第1夜 8節
文字数 1,296文字
深い深海。
それは深海にしては生温く、鼻をつく鉄錆の臭いに満ち、視界は暗くクレナイに染まり…。
……私はそこに溺れ、息も出来ない。
ぐい、と足を何かに引かれる。
それは、無数の荊棘のツルだった。それらは私の足に執拗に絡み付き、深海の奥深くへと引き摺り下ろそうとしてくる。
もがいてももがいても、荊棘を引きちぎっても引きちぎっても、キリがなく……。
たすけて。
だれか、助けて。
祈りを込めて、片手を水面に向かって伸ばした───
───その手を、誰かが掴んだ。
「あ………え………」
思わず、そんな声が口から出る。
縋るように顔を上げれば、そこには見知った顔があった。
……セツナ?
そう、セツナだ。セツナが、此方に向かって手を伸ばし、私の───「レナ」の手を掴んだのだ。彼女の口が動く。それは、こう言葉を紡いでいた…。
…ひとりじゃないよ、離さないよ、どうか苦しまないで──と。
彼女は、私の救いを求める声に応えてくれたのだ。
こんなに忌まわしい力の海に溺れる私を。
こんなに穢れきった私を。
救いに、来てくれたのだ。
その手を掴む事を、はじめは躊躇した。
彼女をも穢してしまうのではないかと……私と共に居る事で、彼女をも傷付けてしまうのではないかと、躊躇した。
だが、彼女の輝く黄金の瞳には……迷いなど存在しなかった。
それを見たレナは、もう躊躇わなかった。
差し出された手を掴むレナ。
足元の荊棘が、ぼろぼろと崩れて消える。
セツナは力一杯、レナの身体を引き上げた。
近付いてくる水面。
その先は、もうクレナイの世界では無く──
───静かで、澄んだ、青の世界。
***
ぽたり、と。
レナの瞳から大粒の涙が零れた。
「せ……つ、な……?」
次いで、そう名を呼んだ。
紅の瞳が、徐々に青に戻ってゆく。
そうだよ、セツナだよ、レナ、戻ってきて───と途切れ途切れに言いながらセツナは泣いた。
だらんと力無く下ろされたレナの手が、恐る恐る持ち上げられ……セツナをそっと、抱き締め返す。
そこにはもう、あの破壊人形のレナの面影は無かった。
ああ、戻ってきた。レナは、帰ってきたのだ───。
「セツナ……?」
「レ、ナ………」
「私は………何を……」
「よ、か………った…………」
「………セツナ?」
セツナはそう微笑むと、目を閉じ───。
彼女の身体が、力を失ってレナに寄りかかる。レナはセツナの名を呼ぶが、セツナはもう、それに応える事は無かった。視線を泳がせるレナ……その目に止まったのは、セツナの血まみれの身体。
どうしてセツナがこんなに…?……私がやったの…?私が、セツナを──?セツナは、死ん────
「セツナッ!!セツナ、セツナ…!ねぇッ…!起きて、死んじゃダメ…!なんで、なんでなんでッ……!あぁ、あああああぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁあッ……!」
「……ッ」
ぼろぼろと涙を流し、嗚咽を漏らし、セツナの身体を揺するレナ。あれほどの致命傷を喰らったのだ……一部始終を見ていた雪音の目尻に、涙が溜まる。
…もう、セツナちゃんは……ダメ、なのだろうか…。
……その様子を見ていたサツキははぁ、と溜息を吐き……つまらないとでも言うようにその場から姿を消した。
レナの嘆きの声だけが、響いていた。