第2夜 8節
文字数 4,302文字
息を切らして路地裏を駆け回る。師走の冷たいコンクリートの街は、素足で駆けるセツナにはあまりに冷たく残酷だ。
……あの恐ろしい両親が居る訳ではない。それでも、セツナは走り回って逃げ続けなければならなかった。【あいつら】が、私を狙っているから…。
……こう話せば、「精神的におかしくなってしまったか」と思う人も出てきてしまうだろう。無理もない。この話をするには……私が、家を飛び出して数日経ったあの日の話をしなくてはならないだろう───。
あの日は、雪がちらちらと降っていた。
やはり靴を履いて荷物を持って……いや、せめてお金をいくらか持って出てくれば良かったと後悔が顔を覗かせるが、あの逼迫した状況でそんな悠長な事をしている余裕は無かった。寒さに凍えるのも、貧困で頭を悩ませるのも、仕方の無い事だ……。
飢餓感を霊力で少しだけ補いながらなんとか命を繋いでいるが、こんな生活、長くは続けられない。早いところ仕事を見つけるか、どこかの家に上がらせてもらうしか無いだろう。……最も、この【裏社会】で自分のような義務教育も終わっていないような子供が働ける職場がそうそうある筈も無いし、どこの家も【表社会】に行けない事情があって此処に在るのだろうから匿ってくれるなんて云う事はただの夢物語だ。
………やはり、家に帰った方がいいのだろうか。
……。
いや、それは断じて無い。
まだ両親の事を信じているのかセツナ、見ただろう、聞いただろう、彼等は……私を殺そうと、死んだ事にしようとしていたじゃないか。帰ったところで命の保証はされないし、私は母親の顔面を傷物にして出てきたのだ。前よりもっと酷い事をされるのは目に見えている。
「帰る」だなんて選択肢など、そもそも無いんだ。
「………おなか、空いたなぁ……」
ぼそりと零した独り言は、初雪で白銀に染まりつつある【裏社会】の街で、誰にも届く事なく消えていった。……嘆いていても仕方ない。ダメ元で色々な場所を巡ってみよう。万が一にも私を雇ってくれる職場が…或いは拾ってくれる家や孤児院があるかもしれない。「どうせ」と最初から諦めるのは良くない。
そうと決まれば、こんな路地をうろうろするより表通りに出た方がいいだろう。表通りの方が人通りも多く、商店や会社、施設が豊富に存在する。家の外に出してもらえなかったセツナに土地勘がある筈も無いが、有難い事に看板や標識、掲示板などが点在しているのでそれを頼りに足を進める。新雪の積もったアスファルトを歩く足に感覚が無い。もうとっくに霜焼けになっているかもしれないが……痛みも違和感も感じない事はせめてもの救いだろう。
そう思案しながら道を進み、幾つか角を曲がると……急に、視界が開けた。
そこは【裏社会】の主要道が通る表通りだった。
主要道、と言っても四車線程度。だが、細く入り組んだ路地が多い【裏社会】にとっては充分すぎるほど都会だ。道の両側に聳え立つビル群、その間にちらほらある古めかしい石造りの建造物の群れ……もっと言えばスラム街を想像させるトタンの建物も存在している。現代と過去が混じり合ったような不思議な街並み。
だが、道端には煙草の吸い殻やシンナー、生ゴミなどの袋が不法投棄されていたり、道路が整備せれておらずひび割れていたり、至る所に落書きがされていたり、屍が転がっていたり………そういう光景が、いくら都会ぶっていても此処が【裏社会】である事を残酷に物語っている。だからセツナは、表通りに足を踏み入れる事に少しだけ恐怖を抱いた。そうか、この街では誰が死んでも可笑しくないんだ───そう、当たり前の事を思い出してしまって。
だが、ここでうじうじしていても何も変わらない。セツナは勇気を出して、表通りに一歩を踏み出した。
手始めに色々な店を回って、虱潰しに「雇ってもらえないか」と言って回る。駄目だと言われる前提であちこちを回るのは少し心に来たが……プライドなんて捨てて惨めったらしく言って回るしか無い。自分の幸せは、自分の努力でしか掴めないのだから。
駄目。此処も駄目。NO。残念ながら。申し訳無い。もう五歳歳を重ねれば………。
……結論から言えば、【裏社会】では、真っ当な仕事で雇ってくれる職場は存在しなかった。
「真っ当な仕事」とわざわざ言ったのには理由がある。実は、仕事を選ばなければ私のような子供でも働ける場所は存在するのだ。だが、それはどれも犯罪に関与していたり、人殺しの手伝いをさせられたり、暇潰しのサンドバッグになれという内容だったり……と、どれも最低な条件のものばかりの闇バイトだ。……そんな仕事を好き好んで選べるくらいなら、わざわざ両親のもとから逃げ出したりしていない。
はぁ……と肩を落とすセツナ。
やはり、駄目なのだろうか。自分は此処で、野垂れ死ぬしか……。
「───いたいた、君かな、さっきうちの店に来たの……セツナ、ちゃんで合ってる?」
不意に後ろから、男性の声がした。
セツナ、と自分の名前を呼ばれたので驚いて振り返る。……そこに居たのは、先程雇用して貰えないか当たった八百屋の店主のおじさんだった。ひょっとすると自分の知らない裏の顔があるのかもしれないが、それを抜きにすればいい人だ……そう、先程彼と話したばかりのセツナは判断する。
「そう、ですけど……なんで私の名前…」
「いや、さっき君と入れ違いにお客さんが来てね……君の事を探しているみたいだったから…」
どくん。
十一月だと云うのに嫌な汗が背を伝った。
「私の事を探している」────?
そんなの、一族に関わる何かである事に疑いようがないじゃないか。
「え………」
「先程見かけましたよ、確かあっちに行ったから呼んできますと言っておいたから店の方にまだ居ると思うんだけど……」
よく見れば、店主の居る方向……つまり店側から、数人のガタイのいい男達が此方へ歩いてきている。どの顔も知らない。見た事が無い。ひょっとしたら自分とは無関係かもしれない───。
そう思ったところで、彼等が何かを叫んでいるのが耳に入った。
「………ッッ!!!」
「あッ、セツナちゃん!?!?」
それが聞こえた瞬間、セツナは踵を返して走り出した。
間違い無い、彼等は両親の使いだ。私を見つけ出すために両親が雇ったんだッ!!
だって、だってだってだって、彼等は口々に叫んでいるんだから。
私の名前を、叫んでいるんだから……ッ!!
「はぁっ、はぁ、はあッ………う、うぅ…ッ」
表通りから幾つか角を曲がって裏路地に身を隠す。だが、足に感覚が無く、さらに極度の空腹感で力が上手く入らずその場にへたり込んでしまった。
「───さっき居たよな、何処行きやがった!」
「俺に聞くな、路地に入っていったところまでしか見てねぇよ!」
「向こうも見てみるぞ…チッ……面倒な仕事引き受けやがって」
ポリバケツの後ろに身を隠すようにへたり込むセツナの僅か数メートル先から、汚らしい怒号が聞こえてくる。……【裏社会】ではまともに機能していないとはいえ、此処にも一応警察というものは存在する。それなのに、そんな正攻法のシステムを利用するのではなく、チンピラのような男達を両親は雇ったようだった。それが何を意味するか………とどのつまり、セツナを見つけ出して連れ帰り、また虐待を、或いは拷問をしようと考えているのだろう。それだけで済めばまだマシだ。ひょっとすると両親は、あの男達に───セツナを殺せと命じているのかもしれないのだから。
ばくんばくんと煩く跳ねる心臓をなんとか抑えながら息を殺していると、数分の後に男達は別の裏路地に姿を消していった。……助、か、った……。
はぁー……と大きく溜息を吐く。息は真っ白に染まって、冬空に溶けて消えてゆく。
……これから、どうしよう。あの男達から逃げ惑い続けて……私に勝算はあるのだろうか。生活していくことすら確証が持てない自分に……。
幾度目かの絶望を感じているセツナを煽るように、北風が吹き付ける。ぶる、と体を小さく丸めて震えるセツナの顔面にぺしゃ……と何処かから飛んできたチラシが貼り付く。
「前、見えな………!」
慌ててそれを取り、何気なくそれに目を落とす。
────そして、セツナは目を見開いた。
***
鉄道会社〇〇
遠方の都市間を繋ぐ夢の列車が運行決定!
本線は、〇〇町から××市までの片道のみの運行となります。
料金…片道五万円
※なお、マフィアや犯罪組織はご乗車を固くお断りします。
運行は〇〇年二月から!
***
「これ、って……【表社会】の………」
そのチラシは、【裏社会】と【表社会】を繋ぐ列車の案内だった。
【裏社会】に住まう者は必ずしも住みたくて住んでいる訳では無い。貧困で【表社会】の物価高についていけない家庭だったり、なんらかの事情で【表社会】では居場所を追われてしまったり、勤めている会社が【裏社会】にあったり……事情は様々だ。【裏社会】は【表社会】に比べると酒や煙草、その他あらゆる嗜好品が安価だったり、古めかしい借家にも最低限の冷暖房や家具が付いているところが多かったり……そういう面で嗜好品を好む人や貧乏な人には優しい。だが優しく見えるのは最初だけで、この街に一度住んでしまうと犯罪の片棒を担がされたり、【表社会】に戻るのに関所で法外な値段がかかったり……と、此処に居座る事を余儀なくされる。そんな訳で、この街から出たいと思う人々も出る事が叶わず、【裏社会】に留まり続けている……そんな問題もある。
それを、この鉄道会社は変えようとしているのだ。
電車の片道切符で五桁の値段がかかるのはかなり高額だが、【表社会】に行くためならそのくらいはかかって当然だろう。
………そうか、【表社会】に行けばいいんだ…。
そこまで行ってしまえば、両親も社会の目を恐れて使いを寄越してくる事は無いだろう。なにせ【表社会】では警察がきちんと機能していると聞く。子供を捕まえ、或いは殺そうとしている様子など見られたらただでは済まされない筈だ。
【表社会】に行けば此処よりは暮らしやすいだろう。社会保障のシステムが整っているだろうから野垂れ死ぬ確率がうんと下がる。
…となれば、追っ手から逃げながら、なんとかしてお金を稼がないと。
五万円を稼ぐためなら、貯まったらそれでおしまいに出来るなら、「真っ当な仕事」以外の──出来れば犯罪に関与しない仕事を選べたら吉だが──そういう仕事を選んでも、いいかもしれない。
やれるか?自分に、やれるのか…?
いや、やるんだ。
それしか今の自分には希望が無いのだから。
私は必ず、【表社会】に行く。
絶対に、幸せを掴むんだ───!