第3夜 3節
文字数 1,900文字
「え……と……」
マンションの六階、まさか人様の家に上がる事になろうとは夢にも思わなかったレナは部屋に足を踏み入れる事を躊躇した。隣ではセツナも、廊下の向こうへ消えていくスーツ姿の女性とレナを交互に見ながら混乱していた。
「入って。無理に信用しろとは言わないけれど……変な事は誓ってしないわ。絶対。……これは保護よ、保護」
「保護……」
「……レナ、」
「……じゃあ、えと…わか、りました…」
………女性の言葉の端々からは、善意が感じられた。きっと、本当に変な事をするつもりは無いのだろう。……彼女を、そして【表社会】を少しは信じてみてもいいのかもしれない。そう思案したレナとセツナは頷きあって、玄関に足を踏み入れたのだった。
室内用のスリッパに履き替えた女性はぱたぱたと忙しなく動き、手持ちの鞄とスーツの上着をハンガーラックに引っ掛けると風呂場に向かって浴槽に湯を張り始める。「適当に座ってて」と此方に向かって声を掛けてくるので、適当に……何処が適当なんだろう……と悩んだ結果、ダイニングキッチンに隣接した和室に腰を下ろす。……十分もしないうちに両手をタオルで拭きながら、女性が和室に現れる。
「お風呂入れてるから、沸いたら入るのよ。体は綺麗にしておかなきゃ。……あ、シャンプーもトリートメントもボディソープも使っていいからね。」
「え、えぇ…っ!!悪いですよ、そんなの…!」
お風呂!?人様の家に上がり込んでお風呂まで入れてもらうのはなんだか悪い。セツナは両手を顔の前で振りながら慌てた。女性は腰に両手をやりながら、いいのよと眉を下げる。
「寧ろ入ってくれなきゃ困るわ。家の主がそう言ってるんだからここは好意に甘えるべきよ?」
「う……そう…なの、かな……」
「そうよ。子供なんだから甘えなさい。」
「じゃ…じゃあ、ご好意に、甘えて…有難うございます……」
「どういたしまして。……あ、そう云えばまだ名乗ってなかったわね。私は朝倉薫。近くの学校で教師をしてるの。歳は……まぁ、内緒にさせて貰おうかな。貴女達は?」
「……セツナ。白橋、雪奈……」
セツナが恐る恐る先程考えた新しい名を名乗ると、朝倉は「そう、白橋さんね……そちらは?」とレナの方を見た。レナもまた緊張した素振りで答える。
「え、と……レナ、です。夜国玲菜」
「夜国さん。分かったわ。教えてくれて有難う。」
そうまで言うと彼女はしゃがみ込み…腰を下ろしたレナとセツナの目線に合わせて、ゆっくりと言い聞かせるようにこう言った。
「……白橋さんも夜国さんも、今まで辛かったでしょう。よく生きて、よく此処まで来てくれました。生きていてくれて、有難う。」
「え─────」
そうして朝倉は……レナとセツナの頭を、撫でた。
……有難う?生きていてくれて、有難う…?
だって私は、いけない子で。化け物で。
誰かに愛される事なんて許されなくて。生きている事すら、許されなくて。
そんな私を、私達を、認めてくれるの────?
ぽろ、と……見開かれたレナの、そしてセツナの大きな瞳から、大粒の涙が零れた。泣いちゃ、だめ。だって、泣いたら、怒られてしまう。……いや、それはもう、過去の話だ。
……一度涙を許してしまえば、もう止まらなくて。わぁあ、と声をあげてレナとセツナは泣いた。生きていていいんだ。私は、私達は、此処で、生きていていいんだ……。
……【表社会】の子供達には、「生まれてきた事は素晴らしく、尊いことです。生きていてくれて有難う」と道徳の時間に教えている。それは本当の事で、お互いを尊重し合うために必要な考えだ。……けれど、そんな事────子供達は言われなくとも分かっている。
だが、目の前のこの二人の少女は………どうやら、その事を知らずに育ってきたらしい。
【裏社会】の治安は非常に悪く、虐待や暴力も日常茶飯時だと噂に聞く。……彼女達の過去に何があったのか朝倉には知る由も無いし、敢えて問い詰めるつもりも無い。しかし、この少女達は……自分の想像を絶するような苦しい日々を、今までずっと送ってきたようだった。朝倉の胸が、ぎゅうと痛くなる。それは、「可哀想」などと云う他人行儀な感情では無く……「彼女達を自分が救ってやらねばならない」と云う使命感だった。
『───お風呂が沸きました』
軽快な電子音のメロディと共に、機械音声がそう告げる。「もう、泣かないの」とそっと二人の目尻の涙を拭った朝倉は、もう一度頭をそっと撫でると二人に言った。
「お風呂、入っていらっしゃい」
レナは、涙を拭った。
セツナは、鼻を啜りながら顔を上げた。
二人はもう、泣かなかった─────。