…まぁ、【表社会】では少し名を聞いたことがある程度の企業だが…【裏社会】ではかなり有名な企業らしい。…【裏】で抱えている被験体の数も、此処とは比べ物にならないくらい多いんだとか。そこのお偉いさんが、雪音のデータを見て大層気に入ったらしくてね……是非、此方に来てくれないか、と…。」
是非此方に来てくれないか……。
…それは、提案のように見えて実は一切の選択の自由が無い強要だ。雪音は大人の事情に詳しく無いが、「いえ、それは無理です」と言える程の力がこの研究所には無い、と云うことくらいは理解できる。
……。
突然の別れを嘆いても仕方ない。自分の異動は、もう決まってしまった事のようなのだから…。
それを悟った雪音は笑顔を作り、大丈夫ですよ…そう伝えた。所長はほっとしたような顔で、だがしかし哀しみの色を浮かべてそうか、有難う……とだけ言うと、そっと雪音の頭を撫でた。それ以上は、お互い何も話さなかった。静寂の中、ゆっくりと夜が更けてゆく。