第3夜 18節
文字数 4,067文字
何も、言葉を発さなかった。
「よくも」「許さない」「酷い」……何も、言わなかった。
けれど───レナが言いたい事は、その小さな身体から滲み出している。
最初にレナが動いた事に気付いたのは、亜澄だった。
亜澄はレナの方を見遣る────だが、そこにレナは居なかった。
……あれ?さっきまでそこに居………
がしゃんッッッ!!!!
そんな騒々しい音がしたので、一同は音のした方……フェンスの方を見遣る。
そして、驚いて息を呑む。
───亜澄が、フェンスに叩きつけられて、ずるりと崩れ落ちるのが見えたから。
その正面には、蹴りの姿勢のまま微動だにしないレナが居て───。
………レナが、亜澄を、蹴った?
刹那、鈴香達の脳内に蘇る、時折レナから感じた殺気。
……もしかして、あいつ、本気で────。
レナは体勢をすっと戻すと、鈴香達の方を向いた。
そこには、優しいレナの面影は無く、彼女はまるで人形のように光の無い瞳をしている。
びくり……一同の身体が跳ねる。
レナはふっ、とその場から消えると────
「っ!!!」
「────。」
「沙羅ッ!!!」
がしゃんッッッ!!!
次いで沙羅がフェンスに叩きつけられる。
レナのその挙動に恐怖を感じた鈴香は、一歩後退った。
その動きに反応して、鈴香を見遣るレナ。
「───レナッ!!!」
───そこに、セツナが到着した。
ユキの姿は見当たらない。そこにはフェンスに叩きつけられてへたり込む亜澄と沙羅、怯えたように尻餅を付く雄介と傑、そして対峙するレナと鈴香の姿があって。
………レナの様子が、おかしかった。
様子だけじゃない。レナを取り巻いている「気」は家で感じたものとは比べ物にならないほどどす黒く、吐き気を催すような穢れた「邪気」だった。
まるで、これは、あの時────最後の仕事の日と、同じ───!!!
…もしそうなら、レナを止められるのは「気」を鎮められる自分だけだ。
それに気付いたセツナはレナの方へ駆け寄ろうとして………
セツナの隣を、一人の男性が通り過ぎた。
黒いワイシャツに赤いネクタイ。そして、白い白衣と同じく白い手袋。
赤茶の髪に真紅の瞳───その瞳が月明かりに照らされて輝いている。
彼はさも「自分が此処に居るのは当然」と云うような様子でレナの方に歩み寄りながら朗らかに告げた。
「やってるねぇ。こらこら、夜の学校に忍び込むなんて悪い子達だ。」
「……誰?」と鈴香が怪訝な表情で言うが、男はそれを無視してレナに向き合う。レナはちらりと男を一瞥するが……何の反応も示さなかった。男はくすりと笑うと、こう言った。
「……へぇ、やっぱり勘違いじゃなかったね────君、【発狂症】持ちだね?」
………【発狂症】?
知らない単語が飛び出してきたので、一同は困惑する。
男は持っていた鞄を地面に置いて何か探ると───次の瞬間には、レナの後ろに回り込んで首元に手を遣った。
その手には、小さな注射器が握られている。
注射された瞬間、レナは瞳を見開いて───そして、胸を押さえてよろり、とふらついた。
「……ッ!?ぅ、あ………あッ、あぁ、ぐ………ッ!?」
「効いているね、この前みたいに効かなかったらどうしようかと思ったよ」
「レナッ!!!………レナに、何をしたんですか…ッ」
セツナは男を睨みつけながらそう言った。レナはフェンスに寄りかかりながら、嗚咽と悲鳴を漏らして苦しんでいる。……その様子は只事じゃない…!!
男は笑顔を貼り付けたまま答える。
「うん?【発狂症】を促進する薬、をね。薬…と云うより【能力の種】に近しいものだが。なにせ【発狂症】のサンプルを見たのはこれが初めてだから人体にこれを投与するのもこれが初めてなんだが……様子を見た限り効果はちゃんと出ているね」
「…何を、言ってるんですかッ……」
「見れば分かるよ───よく見ておきなさい、面白い事が起こるよ」
ほら…と男がレナの方に目を遣るので、セツナも不意に同じようにレナを見遣った。痛みに耐えたらしいレナは肩で息を吐きながら自分の足でしっかりと立ち……そしてゆっくりと顔を上げる。セツナは────言葉を失った。
「─────え…レ……ナ………?」
レナのその瞳が────いつもの澄んだ青では無く……血のような紅に、染まっていたのだ。
「………───。」
残像を残して、レナはその場から消える。
次の瞬間、鈴香の身体が宙に浮いていた。……どう、云う、事…ッ、一体、何が…ッ!?
鈴香が自分の状態を認識するより先に、レナはフェンスを蹴って空中に身を翻し、上から鈴香を蹴って地面に叩きつける。ばんッ!!!とコンクリートが煩く哭いた。頭を強く打ち付けた鈴香は、呆気なく意識を飛ばしてしまう。じわり……地面に頭部から流れた血の水溜りが出来上がる。
「ひ、ッ…」とフェンスに寄りかかりながら声を上げた沙羅の、そして亜澄の首にしゅ、と何かが触れた。それは熱を帯びて熱くて───いや違う、熱いんじゃない───これは、「痛い」のだ。首元を触った二人の手には、真っ赤な血が付いていた。レナの手には、ユキに投げ渡されたカッターナイフが握られている。
首を、切られ───。
沙羅と亜澄がそう判断した途端、ようやく傷が出来た事に身体が気付いたように、どくどくと血液が流れてきて……沙羅と亜澄は青ざめて、その場に崩れ落ちた。
「化け物…ッ!お、俺帰る─────ひッ、」
座り込んだ雄介は立ち上がって屋上から出て行こうとドアの方へ向かい───
その懐に、いつに間にかレナが入り込んでいた。腹部をそのまま全力で蹴飛ばされ、がしゃん!!!と騒々しい音を立てて10mは離れていたであろうフェンスに叩きつけられる。
……な、なんて力だ…ッ!!!
同じように逃げ出そうとした傑もまた、雄介と同様にフェンスに叩きつけられ…打ち所が悪かったのか、それとも恐怖からか、気絶してしまった。
────その場に立っているのは、見知らぬ男と、セツナだけになった。
男はぱちぱち……と拍手をし、レナを称えた。
セツナは一部始終を見ながら……まるで人間では無くなったような動きをするレナに、恐怖と焦燥感を覚えていた。……レナ、レナ……ねぇ、どうしちゃったの……!?
「はは、素晴らしい……やはり君は【此方側】の存在だ。君は奪われる側じゃない────今みたいに、全てを奪う側の存在なんだよ」
「………」
レナは拍手をする男を認識すると、そちらに意識を向け───次の瞬間、男にカッターナイフを向けて肉弾戦を仕掛けていた。
男はその一撃を軽く避けると、レナのカッターナイフを持つ細い右腕を掴む。レナは骨の可動域を無視して空中に身を翻すと、男の首元を狙って蹴りを入れながら身を捩って腕を振り解いた。男は空いた片方の手でその攻撃を防ぐと、腹部に蹴りを入れる。
レナは吹き飛んで、地面に叩きつけられる。けれど、痛みなど知らないかのように再び立ち上がり、一瞬で距離を詰めてカッターナイフを首へ差し出す。その手首を再び掴んで止める男………彼はレナの動きを封じながら、笑った。
「……そろそろ、限界が来る頃じゃないか?」
「?─────ッッッ!?!?」
刹那────レナの全身から、力が抜けた。ぱっと男はレナの腕を離す。
ふらり……身体が傾く。
その口元から───血の雫が滴った。
「ぁ………あ、が……ッ!?」
レナは口元と腹部を押さえて、再びフェンスに体を寄りかからせる。
─────私は、今の今まで何をしていた?
記憶が無い。何も思い出せない。
ユキが飛び降りて、殺したいほど憎いと思って………そこから、記憶に靄がかかったようになって、思い出せない。
ずきん、ずきん、ずきん。
頭が、割れる…!
身体中の骨が砕けたように痛い。
筋肉が裂けたように痛い。
何があった?どうしてこんなに痛いの?一体これは────。
ぐらぐらと揺れる頭で考えて、一つの記憶が思い当たった。
……確か、【裏社会】の最後の仕事の日……セツナを護ろうと追っ手達を殺した時も、こんな風に全身が痛くなった。
視界を動かすと、鈴香達が倒れていた。
……もしかして、自分がやったのだろうか。
意識を失って、理性を失って、自身の身体をも壊しながら全てを壊し尽くして────そして正気に戻って、苦痛を覚える。壊した代償を負う。
一度目ならただの偶然だと思うだろう。
だけど、こうなったのはこれが二度目だ。……偶然と言うには、あまりにも………。
レナは世界に願い続けた。
狂った世界から抜け出したい、と。
大切なものを護りたい、と。
ひょっとして、これが────世界が私に与えた、力だと云うのだろうか。
視界が徐々に、暗闇に包まれてゆく。
意識がどんどん、朧げになってゆく。
痛みだけが、その薄れる意識の中で鮮明に残っていて……。
そして────レナは、意識を手放した。
セツナが倒れたレナに駆け寄る───その背後に、男が回り込んだ。
ちくり。
うなじに、違和感………注射針?
まずい、何か注射されて────!
セツナがそう気付いた時には、もう何もかもが遅かった。
急激に意識が混濁してきて、頭が真っ白になって、血の気が引いてきて………
そこでセツナの意識も、闇に呑み込まれた。
男はそれを確認すると、倒れた全員に向けてこう言った。
誰も───それに応える事も、反抗する事もできなかった。
「……さ、て……それじゃあ、連れて行かせてもらうよ。…ふふ、前回言った通り、君達は私のものになった。───ようこそモルモット諸君……悪夢の華が咲き乱れる研究所、【クレナイ】へ。」
………十月十二日、午後七時。
國宮学園屋上、月明かりのスポットライトが照らす舞台。
その蠱毒の壺の中で最後に笑ったのは、白衣を着た男性────能力開発研究所【クレナイ】の研究長、郷原雅人………ただ一人だった。
***
「不幸は幾ら対処してもまた芽吹く。まるで生命力の強いドクダミやカタバミのように────悪夢の華は、執拗に根を下ろして貴方と云う庭を占領するでしょう。それは、貴方が抗う限り、永遠に貴方を苦しませる───」
***
Ep.3
End.