第2夜 10節
文字数 3,055文字
三月の初旬……裏社会はいつもと変わらず灰色の街並みで、季節が過ぎた事を感じさせない。ただ、あの時凍りつきそうだった指先が、今は何も感じない……そんな風に「気温が上がった」と云う事実だけが、時が流れた事を物語っていた。
レナとセツナは、身を寄せ合って暮らす事を選んだ。二人で安全そうな廃屋を見つけてそこを拠点とした。今にも崩れそうなトタンの屋根に、一応室内だと云うのに伸び放題に顔を覗かせている蔓性の植物の群れ。雨風さえ凌げればいいと大掛かりな改修はしなかったが、草を刈ったり雨漏りしそうな所にバケツを置いたり、床にシーツを敷いたり段ボール箱をテーブル代わりにしたり……そういう事をして、「頑張れば生活できる」レベルの空間にまで仕上げた。その廃屋は【裏社会】の路地でも郊外の方にあるため、人通りも滅多に無く、余程の事が無い限り安全だ。
追っ手から逃げる事に専念した方がいいとレナに言われたセツナは、お金稼ぎをレナ一人に任せる事を申し訳なく思いながらもその提案を呑んだ。レナの言う通り、追っ手から逃げながら仕事をすると云う二重生活はあまりに過酷で非現実的だからだ。その代わりと云ってはなんだが、家事や食糧調達は出来る範囲でしよう…そう誓って。
レナは、あっさりと仕事を見つけて働いているようだった。日給で一日千五百から三千円程を稼ぐ日々。お金は、ゆっくりながらも順調に貯まっていった。………レナは一体、どうやって仕事を見つけてきたんだろう。そう疑問に思ってセツナは尋ねるが、「ちょうどいい広告を見つけて、ダメ元でお願いしたら大丈夫って言われて!」と笑顔で答えられるばかりだった。
……それが、嘘である事に…セツナは気付いている。だって、どの「真っ当な」仕事も年齢が足りないから…という理由で自分達のような子供は雇って貰えないのだから。自分達を雇って貰えるとすれば……それは、犯罪に加担するような仕事か、自身の身を売るような仕事、或いは暴力を振るわれるサンドバッグのような役回りを担う事のいずれかだ。……レナは、恐らく最後に言ったような仕事を受けている。その証拠に、彼女は帰って来る度に全身を怪我しているのだから。
「あはは、ちょっとヘマやらかしちゃって……いたた」
そう言って彼女は笑う。どう考えても、ヘマをやらかしたレベルの傷では無いと云うのに……。
レナは、何でも一人で抱え込もうとする癖があった。苦しい事も、痛い事も、辛い事も、全てを一身に受け入れて自分の中で消化しようとする。心配して声を掛けても、「何でも無い、大丈夫」と笑顔で返されてしまう。
……レナは、強い。
けれど、その強さは、どこか脆い。
いつか壊れてしまうのでは……そう思わせるような危うさがあった───。
兎も角、レナの仕事先が何であるか…と云う事に目を瞑れば、着実に【表社会】への道のりは近くなっていた。
三月。手持ちのお金は、九万円を超えていた。【表社会】への片道切符を手にするために必要なのは一人五万円。つまり、二人なら十万円。……目標まで、あと一万円……。
そんなある日、レナはセツナに言った。
「セツナ、もしかしたら…今週中にでも行けるかも、【表社会】。」
「え、でも……あと一万は必要でしょ?」
「うん、そうなんだけど…次の仕事が日給一万円らしくて…」
「……それ、大丈夫なの…?」
日給一万なんて、絶対に何か裏がある。危険な、何かが……。
それでも、レナはその仕事を引き受ける事を検討しているようだった。つくづく彼女は自分の身を案じない。私は、こんなにも心配で堪らないのに……。
むぅ、と頬を膨らませながら「危険な事しないでよ」と怒った素振りを見せると、レナは慌てて「も、勿論だよ…!」と取り繕った。
「派遣の仕事でさ。仕事内容は依頼人から直接聞くよう言われてるから危険かどうか、何とも言えないんだよね……。なんだろ、毒でも飲まされるのかな……」
「やだよそんなの……危険だったら絶対帰ってきてよ…?」
「いやぁ、それが……実は、セツナも来て欲しいって言われてて」
……レナは、働き先がセツナに関係していないと悟った時はもう一人「家族」が居ると伝えているようだった。それは、セツナも黙認している。そう交渉しなければ二人が生活できる給料を得られないからだ。
───今まで、セツナが呼び出された事は無かった。だから緊張が走る。けれど……レナが普段どのような仕事をしているのか、興味はある。
レナはおずおずと此方の顔色を伺いながら言葉を紡ぐ。
「セツナにまで危険な目に遭わせたくないし、勿論断ろうと思ったんだけど……この依頼を達成したらもう目標達成。早い方がいいのか、安全策を───と言ってもこれから先が安全とは言いきれないけど───そっちを選んだ方がいいのか…相談しておこうと、思って…」
「そう……だね…今は奇跡的に追っ手からも見つかってないし仕事も見つかってるけど…明日どうなるか…分からないもんね……」
「うん……セツナ、どう思う…?」
「うーん………」
……確かに、これは危険な仕事だろう。
けれど、レナの言う通り…これを逃してまた次仕事が舞い込んでくるチャンスが必ずあるとは言い切れない。それに、【裏社会】に居る限り「今日殺されてしまうかもしれない」と云う不安は付き纏う……此処を出るのは、一刻も早い方がいいのだ。
なら……「危険そうだったら断る」を条件に……仕事を受けても、いいのかもしれない…。
セツナはそう決意すると、レナに「分かった」と告げた。
「……受けてみよう、その仕事。私もついていくよ……その代わり、レナ。危ないって判断したら依頼は断ろう。絶対だよ。約束」
「……うん、分かった。約束する────いきなりでごめんだけど、依頼は明日なの。場所はB地区の空き地、午後六時集合…らしい。大丈夫?」
「うん、大丈夫。……ちゃんとした仕事、だと…いいね」
「そうだね……セツナ、心配しないで。私が…絶対守るから」
「あはは、心配してるのはレナの方でしょ。大丈夫だよ……レナこそ、私が危険な目に遭わせやしないよ」
「えへへ……有難う。…それじゃ、今日は早く寝よ……私もう疲れた……ばたんきゅー…」
「もー、レナったら…。布団はちゃんと被らなきゃ風邪引くからね!まだ三月なんだから、お腹出して寝ちゃダメだよ!」
「はぁーい……ふふ、セツナお母さんみたい」
「レナが子供っぽいだけだもーん」
「だって子供だもーん!……あはは、それじゃ……おやすみ、セツナ」
「あは……おやすみ、レナ。」
両親に酷い事をされるからと云う恐怖で眠れなかったセツナだが、レナと出会って…少しは眠れるようになった。笑い合う事も軽口を叩き合う事も出来るようになったし、自分を極度に卑下する事も無くなった。……だから、レナには感謝している。
………私は、逆にレナに……何かを、してあげられているのかな。
何か、救いになっているのかな……。
私一人が迷惑をかけっぱなしなのでは…と時折不安になるが、もしそうならレナは好き好んでセツナと生活を共にしていないだろう。セツナにとってレナがそうであるように、レナにとってもまた……セツナはきっと、大切な家族だ。
私達は、お互いを信じ合っている。
お互いがお互いの、かけがえのない存在。
……自分が自分で在る事を、レナは認めてくれた。それが、堪らなく幸せだった。私は───今、愛されているのだ。
心地の良い微睡みがセツナを包む。
ゆっくりと、夜が更けてゆく。