第3夜 2節
文字数 5,506文字
セツナの追っ手との戦いを終えた後、一度「家」に戻って怪我の手当をした二人は、荷物を軽くまとめて直ぐに出発した。……此処は【裏社会】。いつ強盗に金品を奪われるか分からない。【表社会】に行く決断をしたなら───行動は早ければ早いほどいいのだ。
着ている服と、肌着と、全財産と、飲み水をペットボトル一本、絆創膏、包帯……持ち物はそのくらいだった。身分証明書などは持っていない。そこは説明で何とかならないだろうか。………【表社会】と【裏社会】は同じ国だ。海外渡航にはパスポートが必要だろうが、国内移動、しかも列車なら切符だけで十分な筈だ───。
太陽は南中し、外はぽかぽかと暖かかった。路地から表通りに出た2人は、駅に向けて足を進める。
駅に着いたのは、ちかちかと点灯する古い電光掲示板が十三時十五分を示した頃だった。列車の出発は十五時ちょうど。余裕を持って到着できたと云えるだろう。【裏社会】と【表社会】を繋ぐ電車は一日中一本だ。早く到着するのに越した事は無い。
古びた駅に、切符を購入する機械などは導入されていない。二人は窓口に向かい、セツナが「あの、」と声をかけた。十秒の沈黙の後、「ああ、どうした」としわがれた男性の声が返ってくる。セツナは電車のチラシを窓口に提示しながら話し掛ける。
「【表社会】への電車の切符、を…買いたいんです。二人分。……今日の十五時に出発、しますよね……それの…」
「……一人五万円……払えるんかいね」
「あ、え、は、はいッ……払えます」
そう言って十万円もの大金を窓口に提示するセツナ。……窓口のアクリル板には広告や時刻表が所狭しと貼られていて、向こうにいるであろう駅員の顔が見えない。それが、堪らなく不気味だった。
窓口の向こうの老人は、お金を受け取ると「一万…二万……」と声に出しながら数え始める。……数え間違えていて足りなかったらどうしよう。セツナの背に冷や汗が流れた。
「……ん、足りとる。まいど……」
「よ、よかった……」
「これが切符。それで、こっちが関所に見せる証明書。……知っとるとは思うが、【表社会】に行くには電車だろうと関所を通らにゃいかん。そこでこれを見せぇ。」
「は、はい、有難うござ─────」
セツナが切符と証明書を受け取ろうとした瞬間、駅員の老人は……その切手と証明書を引っ込めた。……彼は一心拍置いて─────「あんたら、犯罪とかには関与しとらんだろうな」と低い声で言った。びく。セツナの横で、レナの身体が小さく跳ねる。
………レナは、生きるために、お金を稼ぐために、依頼をこなすために……そしてセツナを守るために、人を殺めている。それは世間一般的に云う殺人犯。人殺し。……それを自覚しているから…彼女は、【表社会】に行く事を諦めようとしていた。
けれど。……セツナは知っている。レナは、自分の事よりも人の事を優先する、心優しい少女である事を。誰よりも苦しんでいながら、他者を思いやれる強かさと温かさを持っている少女だと云う事を。そんな彼女ひとりが幸せになれない世界だなんて……それは、絶対に間違っている。
「……はい、関与していません。レナの潔白は…ずっとそばに居た私が証明できます」
「!!」
セツナが凛とした声で迷い無くそう言うので、レナは顔を上げてセツナの方を見た。広告や時刻表で向こうの人の顔が見えないのは駅員も同じ。セツナは顔を見られていない事を利用して、レナにそっと耳打ちした。
「……私達、悪い子だもん。嘘だって、吐いていいんだよ」
そう言ってにっと笑うセツナ。……全く、本当に、悪い事を考えるなぁ。
決意を固めたレナもにっ、と不敵に笑い返してみせると、駅員の老人に「はい。…そして勿論、セツナも関与していません。私が証明します」と告げた。駅員はそうかい、と相変わらずしわがれた声で納得すると、引っ込めた切符と証明書をセツナの手に握らせる。
……存外、ちょろいな。目を見合わせ、くしゃっと笑う二人。
セツナはレナに切符と証明書の片方を手渡し、「行こう」と誘った───。
列車は、十五時ちょうどに駅のホームに入ってきた。何処にでもありそうな普通列車。【表社会】に行きます、と言われていなければ通勤用のそれと見間違えてしまいそうだ。
自動改札機の無い駅だったので、改札口の窓口に常駐している駅員に切符を見せて印を押してもらう。またも「犯罪には関与していないか」と訊かれたが、二度目はすらすらと嘘が吐けてしまった。改札を通った二人は「私達、ワルだねぇ」と笑い合いながら待ち、到着した電車に乗り込んだ。
電車の中で車掌の男性に切符を見せた後は、流れる景色を見るだけだ。一人五万円と云う大金がかかる電車なうえに、【表社会】に行こうと決心できる者は少ない。三両編成のこの列車に乗車していたのは、レナとセツナだけだった。
スラム街とビル群、石造りのヨーロピアンな建造物をごちゃ混ぜにしたような灰色な街を抜け、トンネルを幾つか潜ると、急に景色が明るくなったような気がした。【裏社会】と【表社会】の狭間に差し掛かっている。背の低い建物が並んでいるとある街の駅で、電車は一時停車する────関所だ。
正義感の強そうな男達が数人電車の中に入ってきたので、レナもセツナも緊張してしまう。彼等は二人を見つけると、関所を通るための証明書を提示するよう指示した。言われた通り証明書を出せば、そこに印を押し、本日三度目である尋問が行われた。自分達は潔白である事、【裏社会】ではとても生活できないため【表社会】に行きたい事などを一生懸命話せば、男達は話し合いの末「白である」と結論付けて関所の通行を認めてくれた。……本当は「黒」、なんだけどな……。レナは少し良心を痛めながら「有難うございます」とお辞儀した。
関所を通ってしまえば、後は本当に待つだけで。
景色は、いつの間にか白と黒の無機質な街並みから色鮮やかな世界へ変化を遂げていた。山々が柔らかな萌葱色をしていて、海が太陽の光を反射して煌めいていて、ビルの窓は青く、掲げられた看板は鮮やかで、それらはとても綺麗で───。
レナとセツナはそれをずっと眺めていた。
本当に、本当に【表社会】に来られたんだ……!
特急電車でないこの車両はゆっくりと景色を移り変わらせながら進み……目的の【表社会】の街に到着したのは、夕陽が水平線の彼方に沈んだ頃だった。駅に降りる。その駅は【表社会】の駅にしては人通りが少なく───とは云えレナとセツナにとっては多かったが───、閑散としていた。改札口で切符を機械に吸い込ませた二人は人の流れに沿うように歩き、駅の外に出る。
夕暮れの街を彩るネオンの灯り。整備された歩道を一定感覚で淡く照らす街灯。歩道の端には街路樹と花が植えられていて、通りすがる人は皆笑顔だった。……ああ、これが、【表社会】。善人達の住まう、「誰にも傷つけられない世界」……!
レナは首が痛くなるほど高いビル群を見上げ、感嘆の息を漏らし、呟いた。
「す……すごいね……キラキラしてる……魔法の世界みたい」
「本当に……【裏社会】と同じ世界に存在してる街とは、思えない……」
「ね、ねぇセツナ…夢じゃ、無いよね…?目が覚めたら路地裏でした、なんて事無いよね…?」
「ほっぺつねってみる?……私も、信じられてない」
二人でお互いの頬をぎゅうとつねる。……痛かった。どうやら、本当に現実らしい。
あまりに素敵な世界。この駅前の景色だけで一日を過ごせてしまいそうだ────。
………そんな事を考えていたら、本当に夜が更けてしまった。
「ゴミが落ちてない!」「落書きがされてない!」「死体が転がってない!」「道路広過ぎ!」「歩く専用の道なんてあるの!?」……などと駅前ではしゃいでいたら、些か疲れた。
遊歩道を道なりに歩いて辿り着いた、川の河口近くのベンチに座る。遥か向こうの橋を照らす灯りが、まるでダイヤモンドのネックレスのように見えた。橋の向こうの海には、汽笛を上げながら進む大型船の姿がある。………海を見るのは、レナもセツナも人生で初めてだった。波が押し寄せては引いてを繰り返し、たぷたぷと音を鳴らす河口は、愉快なコンサートのようだ。
はぁー……と息を漏らしながらぐ、と背伸びするレナ。セツナは一つ欠伸をして、「此処で寝ても殺されたりしないかな?」と言った。レナはくすくすと笑う。
「周りの人に白い目で見られちゃうよ。寝るならもっと人通りの少ない所探さなきゃ」
「あはは、それもそっか。……にしても、本当にすごい。第二の人生、みたい」
「お年寄りみたいな事言うなぁ。……でも、本当にそうだね、此処に居る自分は…今朝までの自分とは、違うみたい」
「今朝までとは、違う自分……か……」
セツナはそう感慨深そうに繰り返すと、ぼんやりと橋を見遣った。そして、「そうだ!」と立ち上がる。レナはこてんと首を傾げた。
「ねぇレナ、折角【表社会】に来たんだもん───新しい自分にならない?」
「新しい…自分?」
「そう。具体的には……名前を変えるとか!…だって嫌でしょ、【裏社会】と同じ名前使うの。私も御光を名乗りたくないし」
「名前、名前…かぁ………いいかも。…それ、いいかも!」
セツナはどうしようかなぁ……と言いながら水辺の手すりの方まで歩き、「あ!」と弾んだ声で言ってベンチまで戻ってきた。レナはうーん…と唸りながら夜空を見上げ……「決めた!」と立ち上がった。
「レナ、決まった?」
「決まったよ。セツナは?」
「私も決まった!私から発表するね────私は、白橋雪奈。白い橋に雪に『ねがい』って意味の奈で、しらはしせつな!」
そう言うと、セツナは恭しく礼をしてみせる。その背後に、名字の由来である橋がきらりと輝きを放った。レナは「素敵な名前」と拍手を贈る。
「有難う。……レナはどうしたの?」
「私は───夜国、玲菜。今現在のまんまだけど、夜に来た国に、『音』の玲に菜っ葉の菜で、やくにれな。……変じゃ、ないかな…?」
「全然!すごくいい名前だと思うよ」
「えへへ、有難う……!」
新たな門出を迎えた二人は、親友の名前を────そして、自分自身の新たな名前を噛み締めて、再びベンチに座った。側に立っている街灯に、蛾が集まっている。……その姿さえ、なんだか愛しかった。………少し、眠くなってきたな……そういえばこれから、どう…しようかな……。二人はそう朧げに考えながら、目を擦り────
「ちょっと、こんな時間に子供が外出してはいけませんよ」
不意にそんな声が前から聞こえてきた。……誰に言ってるの?ひょっとして、私達に?
慌てて閉じかけた目を開くと、そこには腕組みをしながら立っているスーツ姿の女性が居た。……歳は20代後半、と云ったところだろう。……誰?
不審に思うより先に、レナはそれを口に出していた。
「え、っと……誰、ですか…?」
「通りすがりのお節介なおばさんです。……二回目だけれど、子供がこんな時間に外出してはいけません。警察のお世話になっちゃうわよ?」
「け、警察……!」
レナは慌てて姿勢をしゃんと伸ばす。……姿勢を伸ばしたところで何の解決にもならないのだが。
…そうだ。失念していた。【表社会】では警察がちゃんと機能しているのだ。それに、法律も条例もちゃんと定められていて、破ればそれなりの罰則があると聞いている。どうやら、【表社会】では子供が夜分遅くに外出するのはルール違反のようだ。どうする?……どうすると云ったって、帰る場所なんて無い……。
目の前の女性は、はぁ、と溜息を吐くとベンチに座り込んでいるレナ達に目線を合わせて問い掛けた。
「家は何処?お父さんとお母さんは?携帯は持ってる?連絡取れる?」
「え、っと………」
レナの瞳が揺れる。……お父さんとお母さんは殺してしまいました、なんて口が裂けても言えない。何とかして誤魔化さなきゃ。どうしよう……!
「……私達、家がなくて。」
「!セツナ……!」
セツナがレナの代わりに口を開いた。女性はそれを聞くときょとん、とした顔をする。
……家が無い?孤児?この街で?そうだとしたら珍しい……けれど、それなら孤児院に居る筈。この歳まで帰る家が無いなんて考え難い。それに、二人とも…よく見ればぼろぼろの服を着ている。入浴だってろくに出来ていなさそうだ。栄養状態も悪い………。
そこまで考えて、女性はある一つの仮定に辿り着く。彼女は恐る恐る尋ねた───。
「───ひょっとして、【裏社会】から来た?」
「!!!」
刹那、目の前の少女達の表情が険しくなる。どうやら、間違っていなかったようだ。……それにしても、本当に【裏社会】での生活は過酷らしい。……こんな少女達が、不幸のどん底に突き落とされるくらいには……。
【裏社会】と云う単語が飛び出て、レナとセツナは女性への警戒を強めた。……もしかして、【裏社会】に連れ戻そうと云うの?私達の敵?
……だが、目の前の彼女から敵意は感じられなかった。女性は暫く悩んだ後、決心したようにこう言った。
「……帰る場所が無いのね?【裏社会】にはもう、戻りたく無いでしょう」
「───え」
「ごめんなさい、驚かせたわね。……実は、私の親戚が、【裏社会】と【表社会】を繋ぐ列車を作るって云う計画を進めた鉄道会社の社員なの」
それは、驚きの発言だった。
自分達が乗った列車を考案したのは、【裏社会】の人間だけでは無かったのだ。
彼女はよいしょ、と立ち上がると、一つ息を吐いてレナとセツナに向き合った。
「着いていらっしゃい。あなた達に【表社会】での暮らし方を、教えてあげる」
そう、言いながら。