第3夜 16節
文字数 4,310文字
十月にもなると日没は早く、もう本格的な夜が訪れようとしている。夜風がぱたぱたと羽織った黒い上着を揺らして、長い髪をたなびかせる。空には十五夜の満月が黄金の光を此方に向けていた。まるで、自分の為に用意された舞台。星々と満月のスポットライトを浴びて、私は───私達は、今からとても素晴らしい遊びをする。
学校の屋上に立った宮下鈴香は口角を持ち上げ、そして深呼吸した。田西沙羅は月を仰ぎ、岡本亜澄はフェンスに身体を預け、加納雄介はスマホをいじり、町田傑は靴紐を結び直していた。
その時…キィ、と軋んだ音がして、その場にもう一人の人物が現れる。その人物はゆっくりと暗がりの特設舞台へ足を進めた。
「遅いじゃない────ユキ」
鈴香がそう言って嗤う。ユキは、幾度か目線を泳がせてから……決意を固めて応えた。
「……こんな時間に学校に呼び出して…しかも屋上に……何の、用ですか」
一時間目の休み時間、ユキの机には『今日の夜六時半、学校の屋上に一人で来い。誰かに話したら許さないから』と書かれた紙が入っていた。……今日の日直は鈴香だった。学校の鍵をわざと返し忘れたふりをして持ち帰り、夕方開けたのだろう。
こんな時間に、そしてこんな場所に呼び出すなんて、何かあるに違いない。
ユキの頬に冷や汗が伝う。
……鈴香はくすりと笑うと、「ちょっとねー」と言ってから……声を低くして言った。
「あのレナって奴、邪魔なんだよね。あたし達の事すぐ邪魔してくるんだもん。だから、『絶対に』アイツが居ない時にやってやろうと思って。……最近ね、あたしめちゃくちゃイライラしてんの。何でだか分かる?」
それに続いて、沙羅と亜澄がユキを罵る。
「ユキさ、最近調子乗ってない?めちゃくちゃ弱いゴミユキのくせにさ、レナ達の甘い蜜吸って自分まで強くなった気?それで反抗してきたんだったらマジでウケる。言っとくけど、アンタ死ぬほど弱いからね。勘違いすんなよ」
「大人しくからかわれてたら何も変化せんかったのになぁ、変な真似するから痛い目見るんよ?馬鹿なんやなぁ。馬鹿なくせに私賢いですみたいな?弱いくせに強いですみたいな?私って悲劇のヒロインですみたいな?ユキのそんなところがムカつくんよ」
だからさ……鈴香はそう言って嗤った。何かをユキの方に投げる。
からん、とそれはユキの足元に落ちる────それは新品の、カッターナイフだった。
「だからさ、ユキ────責任取って、死んでくれない?」
「────え、?」
「え?じゃなくてさ。ちゃんと看取ってあげるから死んでよ。死ねよ。死ねって言ってんだよッ!!!」
「ッ!?」
だんだんと語彙が強くなって終いには声を荒げる鈴香に圧倒されて、ユキはびくりと身体をこわばらせた。……死ね、って…?このカッターナイフで、死ねって言うの…?私が?此処で?どうして…ッ!?
怖くて怖くて、逆らうのも怖くて、死ぬのも怖くて、なのに言う事を聞くしか打開策が無い気がして、それもものすごく怖くて………じわりと涙が出てきた。
そうやってユキが泣いている姿を見て……鈴香は更にイライラする。
「べそべそべそべそ、泣いてんじゃねーよ……そう云うところが余計ムカつくんだよ……ほら死ねよッ!!お前に生きてる価値なんてねぇんだよ!」
「そ、ん…なッ……」
雄介と傑は「死ーね、死ーね」と手拍子をしながら囃し立てた。亜澄はそれを見てくすくすと嗤う。……味方が、誰も居ない。あれ……私、本当に……誰からも、必要と、されていないのかな───。
へたり、とその場にしゃがみ込んでしまうユキ。足元のカッターナイフに視線を落として俯いた彼女に、沙羅が声をかけた。
「まぁ、ね……カッターってのはやりすぎだと思うけどね。痛いのヤだろうし」
「田、西さ……」
縋るように沙羅を見上げる。味方になってくれるのかと淡い期待を込めて。
───けれど、その思いが届く事は無かった。
沙羅は、フェンスの方をすっと指差して微笑んだのだ。
「飛び降りはどう?そっちの方が、痛みなく逝けると思うよ」
ユキは悟った。
ああ、此処にいる人は全員、私に消えて欲しいと、心から思っているんだ。
私を必要とする人なんて───生きていて欲しいと願う人なんて、居ないんだ。
そんな事ないよ。
お父さんとお母さんが…それからレナちゃんやセツナちゃんが居るよ。
誰からも必要とされていないなんて、そんな事────!
……そう云う希望を抱こうとしたユキの心を読むように、亜澄が言った。
「親御さんも可哀想になぁ、こんな出来損ないが居たら負担にしかならんやろうにな」
「え……」
「俺知ってるぜ、ユキの親ってなかなか帰って来ねぇんだろ?それってアレじゃん、ユキの顔見たくないって事だよな」
雄介が亜澄に続いて、二人はくすくすと笑った。
お父さんが…?お母さん、が…?私を……負担に………?
……ぱりん。
心の中の支えだった、両親が粉々に割れて砕けた。
………そう、なのかな。お父さんもお母さんも、私がこんなに弱くて惨めで、私の事が嫌いだから…帰って来ないのかな。だって、帰って来られなくてごめんねなんて一度も言われた事が無い。食事だって、月のはじめにお金を渡されて「何とかして」と言われるだけで、そこに愛は無い、気がする。……そう思うと、目の前で嗤うクラスメイト達の発言が本当のように思えてきて。……こんな私でごめんなさい、と…両親に対する罪悪感が膨れ上がってきた。
続けて、沙羅と傑が言う。
「レナとセツナだってそうだよね。仲良くしてくれてるって思うかもしれないけど、あれ絶対内心は面倒臭いって思ってるよ。だってユキ、めちゃくちゃめんどい人間だもん。本当は友達辞めたいと思うよ、私だったら即辞めてるけど……レナとセツナは頭おかしいくらいお人好しだもんね、かわいそ」
「ユキが死なないと解放されないよな、あの二人。くっそ可哀想な役回りだよな」
「…っ!!」
ぱりん。
もう一つの支えだった、二人の友達が粉々に砕けた。
レナやセツナは、どんな時だってユキの味方をしてくれた。けれど、ユキはそんな二人に負い目を……そして、自分を取り巻く嫌がらせに巻き込んでしまったと罪悪感をずっと感じている。面倒だな、と……やっぱり関わらなければ良かった、と……どこかでそう思われているんじゃないかと、ずっと不安に思っている。だから、第三者に「レナとセツナもユキの事を面倒だと思っている」と言われてしまうと……それが、本当のような気がしてくるのだ。
だって、レナとセツナは優しいから。
だから、今まで自分に良くしてくれたのだ。
本当は嫌なのに、反吐が出そうなほど嫌だろうに、優しくしてくれた。
私は───そんな二人の優しさに、甘えすぎていたんだ。
心の支えを全て失って、ユキは絶望に暮れた。
ああ、私に生きて欲しいと言ってくれる人は、この世界のどこにも居ないんだろう。逆に「死んで」と願う人はほら───こんなに居る。恨む人…いや、私が消えて喜ぶ人は、こんなにたくさん居る。
………。
強くなりたい。
強くなるには、どうすればいいんだろう。
強くなる、それは誰かを護る行為だ。
私の知っている人を護るには、どうすればいいんだろう。
私の知っている人を救うには、どうすればいいんだろう。
……そんなの、もう知っているでしょう?ユキ。
私が────この世界から、消えたらいいんだよ。
黄金のスポットライトに照らされて、希望を失ったユキは一歩ずつフェンスに近付いた。ゆるりとした動作でフェンスに足を掛け、身を翻して『向こう側』に立つ。
手拍子が鳴っていた。
それは、私の行動を肯定してくれる手拍子。
私の決断は、この行動は、何も間違っていない。
屋上へ続く階段を、レナは全速力で駆け上がった。
嫌な予感は膨れ上がっていくばかりだった。それは、あの忌まわしい日───ロゼの命が奪われるのを予知していた時と同じで。
ユキ、ユキ、ユキ……!どうか、どうか無事で居てッ……!!
ばたん、とレナが屋上の扉を開く。
そこには五人のクラスメイトと、フェンスの向こうに立つユキの姿。
レナは一瞬息を呑んで───ユキの方へ駆け出した。
無我夢中で走り、手を伸ばす。
駄目、だめだよ、やめて、そんな事しないで────ッ!!!
「ユキ─────ッ!!!」
「レ、ナ、ちゃ……」
ごめんね。
ユキの口が、そう動いて────
彼女は、地面から足を離した。
伸ばした手は─────届かなかった。
数秒後には、ユキは暗闇の中へ消えていった。屋上からは、ユキの姿を確認する事は出来ない。けれど、此処は建物の五階に当たる高さで────この真下はコンクリートだ。
命が助かる保証は無い。命を失う可能性は極めて高い。
『××市の高等学校で、男子生徒が自殺すると云う事件がありました。原因は学校内のいじめで────』
そんなテレビの音声が、脳内で何度もリフレインする。
自殺。飛び降り。自殺。いじめ。自殺────
ユキは………自殺、したの……?
へたり。
レナは力を失って、その場に崩れ落ちる。
また……
また、救えなかった。
また、目の前で大切な存在が消えていった。
もう、繰り返したくないと思っていたのに。
繰り返さないと誓ったのに。
また───この世界は、私から全てを奪っていった────。
あははははははッ!!
鈴香達は笑い転げた。ああ、なんて傑作。真に受けすぎ、ほんとに飛び降りちゃうなんて!!
……そこに、罪の意識は無かった。
それを見たレナの心に、憎悪の感情が芽吹く。
………なんで、笑ってるの?
ユキを殺しておいて、なんであなた達は笑っているの?
酷い。許せない。絶対に、許さない。
レナは、両親からたった一つの事を教わっている。
───あなたがあなた達のために私を壊そうと言うなら、私は私のために、あなたを壊すよ。それが、あなた達から教わった事だから───。
………。
あなた達が勝手にユキの命を奪ったと云うなら、私だって、勝手にあなた達の命を奪っても、いいよね────?
そう思った途端、ストッパーが外れたように…心からどす黒い感情が溢れてくる。
……殺してやる。
殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す─────ッ!!!!
心の臓から溢れ出たその感情が、毛細血管の隅々まで行き渡る。
殺意が、憎悪が、レナを包み込んでゆく。
そして、その感情が最高潮に達した瞬間────ぷつり、と音がして……急に、頭が澄み渡ったような感覚に包まれる。もう……何も、感じなかった。
────この感覚は、セツナの追っ手達がセツナに酷い事した、あの最後の仕事の日と、同じだった。