第2夜 6節

文字数 3,118文字

ガラガラ、と風呂場の扉が開く音がした。ぼんやりとした意識をなんとか手繰り寄せて音のした方を見遣る。そこには、母の姿があった。………ひょっとして、もう半日が過ぎたのだろうか。どうやら、眠ってしまっていたらしい。
こんな状況で眠れる自分も狂っているのかもしれないが、セツナが祈祷室での【懺悔】中にうとうとと微睡むと、母親は必ず頭や頬を殴る。だから、「寝ているのを見つけられてしまったら痛い事をされる」と云う恐怖がずっと胸のうちにあるのだ。……二酸化炭素を充満させる【お仕置き】をするこの浴室内は誰も立ち寄らない。つまり、此処はゆっくりと死に至らしめる拷問部屋である事を除けば……セツナにとって、誰からも酷い事をされずに休める空間だったのだ。この部屋に居て感じる苦しい、怖い、辛いと云う感情の奥にあった小さな安心感。霊力を使って酸素の供給ができるようになった事でその安心感が膨らみ、微睡んでしまっていたらしい。母が顔色を青くし、手をわなわなと振るわせている。


「───な、んで……」

「……?」


……なんで?
その言葉の意味がよく分からないセツナは首を傾げる。
……いや、本当は何処かで分かっていた。知っていた。けれど、分からないふりをしていた。分かりたくなかった。目の前の母はきっとこう言いたいのだ───。


「───なんで、まだ生きてるの……?」

「……ッ!」


……穢れを生むから子供を殺めてはいけない、なんて云うのも解釈の仕方次第だ。彼女達が虐待を「神様からの罰」と訳しているように、子供を手に掛ける事も「神様に代わって手を下した」と解釈してしまえば禁止事項では無くなる。……勿論、本家に知れては何らかの罰があるかもしれないが……上手く「事故」として処理されてしまうだろう。両親は嘘が上手い。今までの虐待だって、本家にバレた事は一度たりとも無いのだから。


「確かに半日もすれば二酸化炭素中毒になって死ぬって聞いたのに…ッ!なんで、なんでなんでッッ……!……セツナ、何をしたの…!窓を開けた?言いつけを破って外に出た…!?答えなさい!」

「な……にも、してない…そんな事…」

「じゃあなんでッ!なんで生きてんのよ!!何かしたでしょう!そうじゃないとおかしい!!……吐きなさいッ、答えなさいよぉッ!!」

「……ッッ!!」


母の剣幕にびくりと体を跳ねさせたセツナは、言葉を選びながら慎重に「神様の力を借りて…」と弱々しい声で告げた。だが、本当の事を言ったからと言って母が「そうなのね」と納得してくれる筈も無い。彼女は嫌悪感を剥き出しにした瞳でセツナを睨んだ。


「神様に……?───気持ち悪い…!奇跡でも起こしたって言うの?アンタが?本当に神様の力を借りたって?馬鹿馬鹿しい…!」

「……でも、」

「神様なんて……神様なんて、居る訳が無いのに!!ええ、そうよ、居ないわよ!だってもし居るなら……アンタみたいなケガレモノが生まれてくる筈ないもの!!!ああ、気持ち悪い気持ち悪いッ、居ない筈の神の力を借りたって?そんな馬鹿な事がある訳ないのよ、そう、ある訳ない……ッ」


……母のその罵倒の言葉の半分は、自分に言い聞かせているものなのだろう。彼女だって、本当は気付いている筈だ。セツナが神の力を借りたと言っている事を幾ら否定しても、「この密室の二酸化炭素を酸素に変換して生き延びた」と云う事実は変わらないのだから。
その事実が、残酷にセツナの力を物語っているから……母親は、セツナに対してさらに嫌悪と苛立ちを覚える。
……本当の事を言っても、嘘を言っても蔑まれ、この家における居場所をどんどん失っていく。セツナは目を伏せ、目尻に涙を溜めた。…勿論、泣くなんて事をすれば母の怒りの火に油を注ぐ羽目になるので絶対に流してはいけないのだが。
母は顔を真っ赤にして目を血走らせ、呼吸を荒くしながらセツナを酷く罵倒していたが……そうやって罵倒しても「セツナに力があって、それを使って拷問を乗り越えた」事はどうしようもないと気づくと……罵れば罵るほど惨めになっていくと云う事が分かったのだろう、言い寄るのをやめて浴室に背を向けた。……あの「約束」はどうなったのだろう。……母の今の機嫌じゃ大方駄目だろうが…聞いてみる価値はある…かもしれない。


「………もういい、この化け物が。祈祷室で【懺悔】を続けてなさい。」

「え、と……お母さん、夕飯………正解した、約束……」

「───そんなのアンタみたいな穢れた悪い子と……化け物と、一緒に食べる訳ないでしょッッ!!そのくらい分からない!?!?」

「ひッ………ご、ごめんなさいッ……!」

「…はぁ、はぁ……。……少しでも【いい子】になりたいなら、早く行きなさい。ほら、早く。」

「…ッ、は、い………」


………。
やっぱり、駄目だった。
少しでも期待した私が、馬鹿だったのかな。
そうだ、そうだよ……こんな結末、最初から分かっていた筈じゃないか。私は気持ち悪い力を使う【化け物】で、【悪い子】だから。
【いい子】じゃないから、両親からの寵愛を受けられなくて当然。
【いい子】じゃないから、口汚く罵られて当然。
そう、全部当然。当たり前。両親は何も悪くない。私が悪い。

………でも……。
でも、でもほんとは……
ほんとは、私だって愛されたかった。
私だって認められたかった。
けれど、それはきっと叶わない。
神様は無慈悲で、叶える願いを選ばないから。
私のこんな願いなんて、きっと叶えてくれない。

……………それ、でも…。
ここまで酷い仕打ちを受けてなお、もしも…だなんて希望を抱いてしまうのは、どうして。
絶対に、叶う筈なんて無いのに。
無いと、分かっているのに、どうして。
期待なんて、希望なんて抱いても───裏切られて心を擦り切らせるだけなのに………。

そう思うと、悔しかった。
絶望して心を壊して、自分の未来に一切期待なんてできなければいいのにとさえ思った。勝手に期待して裏切られて悲しむ自分の心に腹が立った。母に反抗する勇気も持てない弱い自分に腹が立った。
私は、私が嫌いだ。
両親も、本家の大人達も、みんなみんな私が嫌いだ。

………。


───なら、私の事を認めてくれる人は、この広い宇宙の何処に居るんだろう……。


……そんな事、考えても虚しくなるだけだから考えるな。
母の言う通り、祈祷室に向かって無心で【懺悔】しよう。
そうすれば、きっと、少しは嫌な気持ちから思考を逸らす事ができるから……。

「分かりました、迷惑かけてごめんなさい」と告げれば、母は舌打ちをして…それでも早くセツナから遠ざかりたいので両手足の拘束を乱暴に解いてくれた。……乱暴でも、そもそも彼女がした拘束でも、そうやって自分を「助けてくれる」のは……嬉しかった。
セツナは生まれたての子鹿のように震える足でゆっくりと立ち上がり、母の横を通り抜けて祈祷室に向かった。

窓の外では、木枯らしが唸っていた。十八時を告げるラジオの音が、閉め切られたリビングから聞こえてくる。
……自由に外に出られて遊んで、夕方になったら帰って、そしたら温かい夕食とお風呂があって……。それは、遠い昔に絵本で読んだ絵空事の世界。…駄目だ、また希望を抱こうとしている。頭を軽く振って思考を追い払うと、セツナは冷たい廊下を踏みしめた。
凍りつきそうなフローリングの温度が、裸足の足にじんじん染みる。家族だけではなくてこの家にも、そして季節にも拒絶されているようで少し心が痛い。
早く、帰ろう。
考える事は毒なのだ。頭を働かせたところで、ろくな事を考えつきやしないのだから。
ひたりひたり、と小さな足音を立てながら、セツナは祈祷室へ向かった。
後ろでは母親が、「どうすればいいの」と頭を抱えていた────。
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登場人物紹介

夜国 玲菜(やくに れな)


実験体A-11316-01


ブロンドのボブヘアに青いリボンと青い瞳の小柄な少女。

【発狂症】持ちにして、【ヤミカガミ】の適合者。妖の血を引いており、身体能力が高い。誰かを助けたいと強く思う反面、敵には容赦しないなど残酷。

白橋 雪奈(しらはし せつな)


実験体A-11316-02

 

紫がかった黒髪と黄金の瞳を持つ背の高い少女。類稀な「霊力」を秘めている。

神事【神憑り(かむがかり)の儀式】で繁栄を築いてきた「御光(みこう)家」の生まれ。 だが、儀式に出られるのは男児のみだったため一族から出来損ない呼ばわりされ虐待されて育つ。

白夜 雪音(びゃくや ゆきね)


実験体F-40556-E3


先端脳科学研究所で育ち、【クレナイ】に移ってきた実験体。

髪はもともとは黒かったが実験の影響で色が落ちてしまった。

実験を通して人間の限界まで身体能力を磨き上げられている。 おどおどしていて丁寧、優しい性格。

星野 有希(ほしの ゆき)


実験体L-90996-A4

 

学校でいじめを受けていた黒髪で眼鏡をかけた内気な少女。

レナの強さに勇気を貰っていじめっ子に反発したことでいじめが悪化し、屋上から身投げをする。その後【クレナイ】に拾われて二代目【ヤミカガミ】として完成する。だが、彼女は精神を破壊されており───。

サツキ


レナに助言を与える、銀の髪に紅の瞳を持つロリィタ服の少女。

対象の精神を汚染する「人を壊す力」を持ち、【クレナイ】の研究員と実験体に精神汚染を行っている【クレナイ】幹部にしてお姫様。

レナを特別視しているが、その理由とは…。

研究長:郷原雅人(さとはら まさと)


【Dolce】の職員にして能力開発研究所【クレナイ】の所長兼研究長。

人当たりがよく物腰柔らかで紳士的だが、倫理観がどうかしており、非人道的な人体実験だと理解した上で実験を行なっている狂人。
実は彼にも事情があって────。

ヒナ(緋那)


【感情の権化】───妖の1人にして、【死】そのものを司る、生きる厄災。

全てを奪い、失いながら永劫を生きる地獄に耐えられなくなり、禁呪を用いて命を絶った。だが、彼女の死が全ての物語の運命を歪める事となった───。

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