第4夜 5節
文字数 3,114文字
それは、水無月初旬のある日の夜……レナが【ヤミカガミ】を植え付けた二週間後、そして【極秘実験】が始まる二週間前だった。
レナは研究長に呼び出され、研究員に連れられて地下8階───最下層の実験室へ足を運んだ。……呼び出されたタイミングは最悪だった。なにしろ、今日は一日中【ヤミカガミ】の侵蝕に苛まれていたのだから。
……このタイミングは、郷原の故意だった。ここ数日の実験を、レナはまともに受けられていない。その原因は先程述べた【ヤミカガミ】の侵蝕によるもので、レナは体調不良を訴えて実験に参加出来る状態では無かったのだ。一度、レナの状態を自分の目で確認しておきたい───そういう意味を込めて、郷原は侵蝕の最中にあるレナを呼び出した。
レナは、両手を後ろで拘束され…二人の男性研究員に支えられながら、よたよたと頼りない足取りで実験室に現れた。両手の拘束を解かれたレナは、ふらつきながら研究長の目の前に立った。床の機械的な赤いライトに照らされ……実験着から覗く肌に、汗がてらてらと光る。レナは、汗でぐっしょりと濡れていた。柔らかなブロンドの髪が、頬や額に張り付いている。
「……久しぶりだね。レナ、調子はどうかな?」
「───ッ、ぅ、あ、っ……そん、な…の、見れ…ば分か…でしょ…ッ……」
よろり…と壁に寄りかかりながら、レナはそう零した。足元に落ちる漆黒の影から、黒い荊棘の鶴がが伸びて……彼女の細い足に触れる。その度にレナは身体を硬直させて短い悲鳴を上げた。抑え込もうとぎりりと歯を食い縛って耐え……そうすると荊棘はゆっくりと影に戻っていく。するとレナの苦痛は少し和らぐようで、忘れかけていた呼吸を、荒く繰り返す。そうこうしているうちにまた荊棘が伸び───その、繰り返しだった。
……どうやら、【ヤミカガミ】の侵蝕は想像以上に彼女を蝕んでいるようだ。
────【ヤミカガミ】の侵蝕。
それは、サツキの力に何の手も加えず人体に埋め込む【ヤミカガミ】が引き起こす拒絶反応だ。非常に苦しく、強烈な痛みを共にするが……【ヤミカガミ】に適合できず命を落とす9割9分の実験体が居る以上、拒絶反応が起こっても一命を取り留めている時点でマシな方なのだろう。
脳に植え付けた【ヤミカガミ】の種は、数日で神経の隅々に癒着するようにして根を下ろす。種は負の感情をエネルギーに成長し、葉を茂らせ、蕾をつける。そして成長した【ヤミカガミ】は、さらに成長するために脳神経に共鳴し、自身のエネルギーである憎悪、悪意、悲哀、絶望、殺意といった負の感情を何億倍にも膨らませ───それが精神を蝕んで、耐え難い苦痛を生み出す。
普通なら心を壊してしまうだろうに……侵蝕が起こってなお自我を保っているレナは随分とタフだ。…最も、耐えられているのは既に壊れているから…なのかもしれないが。
【ヤミカガミ】の侵蝕は精神に負荷をかけるだけではない。
超常的な力を顕現するために全身に伸びる【ヤミカガミ】の蔓。その蔓は薔薇のように大量の棘を持っている。それが、内臓や血管、神経に伸びて巻き付き、ギリギリと握って………それは、正気を失い、意識を飛ばしてしまいそうな程に痛くて。
とめどなく溢れてくる負の感情と、想像を絶する全身の痛み。
それが、【ヤミカガミ】の侵蝕。
レナを襲う苦痛。
けれど、精神負荷をかけた状態で意識を手離せばレナは【発狂症】を発症させてしまうので気絶する事は許されない。正気を保ったまま、この痛みを耐え抜かなければならない……。
……レナの頬や首筋には、赤黒い血管が浮き出ていた。瞳は紅に染まり、漆黒の荊棘を従えるその姿はまるで────
「………化け物、だね」
郷原はそう言った。
レナは瞳を伏せ、重力に従ってずるりと床に崩れ落ちた。……化け物。私は、化け物……。
その負の感情を感じ取った【ヤミカガミ】。途端にわっ、と影から漆黒の荊棘が数本伸びて身体に絡み付いてくる。体の中でも【ヤミカガミ】の蔓が急成長して心臓をぎゅっと握り、レナは「う、ッ……!!」と悲鳴を上げて片手で胸部を抑えて床を掻きむしった。
郷原はそれを見下ろしながら、淡々と告げる。
「数週間もすれば身体が慣れて痛みも落ち着いてくると思うが……あと2週間程が峠だね。徐々に痛みは増してくるだろう…。それに、君が耐えられるか否か」
「ッは、ぁっ……はあッ……あ、ああぁあ、ぅう、あぐ……ッ…た……すけ………ッ」
「助けてやりたいが…生憎私にはどうしようもないね。見たところ【ヤミカガミ】はすっかり根を下ろしている……ここまで侵蝕が進めば、もう後に退く事は出来ないだろう。頑張りなさい、と声を掛ける事しか出来ない」
「───ッ、」
「………はぁ、これ以上、今の君に【ヤミカガミ】を促進する実験は出来ないね。君への【ヤミカガミ】の実験は一時中断しよう……そうしなければ、君の命が危ない」
レナは、特別なのだ。
郷原もその真意は分からないが───【クレナイ】の姫君であるサツキの、「特別」。
だから、他のモルモット達と違って…命を奪う事は許されない。
【ヤミカガミ】の実験の一時中断を決めた郷原はレナのバイタルをチェックすると研究員を呼び出し、部屋に戻すよう指示を出した。
……恐らくレナは、数週間もしないうちに少し復活してくれるだろう。
そうすればまた、今度はペースを落として───ゆっくりと【ヤミカガミ】を促進すればいい。実験に焦りは禁物だ。時間をかけて慎重に行わなければいけない実験だってある。
けれど────。
【Dolce】は果たして、そんなスローペースで待ってくれるのだろうか。
郷原達の【計画】に【ヤミカガミ】の能力者は必須だ。
レナは確実に【ヤミカガミ】として完成するだろう。そのための器として彼女はこれ以上なく完璧で、力も申し分無い。だが……彼女は兵器に変えるにはとても不安定で、危ういのだ。幾ら精神汚染を試みても、理性の解脱を図っても、レナは洗脳される事はなく、心に自らの信じる揺らぎない正義を強く掲げている。【Dolce】の計画に賛同してくれるとは思えないし、洗脳が成功するとも言い切れない。従順な兵器にならないのであれば───レナはこの上ない程の危険因子だ。
レナを【ヤミカガミ】の能力者にするのはサツキとの契約で、それは決定事項。
だが、郷原の目的のためには、レナを完全に洗脳しきるか───レナに並ぶ従順な【ヤミカガミ】の能力者が必要だ。前者は……やれば出来るだろう。だが、それにはとてつもない時間が必要になる。レナの心を再起不能にまで追い込み、こちらの【信念】を刷り込むのは生半可では無い。薄っぺらい洗脳では簡単に破られてしまうだろう。しっかり洗脳するには、相応の時間が必要なのだ。
………。
ならば、後者を試すのも……早いに越した事は無いだろう。
星野有希と、宮下鈴香。
【ヤミカガミ】の器として育ててきた、二人の実験体。
レナよりも「負の感情」の質は良くない……それは彼女達に植え付けた負の感情はあまりに突貫的な模造品だから仕方の無い事だ。けれど、二人とも…いざとなれば周りの仲間を殺める事すら躊躇しないような潜在的な強さを持つ、上等な【器】だ。
宮下鈴香は「憎悪」の感情の質が良く、負の感情の出力や精神状態が非常に安定している。それに、罪の意識が少し欠如している彼女は此方に引き込むには都合がいい。
星野有希は「悲嘆」の感情の質がいい。レナ同様に正義感を掲げているが……レナより洗脳の耐性が弱い彼女は簡単に堕とす事が出来るだろう。
────少し予定より早いが、始めようか。
彼女達にも、【ヤミカガミ】を植え付ける実験を────。