第4夜 6節
文字数 7,055文字
沈黙が包むユキと鈴香の部屋に、郷原は訪れていた。ユキはびくりと身体を跳ねさせ……恐る恐る郷原を見た。鈴香は横目で郷原を一瞥すると、「………何?」と掠れた声で告げる。
彼女達の精神負荷も、そろそろ限界値まで達しているようだ。負の感情を吸い上げる【ヤミカガミ】を植え付けるには十分なコンディションだと言えるだろう。郷原はにこりと口角を持ち上げると、極めて優しく声を掛けた。
「……二人共、今までよく頑張ったね。今日の実験が最終段階だ……これに耐えられたら、君達を襲う苦痛は無くなるよ」
勿論嘘だ。
【ヤミカガミ】を植え付けたとしても、レナのように侵蝕に苛まれるのだろうから苦痛が無くなるなどと云う事は無い。寧ろ、ここからが正念場と言っても差し支え無い。
だが……精神を擦り切らせている実験体達に「これからは今より地獄だ」などと言うのはあまりにも酷だ。この嘘は、郷原なりの気遣いなのだ。
今日が最後の実験、と解釈したユキは顔を上げ……鈴香はそっぽを向いた。
「ほんとう、ですか…」
「嗚呼、暫く様子は見させてもらうけどね。今日を終えたらこれまでのような酷い実験は行わないよ」
「ふん……『ものは言いよう』ね、酷い実験を行わないだけで実験自体はやるんでしょ、それなのに何が『君達を襲う苦痛は無くなる』よ」
「宮下さん…」
「はは……痛いところを突かれてしまったね。申し訳ないが、君の言うように実験自体は続けなければいけない……君達の心身のメンテナンスも必要だからね。」
「いい人ぶりやがって…。何言っても信用しないから。……で?何、最終段階って。」
ぎろ、と郷原を睨みつけながら鈴香はそう先を促す。郷原は怖い怖いと肩をすくめて……そして、注射器を取り出して笑みを貼り付けながらこう言った。
「最終段階────【ヤミカガミ】の植え付け、だよ。」
「【ヤミカガミ】……あの、それって、レナちゃんももう植え付けの実験…終わってるんですか…?」
「そうだね……今から二週間も前になるかな、無事に植え付けは成功したよ。きちんと適合できている」
「……じゃ、あたし達に植え付ける必要ってなくない?レナがその【ヤミカガミ】になったんでしょ」
「それがね……彼女は今現在、これ以上の進行が行えない状態なんだ」
それってどういう…、とユキが震える声音で問う。郷原は顎に手をやりながらそれに答えた。
「侵蝕が進んでいてね……肉体的にも精神的にももう限界だ。あと数週間もすれば落ち着く、と思いたいが……このまま衰弱して死に至るケースも有り得るだろう」
「そ、そんな……ッ!レナちゃんが、死────!」
「安心しなさい、彼女は死なせないよ。……だからね、君達にも【ヤミカガミ】を植え付ける必要があるんだ。」
「補欠に、ってトコね。……最ッ悪、あたし達の事、実験動物か何かだと思ってんでしょ…」
「はは、酷い事を言う……。うーん、私も上には逆らえなくてね…君達には申し訳無いと思っているんだが」
「はいはい、口だけなら聞きたくないわ。」
「すまないね……それじゃ、お喋りはこのあたりにして実験に移行しようか。…二人共、いいね?」
「………、」
ユキは、それに何も答えなかった。鈴香は「あたし達の意思なんてカンケーないくせに…」と零し、それでも「やりたいならやれば?」と半ばヤケになってそう答えた。
その答えを聞いた郷原はにこりと目を細めて微笑み、注射器を持っていない左手の人差し指を立てて注意喚起をする。
「はじめに断っておく。【ヤミカガミ】の力は強大だ。故に、適合出来ないケースの方が多い。……今日の実験はこの【種】を植え付けるだけだ。【種】を植え付けたところで根を下ろすとは言い切れないし、きちんと育たなければ【ヤミカガミ】に成ったとは言えない。……それでも、今日の実験で身体に違和感があったら直ぐに言う事。初期段階だったら種を取り除く事は可能だからね。レナのようにもう根を下ろして成長してしまえば後戻りは出来ない……だから違和感は直ぐ報告しなさい。いいね?」
「……は、い……」
「……。」
いよいよ【ヤミカガミ】を植え付けられる、と云う緊張感がユキと鈴香を襲う。
……自分達が過去を真似てきたレナですら侵蝕に苦しむという【ヤミカガミ】。それを、果たして自分達が適合出来るのか……そんな不安が胸を蝕んでゆく。
けれど────ここまで来て、もう引き返す事など出来やしないのだ。だから、もう、言いなりになるしか無い。
「ユキ。」と名を呼ばれて恐る恐る郷原の元へ歩み寄るユキ。郷原は慣れた手つきで彼女の長い三つ編みの髪をかき上げると、うなじから脊髄に注射針を差し込んだ。「…脳に打ち込むんじゃありませんでしたっけ…?」と問うユキに、郷原は「レナの時はそうしたが……その後の研究で、脊髄に打ち込んでも種が勝手に脳へ移動する事が分かってね、その方が負担が少ないだろう」と答えた。そうなんですか…と曖昧に返事するユキ。異常は感じられない。全くもって、健康。不調なし。………成功、した?
「……ユキ、何か違和感はあるかな?」
「……えと…特に…ありませんけど……」
「そう……ふふふ、いやすまない────レナに引き続き、こうも成功する個体が現れるなんてね……ははっ……」
「気持ちわるッ……」
ユキの代わりにそう答えたのは鈴香だった。酷いなぁ、と笑いながら手招きして今度は鈴香を呼ぶ郷原。鈴香は「散々脅しておいて、実は思ったより安全なんじゃないの?」と言いながら郷原の元へ歩み寄った。
「うーん、案外そうなのかもしれないね。それか……私の仮説通り、『成功したレナと同じ精神状態を作れば成功する』と云う事なのか……はい、打つよ」
「精神状態次第で誰でも適合出来るとかウケ──────ッッッッ!?!?!?」
【ヤミカガミ】の種を植え付けた瞬間、鈴香は目を見開いて硬直した。ひゅ、とか細い息の音がして、鈴香の表情が苦悶に染まる。
え、どういう、事─────────。
「ぅ、あ、え……ッ!?あ、あぁ、あぁぁあぁああああ、あ………ッ」
「宮下、さ……ん………?」
鈴香はよろ、とふらつくと心臓を抑えて膝を付いた。額にじんわりと汗が浮かび……そして彼女の腕に、血管が浮いている。どくん、どくん、どくん……周りに聞こえそうな程に煩い心臓の音。脳が焼き切れそうなくらい、ぐるぐると謎の言語が思考回路を占めてゆく。血管が、神経がぶちぶちと千切れるような痛み。それも、全身が!!いったい、一体、何が、起こって………ッ!!!
唐突に吐き気を催して、鈴香はその場に嘔吐した。胃酸ではなく、赤黒い肉片が口から漏れ出た。何が起こっているのか分からないまま、鈴香は床に突っ伏して悲鳴を上げる。
「痛いッ!!!痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッッッ!!!!!やだ、やだぁッ…!あぁ、う、ああああああぁぁあぁあ、ああぁぁあぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁあぁぁッッッッッッ!!!!!!!」
それは、何度目かの悲鳴の直後だった。
ぼこ、と不自然な音がして。
ぐちゃ、と湿った音がして。
鈴香の背から─────骨のような、羽のようなナニカが飛び出した。
皮膚が裂けて、軽い破裂音と共に血飛沫が舞った。
白い蝙蝠のような羽は、血管を浮き出させて……それはどくどくと脈打っている。
不意にその脈が、ぷし、と破れた。
羽のような物体は形を歪め、そして自らの血で色を紅に染めながら…ぼこぼこと変形を繰り返している。
ごきゅ。ぐき。べき。
次いで、骨が砕けるような音がした。それは鈴香の腕から聞こえた音だ。
鈴香の腕は、骨が砕けてだらりと地面に落ちた。関節を失った腕が、何らかの力を受けて魚のようにびくりびくりと跳ねている。
─────なにが、おこって、いるの………!?
ユキは恐怖で顔を真っ青に変えた。郷原がその横で「駄目、か」と溜息を吐く。
……駄目?失敗、って事…?これが……【ヤミカガミ】の実験の…失敗?
ユキの目の前で異形の怪物に変貌してゆく鈴香の発する声は、徐々に人間の声から動物の鳴き声のようなものに変わっていって……そして、掠れて、小さくなって……とうとう、何も発さなくなった。
真紅に染まった彼女の瞳からは大粒の涙が溢れていた。その瞳は徐々に生気を失い……人形のように、何も映さなくなった。
……鈴香は……いや、鈴香だった化け物は、そうして嘆き苦しみながら……息絶えた。
「宮下、さ………どう、いう、こと、ですか……?」
震える声で、ユキはそう絞り出し……かたかたと震えながら郷原を見遣った。
「残念ながら、鈴香は適合出来なかったようだね。やはり【ヤミカガミ】は9割9分が適合出来ない能力……そう簡単に器になれる人材は居ない、か」
9割9分が適合出来ない能力…。
それじゃあ、私も、宮下さんみたいになる可能性があるの…?
あんなに恐ろしい姿になって、苦しんで、死ぬ可能性が…?
や…やだ……嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…ッ!!
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い──────ッ!!!!!
「─────う、っ……!?」
「恐怖」と云う負の感情がユキの心を真っ黒に染めた、その刹那。
急に────どくん、と心臓が煩く波打った。
どくん、どくん。
それはまるで、全身の隅々まで植物の根が絡んで伸びていくような不快感。
どくん、どくん、どくん。
それはまるで、薔薇の棘だらけの蔓が内臓を握って締め付けるような痛み。
どくん、どくん、どくん、どくん……ッ!
あ、あぁ、ああぁ、わたし、いったい、どうなって───────!!
ふらついたユキの落とす影から、黒い荊棘の蔓が伸び、足首に巻きついて動きを咎めた。棘が皮膚に食い込んで、じわりと血が滲む。
口と胸部を押さえたユキ───その口から鮮血が滴った。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ───────ッ!!!!
郷原は分かっていた。
「恐怖」と云う感情を吸い上げ、【ヤミカガミ】の種が急速に成長し……発芽したのだ。
これは、レナと同じ【ヤミカガミ】の侵蝕。これに耐えれば、ユキは【ヤミカガミ】として完成する────!
……けれど、現実はそう甘くない。
ユキの首筋や手足、そして頬に浮いた赤い血管はじわじわとその面積を増やし……そして、血管が浮いた部位が徐々に紫色に変色しつつあった。こぽ、と口から大量の血液が溢れ出る。【ヤミカガミ】の蔓が急成長し、ユキの体はぼろぼろだった。
……【ヤミカガミ】の急成長を止める方法はただ一つ。
心に芽生える負の感情を制御し、エネルギーの供給を断つ事だけだ。
だが、それが出来たら苦労はしない。【ヤミカガミ】は脳神経に共鳴して半強制的に負の感情を増幅させ、さらに侵蝕による痛みや不快感で負の感情が次々と生まれる。この状況で負の感情を制御するなんて、出来るのは心が壊れている人か狂人だけだ。
あぁ、わたし、もう、だめかも──────────
『────ふぅん、いい顔してるじゃない』
不意に、ユキの背後から甘い声が脳を揺らした。
ユキはその声の主が誰なのか、確認する気力も余裕も無かった。けれど、それは少女の声だった。……耳ではなく脳に直接響いてくるような、そんな、むせ返る程甘い声。
だ、れ……?
「サツキ…」と郷原がそう零した。その名前には、どこか聞き覚えがあった。そうだ……思い出した。彼女は、あの時…実験で私達を殺し合わせた張本人だ。
サツキは、ふらふらと安定しないユキを後ろからそっと抱き締めて、耳元に口を遣った。ただでさえ脳を揺らす声が、更に大きくなって脳にがんがんと突き刺さる。
『ねぇ、ユキ…って云うんでしょう?苦しいわね、辛いわね。……楽になる方法、教えてあげようか?』
「え……あ…ぅ、………ッ」
楽になる方法を教えようか。サツキはそう言った。
ろくでもない提案なのは目に見えている。けれど、今の耐え難い苦痛を忘れる事が出来るなら……自分はきっと、何だってするだろう。それほどまでに、痛くて怖くて悲しくて辛い。ああ、あああ、たすけて。おねがい、たすけて……!
ユキは紅に染まった瞳を涙でいっぱいにしながら、首を大きく振った。くすりと笑うサツキ。彼女はユキの耳元で、そっと囁く。
『【ヤミカガミ】に、化け物に成る覚悟を決めて仕舞えばいいのよ。人間を捨てて仕舞えばいいの────狂って、壊れて仕舞えばいいのよ』
────ばけもの。
にんげんを、やめる……くるう……こわれる………。
最早言語を噛み砕いて理解する力を失ったユキだったが、サツキの言葉はまるで概念を直接脳に送られているように鮮やかに残った。
そうなのかな……人間で在ろうとするから、こんなに苦しいのかな……。
最初からこんな力を使う、こんな力を持つ、化け物だったら…苦しくなんてないのかもしれない。悲しくなんて、怖くなんてないのかもしれない。
人間で在ろうとするから、化け物に変わる事が怖いんだ。
人間で在ろうとするから、死ぬ事がこんなに怖いんだ。
ねぇ、ユキ────もう気付いているでしょう?
私は………もう、「普通の人間」では無いんだよ────。
そう、いい子ね……サツキの声だけが、ぼやけた思考回路の中ではっきりと聞こえる。
私を導く声。どうか、どうか私を助けて。救ってください。そう、願いながら声に集中する。
『アタシが助けてあげる。救ってあげる。いい?アンタはアタシの可愛いお人形サン────弱くて惨めな【人間】のアンタと、今日此処でお別れするの。強いアンタに成るの。そうすれば、こんな苦しみ…どうって事も無いわ。』
強くなる。
弱い私と、お別れする。
……そうだ。私はずっと、強くなりたかったんだ。
『私自身を護れるくらい』強くなりたかったんだ。
私が弱くて脆くて、内気でネガティブで悲劇のヒロインぶっている【人間】だから、今までずっと強くなれなかった。その【人間】を、此処で捨てて仕舞おう。殺して仕舞おう。
そして、私は生まれ変わる。
強い私に、生まれ変わる。強くて、自分に自信があって、時に冷酷で、狡猾な私へ。
自分の意思とは無関係に指図してくるような人達に屈さない、自分の道を塞いでくるような人達を許さない、そんな、強い私へ─────!
『さぁ、繰り返しなさい。そしてアタシの手を取るの。【アンタは強い。誰にももう奪われない。これからはアンタが全てを奪う番】と───そう、繰り返すの!』
「わた、しは強い……誰にも、もう…ッ、奪われない…!これからは、私が……私が、全部全部全部ッ!!全部、奪う番……ッ!!!」
───もう、ユキに迷いは無かった。
くるりとターンをして、サツキはユキの正面に姿を現して、手を差し出した。
うさぎの耳をあしらった帽子に、パステルカラーのロリィタファッション。銀の髪に紅の瞳がじっと此方を覗いている。……サツキ。私のメシア、救世主。
ユキは彼女の手を取った。
どくん、どくん、と心臓は相変わらず煩く鳴り響いている。
いつの間にか────それが、心地良く思えてきた。
ああ、痛みだって、負の感情だって愛おしい。
もっと、もっともっともっと私の中を埋めて!満たして!!
その力が、私の原動力になる。
私を突き動かすエネルギーになる。
手足の先、末梢神経、毛細血管の隅々までに【ヤミカガミ】の力が行き渡る。それを全て受け入れると……もう、痛みも苦しみも感じなくなった。
負の感情の制御が出来た事で【ヤミカガミ】は急成長をやめ────そしてそれは、ついにユキの中で開花した。足元から伸びる漆黒の荊棘は、いつのまにか真紅の荊棘に変わっていた。荊棘の園の中、ユキは真紅に染まった瞳をそっと開いた。
彼女の中で、悪夢の華が咲き誇る。
こうしてユキは─────【ヤミカガミ】に、成ったのだ。
サツキがユキの手を引いて、抱き締める。『素敵よ』と微笑んで……そして、彼女は自らの手に闇を集めた。それは形を変え……一輪の薔薇の華になる。
『おめでとう。アンタは【ヤミカガミ】の能力者。二代目【ヤミカガミ】の、ユキ。これからのアンタに、幸があらんことを。』
「───あはっ、幸せなんて……これから幾らでも掴んでやろうじゃない。私には………それだけの力が、あるんだから。」
薔薇の華を受け取りながら、ユキは悪戯っぽく微笑んだ。
それを確認したサツキは、郷原の方を向くと『良かったわね?一件落着って感じ?』と嗤った。……郷原はやれやれと言いたげな顔で応える。
「………随分強い洗脳をかけたようだが?人格を壊してしまっているじゃないか」
『そうでもしなきゃ負の感情の制御なんて出来やしないわよ。生きてるだけマシでしょ?それに、これくらいの方がアンタも扱いやすいんじゃない?』
「はは……ごもっとも。我らが姫様には頭が上がらないね」
『でも言っとくけど、ちゃんとレナも【ヤミカガミ】にしなさいよ?それがアンタとの【契約】なんだからね』
「はいはい……」
郷原の返事を受け取ったサツキは、満足げに微笑むとその場に姿を消した。
ユキは貰った薔薇を頭に刺して、郷原に向き直る。
「……研究長、似合ってます?」
「嗚呼…とても。」
「ふふっ……。ねぇ、研究長。私……覚悟を決めましたよ。貴方のためなら、何だってしてみせます。貴方が、私を強くしてくれたんだもの。」
「それはそれは……活躍に期待、だね。ユキ─────改めて、おめでとう」