第2夜 7節
文字数 3,459文字
【懺悔】、【お仕置き】、【懺悔】、【お仕置き】……その繰り返しの毎日。
【裏社会】の子供達が皆学校に通えているかと言われると何とも言えないが……ともかく、そのような毎日で学校に行かせて貰える筈も無い。この地域の子供達と自身を比べる以前に、そもそもセツナは両親と本家の大人達以外の人間をこの世界で知らない。知識だってろくに有りやしない……そのくせ両親がぶつけてくるような、汚らしい罵詈暴言だけはよく知っていた。最も、それを言われると苦しくて辛いと云う事も知っているのでセツナがそれらを口にする事は無いのだが。
この家庭が狂っているのは本能で分かっているが、この家以外の事を知らないセツナからすれば、愛されない事も暴力を振るわれる事も当たり前。……それでも、「愛されたい」と希望を捨てられないのは、どうして。
……少し、力を使い過ぎたらしい。祈祷室でうずくまっていたら、すっかり夜が更けていた。夜が更けたといっても、両親が寝付くまでは起きていなければ「寝るなんて甘えるな」と酷い目に遭わされる可能性があるから眠れないのだが。
けれど……少し、疲れた。
セツナは神や精霊、妖などでは無くただの人間だ。ただの子供だ。霊力を消費すれば必然的に体に負荷がかかる。神々と交信するだけの【神憑りの儀式】ですら疲れると噂で訊くのに、霊力をソースに自然物の変換を行うなどの大それた事をやったのだから疲れを感じるのも至極当然だろう。
早く両親が寝てくれないかな…などと思案してリビングの方角をちらりと一瞥する。……が、こんな日に限って両親が眠りにつく気配はなかなか無い。深夜番組を放送するラジオの音声がセツナの居る祈祷室まで聞こえていた。
…特にする事が無いので両親の会話に耳を澄ましてみる。
「───を、──す方法って────?」
「───、自────、或いは……」
「……──を、──してみるって事?」
「──、それくらいしか───」
………。
何の相談をしているのだろう。ラジオの音に邪魔されて上手く聞き取れない…。
そうセツナが聞き耳を立てているうちに、ガタンと椅子を動かす音がして両親の会話が止まった。……ようやく、眠ってくれる気になったのだろうか。
……その時、悪寒がした。
それは、どくんと心臓が波打つ違和感。その違和感は、両親が席を立ったのが、眠るためでは無いのだとセツナに告げていた。
───セツナを、殺す方法って───?
そうだ。母がさっき言っていたのは、そんな文章だ。
御光家は穢れを嫌う。それは神々や精霊の力を借りる一族で、妖は負の感情を嫌うからで───。……でも。本家の大人達だって、私に酷く当たってきたじゃないか。両親の虐待の事実も、ひた隠しにされてきたじゃないか。それらの「穢れ」はどうやって処理されてきた?どうやって彼等が穢れていないと証明されてきた?思い出せ、思い出せセツナ。
………それは、「私が悪い事をしたから」とされてきたから、じゃないか……?
そう、私と云う呪いの子が生まれてきたから。私が悪事を働いたから。私が勝手に自分を傷付けたから……そうやって処理されてきたのではなかっただろうか。……なら、両親が手を汚さず、誰も穢れを被らず、私を殺す方法は───?
ばたん。
祈祷室の扉が、開かれる。
反射的にびくりと身体が跳ねる。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには此方を睨みつける母と、目線を逸らす父の姿があった。ああ、これ、私の勘が間違っていなければ───。
「───セツナ。」
母がそう私に言い聞かせるようにゆっくりと、ねっとりと話し掛けるときは、大抵良くない事を言おうとしている時だ。だから私は初冬なのにも関わらず背中を冷や汗で濡らしながら喉が渇いていくような感覚を味わっていた。
「アンタは穢れている。アンタは、私達の家の恥……生きているだけで本家からの信頼を奪う、地雷原。爆弾。危険な忌み子。だから……生きててもらっちゃ困るの。」
母が父を見遣る。
……父は、母よりは少しだけ優しい人だった。優しい、と云っても直接暴力を振るわないだけで本心は母と同じように私の事を忌んでいるのに変わり無いのだろうが。……それでも、私にとっては「優しい人」だった。
彼は、幾度か視線を彷徨わせ……そして、セツナの前にしゃがみ込んで───カッターナイフを、その小さな手に握らせた。
「おと、うさん……これ……」
震える声でそれを見つめ、次いで父の顔を見る。
父は視線を合わせてはくれなかった。
そして、残酷にこう告げる。
「セツナ、申し訳ないと思っている。だがもう、私達が救われるにはこうするしか無いんだ……どうか、自分で命を絶ってくれ。」
「それ、って、どう、いう……」
どういう、なんて愚問だ。カッターナイフを渡され、命を絶てとはっきり言われたのだ。疑う余地も無い……だが、嘘だと思いたいのと思考が混乱しているために、父のその言葉が言葉として理解出来なくて……だからどう云う事、と尋ねる。母はチッ……と舌打ちをして苛ついたように捲し立てた。
「だから死ねって言ってるのよ!そのカッターで腕なり首なり切って!アンタが!自分で!……そうしないといけないのよアンタは!」
「や…ッ…そ、んな……」
死ね?
死ななきゃいけないの?
今、この場で?
私が、他でも無い、自分の手で?
………嫌だ。
怖い。苦しい。痛い。悲しい。辛い。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
……その言葉は、意識せずとも口をついて出ていた。
もう、そこからは…両親に何をされるか分からないなどと余計な事を考える余裕も無く、ただただ喚き散らすように泣き叫んだ。
「───嫌だッッ!!やだ、嫌だよぉッ!痛いの、怖いの、やだ、そんなのしたくない、やだ怖い、嫌だ嫌だ嫌だッ!!!!」
わっと泣き崩れるセツナ。
…だが、そんな事で「そう、じゃあやめようか、ごめんなさいね」などとはならない。そんなのは分かりきっている。だが、それでも。それでも、【それ】だけは全力で拒否しなくてはならない…!
「五月蝿いわねこのッ───!」と母親が頬を叩く。それがあまりに痛くて、怖くて、悲しくて、父に助けを求めても、彼は一度も視線を合わせてくれなかった。
次第にその喧騒はヒートアップしていく。「早く死になさいよッッ!!」と何度も、何度も何度も何度も何度も身体中を殴りつける母親。それを眺めながら傍観者を気取る父親。そして、身を捩りながら嫌だと泣き喚くセツナ……。
……それは、幾度目かの母の殴打の瞬間だった。
セツナはわぁぁぁ、と叫びながら、迫り来る母の手を追い払おうと手を動かし───
───その手に握られていたカッターナイフが、母親の目元をスパ、と切り裂いた。
「きゃああああぁぁぁぁあぁぁあぁああああああぁぁぁあぁぁぁあああッッッ!!!???」
「んなッ…!?な、なぁ、大丈夫か……!?」
「痛いッ!痛い痛い痛い痛い痛い……ッ!!セツナぁぁあああぁぁぁあぁぁあぁぁあッッッ!!!」
「……ッ!!」
駆け寄る父親、後退る母親……そして、どうすればいいか分からなくなってその場に釘付けにされるセツナ。
そのセツナの腫れた頬を、夜風が撫でた。
横を一瞥する。窓が、数センチ開いていた。
………そうか。
こんな家にずっと居ようとする私が、おかしかったんだ………。
ちらりと両親の方を見る。両親は今、少しだけセツナから注意が逸れていた。……なら、チャンスは今しかない!
セツナはだっ、と走り出した。
数秒遅れて、両親が気付き追い掛けてくる。
だが、そんなのはもう、遅かった。
──パリン!
セツナは窓ガラスを蹴破って、冬の外界へ躍り出た。
走れ。走れ走れ走れ。
逃げろ逃げろ逃げろ。
私は、こんなところで死なない。
こんなところで終わらない。
忌み子なら、悪い子なら、呪われた子なら。
そうお前達が言うなら、本物の悪い子になってやる。
私は、絶対に死なない。
終わってなど、たまるものか……!
………気付けば、冷たい路地裏に居た。
壁に寄り掛かり、息を落ち着ける。……そういえば、靴を履いてくるのを忘れた。お金だって用意していない。何にも用意のない、何にも覚悟の無い、突如始まったひとりでの生活。
…それでも、あの家で死ぬよりはマシだ。
空を見上げる。
三日月が、青い光を放ちながら輝いていた。
霜月の空、一面の星明かり。
かくして、セツナの逃亡生活が幕を開けた。