第1夜 4節
文字数 7,447文字
……それは、自分達の実験は夜に行なわれる事が多いから、だという。
雪音はそれだけの情報で納得する。……成る程、確かに体を動かしたり薬物を投与したり…そんな人体実験を行う上では「空腹すぎず満腹すぎず」といったコンディションがベストだ。空腹すぎて血糖値が下がっていては体調不良を起こす可能性が高いし、満腹だと動きが鈍くなったり吐き気を催したりする危険性があるからだ。
『後でまた実験があるから、その時に会おう───』
研究長は別れ際にそう言っていた。それは恐らく…今日の事だ……。
その予感は的中し、時刻が二十一時半を過ぎた頃に部屋の扉がノックされた。一番玄関に近い所にいた雪音が扉を開けると、そこには先程会った吉田とは別の研究員が、数名立っていた。……なんとなく、緊張感を感じる。だが雪音は、彼等が此処を訪ねてきた理由を大体察していた。
「……実験、ですか」
「嗚呼。A-11316-01と02も、だ。今から実験室に向かうから着いてきなさい。」
「………」
「………」
「……はい…」
A-11316の連番……それが、レナとセツナの所謂「実験番号」という事は察しがついた。どうやら、研究長が言っていた通り、雪音とレナとセツナは三人一組で実験を受ける事になっているらしい。
「これを着なさい」と研究員の一人に白い衣服を渡される雪音。それは動きやすさを考慮した実験着だった。……そういえば、レナもセツナも、居住区画ですれ違った人もこれと同じ実験着を着ていたっけ…。そう思案しながら実験着を受け取り、急いで自室で着替える。それは首元にV字の深い切れ込みがあり、裾は両側にスリットが入った化学繊維の衣服。使い古している為か少し黄ばんでいるレナとセツナの実験着と違い、雪音の新品のそれは真っ白だ。……勿論、これから彼女達のように黄ばんでゆくのだろうが。
「着替えたな。行くぞ」
数人のうち最も位の高そうな研究員を先頭に、その後ろを雪音達被験体が続く。そして列の一番後ろに他の研究員達が居た。……まるで、途中で脱走するのを阻止するような列の作り方だ…。雪音はふとそう思う。
雪音が前にいた先端脳科学研究所では、被験体が逃げ出す、または抵抗するという事は皆無に等しかった。それは先述の通り、実験が被験体の同意を得た上で進んでいるから。……だが、此処はどうだろう。雪音は望んで此処に来た訳じゃない。……もし、レナやセツナが……そして此処に居る無数の被験体達が、自分の意思とは無関係に連れて来られたのだとしたら?無理矢理実験をされているのだとしたら?…その結果起こる反乱、抵抗、裏切り……。この厳重な警備や列の作り方が、どうにもそれがよくあることだと語っているように思えてしまう…。
中央通りを通って居住区画の入り口の扉を通り、足音の反響するコンクリートの廊下を進む。そして、雪音が此処に来た時と同じように空室のエレベーターに乗り込む。先頭に立っていた研究員が首から提げたICカードをパネルにかざし、行き先を操作した。
……確か、実験室は地下5階から8階なんだっけ……。そう思いながらふとスクリーンを見上げて───雪音は、息を呑んだ。
B3F ▶︎ B8F
「───え」
スクリーンに映し出された文字は、何度見ても地下8階…最下層を表していた。
『──最下層の地下7〜8階の実験は一番危険度が高い実験なんだよ──』
セツナが教えてくれた情報が蘇る。
どうして…?
レナもセツナも、最下層での実験は受けた事がないと言っていた。自分だって、初めて此処に来たのだ……いきなり一番危険度の高い実験をされる謂れは無い。……一体、どうして…。
横を見遣れば、セツナも同じようにスクリーンを見上げて硬直していた。…恐らく、雪音と同じ事を考えているのであろうことは見て取れる。一方レナは、俯いて実験着の裾を握り締めていた。…その手には、恐怖からか力が入って震えている。
心の水面に「一番危険度の高い実験」という石を投じた途端、ざわざわと波を立てて荒れ狂う。それは不安というより、本能の鳴らす警鐘…というのに近い感覚だった。
雪音はこれまでの人体実験で、少なくとも「命の保証」はされてきていた。…だが今日、これから行う実験は、その最低限の命の保証さえ“されない”───そう、なんとなく悟ってしまったのだ───。
エレベーターを降りた一同を待っていたのは、近未来的な雰囲気を醸し出した、白を基調とした円形の実験室だった。居住区域と同様に吹き抜けになっている為天井が高く、階上には強化アクリル板で覆われた管理室が見える。そこには十数名もの研究員達がコンピュータに向き合っている姿が確認できた。廊下や居住区域と違い、この実験室はとても明るかった。LEDの電灯が天井についているほか、壁にも一定感覚で灯りがついているし、床も壁に沿うようにして円形にライトが灯っている。……ただ、その灯りはよく見る青白い光では無く、目が痛くなるような赤い光だ。その光が、さらに不安感を煽る。
「ようこそ、最下層の実験室へ。君達は初めてだね?」
不意に、研究長のそんな声が聞こえた。顔を正面に向けると、いつの間にかそこには研究長が立っていた。……その後ろに研究員達も居る。その数…五名。
居研究長の赤黒い瞳が、ライトに照らされて真紅に輝いて見える。
「郷原研究長、実験体三名をお連れしました。」
「ご苦労様。君達は実験のサポートを。いつも通り興奮剤とショックの用意と……それから、【例のもの】も用意して」
「承知致しました」
研究長は雪音達を連れて来た研究員にそう指示をする。研究員達が何か準備を始めると、レナとセツナは身構えた。レナが警戒心を剥き出しにしながら研究長に問う。
「……雪音に対して散々安心感を植え付けておいて、これは一体どういう事?……昨日の朝、私達の部屋を訪ねて『新しい同居人が来る』って言った後……その日に行う私達の実験の予定を中止したでしょ。…あれも、雪音に【此処の実験の真実】を隠すため?私達が話すのを阻止するために手を打ったって事?」
「そうだよ?だって昨日の夜君達に実験をしたら……ほぼ間違い無く君達は雪音に【此処の秘密】を話すだろう?それは少し都合が悪くてね……。初期段階の実験を行う被験体───いや、『実験体(モルモット)』の脳波は安定させておかないといけないんだよ。その為には安心感が必要だった。……君達だって、変に安心させようとしていたじゃないか。【此処の実験の真相】を知りながら。」
「……ッ。この悪魔が…!」
セツナはレナほど感情的になっていなかったが、それでも研究長に噛み付いた。研究長は全く…とでも言いたげな顔で返答をする。
「初めての実験でレベル五だなんておかしい……それに、雪音が言うには私達の組と一緒に実験を行うのには理由があるって……。…話してもらおうじゃないですか、その理由ってものを」
「今はまだその時じゃない……然るべき時が来たらちゃんと話すよ。ただ、最初に言っておくが…レベル5の実験をするのは雪音じゃないよ。……君達だって馬鹿じゃない。なんとなく想像はついているんじゃないか?」
「………!」
「さ……それじゃあ始めるよ。先ずは雪音の技能訓練からだ。──雪音。」
研究長が此方に向かって呼び掛ける。雪音は、あまりの緊迫感に心臓が飛び出そうになるのを抑え……震える体をいなしながら前へ歩み出た。額に汗が伝う。
「………」
「雪音には、技能把握試験を受けてもらうよ。やる事は簡単、送り出す敵を全部倒したら終了。…因みに制限時間は無い。倒すまで終わらないからね。」
「…はい」
…どうやら、前の研究所でやってきた実験と同じようなものらしい。……だが、何故か悪寒が走る。何か、大事な事を見落としているような…聞き逃しているような、そんな悪寒。
……気の所為か?そう思った雪音は肯定を表す返事をする。研究長はふ、と微笑み、手を挙げた。
「───ッ!?」
その瞬間、雪音の背後から斬撃の音。間一髪で空中に飛び上がって避ける。……敵!?いつの間に背後に!……そう思って「敵」の姿を確認しようと体を捻って───雪音は驚く。
そこに居たのは、赤い剣のような刃を携えた…「先程居住区域から連れて来てくれた研究員達」だったからだ。──「敵」って…「本物の人間」じゃないかッ…!
受け身を取りながら地面に着地して体勢を整える雪音。剣を持った研究員達はゴキゴキ、と首を鳴らし、床に突き立てた剣を持ち上げながらゆっくりと立ち上がる。
……雪音はハッとする。
………まるで、屍だ……。
研究員達の目は真紅に染まり、操られているような、理性や意識が無いような、そんな色をしていたからだ。背後からレナが低い声で研究長に吠える。
「……また、自分の手下を【サツキ】に……!」
「それが彼女の仕事であり、私と交わした契約だ。彼等は最早私の部下では無い……ただの『戦闘訓練用の兵器』さ」
「人の命を何だと……ッ!」
「しっ───。今は雪音の番だ。君の意見は求めちゃいない……もし君やセツナが雪音を助けようと動いたら、彼の息の根を……止めてしまうよ」
「ッ」
…どうやら、レナやセツナが研究長の事を酷く言っていた謂れはこういう側面があるかららしい───そして、彼は雪音というモルモットが死んでも構わないと…そういうスタンスらしい事も理解できた。目の前で蠢いている三人の研究員は、話を聞くにもう既に壊れてしまっているようだった。そして、救う道が無い事も伺える。
……。
雪音は、今まで人間を傷付けた事は無い。前の研究所で行った実験は全てアンドロイドが相手の模擬訓練でしか無かった。……それでも、雪音の動きがアンドロイドに…そして、人間に通用する事は証明済みだ。
どうやら、生き残るには、覚悟を決めないといけないようだった。
誰かを蹴落として生き残るなんて本当は望んじゃいない。けれど…。
けれど、こんなところで死ぬなんて……それだけは御免だ。
「!!」
───雪音の動きから迷いが消えた事に、研究長は気付く。
雪音はふっと残影を残してその場から消える。三方から同時に襲いかかってきた研究員が攻撃を振るうが、お互いの攻撃が触れ合ってカキン、と鋭い金属音が鳴るだけだった。雪音は何処に…?……上だ。そのまま宙返りをして一体目の背後に回ると、首に力一杯手刀を入れる。
「かはッ……!」
所詮は人間。アンドロイドより圧倒的に耐久性が少ない柔らかな首に入れられた手刀。ゴキ…と嫌な音を立て、研究員は嗚咽を漏らした。体勢を崩した隙に剣を奪い取り、覚悟を決めた雪音は一思いにそれを振り下ろした───殺すつもりは無かったので、峰打ちで。……【それ】をして仕舞えば、一線を越えて仕舞えば、もう…戻って来られなくなりそうだったから。
重厚な金属で思い切り頭を殴られた研究員はその場に倒れ、失神する。
ここでようやく雪音の姿を認識した二、三体目が襲いかかってくる。二体目の攻撃を受ける…と見せかけて馬跳びで飛び越した雪音は、三体目と正面から斬り合う。鈍い金属音が鳴り響き……力は互角で、押し合いが始まる。だが、ハナから押し合いに勝つつもりは無い。以前前の研究所でやったのと同じように、ふと力を緩めて力の均衡をわざと崩す。力一杯押して釣り合っていた力が崩れて体勢を悪くした三体目を思い切り蹴り上げ、宙に浮かせる。そして三体目より上空に飛び上がった雪音が今度は地面に叩きつけるように蹴飛ばせば、三体目も動かなくなった。
その隙を狙って攻撃を仕掛けてくる二体目。雪音は流れるように二体目の剣を左手に、一体目の剣を右手に携えるといとも容易く二体目の斬撃をいなす。徐々に後方に追いやられていく二体目。不意に、後退る足が止まる。……壁だ。雪音は峰側を向けた剣を振り上げ、首元を目掛けて振り下ろした。がくん、と二体目もまた崩れ落ちる。
……もう、雪音を襲ってくる研究員は居なかった。
研究長が拍手をし……その拍手は、階上のアクリル板越しに眺めていた研究員達にも伝染した。辺りに嫌な拍手喝采が巻き起こる。
「──素晴らしい。想像以上だよ……。息の根も止めず、全員生かしたまま行動不能に追いやるとは。流石だ……雪音。君は素晴らしい実験体だ。」
「……こんなの……こんなの、命の冒涜だ。蹂躙だ。許されない…許されちゃ、いけない。卒業したら薔薇の華が贈られる?『卒業』って───それは、人を殺める事に躊躇いの無い化け物になるってことじゃないか……そんなのの何処がロマンティックだ…!ここは真紅の薔薇の実験室なんてものじゃない。───【悪夢の華の実験室】だ…ッ!!」
雪音は怒りを感じながら、両の手をわなわなと震わせ……研究長を睨みつけた。肩をすくめる研究長……反省している様子は全く無い。それを見た雪音は怒りに身を任せて次の罵倒を投げかけようとしたが、研究長の一言がそれを制した。
「冒涜?蹂躙?……今更だろう、そんな事。君は知らないんだ……【裏社会】がどういう場所か、知らないんだろう。そこは命の保証などされない魔境。窃盗、薬物、暴力、虐待、密売、殺戮……それら全てが日常茶飯事。そんな世界に『平穏に生きる』術など存在しない……いや、有るとすれば、それは向かってくる【敵】を全て殺してしまう事だけだ。」
「……だからって、」
「『だからってこの話と何の関係が?』……ふふ、いいかい雪音。私達【クレナイ】の目的は、戦争で勝つための…そしてこの世界を征服するための戦力となる兵器を造る事だ。この国はもう駄目だ。平和ボケして、目の前の問題から目を背け、成長する事を放棄し、怠惰に破滅の時を待つだけ……。それではいけないんだよ。私達の国は、私達が建て直さなければ。……そこで私は【裏社会】に目をつけた。そこに住まう『殺す事に躊躇の無い者達』なら……兵器に変えやすいのでは無いか、とね。」
「……」
「君のような【表社会】の色味が強い人間を呼んだのは、【表社会】の人間でも兵器に変える事は出来るか…という、「実験が進んだからこそ出来る」実験の為。戦場では自分以外は全てが敵。生き残る為なら他の誰かを傷付け…殺めなければならない。そこに躊躇を覚える実験体など、兵器など、美しくない。君達の運命は、此処に来た時から決まっているんだよ───ああそうだ、君の後ろに居る友達だってね……」
───裏社会に居た頃は、人を殺める事だってあったんだよ。
研究長の口が、孤に歪む。
………その言葉の意味を、はじめは理解できなかった。……レナが?セツナが?そんなの有り得ない……だって、二人はあんなに優しくて、親切で、明るくて……。
縋るように背後を振り返る雪音……そして、彼は息を呑む。
背後に立ち尽くす二人が、殺意の炎を宿した瞳で研究長を睨んでいたから。
その瞳の奥で燃える殺意は、紛れもなく本物だ……。【表社会】で真っ当に生きていては知り得ない筈の殺意という感情を知っているという事。…それが、研究長が今言った台詞に説得力を持たせる……。
……それでも。
それでも、彼女達が「悪い人」などでは無い事を、雪音はもう知っている。過去がどうあれ、今この場にいる二人は自分の家族であり友達だ。
「だから、それがどうした」という思いを込めて、雪音はきっ、と研究長を睨みつけた。研究長はやれやれと言わんばかりに溜息を吐く。
「……そう。けれどね雪音、レナとセツナも……そう睨んだって運命を変える事など出来やしないよ。君達は実験体で我々は研究員だ。そして此処は、人体実験を行う研究所【クレナイ】……君達は此処では籠の中の蝶と同じ。蝶がいくら羽ばたいたって、標本にされる運命は変えられないんだよ」
「あなたの言う『運命』なんて、絶対にいつか蹴破ってやる…!」
「おお怖い怖い。警備を増やさなくてはね。……『運命を蹴破る』……脱走でもするつもりかな?生憎だが…君達は此処から出られやしないよ。何度か言っただろう…実験体の脳には自爆をプログラムしたチップを埋め込んである、と」
そんなの初耳だ。
この研究所は、脱走を目論む被験体が居る前提で経営しているのか…!?
雪音は目を丸くしてチップの存在に驚くが、レナとセツナは冷静だった。…どうやら、チップが埋め込まれている事を知っていたらしい。……成程、そのせいで…研究長に対する敵意を剥き出しにしながらもこの研究所に留まり続けている、という事か。
セツナが言葉尻を強くして研究長に告げる。
「知っていますよ…。けれど、雪音は違う。雪音は今日此処に来たばかりで…チップなんて埋め込まれていないでしょう。……つまり、異動してきた今日が『雪音を此処から解放する唯一のチャンス』。……こんな悪夢の研究所に、雪音をこれ以上巻き込んでたまるか…ッ!」
「!!」
「仲間想いだね。自分の身より、雪音の身を案じるとは。……だが、そうはいかないよ…彼は私達の計画に『必要』なんだ。だから───」
それは突然。
ジ、と頭にノイズが走ったように思考が、視界が、感覚が朧になる。
急な脳のバグに一歩後退り、頭を抱える雪音。
瞬きをひとつ───そして再び開かれた視界には、研究長の姿が消えていた。……彼は一体何処へ…!?
悪寒を感じてその場から飛び退こうとした身体が、ちっとも動かない。まるで強力な接着剤でその場に固められたような、蛇に睨まれたかのような、石にされたかのような……。
いくら力を込めてもぴくりともしない身体。
……その自分の肩に、誰かの手が触れた。……誰だ?そんなの、言わなくとも分かるだろう。
「雪音ッ!!」
「やめ───ッ!!」
こちらを見て目を丸くするセツナとレナも、どうやらその場から動く事が出来ないようだった。
精一杯の抵抗でぎり、と骨を折りそうになりながら首を横に向ければ……そこには、先端が細いドリルになった器具を右手に持った研究長が、口角を歪ませながら立っていた。一体彼は、僕に、何を───!!
───大丈夫、痛くないよ……痛みを感じる神経を、切ってあげるからね。
彼の左手が肩から離れる。
雪音はその手の動きに釘付けになっていた。
親指と中指が近付き、触れ───
ぱちん。
……その音と共に、雪音の意識がブラックアウトした。