第4夜 3節
文字数 3,866文字
来る霜月のとある日。それがユキ達の、最初の実験の日だった。
技能把握試験を行なったのと同じ、真っ白で広い直方体の実験室に召集された一同の前に、郷原が現れる。……今までの試験は郷原の部下であろう研究員によって行われていたので、郷原と会うのは久しぶりだ。
「……さて、いよいよ実験をするわけだが……一つ、断っておかなくてはならない事がある。」
実験室の入り口で衣服に消毒液を噴射しながら、郷原はそう言った。
「これから君達に行う、レナの過去を追体験する実験は……心身に大きな負荷を掛けるものだ。中断を選ぶ事が出来ない君達にこんな事を言うのは酷だが、命の保証…それから精神を保てる保証は出来ないよ。万が一と云う事があるのは覚えておいてくれ」
ユキは固唾を飲んでその勧告を聞いたが、鈴香達はやれやれと言わんばかりに視線を逸らした。……こういうのは口だけに決まっている。「万が一」が起きても責任が取れないから、責任逃れの為にこうやって最悪の事態の話をして釘を打っているのだ。それは飛行機の転落事故と同じ。起こり得る可能性は極めて低いのに……大人達はいつだって最悪の事態の事を考えましょうと口を酸っぱくして言う。
……どうせ、仮想現実の装置か何かで映像を見せられて終わり、だとかそういうものだろう。それで気分を害するかもしれないから気を付けて、と……差し詰めそんなところだ。「分かってますよ」と鈴香が代表して言うと、郷原は「そうか、君達は強いね」と応えた。
そして、いよいよ実験が始まる。
「それじゃ、先ずはレナの人生において最初の悲劇を追体験してもらおう。……幼かったレナには愛すべき家族が居た。家族……と云うより、それは犬……ペットだね。名前は…本人曰く『ロゼ』だそうだ。彼女達はとても仲が良く、その日も一緒に二階のベッドで眠ったらしい。ちなみに、【裏社会】の夜は危ないから、と……夜は階下に降りる事は禁止されていたそうだよ」
……レナの家は犬を飼っていたのか。
確かに動物が好きそうではある……ペットくらい飼っていてもおかしくないだろう。ユキはそう納得する。
「だが、夜中に目が覚めると……ロゼの姿はそこには無かった。そして、部屋の扉が少し開いていた。胸騒ぎがしたレナは、親の言いつけを破って自室から抜け出し……そして階下に降りる。そこで犬の悲鳴が聞こえたそうだ。一階のガレージの灯りが点いていたので、そちらに向かい、顔を覗かせる────そこに、何があったと思う?」
────両親が、ロゼに向けて鈍器を振り下ろしていたんだと。
急に、レナを取り巻く世界が狂気に染まった。その言葉を聞いて、ぞ、っ……と…一同の背筋に鳥肌が走る。
それは、あまりに惨い光景だ。もし自分の両親がそうだったら、自分はどう思っただろう。失望?落胆?……否、そんな薄っぺらい感情な筈が無い。きっと……全身に力が入らなくなるような恐怖と絶望を感じただろう。
「部屋には夥しい量の血液が散乱し……ロゼは起き上がる力すら失い横たわって。そんな一匹の犬に、父親は鉈を振り上げる。レナはどうしたか?……止めに入ったらしい。自分も殺されるかと怖かったらしいが……それでも、ロゼを救いたい気持ちが勝ったんだね。」
この頃からレナは、他者に対して「救いたい」「護りたい」と云う感情があったのか。……怖かっただろう。辛かっただろう。足がすくんで、手が震えて、喉がからからに乾いて……そんな中でもレナは、愛すべき家族を助けようと動いたのだ。
……私に、そんな事は出来るのか?
ユキは、鈴香は……一同は、そう考える。
自分達はいつだって己の命が最優先だ。他者を思いやるのは自分の命の安全があってこそ。
レナのように───自分の命を張って助ける選択肢を取る事は、出来るのだろうか。
「父親と揉み合いになったが───小さな彼女の身体は簡単に薙ぎ払われてしまう。そして、苛立ちを覚えた父親はそのまま………ロゼの身体を真っ二つにした。」
郷原はそう言いながら、右手を前に突き出した。
何の予備動作か分からない一同は首を傾げ……その手に注目する。
そして郷原は、こう告げた。
────そう、こんな風にね。
ぐちゃッ!!!!!
「─────え、?」
一瞬、何が起きたか理解出来なかった。いや…理解したくなかった。けれど、数十秒もすれば嫌でも理解出来てしまう。
郷原が言葉を紡いだ刹那、何かが弾ける音がして……頬にぴっ、と生温い液体が付着した。そして、どちゃ、と湿った音がして、次いでどさりと何かが床に落ちる音がした。蔓延する鉄錆のにおい。スローモーションのような世界の中ゆっくりと後ろを振り返れば、先ず最初に見えたのは紅に染まった床と自分達の衣服で、次に見えたのは他の実験体の絶望した表情で、そして最後に見えたのが─────
………鳩尾から真っ二つになった、亜澄の姿だった。
え─────?
どういう、こと、?
さっきまで、亜澄は、確かに生きていたのに。
彼女の瞳孔は開いていて、何も映してはいなくて。
上半身と下半身は、何度見ても繋がっていなくて。
破れた真っ赤な実験着から、ぐにょぐにょした臓物が見え隠れしていて。
し、んだ……?
亜澄が、死んだ……?
殺された?
郷原研究長に、殺された?
「お、えぇぇえッッ──────!」
さっと青ざめた一同を、強烈な吐き気が襲う。傑と沙羅は崩れ落ちて嘔吐し、雄介は視線を彷徨わせ、ユキは口を手で押さえた。一歩後退る鈴香の額は、ぐっしょりと嫌な汗で濡れている。
「う、そ、でしょ……?あ、ずみ……?そん、な…こんな、事って………」
それを見ている郷原だけは、顔色一つ変えずに突き出した腕を降ろして微笑んだ。
「うん、どうかな?『大切なもの』を一つ奪われた気分は。ここからが大事だよ、彼女は恐怖や絶望を抱いたんじゃない────殺意を抱いたんだ。さぁ、今感じている負のエネルギーを殺意に。私を恨んでいいから、さぁ……」
「そん、な、そんなそんなそんな、あ、あぁああ、あああああああぁあぁぁぁあぁぁああああああぁ──────ッッ!!!」
悲鳴に近い叫びを上げながら、鈴香もその場に崩れ落ちた。
郷原は駄目か、と息を吐く。
ユキも、目尻に涙を溜めながら……ぐちゃぐちゃになった思考回路で正気を取り戻そうと努めた。けれど、依然として狂気の波は引く事を覚えない。
ああ、あぁあ、死んだ、死んでしまった、殺されてしまった、本当に、本当に悪夢の実験だった、次は私が死ぬかもしれない、殺されるかもしれない、ああ、あ、怖い、怖い怖い怖い─────ッ!!
そこまでぐるぐると考えて、「自分はやはり自分が一番大事なのだ。だって、死んだ亜澄の事よりも…これから殺されてしまうかもしれない自分の身を案じているのだから」と云う事に気が付いた。
────酷い。許せない。絶対に……許さない……ッ!!!!
殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる───ッ!!!
不意に、脳内でレナのそんな声が聞こえてきた。
彼女は残酷な程に優しいから……きっと、自分の身より死んでいった仲間の事を案じるのだろう。憎しみを覚えるのだろう。それが、彼女の「強さ」だ。
ユキはぐ、と涙を堪えると郷原の襟元を掴んだ。郷原がおや…とでも言いたげな顔をする。……その顔には、笑顔が貼り付けられたままだ。
「なに、を、笑ってるんですか……ッ!!!こんなの…こんなの許されない…ッ!!!悪魔!人殺し!人殺し、人殺し人殺しッッッ!!!ああ、あああぁぁぁぁぁぁあぁぁあああぁぁぁッッッ!!!!」
「そう───もっと、もっとそう思いなさい。君は正しいよ、私は許されるべきでは無いね。じゃあどうする?どう私に天罰を下す?」
「────ッ、あぁあ、あぁぁあああッ………!!!」
……殺してやる、とまでは思えなかった。
反抗すれば自分も殺されるかもしれないと云う恐怖があったから。
………やっぱり、殺されるのは怖い。死ぬのは怖い。
泣き叫びながら、へたりとその場に崩れ落ちるユキ。殺意を向ける実験体を期待していた郷原ははぁ、と肩で息を吐いて手元のレポートにさらさらとメモを取った。
───第一実験、殺意を持つ者 無し。
亜澄の肉塊は、温度を忘れてゆく。
一同は絶望と恐怖に磔にされる。
郷原だけが朗らかに笑っていた。
「うん、これで心を痛めなかったらどうしようかと思ったが……いい感じに精神に負荷を掛けられているね。今日の実験は終わりにしよう。亜澄の犠牲に感謝して、部屋に戻ってくれて構わないよ。次の実験は明日だ。君達には素質がある───期待しているよ。」
ポケットの中に入っている無線で部下に連絡を取る郷原。五分もしないうちに実験室に研究員達が現れて、ユキ達を部屋に連れて行く。
しん、と静まり返った実験室で、郷原はネクタイを直しながら思案した。
─── なに、を、笑ってるんですか……ッ!!!こんなの…こんなの許されない…ッ!!!悪魔!人殺し!人殺し、人殺し人殺しッッッ────!!!
………。
ユキ。
星野有希。
今日、恐怖より憤怒と憎悪の感情を露わにしたのは彼女一人だった。
彼女は───レナに、少し似ている。
もしかすると、彼女には………。
口角をにやりと持ち上げ、顎をさすりながら郷原はぼやいた。
「……あるかもしれないね。【ヤミカガミ】の、適性───。」